鈴木春信
京都に出て西川祐信に学び、後に江戸に住んだといわれる。または西村重長の門人とも伝わる。姓は穂積、後に鈴木を名乗る。通称次郎兵衛。
細身で可憐、繊細な表情の女性像で知られる美人画の浮世絵師。
初期には紅摺絵の役者絵も知られているが、浮世絵版画における「錦絵」技法の大成者として有名。江戸神田白壁町の戸主(家主)で、平賀源内の友人。
宝暦10年(1760年)3月上演の芝居に基づく細判の役者絵『市村亀蔵の曾我五郎と坂東三八の三保谷四郎』が初作とされており、この細判紅摺絵を手始めに亡くなるまでの10年間浮世絵師として活躍した。宝暦年間はこのような役者絵、美人画の他、古典的画題の紅摺絵、水絵を制作していた。
錦絵が大流行するきっかけになったのが、旗本・大久保甚四郎(俳名 巨川)と阿部八之進(俳名莎鶏)が、薬種商の小松屋三右衛門(俳名百亀)らと協力して、金をかけて画期的な多色摺りの技術を開発した。彫師や摺師と協力、木版多色摺りの技術開発、色彩表現の可能性を追求、様々なデザインの絵暦が競って作られ、やがて錦絵の流行に発展していった。
春信の作品が当時の知識人をパトロンとし、彫師、摺師との緊密な協力による制作であることをも示している。春信の描く美人は、人物が一般に小柄で手足もか細く、色彩も胡粉を混ぜた中間色を使っており、その叙情性も幻想的にさえなる。その優れた錦絵作品は一時代をなし、後世にまで大きな影響を与えている。
明和年間、錦絵の草創期に中判を標準形式とし、叙情的な美人風俗画に一世を風靡、多数の追随者を出した
|