京都御所
14世紀から明治2年(1869年)までの間の「内裏(禁裏)」、すなわち歴代天皇が居住し儀式・公務を執り行った場所である。現在は宮内庁京都事務所が管理している。
御所の建物は近世を通じ、天正(1591年)、慶長(1613年)、寛永(1642年)、承応(1655年)、寛文(1662年)、延宝(1675年)、宝永(1709年)、寛政(1790年)、安政(1855年)の9度にわたり造営が行われている。
京都御所に現存する主な建物としては、紫宸殿(ししんでん)、清涼殿(せいりょうでん)、小御所(こごしょ)、御学問所(おがくもんじょ)、御常御殿(おつねごてん)、迎春(こうしゅん)、御涼所(おすずみしょ)、皇后宮御常御殿(こうごうぐう
おつねごてん)、若宮・姫宮御殿(わかみや・ひめみやごてん)、飛香舎(ひぎょうしゃ)などがある。
御所の建物は、清涼殿、紫宸殿などは平安時代の寝殿造を基調としている。
紫宸殿はほとんど間仕切りのない、典型的な寝殿造りを今日に伝えている。
清涼殿は天皇の居住の場であったが、天正期に御常御殿が造られてからは天皇の執務と儀式の場となった。、
障壁画
京都御所内の各建物の室内は、多くの貴重な障壁画で飾られている。これらは、各室の用途や年中行事の室礼として、それぞれの儀礼に応じて画題が選ばれ建て込まれた。
紫宸殿の「賢聖障子」、また清涼殿北廂にある「荒海障子」、そのやや南に「昆明池障子」が立てられている。これらは「源氏物語」に登場していて、特に有名である。この2点はいずれも衝立で、南面には唐絵、北面には大和絵が描き分けられていた。
「荒海障子」は『山海経』に描写された伝説の国の光景を描いたもので、障子の北面には大和絵で「宇治の網代」が描かれている。「昆明池障子」は南面に中国の昆明池の光景、北面には大和絵で「嵯峨野小鷹狩図」が描かれている。
御常御殿などの天皇の住居用建物では、儀式などが行われる表向きの諸室には中国の賢人功臣など、鑑戒的な主題の漢画が描かれ、日常生活や内々の対面に用いられた内向きの諸室には大和絵による風景や花鳥などが描かれている。
現存する安政度造営時の障壁画の制作にあたっては、当時の日本画壇の主たる流派の画家たちが多数動員されている。このように京都御所には貴重な障壁画が多数残されている。
御所の障壁画制作は、延宝度造営までは狩野派が独占していたが、宝永度造営以降、大和絵系の絵師が参入するようになり、狩野派の独占体制は崩れていく。
安政度造営では、御常御殿の上段・中段・下段など、表向きの諸室は主に狩野派の絵師が担当しているが、他の諸室は土佐派、円山四条派、岸派、原派などさまざまな流派の絵師が参入し、狩野派の相対的地位低下がうかがえる。
御所の障壁画制作に参加することは、絵師にとっては自分の存在をアピールし、後世に名を残す絶好の機会であった。
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