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日本紀行
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        みちのく紀行2
      蔵王上空   
   目 次
 瑞巌寺  松島と芭蕉  仙台牛タン  青葉城跡  瑞鳳殿
 奥の細道「宮城野」段  伊達氏  伊達政宗の継嗣問題  政宗の戦陣  白装束の政宗
 百万石の夢  仙台藩主政宗  閖上地区  証言 3・11大震災  奥の細道笠島段
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瑞巌寺


 国道45号線経由で松島に到着したのは、写真の時刻から5時21分であった。
 松島の絶景撮影ポイントは、七ガ浜町の多聞山展望所と決めていたから、とりあえず駐車場に車を入れて、瑞巌寺の参道を歩くことにした。

     瑞巌寺門前
  

 瑞巌寺の正式名称は、「松島青龍山瑞巌円福禅寺」という、長い名である。
 平安初期の創建当時は、天台宗延福寺であったが、現在は臨済宗妙心寺派に属している。
 天長5年(828年)比叡山延暦寺第三代座主、慈覚(じかく)大師円仁が、淳和天皇の詔勅を奉じ、三千の学生・堂衆とともに松島に来て寺を建立したという。
 延暦寺と比肩すべき意で、延福寺と命名され、平泉・藤原氏の外護を受けて発展した。
 藤原氏滅亡の後、鎌倉時代、禅に傾倒した北条時頼が、武力で天台派の僧徒を追い、法身性西を住職に据えた。

      瑞巌寺山門

 鎌倉幕府の庇護のもと、北条政子は学徳一世に高かった見仏上人に仏舎利を寄進し、夫の菩提を弔わせている。その仏舎利・寄進状は今に伝わっている。
 この天台宗延福寺は、鎌倉時代中期、開創以来28代約400年の歴史を閉じ、臨済宗建長寺派円福寺として再建された。
 歴代住持の努力で、その勢力を岩手県南部にまで伸長させ、寺格も五山十刹に次ぐ諸山の高位になった。

      瑞巌寺参道

 しかし、戦国時代を経て次第に寺運が衰退し、やがて妙心寺派に属するようになっている。
 関ヶ原の戦いの後、家康によって仙台に移封された伊達政宗は、仙台城の造営と併せ、神社仏閣の造営も積極的に行った。
 瑞巌寺の伽藍整備、塩(しお)竃(がま)神社・仙台大崎八幡宮・陸奥国分寺薬師堂を相次いで完成させた。
 伊達政宗の菩提寺として、伊達家の厚い庇護を受け、瑞巌寺は九十余りの末寺を有し、領内随一の規模格式を誇るようになった。
 現在でも藩祖政宗公・二代忠宗公の大位牌が安置されている。
 しかし、明治維新を迎え、廃仏毀釈運動や、伊達家の版籍奉還によって寺領の撤廃が行われ、存続の危機を迎えた。瑞巌寺は当時の住持太陽東潮の努力で、かろうじて維持されていた。

      瑞巌寺境内  
  
 
 明治九年、瑞巌寺が天皇の行(あん)在(ざい)所(しよ)となり、内(ない)帑(ど)金(きん)(お手元の金)千円が下賜され、復興の契機となった。
 現存する桃山様式の本堂・御(お)成(なり)玄関、庫(く)裡(り)・回廊は、伊達政宗が建立したもので国宝に、御成門・中門・太鼓塀は国の重要文化財に指定されている。
 現在は平成の大修理が実施されていて、平成30年まで大修理がつづけられるという。
 参道にはシンボルとも言える杉並木があったが、2011年3月11日の東日本大震災の津波に見舞われ、その後の塩害で立ち枯れが目立ったことから、約三百本が伐採されることになった。参道の杉木立の中に、「津波到達地点」という表示があった。

      瑞巌寺津波到達地点  
 
 平泉中尊寺・毛越寺、山形立石寺と共に「四寺廻廊」という巡礼コースを構成している。
 また巡礼札所としては、奥州三十三観音霊場六番、三陸三十三観音霊場番外になっている。そんな縁なのか、参道の右側には、西国三十三観音霊場の観音菩薩像があった。
 西国三十三箇所巡礼を結願しているから、何か縁のようなものを感じ、すべて西国三十三観音像をカメラに納めた。
 
       瑞巌寺境内の観音菩薩像






 
 松島と芭蕉

 
 日本三景の松島は、長いあいだ憧れの土地であった。
 とりあえず瑞巌寺前の観光船乗り場に車をとめ、その千々の島を眺め、つい 
「松島や ああ松島や 松島や」
の句が頭に浮かんだ。やっと憧れの地に来たという感慨があった。

       松島遠景1


 ところで、これが芭蕉の句と一般には知られていたが、事実は江戸後期の狂歌師・田原坊が作ったものらしい。
 芭蕉は、『奥のほそ道』の中では、松島の句を示していない。
 その訳を、弟子の伊賀蕉門・服部土芳は、
「師のいはく、絶景にむかふ時は、うばはれて不叶(ふかのう)」としている。
 つまり感動の余り、思うように句が作れなかったともいう。また一方では、中国の文人では
「景にあうては唖(もく)す」(絶景の前では黙して語らず)とあり、芭蕉も、意識的に句を示さなかったとする見方もある。
 もっとも後に、
 「島々や 千々に砕きて 夏の海」
 という松島を詠んだものを作っている。
      
    
       松島遠景2


『奥のほそ道』松島の段

 「抑(そもそも) こと古りにたれど、松島は扶(ふ)桑(そう)第一の好風にして、凡(およそ) 洞庭・西湖を恥ず・・」と書いている。



       松島遠景3


 以下は『奥のほそ道』の口語訳。
「 すでに言い古されていることだが、 中国の名勝地の洞庭湖や西湖と比べても恥ずかしくないほどだ。東南の方角から、湾内に水を入れたようになっており、湾の中は三里もあって中国の浙江のように海水を満々と湛えている。
 島の数は限りなく多く、それらの中で、そびえ立っているものは、天を指しているようであり、低く横たわるものは、波の上に腹ばいになっているかのようである。
 あるいは二重に重なっているもの、三重に畳まれたようなものもある。はたまた、左のほうに分断されているかと思えば、右の島と続いていたりする。
 小さな島をおんぶしているようなものもあれば、抱いているようなものもあり、まるで子供や孫を愛しんでいるかのようである。
 松の緑は冴え冴えとし、枝葉は潮風に吹かれてたわめられている。その姿は、自然とそうなったのだが、いかにも人が程よい形に折れ曲げたようにも見える。それらの風情には、憂愁の色を深くたたえた趣きがあり、美人の化粧顔にもたとえられようか。
 神代(かみよ)の昔、山の神である大山祇神がなされた仕業なのだろうか。
 天地万物をつくられた神の働きは、いかに技を振るっても、うまく描きも、言い表しもできるものではない」
 
       松島遠景4

 芭蕉は塩(しお)竃(がま)湊から松島を訪れている。
 『奥のほそ道』の日記をみれば、やはり松島の本当の美しさを知るには、湾内の遊覧船に乗るべきであった、と思い知らされた。
 本来は、松島湾全体を見渡せる多聞山で、絶景の夕日を撮影することを眼目にしていたが、時間が落ちて果たせなかった。
 やむなく国道から外れて、松島湾に沿った細い道をたどり、写真を幾枚か撮影するだけに終わった。
        松島遠景5

 今回の「みちのく紀行」では、いわば東北を縦断する予定であり、見るべきポイントが多く、従って30分刻みのスケジュールとなった。
 アクシデントがあれば、何かを割愛することになるのはやむを得ない。






 
 
 仙台牛タン

 初日の仙台でのディナーは「牛タン」と決めていた。が、新幹線の中で「牛タン弁当」を食べている。
 妻に確認すると、本格的な「牛タン」を食べたいという。
 ホテルから仙台駅へは、線路沿いの細い道を五分ほども歩いた。
 仙台駅の横に「パルコ」があり、その駅正面にビルが並んでいて、その一角に「たんや善治郎」の看板を裕江が見つけた。「牛タン弁当」の発売元であった。
 ビルの二階にある「たんや善治郎」の暖簾んをくぐった。

         仙台牛タン たんや善治郎

 「仙台でしか味わえない 歴史と伝統の味」というのが、「たんや善治郎」のキャッチフレーズであった。迷わず「善治郎定食」2.079円を注文した。
 初めての店では、やはり店名を冠した定食が無難であろう。
 定食の内容は、牛タン塩焼き/角煮炭火焼き牛タン/牛タンソーセージ/小鉢/ゆでたんであった。「牛タン」専門店だから、他の焼き肉などはむろん無い。
 鶴橋の「鶴一」で、ついでに「牛タン」を食したことはあるが、あまり印象に残っていない。
 店のメニューには、牛タン重、牛タン丼、牛タンカレー、 牛タンシチュー、牛タン焼きめし、さらに牛タン醤醤麺などもある。
 ほかにテールスープ、とろろと麦めし(焙煎麦めし)があった。

         仙台牛タン定食


 昼間は観光客のほかにビジネスマンなども利用するのであろう。
 とりあえずは生ビールで乾杯し、牛タン三昧を楽しんだ。
 「牛タン」というものがこんなに美味しい焼き肉とは知らなかった。
 ところで、旅の計画段階から、なぜ仙台といえば「牛タン」なのか疑問であった。

          佐野啓四郎
           「味太助」の初代 佐野啓四郎

 調べてみると、「牛タン焼き」が仙台が発祥地とされるのは、「味太助」の初代、佐野啓四郎が昭和23年、仙台市中心部で「牛タン焼きの専門店」を開いたことに始まるという。
 この安くて旨い「牛タン焼き」が大人気で、仙台では相次いで専門店が誕生したらしい。
 終戦直後の昭和二十年代に、仙台には進駐軍の苦竹キャンプ(現自衛隊駐屯地)が置かれていた。米軍では多くの牛肉が、食料として大量に調達されたが、牛の内臓とともに牛タンもそのまま捨てられていた。
 終戦直後の食糧不足の日本では、この捨てられている牛や豚の内臓を、ホルモン(放る物)と名付けて、全国で様々な工夫をして売り出し、庶民の味として人気であった。
 
 さて、佐野啓四郎の「牛タン」である。
「昭和十年頃だったかねぇ。東京で料理の修業をしている時に、フランス人のシェフが言うんだよ。牛の舌ほどうまいものはないってねぇ。まさか、と思って自分で焼いて食べてみたら、これが本当にいい味なんだ」
 佐野啓四郎は山形の出身で、戦時中は焼き鳥の屋台を引いて転々としていたが、戦後すぐに仙台に来た。しばらくして仙台の進駐軍の苦竹キャンプでは、毎日大量の牛の内臓とともに牛タンもそのまま捨てられていることを知った。
 仙台でも「ホルモン焼き」の店は多数あった。が、たれも「牛タン」を特別扱いしていないことに気づき、「牛タン」専門店を開店することにした。


        牛タンの調理

 フランス人のシェフが、「牛の舌ほどうまいものはない」と教えてくれた。
 それが単なるホルモンの一部として扱われている。
 何とかならないか。
 「牛タン」の食べ方を工夫をして、塩と胡椒で一晩熟成させ、炭火でじっくり焼き、熱々を食べてもらう。これこそが「牛タン」の食べ方だと確信した。
 臭みがなく、柔らかで、しかもサクサクした歯ごたえがあり、牛肉のうま味が口に広がる。
 こうして仙台駅前で「牛タン」専門店「味太助」を開店させた。たちまち「味太助」の牛たん塩焼きは評判を呼び、ホルモン焼き店を驚かせた。
 こうして相次いで仙台市内に「牛タン」専門店が誕生し、比例してホルモン焼き店が少なくなっていった。現在では、「牛タン」専門店が仙台市内で100軒をくだらないといわれ、全国的に「仙台牛タン」がブランドとなっている。
 そして仙台牛タン業界では、そのルーツを、佐野啓四郎が昭和23年に「牛タン焼きの専門店」を開店したことを始まりとしている。

        牛タンの部位



 牛タンは、当然ながら牛一頭からわずかにしかとれない。大体ビール大瓶一本の大きさくらいしかない。
 それも、タン中という部分は、「のど元から3分の1」の部分までで、残りは硬すぎたり、脂が多く塩焼きには適しないという。
 つまり、原料牛たんの三割ほどしか実際には使用しないから、仕込みの段階で価格は三倍ほどに跳ね上がってしまう。
 つまり、元々ホルモンとして売られた牛タン時代とは異なり、現在は牛肉の部位の中でも、高級食材部位として、価格も高くなっている。
 牛タンは良質な蛋白源で、しかも肉よりも脂肪分が少く、コレステロールや動脈硬化予防にもなり、貴重な蛋白源でもある。

 現在は調理方法の研究と、加工方法の工夫で、牛タンは先タンからタン中、タン元まですべて利用されている。牛タンソーセージやタンスープ、茹(ゆ)でタンなどで供されている。
 牛タンの調理は、硬い皮を包丁でむいた後、ハムを切るように、手のひら半分大にスライスしていく。
 塩・コショウで味付け、一晩寝かせて炭火で焼く。
 調理は単純だが、噛むごとに口全体にジワーッと広がる、あの風味を出すには隠れた「技」があるという。
 スライスした一枚一枚を、食べやすいように包丁で筋を入れるが、表面だけに切り込むのがコツで、完全に切っては味が染み込まないという。
 この他にも、牛タンを食べる時に振り掛ける唐がらし、下ごしらえに使う塩とコショウ、その混ぜ合わせの割合や量がポイントらしい。
 牛タンと生ビールで満足し、ホテルに戻ってパソコンを開けたものの、すぐに睡魔が襲ってすぐに寝込んでしまった。早朝5時起床と、30分刻みのハードスケジュールでいささか疲れが出てしまった。








 ■青葉城跡

 緊張のせいか、二人とも早朝に目覚めた。このため計画より少し早めに、朝8時前にはホテルを発った。
 仙台に来た以上は、伊達政宗に敬意を表して、朝一番に青葉城跡に向かった。
 震災の影響なのか、ナビのルートで行くと進入禁止で、大きく青葉山を周回させられた。

 仙台城は、慶長年間に伊達政宗が築造してから、廃藩置県、廃城令までの約270年間、伊達氏代々の居城であり、仙台藩の政庁であった。国の史跡に指定されている。
 仙台市街の青葉山に築城された平山城で、別名青葉城ともいい、一般的にもその名で呼ばれる事が多い。

      伊達政宗の銅造(青葉城)


 伊達政宗は、関ヶ原の戦いの後、家康の許しを得て千代に居城を移すことにした。
 慶長5年(16011)に青葉山に登って縄張りを始め、地名を仙台と改めた。
 正宗が築いた仙台城は、本丸と西の丸からなる山城であり、天守台はあるが天守は持たなかった。
 仙台城を訪れたスペインの探検家で、セバスティアン・ビスカイノをして
「この城は日本の最も勝れた、最も堅固なるものの一である。水深き川に囲まれ、断崖百身長を越えたる厳山に築かれている。入口は唯一つにして、大きさ江戸と同じくして、家屋の構造は之に勝りたる。町を見下し、また2レグワを距てて海岸を望むべし」
 と記している。1レグワは距離単位で、約5㎞ほどにあたる。
 ビスカイノは、欧州の鉱山技術にも詳しく、徳川家康の要請に沿って派遣されている。

       青葉城鳥瞰図


 堅固な山城は世が泰平となると、山上と麓の往来は不便である。
 伊達忠宗の時代、寛永14年(1637年)に二の丸造営に着手し、翌年完成させた。
 本丸と同じく広瀬川の内側にあるが、土地は平坦な場所である。
以後、伊達家の当主はここに居住し、政務もここで執った。
 これと前後して大手門脇、青葉山の麓に三の丸が作られた。これ以降、仙台城は実質的に平山城となった。
 二の丸跡は現在東北大学があり、三の丸跡は、仙台市博物館がある。

       仙台市街

 伊達政宗が築城した仙台城は約二万坪で、江戸城に次ぐ大きさを誇り、全国最大級の城であった。幾度となく、火災や地震などによる修復を繰り返した。
 戊辰戦争で仙台藩主は、奥羽越列藩同盟盟主として役割を果たしたが、仙台城が戦場になることはなく、正宗が縄張りした仙台城は、一度も要塞としての機能を発揮することなくその役目を終わっている。







 瑞鳳殿

 青葉城本丸跡を発ち、つぎの目的地は正宗の廟堂である瑞鳳殿である。
 直線距離では直ぐのところながら、通行止めがあり青葉山を半周する形になった。
 意外にこの青葉山の周回道路は通勤の車で混雑していた。ちょうどこの日は金曜日であり、8時過ぎだから通勤ラッシュの時間帯であった。
 ともかく瑞鳳殿への参道にたどり着くと、左手に無料の駐車場があった。
 参道を行くと、途中左手に政宗の菩提寺の瑞鳳寺があった。

       瑞鳳殿正面

       

 仙台藩初代藩主、伊達政宗は生前に、自らの死後、遺骸を仙台城下町南西縁にある、経ケ峯に葬ることを遺言し、寛永13年(1636年)没した。
第二代藩主・伊達忠宗は、政宗の遺言に従い、翌年、政宗の御(み)霊(たま)屋(や)を経ケ峯の東の峰に建立した。正面が仙台城本丸を向き、「瑞鳳殿」と命名した。
 本殿両脇には、殉死した家臣15名、陪臣5名の宝篋印塔(ほうきよういんとう)が並んでいる。正宗が死せば、正宗の重臣や側近、寵臣たちは、追い腹を切らざるを得なかったのであろう。

       瑞鳳殿側面

 もし先代の側近や重臣が生き残れば、跡を継いだ藩主としては、その処遇に困る。つねに新藩主への批判者となる可能性があり、お家騒動の種を残すことになる。
 正宗自身が、お家騒動の苦い体験を有していたから、指名して追い腹を切らせる遺言があったのかもしれない。
このような「追い腹を切る」風習は、多くの藩でも存在した。
 明治になってからは、明治天皇の崩御のあと、乃木希典が殉死を遂げている。
 同年、瑞鳳殿の隣接地に政宗の菩提寺として「瑞鳳寺」も創建され、仙台藩領・平泉の毛越寺より遷した、釈迦三尊像を本尊とした。
 瑞鳳殿は、本殿・拝殿・唐門・御供所・涅槃門からなり、豪華絢爛な桃山文化の華麗な建築を誇った。昭和6年(1931年)に瑞鳳殿は国宝に指定されたが、第二次世界大戦末期、戦略爆撃(仙台空襲)を受け、瑞鳳殿・感仙殿・善応殿は総て焼失した。
 戦前に、国宝に指定されただけあって、その再建された瑞鳳殿の見事さに息を呑まれた。近年再建されているから、その鮮やかな丹や青の色彩と、軒下のあでやかで、きめ細やかな、瑞鳥や天女などの彫刻に、しばし廟であることを忘れた。この絢爛たる雰囲気はどうしたものか。当時想像された、極楽浄土のイメージであったのであろう。

       瑞鳳殿の彫刻

 その後、第二代藩主・忠宗を祀る「感仙殿」、第三代藩主・綱宗の「善応殿」が共に経ケ峯の西の峰に建立された。
両者は瑞鳳殿と相対するよう、正面が東向きになっている。
 瑞鳳殿再建工事に先立ち、経ケ峯を「霊屋風致地区」および「霊屋保存緑地」に指定。さらに昭和49年(1974年)に瑞鳳殿址の発掘調査が行われ、政宗の遺骨や副葬品などが出土した。
 頭蓋骨が発掘され遺骨の分析から、正宗の身長は159.4㎝、血液型B型で、死因は食道噴門癌と腹膜炎だと診断されている。
 体は比較的がっちりしていて骨太で、目鼻立ちがしっかりした、少し面長の貴族のような顔だった」といわれている。

       瑞鳳殿正面山門

 政宗の頭蓋骨から復元容貌像が作られている。
 政宗の身長159.4㎝は、小柄という印象があるが、当時の日本人男性の平均身長は160㎝ほどであったというから当時としては、きわめて平均的な身長であった。
 後生の歴史家が描く正宗の愛嬌や、その発想の斬新さなどは、その血液型B型から納得できる。ちなみに二代忠宗、三代綱宗はともにA型だと診断されている。仙台藩創業の正宗の偉業を、A型であった二代、三代は遺言通りまじめに藩運営をおこなったであろう。


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奥の細道「宮城野」の段

「名取川を渡つて仙台に入る。あやめふく日なり。旅(りよ)宿(しゆく)をもとめて四五日 逗留す。
 ここに画工、加右衛門といふものあり。
聊(いささ)か心ある者と聞きて、知る人になる。
(中略)なほ、松島・塩釜の所々、画に書きておくる。かつ紺の染緒(そめを)つけたる草鞋二足はなむけす。さればこそ風流のしれもの、ここに至りてその実を顕(あらわ)す。」

         奥の細道宮城野の段図

 現代訳
 仙台を発つ日、加右衛門が松島や塩釜の所々を絵に描いて贈ってくれた。また、紺に染めた緒の草鞋(わらじ)二足を餞(せん)別(べつ)としてくれた。まさに風流人である。草鞋の緒も、あやめ草と同じ紺染めで、ともに旅の安全を守ってくれるだろう。この句は、それに感激しての句である。
 あやめ草 足に結ばん 草鞋の緒







 伊達氏

 伊達家の廟堂にいるから、伊達の名の由来にふれたい。
 伊達の名は陸奥国伊達郡に由来する。
 この地は古代には「いだて」または「いだち」、中世以降は「いだて」と呼ばれていた。
 伊達氏の読みも、本来は「いだて」であり、暦応2年(1339年)の文書には
「いたてのかもんのすけ為景」、慶長18年(1613年)に、支(はせ)倉(くら)常長(つねなが)がローマ教皇に渡した伊達政宗の書簡には
「Idate Masamune 」とある。
 十五世紀になって「だて」という読み方が畿内で発生し、江戸時代を通じて「いだて」と「だて」が混用された。

      瑞鳳殿入り口


 伊達氏の初代常陸(ひたち)入道念西(伊達朝宗(ともむね))は、元々常陸(ひたち)国に勢力を張っていた在地豪族で、その母は六条判官源(みなもと)為義の女(むすめ)であったらしい。
 官位は従五位下、遠(とお)江(とうみ)守、常陸介(ひたちのすけ)であった。子に為宗、宗村(為重)、資綱、為家らがあり、娘には源頼朝の側室となった大(たい)進(しん)局(のつぼね)がいる。
 治承4年(1180年)に源頼朝が挙兵した際には、頼朝が母方の従弟という関係もあってその麾下に馳せ参じた。

       瑞鳳殿正面2

 文治5年(1189年)の奥州合戦に際しては、四人の息子とともに前衛として出陣し、最前線基地である信夫(しのぶ)郡の石那坂の城砦を攻略して、大将の佐藤基治を生け捕りとした。
 この功によって陸奥国伊達郡を与えられ、これを契機に伊達姓を称したという。なお、旧来の常陸国の所領は、長男の為宗が相続している。
 伊達朝宗(ともむね)の後は次男宗村が相続し、その後裔は中世、近世を通じて大いに発展した。
 伊達氏の一族は、鎌倉幕府の御家人として、陸奥(むつ)・下野(しもつけ)・常陸(ひたち)の他にも、出雲・但馬・伊勢・駿河・備中・上野・出羽・越後などでも地頭職を得ている。
 これにともにない各地に庶流家が生まれている。

        仙台広瀬川


 ついでながら、仙台の名の由来である。
 元々この地は「千代」と呼ばれていたが、青葉山に城を築いた正宗が仙臺と命名したとされる。
 その由来は、唐の七言絶句に
「仙臺初見五城楼」とあり、ここからとったという。
 ただ、仙台の地は、元来、広瀬川の流域に開けた平地から「川内(せんだい)」という地形名称がある。
 またアイヌ語で広い川を「セブナイ」と表現することから、それが転じてセンダイと呼ばれたともいう。 いずれにしても、その「センダイ」を、唐の七言絶句の「仙臺初見五城楼」から、仙臺と命名したらしい。 

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 伊達政宗の継嗣問題

 しばらく伊達政宗の歴史話をつづける。
 じつにエピソードの多い戦国武将であった伊達政宗は、永禄10年(1567)、出羽国米沢城で生まれ、幼名は梵(ぼん)天(てん)丸(まる)と称した。
 わずか11歳で元服させられ、政宗と名乗りを改めた。
 さらに天正12年(1584年)18歳で父輝宗から家督を相続し、伊達家十七代を継承している。
 伊達家十六代当主輝宗は、まだ41歳という壮年で、家督を譲るには早すぎる年齢であった。
 輝宗は、なぜ嫡男政宗へ家督を譲ることを急いだのか。

       政宗銅像


 この背景には、ひとつは梵(ぼん)天(てん)丸(まる)の相貌が原因であった。
 幼少から才気煥発で聡明であった梵(ぼん)天(てん)丸(まる)は、6歳ころに患った疱(ほう)瘡(そう)(天然痘)で相貌が一変したのである。天然痘によってアバタが多くのこり、さらに、失明した右の眼球は醜く瞼(まぶた)から飛び出していた。
 母である義(よし)姫(ひめ)(最上(もがみ)御前)は、この醜い容姿の嫡男「梵天丸」を疎(うと)んで遠ざけ、次男の竺丸(じくまる)を溺愛した。
 梵(ぼん)天(てん)丸(まる)は、実の母から疎まれ、自らもその容貌を嫌い、極度に人を避けた陰鬱な少年期を過ごしていた。

         政宗像 瑞巌寺所有
              正宗像 瑞巌寺所有

 元服して小次郎となった次男を、義姫は溺愛し、伊達家を相続させるべく暗躍したらしい。これには義姫の生家である、最上(もがみ)氏の意向もあったらしい。
 聡明な政宗が家督を継承するより、凡庸な次男の小次郎に家督を相続させれば、伊達家における最上氏の存在がより増大する、という目論見もあったであろう。
「極度に人を避け、人前に出ず。将来、伊達家を託すにいたらず」
 こうして伊達家には、政宗支持派と小次郎擁立派に分裂しはじめた。
 このような陰鬱たる政宗を変え、自信を持たせたのは、政宗の養育掛りを務めていた
片倉小十郎であった。政宗は、飛び出た眼球を呪い、
「この無用な醜い目玉を、取ってくれまいか」
 片倉小十郎は、政宗の悲痛な要求にたいし、果敢にもその飛び出た眼球を、小刀で取り除いたのである。政宗は卒倒するほどの激痛に耐えた。
 激痛が去るとともに、政宗の心の内にあったコンプレックスまでも取り除かれた。
 この日を境に、自信に満ちた独眼竜と、近隣から恐れられる政宗が誕生したといえる。
 この片倉小十郎は、のちに伊達政宗の軍師として活躍するにいたる。

        政宗像
 
 さて、父の輝宗は、この伊達家を二分する継嗣問題に手早く終止符を打つべく行動にでた。
その第一が、政宗をいち早く11歳で元服をさせたことである。
 これは輝宗が「政宗に家督を継がせる」ことの暗黙の意思表示であった。さらに政宗が13歳のとき、まだ10歳の愛姫(よしひめ)(田村御前)を娶(めと)らせている。
 愛姫(よしひめ)は、陸奥国の戦国大名、田村清(きよ)顕(あき)の娘であった。これは田村家と伊達家共通の敵、佐竹氏や蘆(あし)名(な)氏に対抗するためであった。
 父の輝宗は、継嗣問題で伊達家が分裂することを極度に恐れ、暗黙の内に小次郎擁立派を牽制したのである。

         政宗銅造基台レリーフ

 世は戦国時代であり、政宗の非凡な才能を見抜いていたのであろう。
 しかし最上(もがみ)氏の後ろ盾もあり、小次郎擁立派の画策はつづいた。
 最上氏は、清和(せいわ)源氏の足利氏一族で、三管(かん)領(れい)の一つ斯(し)波(ば)氏の分家にあたる。室町幕府の羽(う)州(しゆう)探題を世襲できる家柄で、のち出(で)羽(わ)国の戦国大名として成長した。
 伊達輝宗は、この出羽の有力者、最上義守の娘、義姫(最上御前)を娶って勢力を維持していた。このころの最上氏は、伊達氏と戦って敗北しその傘下になっていた。
 ともかく継嗣問題で伊達家が分裂したり、小次郎が伊達家を相続すれば、最上氏の復活に寄与することになる。
 こうした経緯で、父の輝宗は41歳で、若干18歳の政宗に伊達家を相続させた。
 現に、のちに伊達氏内部で騒乱が起こると、最上義守は伊達氏から独立し、戦国大名の道を歩み始めている。


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 ■政宗の戦陣

 政宗が家督をついで以後、転機となった戦に人取橋(ひととりばし)合戦がある。
 これは二本松城主、畠山義継の手によって非業の死を遂げた父輝宗の、いわば弔い合戦であった。
 正室の愛姫(よしひめ)(田村御前)の父田村清(きよ)顕(あき)とともに、政宗は二本松城を攻略し、畠山義継は一旦降伏を申しでた。
 が、この時の政宗の苛烈な戦後処置で、畠山義継は政宗を恨み、父の輝宗を拉致して逃亡した。

        政宗銅造基台レリーフ戦陣図

 このとき政宗はこれを追い、この戦乱で父輝宗と義継ともに死亡した。
 天正13年(1585)、輝宗の七日の忌を終えた政宗は、即座に二本松城の攻略に乗り出した。
 が、政宗の思惑に反し、必死で頑強な抵抗で二本松城は落ちず、降りつづいていた雪が大吹雪となり、やむなく兵の撤退を指示した。
 政宗が撤退した直後、二本松城の畠山国王丸は、佐竹・蘆名・岩城氏などの大名に救援を要請していた。それを受けて佐竹、蘆(あし)名(な)の反伊達連合が結成され、二本松城救出のため行動を開始していた。
 蘆(あし)名(な)義広は元々、佐竹義重の次男として生まれ、蘆(あし)名(な)盛隆の養女と結婚して蘆名氏当主となっていた。一方、佐竹氏と蘆(あし)名(な)氏は、天下統一しつつあった秀吉にいち早く帰順していた。
 この情報で伊達軍八千は、会津街道と奥羽街道の交わる要衝の地、観音堂山に本陣を移し、三倍以上の兵力である佐竹、蘆(あし)名(な)連合軍三万と対峙することになった。

          仙道人取橋古戦場

 戦いは伊達領の生命線である人取橋をめぐり、一進一退の攻防が続いたが、兵力差で優位の佐竹、蘆(あし)名(な)連合軍が伊達軍を追い詰めていた。
 ところが突如、優勢のはずの佐竹、蘆(あし)名(な)連合軍が撤退を開始したのである。
 劣勢であった伊達軍にとっては、まさに奇跡が起こったのである。この佐竹、蘆(あし)名(な)連合軍の謎の退却については諸説ある。
 連合軍の盟主であった佐竹義重の下に、「留守を狙い、江戸氏と里見氏が常陸(ひたち)(佐竹氏の領土)に侵攻しはじめた」との通報で、義重は夜明け前に軍勢をまとめ、早々に常陸へと撤退してしまったという。別の説では佐竹義政が内部の分裂で、家臣に刺殺されたともいう。

       摺上原合戦地図 

 ともかく、反伊達連合は、盟主佐竹義政がいなくなって解散し、伊達政宗は九死に一生をえたのである。
 翌天正14年、再び二本松城を攻略し、畠山氏の重臣であった箕輪玄蕃・遊佐丹波・堀江式部らが、政宗に内応して和議が成立した。城主畠山国王丸は会津へ落ちのびた。
 一方で、天下統一をほぼ掌握しつつあった秀吉は、事前に伊達政宗に使者を送り、秀吉に帰順するよう説得し、各奥羽の武将にも関白・豊臣秀吉として「惣(そう)無(ぶ)事(じ)令(れい)」(私戦禁止令)を発し、もし違反すれば順次で討伐する、という脅しも掛けていた。

 勢いを得た政宗はこの秀吉の使者を無視し、蘆(あし)名(な)領へ兵を進めていた。
 政宗は蘆(あし)名(な)領内の安子ヶ島城、高玉城を攻略し、摺(すり)上(あげ)原(はら)の地で伊達軍二万、蘆(あし)名(な)軍一万六千が決戦を挑んだ。ところが、蘆(あし)名(な)軍内部で裏切りや離反が起こり、この「摺上原合戦」は伊達軍の圧倒的勝利で幕を閉じた。
 この戦国時代では、まさに弱肉強食の時代であり、戦国武将には子飼いの郎党はすくなく、各地の有力武将を束ねているにすぎない。
 その処遇に不満をもったり、その器量が頼みとするに足らなくなれば、平気で裏切りや離反は当たり前のことであった。この「摺上原合戦」の勝利ののち、政宗は旧蘆(あし)名(な)領を併合し、やがて奥羽六十六郡のうち、実に三十余郡が政宗のものとなった。
 が、秀吉の心中は、穏やかではなかった。


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 白装束の政宗

 政宗は、「遅れてきた戦国武将」といわれる。
 政宗が奥羽の覇者にならんとした頃、すでに秀吉の天下統一が着々と進行し、最期の小田原城攻略を残すだけとなっていた。 関東以北の武将も、大方は秀吉に臣従する態度を見せていた。
 当然、政宗にも、なんども秀吉から使者が訪れていた。これに対し、政宗は奥州の名馬を秀吉に献上するなど、外交関係を維持しつつも、西の天下人秀吉に臣従するか、徹底抗戦するか重大な決断を迫られていた。

         豊臣秀吉

 伊達家の家中でも、秀吉への臣従派と抗戦派に意見が分裂していた。
 一方で政宗は、政略として浅野長政や前田利家に、秀吉へのとりなしを依頼していた。
 その結果、浅野長政から届けられた書状に
「秀吉殿は、蘆名氏討伐のことは不問にし、伊達家の本領を安堵する」
とあり、軍師片倉小十郎の進言を受け入れ、政宗はついに「北条氏と手を切り、秀吉に従う」という決断をし、豊臣秀吉の小田原北条攻めに参陣することを決心した。

 しかしその間にも、政宗には難題がいくつも生じている。
 政宗の家臣のひとりが最上(もがみ)氏に寝返って、婚姻関係から成る同盟関係が破綻した。
 さらにはその翌年、奥羽の地盤を固めるべく大崎氏を攻めたが、攻城武将の意見対立から軍の統制が乱れ、さらに調略により大崎氏から寝返りを内諾していた重臣が、最上氏との同盟関係が破綻したことで、大崎氏に残り、伊達軍はまさかの大敗を喫してしまった。

 この大崎氏に大敗という報をきいた小豪族たちが、次々と最上氏側についた。そんな中で、政宗の家臣大内定綱が謀反を起こした。
 大内定綱は元々不祥事をおこし、政宗から一旦追放処分を受けていた。が、許されて政宗に帰順していたが、また謀反を起こすという、曰くつきの人物であったから、伊達家内部での混乱は生じていない。

        

 その間、秀吉の意向をうけて、最上・大崎・蘆名・佐竹の四氏からなる「反伊達包囲網」がまた結成されていた。まさに窮地であった。が、政宗はこの難局を謀略によって乗りきる方策を立てた。蘆(あし)名(な)家の重臣であった猪(い)苗(なわ)代(しろ)盛国と、その子の盛胤との間の争いで内部混乱起こさせ、さらに政宗の同盟者であった小田原城主、北条氏直に、佐竹領への侵攻を促した。
 こうした謀略によって、反伊達包囲網を崩しつつあった。

 一方で秀吉は、奥羽の武将に再三使者を派遣し、「私戦禁止令」を伝え、和議を勧めた。この秀吉の再度の調停によって、政宗はついに最上・大崎氏と和議を結んだ。
 これにより「反伊達包囲網」は消滅した。この最上氏との講和の直後、政宗は秀吉により上洛を命じられている。
 ようやく、小田原に参陣することになり、出発の前日、母の保春院に挨拶に行った。このとき食事を供されたが、その料理に毒が盛られていた。幸い異様な味に気づき吐きだし、すぐさま解毒剤を服して一命をとりとめたという。
       

 この事情は、このころの伊達家の内部で、また二派の対立があったという。
 天下人の秀吉に睨まれている政宗より、「次男の小次郎を擁立する方が、伊達家温存につながる」と、かつての小次郎擁立派が暗躍し始めていたらしい。
 これに対し政宗は、果敢にも弟の小次郎を殺し、以後の内部対立の芽を摘んだという。
 この毒殺未遂事件には、政宗の自作自演という説がある。伊達家の内部対立の種である小次郎を殺害する、その口実のためだったという。
 ともかく、この小田原城包囲への参陣は、あきらかに機を逃したものであった。
 秀吉の天下統一があまりに敏速であったため、「奥羽で地盤を固めたうえで秀吉の傘下に入る」という目論見に固執し、機を逸したのである。

        白装束の政宗と秀吉謁見


 政宗は、小田原へは遅参し、ただちに秀吉に謁見することも許されず、一旦、謹慎をいいわたされたのである。
 ようやく秀吉に謁見を許されたとき、政宗は死装束でその場に臨んだという。
 言い訳をする代わりに、「死を覚悟しております」
と無言の演出であった。この辺りが、機先を制す戦国武将としての政宗の器量であろう。
 「遅いぞ、伊達政宗」
と、秀吉は声で叱りながらも、目は笑っていた。

 謁見が済むと、政宗に小田原攻めの陣立てを説明したが、その陣容、じつに二十万で政宗の度肝をぬく規模であった。翌日には、利休の茶会に招待している。
 小田原攻めが終わると、秀吉は白河以北の処置をした。政宗が多大な犠牲を払い、小田原へは遅参してまで手に入れた旧芦名領、会津、岩瀬、安積などの諸郡を没収され、米沢の伊達領だけが安堵された。
 この後も政宗は秀吉に臣従し、朝鮮の役等にも出兵している。



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 百万石の夢

 次に政宗に重大な転機が訪れるのは、太閤秀吉の死後のことである。
 政宗は、次なる天下人が太閤の遺児、秀頼ではなく、徳川家康であると予期していたらしい。
 事実、太閤秀吉の死後、秀吉の取り決めを無視し、家康六男忠輝、政宗長女五朗八姫を婚約させ、その結びつきを強めている。
 そして、家康が「三成挙兵」の報をうけ、会津征伐より上(かみ)方(かた)に軍勢を引き返す際、政宗は迷うことなく家康(東軍)側につき、家康の背後を衝こうとする上杉景勝と交戦する。

        徳川家康銅像


 周知のとおり、関ヶ原の合戦は家康方(東軍)の大勝利で幕を閉じた。
 この報は伊達政宗、最上義光等と交戦中であった上杉景勝のもとに、ただちに知らされ、景勝は撤退を開始する。
 こうして長(は)谷(せ)堂(どう)城(じよう)を巡る直江兼続と最上義光の攻防、伊達政宗による上杉領白石城の奪還など、「東北版関ヶ原」ともいうべき一連の戦いは終結した。
 しかし、政宗はこのまま兵を撤退させなかった。
 まさに全国が争乱にあるさなか、政宗は好機到来と考え、この混乱に乗じてにわかに行動を開始したのである。
 一つは信(しの)夫(ぶ)郡(ぐん)、伊達郡に対する侵攻、そしてもう一つは、南部利直が出陣中で留守であるのを利用して一揆を扇動させたのである。
 つまり政宗は、関ヶ原の混乱を利用し、旧領を回復させるといういわば「火事場泥棒的行為」を行ったのである。
 結局、政宗が切り取ることができた所領はわずかで、一揆扇動も露見して失敗してしまう。
 家康が三成挙兵」の報をうけ、上(かみ)方(かた)に軍勢を引き返す際、背後を衝こうとする上杉景勝を、伊達政宗に牽制させるため「百万石のお墨付き」が与えられていた。


       伊達政宗像

 にも関わらず、関ヶ原後の論功勲章では、二万石のみの加増となったのは、この「火事場泥棒的行為」のためである。
 とはいえ、政宗の所領である62万石は、外様大名の中では加賀前田家の102万石、薩摩島津家の73万石についで、全国で三番目という破格のものであった。
 その露骨な野心を、家康から警戒された政宗は、戦勝後に有力大名の中で最後まで帰国を許されず、江戸の天下普請に動員されるなど、二年間を江戸で過ごした。
 この間、慶長6年(1601)、政宗は国分氏の居城であった千代城を修築(実質は新築)し、「仙台城」と改称し、居城を岩出山城から移した。
 同時に城下町も建設し、政宗を初代藩主とする仙台藩62万石が成立した。








 仙台藩主 政宗

 以後、政宗は家康に対しては従順な態度をとり、初代仙台藩主として自領の基盤整備に取りかかった。まず新田開発でその経営手腕を発揮する。
 家康から与えられた所領は62万石であった。
 しかし、政宗は大規模な新田開発を行い、この「表高」に対し、後の仙台藩の実際の生産力を示す実質石高は百万万石を越えていたといわれる。

      仙台城俯瞰図 


 諸説によっては二百万石ともいわれている。
 しかも、これら剰余の米を爆発的に人口の増加した江戸に廻漕し商いを行っていたのである。
 江戸の米の3分の2は奥州米といわれ、政宗の新田開発による経済効果は、仙台藩に相当な富をもたらしたといえる。
 次にあげられるのは外交政策である。
 政宗は慶長18年(1613)、仙台領内で西洋式帆船、サン・ファン・バウティスタ号を建造し、家臣の支(はせ)倉(くら)常(つね)長(なが)を中心に、一行百八十余人をノビスパニア(メキシコ)、イスパニア(スペイン)、およびローマへ派遣した。(慶長遣欧使節)
 支倉常長らは、初めて太平洋・大西洋の横断に成功した日本人でもある。

      慶長遣欧使節航路図

 これはかつて伊達政宗が、切支丹奨励を条件に、スペイン国王との独自の貿易協定を結ぼうとしたものである。通商の他にも渡航術、鉱山技術なども習得しようとしていたようである。
 当時は、西日本の藩では、東南アジア地域との貿易が盛んであったが、直接ヨーロッパと貿易をすることで大きな利潤を得ようとしたものである。
 政宗があえて使節を送った目的として、スペインとの軍事同盟、さらには、それを利用しての倒幕も考えていたとの穿(うが)った説もある。
 しかし、この政宗独自の外交は、幕府の政策により挫折を強いられる。

 ちょうど遣欧使節の派遣と前後して、幕府はキリスト教の信仰を禁じ、切支丹に対して大弾圧を加えはじめた。こうして政宗がスペインに提示した切支丹奨励と、奥州に対する宣教師派遣は中止させられた。政宗も、ついに切支丹禁令をせざるをえ得なくなり、支倉常長等は、元和6年(1620)空しく帰国させられた。

         支倉常長像

 元和年期(1614年以降)にはいると、徳川幕藩体制も一応の安定期にはいり、もはや「戦国武将」と呼ばれた人々の野望は消え失せつつあった。
 仙台藩の領国経営も安定期に入り、政宗がその藩政から一線を退いた。
 徳川秀忠は臨終に際し、政宗を枕もとに呼び寄せ、三代将軍家光の後見を依頼している。
 このころには戦国時代を生き抜き、健在しているのは政宗ぐらいである。そのため、他の大名の押さえとして、政宗に後見を依頼したものと思われる。 
 しかし、このとき政宗もすでに66歳。江戸の桜田屋敷で、その波乱に満ちた生涯を閉じるのは、この4年後のことである。
 政宗の跡を継いだ第二代藩主・忠宗は、内政を充実させると共に、正室に徳川秀忠の養女振姫(池田輝政の娘で家康の孫娘)を迎えるなど、将軍家との関係を深め、幕府へ従順な態度を示して外様藩としての警戒を解こうと努力した。


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 ■閖上(ゆりあげ)地区

 次の目的地は、津波被害地である閖上地区にある「閖上さいかい市場」である。
 いわゆる観光ではなく、津波震災の跡も訪ねておきたかった。
 東日本大震災の大津波が発生したとき、沖縄で観光していた。娘からの電話で
「大津波が沖縄にも到達するらしい」
という連絡に驚き、旅行を中断した。
 ホテルは高層階ながら、那覇港に近い。取りあえず飲み物とおにぎりなどを買ってホテルに戻った。
 後は、テレビで想像を絶する大津波が、家屋や船、車などをのみ込みつつ、押し寄せる映像に釘付けとなった。

       仙台閖上地区津波

 あの大惨事から2年半ほどが経っているが、まだまだ復興が進まず、仮設住宅で過ごす人々がたくさんいる。
 仙台まで来たから、再開された仮設店舗で頑張る人々に会い、なにか励ましの言葉をかけ、少しでも買い物をしようと考えていた。

 ナビに住所を入力したが、名取市美田園町とすべきところ、閖上町と入力したかもしれない。
 ともかく閖上地区に到着はしたが、広大な草原に来たような錯覚を覚えた。
 大きな通りには、並木のようにヒマワリが植えられ、その道の両側は、背の高い雑草が一面に生えていた。
  
        震災後の閖上地区


 ぽつんと家があったが、近づくと廃墟であった。
 近くの雑草が刈り取られた跡地には、ブロックで祭壇をこしらえ、供え物と供養花が生けられていて、胸が熱くなった。この地で、多くの人々が、突然に襲ってきた巨大津波に家ごと流されたり、車のまま津波に呑まれている。
 閖上中学の校舎があったが、近づくと廃校になっていた。正面には祭壇のような台があり、飲み物や花などが供えられていた。
 よくみると、背の高い雑草が生えている場所は、かって住宅街があった場所で、住宅のコンクリート基礎だけが残されていた。
 この光景を目の当たりにして、しばし呆然とした。
 かつては震災ガレキ処理について、受け入れ問題の報道があった。
 が、今はすべての瓦礫が撤去されて、張り巡らされている住宅街の道路だけが整然と通っている。

        震災後の閖上地区の道路

「閖上さいかい市場」はこの辺りと思い込んでいたから、背の高い雑草だけの住宅街をウロウロすることになった。
 二階建ての大きな建物を見つけて、近づいてみると、すでに廃墟となっている何かの施設の建物であった。
 すでに瓦礫はすべて撤去されていて、かつての住宅地の路地まで、道路はきれいに復興されていた。背の高い雑草が繁茂しているから、かつての住宅街に入り込むと、方向感覚が狂うほどであった。
 閖上地区のほとんどの住宅は、津波で壊滅的な被害をうけた。その無惨な住宅瓦礫や、半壊住宅も取壊され、それらはすべて撤去され、いわば更地のようになっていた。

        震災後の閖上地区住宅跡

 そこへ生命力の強い雑草だけが被い茂っていた。
 神戸の場合は、大地震と大規模な火災で、大都市の一部がが壊滅した。
 この閖上地区は、仙台市内を流れる名取川の河口流域で、平坦な地形である。 小高い丘など一切なく、木造住宅の密集した住宅団地であったため、ほとんどの家屋が津波で壊滅した。
 それも大地震で呆然としているところへ、大津波が襲うという惨劇であった。
 宮城県名取市の閖上地域の人口は、大震災前の2月末時点で5,612人だった。
 しかし大津波で壊滅した閖上は、ほとんど更地と化してしまった。

      閖上地区の航空写真

 名取市の犠牲者数は千二十七人にも上っており、そのほとんどが閖上地区に集中している。9月末の人口は2,410人となり、犠牲者だけでなく多くの住民が閖上から姿を消したことを物語っている。
 多くの人が犠牲になった主因は、ほかの地域と同様に、「まさか、ここまで津波は来ない」との思い込みによる避難の遅れであるらしい。
 また、閖上地区では車での避難者が大渋滞に巻き込まれて、身動きが取れないまま多数の人命が失われた。




 
河北新報特集
 「証言 3・11大震災

 「東日本大震災で甚大な被害が出た名取市閖上地区では、指定避難場所の閖上中学校の前で、津波にのまれた人が多数いた。 閖上公民館に避難した人々が閖上中学に誘導され、指示に従って移動していたところを津波が襲ったという。

      震災後の閖上中学校

 同公民館は元々指定避難場所で、そこからの避難誘導は市の防災計画の規定にない。
が、閖上中学へ誘導された結果として、周辺の道路は、事故と信号ダウンなどで渋滞が発生。近くに高台がない地域で、避難者は大混乱に陥っていた」

 「元公民館長によると、3時20分すぎ、ある消防関係者がやってきて、こう告げた。(大津波が来るから二階の建物ではもたない。全員を三階がある中学に避難させてほしい)元館長は、制服を着た人だったので従った。
 もっと高い所へ、という判断は正しいと思った。結果的に犠牲を増やしたならば、その責任は私にある、と悔しがる」

     震災後の閖上中学校正面

「名取市消防本部によると、市の防災計画では、公民館は地震や津波の避難場所で、たとえ大津波警報が発令されても、他の場所へ移動させる規定はない。公民館にとどまるのが避難の原則。当日、住民を中学へ移動させる命令を署員や消防団に出してはいない。現地で勝手な判断をするはずはあり得ないのだが・・と首をかしげる。

      閖上地区のひまわり


 市内では震災で約900人が犠牲となった。避難誘導に当たった消防署員3人と消防団員15人が殉職した。中学への移動指示を、誰がどういう理由で出したのか、真相は今も不明だ」
「閖上大橋の事故現場へ向かった岩沼署交通課の斉藤武志警部補は、避難先の閖上中に入ろうとする車で、公民館前付近から前に進めなくなった。パトカーのサイレンを鳴らし、対向車線を走った。閖上四丁目の会社員小斎誠さんも、同じころ、公民館から車が数珠つなぎになっているのを目撃している」
「五叉路で交通整理をしていた吉田さん。白波が名取川をさかのぼり、住宅街から土煙が上がっていることに気づいた。あわてて五叉路をまたぐ歩道橋に駆け上がった。津波が車や船を巻き込んで一気に押し寄せ、間一髪だった。歩道橋には50人ほどか避難していた。」
経験した事のない大津波での大混乱では、個人の責任を問うのは困難であろう。

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 ■奥の細道 笠島の段

 「鐙(あぶみ)摺(すり)、白石の城を過ぎ、 笠島(かさしま)の郡(こほり)に入れば、 藤中将(とうのちゆうじよう)実(さね)方(かた)の塚はいづくのほどならんと、人にとへば、 「是これより遥はるか、右に見ゆる山際の里を、 みのわ・笠島と云いひ、道(どう)祖(そ)神(じん)の社(やしろ)、 かた見の薄すすき、今にあり」と教ゆ。
 このごろの五月雨、さみだれに道いとあしく、身つかれ侍(はべれ)ば、 よそながら眺ながめやりて過すぐるに、 簑輪・笠島も五月雨の折にふれたり。岩沼に宿る。

      奥の細道笠島の段の脾

笠島は いづこさ月の ぬかり道

 藤中将実方は、平安時代の代表的歌人。
 清少納言、和泉式部などと、中古三十六歌仙の一人に数えられる。実方は、長徳元年(995)朝廷より命じられて陸奥守となり陸奥へ赴任したが、落馬がもとで命を落としたと言われている。その実方の墓が、名取市愛島笠島にある。



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 白石武家屋敷

 今日も30分刻みのスケジュールだが、閖上地区で予定より時間が落ちた。
 次の目的地の白石(し)に向かうため、名取りICに入ったのは、30分遅れの11時30分ころであった。白石ICには約40分くらいで到着した。
 
 宮城県の白石に興味が有ったのは、和紙の研究をしていたころ、江戸期の紙(かみ)衣(こ)、紙布(しふ)の産地としてであった。
 「奥の細道」を歩いた芭蕉も、紙(かみ)衣(こ)や紙衾(かみふすま)を愛用していたという。
 紙衾(かみふすま)は簡易な夜具として用いる。
 丈夫な楮の和紙は、揉んで柔らかくして衣料に応用すると、想像以上に暖かい。
 さらに柿渋や寒天やコンニャク糊で加工すると、いっそう丈夫で、耐水性もある。
 強度と耐久性に優れ、紙衣や紙布(しふ)にも用いられた白石和紙は、カジノキの雌株が原料である。東大寺の修二会(しゆにえ)(お水取り)で、練(れん)行(ぎよう)衆(しゆう)が着用する紙衣は、白石和紙を使っているという。現在でも一軒だけながら、手漉きの白石和紙が漉かれている。

       白石の紙衣

 とりあえず白石城跡を目ざした。
 復元された白石城跡まで車で上ると、駐車場はなかった。高速で走行中から小雨が降り出していたから、白石城跡見学は割愛して、近くのスーパーで傘を購入した。
 次の予定は、武家屋敷であった。
 その近くに昼食を予定している「白石うーめん」のやまぶき亭がある。先に武家屋敷を見学して昼食を摂ることにした。

      白石の武家屋敷門

 この武家屋敷は、白石城主片倉家の中級家中の小関家の屋敷で、享保15年(1730)建築であることが確認されている。
 平成3年に白石市に母屋、門、塀が寄贈されたのを機に、創建当時の姿に復原され、宮城県指定文化財となっている。


      白石武家屋敷床の間

 上手(かみて)の前面に「なかま」と呼ぶ正座敷、その裏側に「なんど」をとり、これら二室の下手(しもて)に広い一室構成の「ちゃのま」を配した『広間型三間(ま)取(どり)』の極めて簡素な屋敷である。
「ちゃのま」の中央には、囲炉裏がもうけられている。
「なかま」の奥に「床の間」を、表側に「平書院」を付け、棹縁(さおぶち)天井を張っているが、他室は天井がなく、また板敷である。

      白石武家屋敷囲炉裏の間

 ここは奥羽山脈と阿(あ)武(ぶ)隈(くま)高地に囲まれた白石盆地にあり、冬の寒さは格別のものであろう。
 さて見学は割愛したが、白石城は、鎌倉時代は土豪白石氏の居城であったが、慶長7年(1602)以降は仙台城の支城となり、伊達家重臣片倉氏が代々居住した。

 片倉景綱は、伊達氏家臣で、伊達政宗の近習となり、のち軍師的役割を務めたとされる。仙台藩片倉氏の初代で、景綱の通称「小十郎」は代々の当主が踏襲して名乗るようになった。
 天正13年(1585)の人取橋の戦い、天正16年(1588)の郡山合戦、天正17年(1589)の摺(すり)上(あげ)原(はら)の戦い、天正18年(1590)の小田原征伐、文禄2年(1593)の文禄・慶長の役、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いなど、政宗の主要な戦の大半に参加し、いずれも伊達氏の危難を救っている。

       武家屋敷旧尾関家門

 小田原征伐に際しては、豊臣秀吉方へ参陣するよう説得し、伊達政宗に小田原参陣を決意させた。
 白石城は、九州の八代城などと並んで、江戸幕府の「一国一城」制の対象外とされ、明治維新まで存続した。
 明治初頭の廃城令によって、廃城処分とされ、ほとんどの建物は破却された。
 現在、三階櫓など本丸の一部が1995年に木造で復元され、現在は公園となっている。
 1868年の戊辰戦争のとき、東北諸藩の代表たちが、白石城で白石列藩会議を開いた。これが奥羽越列藩同盟の結成につながった。


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 白石うーめん

 旅行の楽しみは、やはり郷土料理や、その地でしか味わうことができない、珍しい食べ物に出会うことである。
 旅行計画では、できるだけ郷土料理や土地の名物を食べるべく調べた。
「白石うーめん」という聞き覚えのない麺があり、ぜひこれを食べたいと計画した。
 なかでも「ことぶき亭」というのが、「白石商家資料館内」とあり、ここで遅めの昼食をとることにした。
 建物の正面からは、とても商家資料館には見えず、つい通り越してしまった。
 建物に入ると、右側が土産物売り場で左側に座敷があった。座敷に上がり込み、うーめん御膳を注文した。定食は幾種類かあり、いずれにもうーめんがつく。

     白石うーめん定植

 注文のとき
「うどんのようなものか」と聞くと、
「素麺を短くカットしたものです。冷たいものと暖かい麺があります。細くて短いから消化によいです」
という答えであった。
 うーめんは 温麺と書くから、迷わず暖かい麺にした。
 汁は関西風のあっさりした薄汁で、癖のない食べやすい麺であった。
 ただ、一般の麺類は長いから、ツルツルと吸い込むような食べ方で、いわばのど越しに食べているが、うーめんは短かく細いから、ひとすくいでそのまま口に入れる。
 我が家では素麺は夏場の食べ物として、冷やして食べているから、暖かい素麺というのは珍しかった。
  
       白石商家資料館内部

 温麺(うーめん)は、素麺の一種であり、宮城県白石市の特産品である。
 白石温麺とも呼ばれ、「うーめん」あるいは「ううめん」と仮名で表記されることも多い。過去には雲麺と書いて「うんめん」とも呼ばれたらしい。
一般の素麺は生地を延ばす際、表面の乾燥を防ぐために油を塗るが、温麺は油を用いないのが特徴という。
 長さ10㎝程の短い束にして売られている。
 食べ方は醤油や味噌で作った汁につけて食べるのが一般的である。
 熱くしても冷やしても食べるが、夏に冷して食べるのが主流の素麺とは異なり、温麺は温かい麺に人気がある。
 茹で時間の短さと麺の短さから、料理で扱いやすい。他の材料を混ぜ込んだ変わり麺も製造されている。
ルーツは江戸時代初めに、白石に住んでいた大畑屋鈴木浅右衛門が、胃腸の弱い父親のため、旅の僧に教わった「油を使わない麺」の製法を苦心のすえ会得して創始したと伝えられる。浅右衛門は、名を味右衛門と改めて温麺製造を業とした。
 小麦粉を塩水でこねて造るため、舌ざわりがよく消化もよく胃にやさしい。
 油なしで細い素麺を作る製法は、これ以前に大和国を中心に上方に存在しており、その技術を取り入れたという経緯らしい。

        白石商家資料館展示

 油なしの素麺はさっぱりして上品で、他の素麺より高級とされ、東北地方南部に流通し、仙台藩主の伊達家から大名・公家への贈答にも用いられた。
 現在の温麺は通常ゆでて調理するが、江戸時代には、蒸して食べたという記録が残っている。
 当時は、とりわけ冬に作られた寒製温麺が良いとされたらしい。
 白石盆地には冬に蔵王おろしの乾燥した風が吹き、それが寒製温麺の製造に適していた。
 また、蔵王を水源とする、清流が白石の街なかを縦横に流れていて、麺作り幸いした。
 またこの清流は、紙すきにも適していて、すでに触れたが「白石和紙」としてその名が高い紙衣の産地でもある。
 江戸時代に「白石三白」と呼ばれた白石の名産は、和紙、葛粉とこの温麺であった。 このうち、温麺だけは、今でも盛んに作られている。

        白石商家資料館展示2

 ところで、やまぶき亭は、明治末期ころから商家で、商家らしい大きな土間があり、
入り口すぐ右手には、水車を動力とした木製の製粉機があった。
 お食事処の座敷の周囲には、昔の大福帳や算盤や秤など種々陳列されていた。
 明治期の白石の大店であったのであろう。


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 ■会津盆地

 二人とも初めての会津である。
 磐越自動車道で会津ICが近くなったころ、右手に磐(ばん)梯(だい)山(さん)が見えてきた。
 あいにくの小雨で視界が悪く、磐梯山がまるで雲の上に浮かんでいるように見えた。
 会津富士、会津磐梯山とも呼ばれ、日本百名山の一つでもある。
 この磐梯山のふもとに摺(すり)上(あげ)原(はら)があり、さきにふれた摺上原合戦が行われた。摺(すり)上(あげ)原(はら)の地で伊達軍二万、蘆(あし)名(な)軍一万六千が決戦を挑み、伊達正宗が勝利をおさめ、東北の覇者となった所である。 
磐梯山は、猪苗代湖の北にそびえる活火山で、磐梯高原を含めて磐梯朝日国立公園に属している。
元は『いわはしやま』と読み、『天に掛かる岩の梯子』を意味しているとか。

     会津磐梯山
 
 福島県は、地形・気候・交通・歴史などの面から、太平洋と阿武隈高地に挟まれた「浜通り」、阿武隈高地と奥羽山脈に挟まれた「中通り」、奥羽山脈と越後山脈に挟まれた盆地の「会津」の三地域に分けられる。
 現在の福島県は、明治初年に磐前県(いわさきけん)(浜通り)と福島県(中通り)と若松県(会津)の三県の合併によって成立している。
 鎌倉初期から室町末期まで、この盆地を支配していたのは芦名(蘆(あし)名(な))氏である。戦国期に入って居城を大きくし、城下町を形成した。この芦名氏は、伊達政宗によって滅ぼされたことはすでにふれた。

     会津市街航空写真

 この盆地を会津「若松」と名付けたのは、蒲生氏郷である。
 蒲生氏郷は、元々近江の名族であったが織田信長の傘下に入り、信長からその聡明さを愛され、信長の三女冬姫の婿となった。
 秀吉は、旧主信長の婿である蒲生氏郷を優遇し、伊勢松坂十二万石に封じた。
 蒲生氏郷は、新たに城下町を作り、松坂という地名をつけた。
 松は四季変わらぬ緑で繁栄の象徴であり、坂は大坂の町を作った秀吉から一字を借用したという。

        蒲生氏郷銅像
            蒲生氏郷像

 秀吉は大坂にすべての商品の市を立てることを目論んでいた。
 氏郷も松坂をちいさな大坂にしたいと願ったのであろう。この松坂で、氏郷は大商人を育てている。その中から、のちに大財閥になる三井家も生まれている。
 ともかく氏郷の町割りと、商工業を中心とする領国経営の能力は、ただこどではない。
 そして伊勢松坂にいること六年で、秀吉から奥州会津へ転封させられている。秀吉としては、奥州の鎮めとして蒲生氏郷に90万石という大領を与えた。
 氏郷は、黒川に七層の天守閣を持つ奥州最大の巨城を築き、新たに町割りを行い、商工業の育成もした。城下の名も「若松」と変えた。近江の日野に若松の森があったことから、やはり「松」の字を使用したらしい。
 商工業の基礎は、伊勢松坂に移っていた近江の日野の商人たちが、会津まできて日野町という商業の町を形成した。会津漆器の奨励など、政治産業文化のうえに残した功績は実大きい。
 蒲生氏郷の生涯は、四十年未満でしかなく、伊勢「松坂」と会津「若松」という商業都市を設計することで尽きた。今日の感覚からすれば、若干四十歳未満で、これほどの事業をなしたというのは、驚嘆に値する。


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 天守閣郷土博物館

 会津若松ICを15時30分ころ降りて、市街地を抜けて会津若松城に到着したのは、写真の時刻から16時04分ころである。
 市街地は意外に車が多く、今夜の宿泊予定のワシントンホテルや会津若松駅を過ぎて、細い路地をゆくとめざす会津若松城があった。
 高速を順調に走行できたから、ほぼ予定通りの到着であった。この時間なら、ゆっくり天守閣に上ることができると、一安心であった。
 石垣に沿って行くと、駐車場があり無事に駐車することができた。
 濠の周囲三カ所に駐車場があり、別に大型バス専用の駐車場も備えられていた。城内には、至る所に「八重の桜」のポスターや幟が立てられていた。

    会津若松城

 今年のNHK大河ドラマは「八重の桜」であり、前半はほとんどが会津若松が舞台であった。最近、官軍の会津若松城の攻防戦が放映されたばかりでもある。このため例年に比べて、観光客は五割も増加しているらしい。
 小雨が降りつづくなか、傘をさして砂利道を歩き、天守閣に入った。
 現在の天守閣は、昭和40年に鉄筋コンクリート造で、外観だけを復興再建されたもので、内部は「若松城天守閣郷土博物館」であった。
 各階とも博物館としての展示があり、見学しつつ階を上り、ようやく最上階の天守の展望所に出た。

     天守閣博物館からの眺望

 あいにくの小雨模様の天気で、遠くは霞んでいた。鶴ケ城の再建とはいうものの、天守閣や本丸が鉄筋コンクリート造では、味気ない。
 また、歴史的展示品、歴史年表や松平容保や戊辰戦争直後の鶴ケ城の写真パネルなど、すべて撮影禁止とある。
 博物館というのは何処も、おしなべて写真禁止とある。有料で公開しておきなが、写真禁止というのはどういう了見であろうか。そもそも松平容保の写真や、戊辰戦争直後の鶴ケ城の写真など、ネットでいくらでも公開されている。
 




 
 ■歴代の会津若松城主
 
 会津若松城は、蒲生氏郷が七層の天守閣を持つ奥州最大の巨城を築いたことはすでにふれた。氏郷の子、秀行は家中騒動があり、92万石から18万石に引下げられ、下野国宇都宮に移封された。
その後に、秀吉五大老のひとり、越後の上杉景勝が120万石で会津若松城に入った。
 ところが、上杉景勝は関ヶ原の戦いで西軍に加担したため、家康から30万石で出羽国米沢に移封させられた。

     鶴ケ城の石垣

 翌年、蒲生秀行が再び入城したが、寛永4年(1627年)、嫡男の忠郷に嗣子がなく没したため、秀行の次男・忠知が後嗣となり伊予国松山に移封され、代わって伊予松山より加藤嘉明が入封した。


     鶴ケ城公園

 加藤嘉明の子の明成は、西出丸、北出丸などの造築を行い、会津地震により倒壊した天守を、今日見られる層塔型天守に組みなおさせている。
 望楼型七重(五重五階地下二階)の天守が竣工し、名は「鶴ヶ城」に改められた。
 彼の行った城の改修で、鶴ヶ城は現在の姿になった。が、のちに加藤明成は重臣と対立したのをきっかけに、幕府から改易された。


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会津松平家

 加藤明成改易ののち、出羽国山形より三代将軍徳川家光の庶弟である保科正之が23万石で入封し、以後、明治維新まで会津松平家(保科氏から改名)の居城となった。
 保科正之は、二代将軍家光の傍流の子であったが、幼いころ信州高遠藩の保科家の養子にだされた。
 前(さき)の将軍の子であり、現将軍の異母弟でありながら、当初はわずか3万石の小身だった。やがて最上藩20万石の領主となり、33歳のとき会津藩23万石で入封した。
 保科正之は、教養の点でも同時代の大名からぬきん出ていて、行政者を天職のように心得て、私心がなく、藩政と民政の基礎は、かれ一代で確立したという。
 さらには風儀(文化)を重視し、会津藩士独特の精神的風儀をつくり、独特の藩風を確立させた。

       家光と保科正之の図

 その藩経営の組織も他藩とことなり、中間層の多い家臣団をつくった。
  最高の禄高は四千百石で、それも二人だけで、百石から四百石までの中間層を85%とし、百石以下の小禄も3%とにしている。
 このことは、藩士の自立性を高めた。 近代社会では、中間層の多い社会が安定度が高く、よき文化(風儀)が醸成され、密度の濃い藩風が確立した。
 こうした会津松平家は、藩としての統制と制度が高く武勇に優れていたため、国事に再々かり出されている。
 たとえば江戸末期、北辺をロシアの南下で脅かされはじめると、幕府は会津藩に北辺警備を命じている。北辺警備はもともと松前藩が所在するが、弱体で、津軽藩にも動員令をだしたが、藩兵が弱く頼みにならなかった。
 会津藩にとって最大の難事は、幕末のほとんど無秩序となっている京都の治安回復に、松平容保を起用して「京都守護職」にしたことである。

         松平容保
             松平容保

 会津松平家といえば、二代将軍秀忠の傍流の家系であり、徳川御三家につぐ家格で、徳川一門の中でも格別の家柄である。徳川御三家同様に、幕府の政治には一切関与せず、それらの実務は徳川家の番頭ともいうべき酒井家や井伊家などが家老職を担当した。
 だから会津で二百数十年つづいた会津松平家では、幕府の行政に参加したことはあっても、政治的な動きをしたことはなく、その感覚も持ち合わせていなかった。元来、会津藩は、伝統的にいわば生真面目すぎる藩風で、政治的な動きをしたことがなかった。
 しかし幕府が会津藩を選んだのは、藩祖以来尊皇の家風があったからである。
 この命が下ってから、容保は再々断っている。容保は自身が病がちで、かつ政治的には不才であり、さらに家臣は東北の僻地いるため、都の警備は困難を理由にあげた。しかし、幕府はじつに執拗だった。

       鶴ケ城石垣

「会津は一身の保全のみを考えている」
と心外なことまで言いはじめた。
 藩祖、保科正之の遺訓に、
「徳川宗家と存亡をともにすべし」
とあるため、やむなく西郷頼母、田中土佐の両家老の反対を制して、京都守護職を引き受けた。
 京都守護職は、伝統的な機関ではない。
 幕府の京における「非常警備軍」ともいうべきもので、政治的要素のつよいものであった。単なる市街の警備だけではなく、政治・機略・策謀という、伝統的に会津藩が苦手とする政治的活躍が必要な職務であった。
 すでに、京における長州藩や浪士たちが、公家とむすびついて、幕府の外交政策に反対し、騒擾を極めていた。 さらに薩摩藩もこれに首をつっこんで、その機略は端(たん)倪(げい)すべからざるものがあった。

       鶴ケ城 

 当時、尊皇思想が爆発的に流行していた。公家と結んで暗躍する長州志士、そして薩摩の志士などに対する政治的な策謀や機略が必要な職務であった。
 ともかくも、容保はその誠実な人柄で天皇の信任を得て、なんとか京都の治安を維持してきた。
 そのころ突然、内密に薩摩から申し出を受けて、薩摩と会津は同盟を結び、京都から長州勢力を一掃することに成功した。
 ところがその後に、秘密裏に今度は薩長同盟が結ばれ、一気に倒幕へと動き出したのである。
 会津は一時的に、京の公家対策で長州より劣勢であった薩摩に利用されたのである。
 最期の将軍、徳川慶喜は、機先を制するように「大政奉還」をし、政権を御所の中へ奉還してしまった。このとき慶喜は、新しい太政官政府が出来ても、人材がいないから、慶喜が首相に指名されると思っていたらしい。が、そういうことにはならなかった。

      鶴ケ城城内図

 こうして鳥羽伏見の戦いが起きた。
 が、初戦に負けると、兵力数では圧倒的に有利であるはずなのに、徳川慶喜はあっさりと大阪城へ引き上げ、さらには密かに江戸へ汽船で帰って、謹慎をしまった。密かに江戸へゆく汽船に、慶喜は松平容保も強引に乗せた。
 京都守護を任務としていた会津藩兵も、後を追って江戸へ戻って将軍の警備をしようとした。ところが、慶喜にとっては、会津兵が江戸にいては都合が悪い。
 謹慎すると宣言したのに、薩長と闘った会津兵が江戸にいては、太政官に反抗するとみられる。だから、江戸を去って、会津にもどれと指示した。
 太政官政府が、ともかく形だけ出来上がると、徳川御三家の水戸家、紀州徳川家、尾張徳川家なども、早々に太政官への帰順を示している。こうして、会津藩は、徳川慶喜からも見捨てられ、さらに身内の徳川家一門からも見放されてしまう。
 会津藩は、その後の悲惨な運命を当初から予感し、それを承知の上で凶のくじをひいたのかもしれない。 

        戊辰戦争後の鶴ケ城 

 明治維新というのは革命である。
 革命である以上、謀略や陰謀をともなう。
 会津藩は、倒幕最後の段階で、薩長の謀略で革命の標的、つまり「朝敵」にされ、会津城攻めの口実とされ、明治維新の革命の総仕上げの舞台装置に使われた。
 革命側としては、本来、幕府の統領である将軍徳川慶喜の首をはねることで、革命の総仕上げとしたかった。
 ところが頭のよい慶喜は、早々と政権を朝廷に返す「大政奉還」を宣言し、いちはやく江戸で謹慎し、朝廷への恭順をしめし謹慎してしまった。
 慶喜は汽船で江戸に帰るとき、松平容保にも同行を強要した。さらに、その後、勝海舟と西郷隆盛との会談で、江戸城無血開城が決まった。
 倒幕側の薩長軍は、振り上げた拳の振り下ろしに困った。結局、会津を攻めることが、革命の総仕上げになった。

    戊辰戦争後の鶴ケ城の本丸

 慶応4年(1868)、の官軍による会津城攻防では、籠城戦は一月間も持ちこたえた。が、奥州列藩同盟の藩も相ついで降伏し、ついに容保も官軍側に投降して開城した。
 しかし、会津人は、戊辰戦争の後、凄惨な運命をたどらされた。藩ぐるみ流刑に処するようにして、下北半島にやり、斗南(となみ)藩とした。この地は実質七千石ぼとしかなく、その寒冷の火山灰地に、一万四千二百八十六人が移った。赤貧というような、なまやさしいものではなく、文字通り草根木皮を食べるという生活だったらしい。奥羽列藩同盟で最後まで官軍と戦った庄内藩でも、会津藩ほど悲惨な処置は受けていない。



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 会津郷土料理

 会津での晩餐は会津郷土料理と決めていた。事前に「渋川問屋」という郷土料理店を見つけていた。
渋川問屋は、明治時代に建築された蔵や、大正時代の木造家屋など、配置も当時のままで、会津商家の大店の面影をとどめている。
 そんな店で、古希の誕生日祝いの郷土料理を食べたいと計画した。
 ホテルからタクシーに乗り、七日町の「渋川問屋」へ向かった。
 正面の暖簾をくぐって中へ入ると、中庭があり、奥へ通じる石畳がある。右手にも格子戸の家屋があった。

      会津郷土料理 渋川問屋

 予約もないから少し不安もあったが、奥へ進みかけると、右手の帳場のような引き戸が開けられ、中年の和服姿の女性が顔を出した。
「予約がないけど宜しいか」と問うと、「どうぞ右手に回って下さい」という。
 格子の建物を回るようにして行くと、また大きな黒塗りの格子戸があった。
 ここが「大漁の間」の入り口で、フリーの客を受け入れる座敷であった。
 先ほどの中庭の玄関左手には、ロマネスク調の洋風な喫茶レストランがあり、まっすぐ行くと団体用の大広間や、離れがある。さらには旅館として宿泊までできるという大きなものであった。
 いくつかの建物を連結したような造りであった。
 「渋川問屋」は、その名から想像がつくが、元々商家でいわゆる町屋造りの建物であった。かつては海産物の卸問屋であったという。
 相当大きな商いをしていた問屋で、明治から大正時代にいくつかの町屋造りの棟と中庭には蔵もある。
 戦後の流通革命のころに廃業し、旅館と料理屋専業に転換したのであろう。


     会津郷土料理 渋川問屋店内
 
 ともかく広い座敷に上がり、祭り御膳「亀」3150円を注文した。
 郷土料理専門の店だから、いわゆる単品はなく、すべてコース料理である。今日は古希という節目の誕生日だから躊躇はしなかった。
 このコースでは、食前酒・棒タラ煮・ニシンの山椒漬・こづゆ・ニシンの天ぷら・小鯛の寿司・ ニシンの昆布巻・会津牛カットステーキ・そば粒がゆ・季節の混ぜごはん・水菓子が付いていた
 手早く、最初の小鉢が運ばれてきたが、最初にビールを注文したはずだが、肝心のビールが出てこなかった。「生ビール」を注文すると、「瓶しかありません」という。
「それでも結構です」というやりとりをしたが、「それじゃ結構です」と聞き違ったのであろう。

      会津地酒 宮泉

 結構という言葉は曖昧で、「申し分のないこと。よいこと」の意と、
もうたくさんです、つまり断り文句ともなる。普段は上品に断る場合に使っている場合が多いだろう。
 手際よく次々と小鉢が運ばれてくるが、祝いの膳に酒がないではさまにらない。別の仲居が横を通ったとき、会津の地酒を注文した。
 冷酒でほどよく冷えていた。ようやく乾杯をして料理を愉しんだ。
 内陸の会津では、魚介類の保存技術が発達しためか、意外に魚料理が多かった。
 普段日本酒を飲む習慣がないが、こうした手の込んだ郷土料理には日本酒がじつに合うことを知った。
 それも冷酒だったから、久しぶりに日本酒が旨いと感じた。
 






 ■こづゆ

 会津地方には伝統料理「こづゆ」がある。NHKドラマの八重の桜でも、「こづゆ」を作るシーンがあった。
 こづゆは、干し貝柱で出汁を取り、まめふ、人参、しいたけ、里芋、キクラゲ、糸こんにゃくなどを加えた、薄味のお吸い物。
 山の幸と海の幸を取り合わせた、薄味仕立ての汁で、会津塗りの椀で食べる、会津地方や郡山地方の郷土料理である。
 汁物ながら、汁より具が多かった。

       こづゆ

 会津地方は内陸の盆地であり、海の物が手に入りにくい。このため食材は乾物が中心となる。具材は、平野部では貝柱を、山間部ではするめを使うことが多いらしい。
 七または九種類の具材を使用するが、この数は、奇数で縁起が良いとされる。
 名前の由来は「小吸物(つゆ)(汁)」から変化したもので、かつては「かいつゆ」とも呼ばれていた。また、南会津地方ではこづゆを「つゆじ」と言うこともあるらしい。
 江戸後期から明治初期にかけて、会津藩の武家料理や庶民のごちそうとして広まり、正月や冠婚葬祭など、祝いの席での「もてなし料理」となった。

       渋川問屋店内廊下

 当時にしては贅沢な食べ物だったが、何杯おかわりしても失礼にならないという習慣があった。
 まさに「最高のおもてなし」という、会津人の心意気を、垣間見ることができる料理でもある。
 渋川問屋で供された郷土料理は、華美ではなく、伝統的な手法で、自然の味を生かしながら、時間をかけて作られたもので、田舎風の郷土料理でありながら、どこか品性の良さを漂わせていた。冷酒とともに、よく味わったから十分に満足のいく料理であった。
 トイレに行くと、中庭が見え、廊下に連結された蔵を利用した座敷が見えた。トイレも清潔で風雅さを感じる造りであった。


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 ■七日町通り

 ちょうど一時間ほどで、コース料理は終了した。時間はまだ八時半で、少し飲み足りない気分もあったが、料理が尽きたので会計を済ませた。
 ほとんど同時に、他の客も席をたち、蔵の座敷の団体も席を立っていた。どうやらこの店の閉店時間だったらしい。
 外へ出ると人通りがほとんど無く、観光地なのに街の明かりも少ない。
 渋川問屋は七日町の駅まえに近く、会津市街の七日町通りは、もっとも繁華なところだと勘違いしていた。

      会津若松七日町駅

 観光案内では、「会津若松市の七日町通りは、風情のあるお店が建ち並ぶおしゃれな通りです。七日町通りの歴史は古く、時代を感じさせる建物が数多く建っています」
 などとあったから、食事の後は「七日町散策」を考えていた。
 またこの地域は、町並み保存地域でもあるらしく、明治・大正期の商家や町屋が多く残されている。
 七日町通りは、会津五街道のうち米沢、越後、などへの主要街道で、また城下町の重要な通りでもあり、江戸時代から昭和時代にかけては、会津一の繁華街として賑わいを見せていた。
 その名残りは、古い蔵や洋館、木造町家の建物に見ることができる。
 ともかく、会津観光の中心に来たと思っていた。それもまだ夜八時半を過ぎたところである。
 が、現実には街は暗く、ほとんどの店は閉店していた。
 近所のスーパーが夜10時まで開店している環境に住んでいるから、一瞬キツネに化かされた気分であった。
 八時半ともなれば、観光地ではみなホテルに入る。だから、店を閉店するのは当然といえるかもしれない。
 レトロな街の散策を諦めタクシーでホテルへ帰りたいと思ったが、そもそもタクシーが通らない。
 すぐ近くの七日町駅に行っても、駅前広場もなくタクシーもいない。たまに通るタクシーはすべて客を乗車させている。
 あわててスマホの音声入力で、タクシー会社を探そうと試みたが、うまくヒットしない。
 妻は七日町駅に行き、会津行きの電車の時間を確認し、20時52分の列車があるという。タクシーに拘った筆者は、まだ諦めきれずに少し歩いた。
 結局、あきらめて無人駅の七日町駅のホームにに入った。

     会津若松七日町駅ホーム

 誰一人いない小さなホームで、単線であった。まさかこんな超ローカルな鉄道を利用することになるとは、予測できなかった。
 今回の旅は、アクシデントが多い。
 その都度、妻に助けられたというのは、まさに我が人生のようでもある。
 列車は時刻通りに到着したが、一両だけでのワンマンカーであり、バスのように番号札で料金を支払う仕組みであった。
 この駅は、JR東日本の只(ただ)見(み)線の七日町駅であり、また会津鉄道会津線の七日町駅でもある。JR只見線は、会津若松駅から新潟県魚沼市までを結んでいる。

      

 会津鉄道は、西若松駅から、会津高原尾瀬口駅を結んでいる。が、この路線は、東武鉄道鬼(き)怒(ぬ)川(がわ)線とも相互乗り入れをしている。このため、会津若松から東武日光まで直通運転する快速列車が一日三本ある。
 ともかく、一時間に一本しか運行しない会津鉄道に乗車して、会津若松まで戻ることが出来た。 こうした事で、予定にない会津若松駅に立ち寄ることができた。


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 旧滝沢本陣

 朝食も摂らずに、今日も8時にはホテルをチェックアウトした。
 まずは白虎隊で有名な飯盛山の山裾にある滝沢本陣に向かった。
 左側に茅(かや)葺(ぶき)き屋根が見え、正門入口に「史跡旧滝沢本陣」の石柱があった。
 その手前の茅葺き母屋の横に、駐車スペースを見つけて入り込んだ。このため、正面にある冠(かぶ)木(き)門(もん)入口の受付を通らなかったため、受付から人が出てきて、入場料を受取った。 この駐車スペースは、江戸時代には高札場であったという。

       史跡旧滝沢本陣

  この史跡は、正式には「滝沢本陣横山住宅」で、国指定重要文化財である。
 ここは、若松城下から白河を経て、江戸に至る「白河街道」沿いにあり、滝沢峠の上り口にある本陣であった。本陣とは、大名や旗本、幕府役人、勅使、門跡などが使用する宿舎や休憩場所に指定された家のことである。
一般的には、宿場の有力者の家や、庄屋階級の家が指定された。
このため、貴人のみが通る御入御門と御座之間、御次之間などがあるが、当時の姿のまま残されている。

      旧滝沢本陣御入御門

 この屋敷の亭主が滝沢の郷頭(ごうかしら)を勤めた横山家で、代々本陣を勤めた。
 現存する建物は延宝6年(1678年)に建てられ、座敷を除く主屋の半分が土間となっているなど、近世の農民住宅の形がよく残されている。
主屋は福島県の民家ではきわだって古く、本陣座敷は、文化文政期に建て替えられているが、類例が少ないものとして、昭和46年に重要文化財に指定されている。
 
      旧滝沢本陣内部床の間


 白河街道に面していたことと、滝沢峠の上り口にあるため、会津藩主が白河街道を通る際の、休息所として使用された。その後、歴代会津藩主の参勤交代をはじめ、領内巡視、藩祖保科正之を祀る土津神社の参詣の際に、休息所として利用された。

 この本陣は、会津戦争(戊辰戦争)の時には陣屋となった。
 藩主松平容保は前線激励のため、自ら滝沢峠の麓に本陣を構えて、藩主親衛隊の白虎隊を率いて滝沢口で指揮をとった。
 慶応4年8月22日、会津藩の予想に反し、新政府軍の主力は、手薄の母成峠(ぼなりとうげ)を攻撃し会津防衛線を怒涛のように突破した。新政府軍の電撃的な侵攻の前に、各方面に守備隊を送っていた、会津藩は虚を衝かれた。


      白虎隊と新政府軍の進軍経路

 この報に接した容保は、母成峠を超えて城下に侵攻してくる新政府軍を、最期の防衛戦である戸ノ口原で食い止めようとした。が、相つぐ敗報と、前線から援軍を求める急使がきて、たまりかねて、容保の親衛隊である白虎隊にまで出撃を命ぜざるを得なかった。
 白虎士中二番隊42名は、この滝沢本陣から、戸ノ口原の激戦地に出撃した。
 この中、生き残りの19名が飯盛山に籠もり、市街の火事を鶴ケ城の落城と思い込み、むなしく自刃した。
 予備兵力であった白虎隊までも投入したが、怒涛の新政府軍を食い止めるには、その兵力数と兵器の差がありすぎた。容保はついに城内に引上げ、本営となった滝沢本陣は、新政府軍の攻撃を受け占拠されてしまった。

       旧滝沢本陣の内部弾痕跡


 こうして新政府軍は8月23日、若松城下に殺到する結果となった。座敷には当時の戦闘による弾痕や、刀傷などが生々しく残っている。この日から約一月に渡る籠城戦が繰り広げられた。現在の本陣跡は、いわば博物館として、歴代藩主の愛用した身回り品、参勤交代の道具類、古文書などが保管されていた。








 さざえ堂

 旧滝沢本陣を出て国道を左折すると、すぐ左側に飯盛山があり、右手に市営の無料駐車場があった。ここは会津若松の観光の中心なのであろう。土産物店などが、軒を連ねていた。
 つぎの目的は国重要文化財の「さざえ堂」の見学であった。別段、白虎隊の墓を見るつもりもなく、とても珍しい建物の「さざえ堂」だけは話の種に見学したかった。
 が、「さざえ堂」は飯盛山の中腹にあった。
 やむなく有料のエスカレーターを乗りついだ。

       飯森山のエスカレーター
 
 通称さざえ堂は、寛政9年(1796 年)の建立で、高さ16・5m、六角三層の仏堂で、正式名称は旧正宗寺(しようそうじ)三匝堂(さんそうどう)という。三匝堂(さんそうどう)という名は、「匝」は「めぐる」という意味である。 この堂に入れば、上りに一回転半、下りにまた一回転半、合計三回転巡ることになるからこの名が付いたという。

       

 この堂内部には、スロープの内側に沿って、かつては西国札所の三十三観音像が祀られ、一度入ると、観音巡礼を終えたことになったという。
 いわば江戸時代における庶民のための身近な巡礼の建物であった。
 松島の瑞巌寺にもやはり、西国札所の三十三観音像が祀られていた。
 江戸期には西国三十三観音巡礼が憧れであったらしい。その東北庶民の願いを叶えたのが、このような一箇所で観音巡礼を果たせるというお寺であった。
 飯盛山に建てられていた正宗寺(しようそうじ)はいまはないが、創建当時に住職であった僧が考案した仏塔である。堂には郁堂(いくどう)和尚の筆になるの扁額が残っている。
 さざえ堂は、仏堂建築としては、他に例を見ない特異なもので、六角形平面をもち、六本の心柱(円柱)と、同数の隅柱(六角柱)を駆使して、二重螺旋のスロープで作り上げられている。
 上りと下りが、全く別の通路になっている一方通行の構造で、正面から入ると、右回りに螺旋状のスロープで登り、頂上の太鼓橋を越えると、降りの左回りスロープとなって背面出口に通ずる。
 世界にも珍しい建築様式を採用したことで、建築史上その特異な存在が認められ、平成8年に国重要文化財に指定された。

        さざえ堂の登り廊下

 1780年代より、当時の民衆の観音信仰を背景に、江戸の羅漢寺をはじめ、関東を中心として全国各地に、「さざえ堂」と呼ばれる建物が建てられていた。
 どの「さざえ堂」も観音像を安置し、庶民が、一度に観音巡礼を果たすことができるという信仰があった。
 有名なところでは、群馬県太田市や埼玉県本庄市に現存するが、会津さざえ堂の構造とは異なり、平面は方形で、中二階を用いた三階建てになっているという。
 明治の廃仏毀釈で正宗寺は廃寺とされ、また神仏分離令によって三十三観音像は取り外された。

        さざえ堂の最上部の天井

 明治23年に、会津有志が広く寄附を集め、荒廃したさざえ堂の大修理が施され、堂内の観音像があった場所に、白虎隊十九士の霊像が安置された。
 のちに会津藩の道徳の教科書であった、第八代藩主松平容敬(かたたか)の編纂した「皇朝二十四孝」の絵額が掲げられ、現在に至っている。
 昭和40年(1965)日本大学理工学部教授、故小林文次博士の学術実測調査が行われ、会津さざえ堂は「世界唯一の二重らせんスロープを持つ木造建築」であり、「模倣ではなく天才的な創造」と評価された。
 また最近、東京大学の建築学術調査があり、「会津さざえ堂の構造性能評価」が行われた。その結果、「螺旋構造建築による、構造的歪みによる「抜け出し」という現象(柱と梁が外れた状態)が、多く見受けられた」と報告している。
      

        さざえ堂外観

 以下は余談ながら、飯盛山やこの「さざえ堂」は現在、飯盛家の個人所有である。もともと飯盛山正宗寺は、歴代の領主より宗像神社(現厳島神社)の別当として飯盛山を拝領し、神仏混合によって守護されてきた。
 正宗寺最後の住職は、現飯盛家の当主の曾祖父に当たる僧宗潤であり、後に名を飯盛正隆と改めた。飯盛正隆に子がなく、姪の婿であった佐藤正信を養子とした。明治初年の神仏分離令に際し、檀家のない寺であったから廃寺し、正信は厳島神社初代の宮司となった。
 これにより、仏殿は神殿となり、本尊阿彌陀仏、さざえ堂三十三観音像、庭前の唐金大仏等は、他寺院に移転された。

        さざえ堂

 また、飯盛山の所領は、新政府から地券により購入、登記を受けている。
 この資金を調達するため、飯盛家は貧窮を極めた由であるが、円通三匝堂、宇賀神堂は本宅の付属の建物として、境内は宅地として所有管理を認められた。
 また厳島神社は、郷社の社格を与えられ、その境内は村役場の管理する所となった。 第二次大戦後、本神社は、宗教法人神社庁の系列下で、滝沢部落の崇敬人総代以下が守護管理している。

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 京都守護職始末

 城下町での火災を、若松城の落城と誤認し、白虎隊士の一部は飯盛山で自刃した。このとき、最年少の飯沼貞吉のみは蘇生し、昭和6年まで生き抜いた。
 飯沼貞吉は嘉永7年生まれで、白虎隊編成時はまだ15歳だったが、長身だったため16歳と年齢を偽って入隊をゆるされている。
 一方、同年生まれの従兄妹(いとこ)の山川健次郎は、幼年白虎隊だったため、従軍出来なかった。

      戊辰戦争後の鶴ケ城

 健次郎は山川浩の弟で、二人の父は会津藩仕置き家老を務めた家系である。
 兄の山川浩は、容保が京都守護職についたとき、京で容保の側近を命ぜられている。
 戊辰戦争ののち、会津人の多くは凄惨な運命を辿らされたが、山川浩は、かろうじて土佐出身の軍人、谷(たに)干城(たてき)に拾われて軍人となった。のちに高等師範学校の校長になり、さらには貴族議員になり恵まれていた。
 しかし、容保の側近をしていただけに、容保の無念さを思つづけ、その晩年に旧藩の雪辱をすべく『京都守護職始末』という遺稿を残している。

             京都守護職始末

 鶴ケ城を開城して容保が降伏してから、藩士と藩士団は城外の猪苗代と塩川に謹慎させられた。このとき、会津が亡んでもその会津魂の種子は残すべきであるとして、逸材の二人の少年を選んで脱出させた。二人の少年とは、山川浩の九歳下の健次郎と、小川亮だった。
 山川健次郎は明治3年、北海道開拓使の留学生にえらばれ、渡米し、エール大学で物理学を学び、明治期の物理学のパイオニアとなった。
 帝大の教授を経て東京帝大総長、ついで九州帝大総長、再び東京帝大総長にもどり、京都帝大総長を兼ねた。
 余程の徳望の人であったことは、この職歴でも察せられる。
 しかし日常、白虎隊の話になると、涙のために言葉が出なかったとわれる。
 その兄の浩が晩年、『京都守護職始末』を書きはじめたとき、健次郎は、東大の東大史料編纂所の旧松前藩士の池田晃淵に、史料探しや原稿の校訂を依頼している。
 中途で浩が病死してからは、健次郎と池田晃淵の手で稿を完成させた。

            山川健次郎
               山川健次郎

 原稿は明治35年に完成した。が、健次郎は、この原稿を兄の浩と親交のあった土佐人の谷干城と長州人の三浦梧楼にみせた。
 谷は結構じゃないかと言ったらしいが、長州人の三浦は難色を示した。一長州人が反対したというだけで、健次郎は九年も待った。明治期の会津出身者の立場が象徴的に現れている。ようやく明治44年、非売品として、旧藩の者だけに配るという形で刊行された。ところが、わずか二年で三版まで版をかさねた。はやくも古典ののような評価を受けた。こうして、松平容保や会津人の雪辱を果すのに、長い歳月を要したといえる。


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 会津武家屋敷

 
 
       会津武家屋敷中庭

 
 武家屋敷で最初に撮影した写真の時刻は、ちょうど10時であった。
 会津武家屋敷とは、藩家老西郷頼母屋敷の復元だけと思っていた。
 訪れてみると、家屋敷の他にも重要文化財の旧畑中陣屋、茶室、藩米精米所、会津歴史資料館などと、会津、福島のいいものを集めた 「郷工房 古今」・会津の郷土料理を味わえる「御食事処 九曜亭」などで構成されていた。
 まさに会津歴史観光のための、総合ミュージアムパークであった。
 このために想像していたものより、規模が大きかった。会津若松市が、いかに歴史観光に力を入れているか察しがつく。

       会津武家屋敷お成りの間

 二年半前に東日本大震災と津波被害、さらには福島の原発事故などで、東北全域で観光客が激減した。
 ところが、今年はNHKの大河ドラマ「八重の桜」で、会津観光に人気が高まり、例年の150%も増加しているという。
 会津には仕事でも全く縁がなく、落ち着いた城下町のイメージがあった。
 また戊辰戦争では、明治維新という革命の大義名分に利用され、謂われのない罪を着せられ会津戦争では、まさに政治的に生け贄にされた。
 そんな会津の街を歩き、往事をしのび、北方ラーメンでも食べたい、と漠然と思い続けてきた。

 見学通路の表示に従って行くと、まず「旧畑中陣屋」があった。
 かつて矢吹町畑中にあった、江戸時代の代官陣屋で、明治以降は住宅として使用された後、「会津武家屋敷」の敷地内に移築復元された。
 この陣屋は天保年間、幕府領浅川陣屋から分かれて、新たに旗本領になった時に造られた代官陣屋である。徳川幕府直参五千石の旗本、松平軍次郎の代官所として七ケ村を支配していた陣屋の建物である。

       会津武家屋敷内部

 武家屋敷としては一般的な書院造りで茅葺き、玄関は唐破風が付いている。
 裏側に回ると雁行(かりこう)配置になっており、数寄屋の影響も感じられる。
 福島県矢吹町から移築復元されたもので、福島県の重要文化財に指定されている。
 明治維新後に、岡崎家に払い下げられ、住居として何回か改造された。
 昭和49年に現在の所有者が譲り受け、「会津武家屋敷」に、陣屋部分が移築復元された。
 明治以降、多くの城郭は破壊され、旧陣屋の廃却を進めたため、現存する遺構はきわめて少ない。
       会津武家屋敷

 明治初期に地元の有力者に払い下げられたために、今日まで残されている。
 会津戦争で、会津城下の武家屋敷は、武具、家財と共に殆ど焼失している。このため「旧畑中陣屋」を移築したらしい。
 西郷頼母の家老屋敷は、二年掛けて復元されたものである。
 西郷頼母は、会津松平家の譜代家臣で、代々家老職を努める千七百石取りの家柄である。
 その家老屋敷は、ケヤキ、ヒノキ、スギ材をふんだんに用いた壮大な和風建築は、敷地面積二千四百坪、建築面積二百八十坪で、38の部屋があり、その畳の数は三百二十八枚に及ぶ。会津若松市では、二年の歳月をかけて、追手門前にあった家老西郷屋敷を復元した。
 見学できる主なものでは、表門、表玄関、御成り間、雪隠、茶室、槍の間、客待の間、表居間、次の間、風呂場、台所、女中部屋、裏玄関などがある。

        会津武家屋敷玄関式台


        会津武家屋敷内部
 

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 奥の細道 那須の段
   
 芭蕉が奥の細道の旅のなかで、最も長く滞在したのが、栃木県の那須である。
 約14日間も逗留している。
 那須の黒羽には、知り合いの館代浄坊寺、余瀬にはその弟の桃翠がいた。特に桃翠は芭蕉と同じ俳人である。これらのことが、最大の理由であろう。
 もう一つの理由は、「白河の関」が目と鼻の先にあったことである。この関を越えることは、「みちのく」に踏み入ることを意味する。
 この当時ですら、まだ「みちのく」がよく知られていなかったようである。
 芭蕉は、那須の地で、異国に旅立つような思いで、「みちのく」への旅をおもんばかっていたのであろう。白河の関を越えて、みちのくに踏み入るべきか、ここで引き返したほうがよいか、迷いを吹っ切るのに、相当な時間が必要であったと思われる。
 当時は、関東からみても 「白河以北」は未知のくにでもあったらしい。
 夏山に 足駄を拝む 首途(かどで)かな


      奥の細道那須の段




 奥の細道 白川の段

 「心(こころ)許(もと)なき日かず重るまゝに、 白川の関にかゝりて、旅心定さだまりぬ。
 いかで都へと便求(たよりもとめ)しも、断也(ことわりなり)。中にも此関(このせき)は、三関(さんかん)の一つにして、 風騒(ふうさう)の人
心をとゞむ。秋風を耳に残し、紅葉(もみぢ)を俤(おもかげ)にして、 青葉の梢(こずえ) 猶(なお)あはれ也なり。
 卯の花の白(しろ)妙(たえ)に、 茨(いばら)の花の咲(そひ)て、雪にもこゆる心地ぞする。
 古人、冠(かんむり)を正し衣装を改めし事など、 清輔(きよすけ)の筆にもとゞめ置おかれしとぞ」


 卯の花を かざしに関の 晴れ着かな

    





 奥の細道 日光の段

 「卯月朔日(うづきついたち)、 御(お)山(やま)に詣拝(けいはい)す。 往昔(そのかみ)、 比の御山を二荒山(ふたらさん)と書きしを、 空海大師開(かい)基(き)の時、 日光と改め給ふ。千歳(せんざい)未来をさとり給ふにや、 今比御光(このみひかり)一天にかゝやきて、 恩沢八荒(おんたくはつこう)にあふれ、 四(し)民(みん)安(あん)堵(ど)の栖(すみか)穏(おだやか)なり。 猶(なお)、憚(はばか)り多くて筆をさし置ぬ。

 あらたふと 青葉若葉の 日の光
 
 剃り捨てて 黒髪山に  衣更え  曾良

          奥の細道日光の段


 曾良は河合氏(かわいうじ)にして惣五郎と云いへり。 芭蕉の下葉(したば)に軒を並べて、 予が薪(しん)水(すい)の労をたすく。 このたび松しま・象(きさ)潟(かた)の眺め共にせん事を悦(よろこ)び、 且(かつ)は羈旅(きりよ)の難をいたはらんと、 旅立(たびだつ)暁(あかつき) 髪を剃りすて墨(すみ)染(ぞめ)にさまをかへ、 惣五を改て宗悟とす。仍(よつ)て黒髪山の句有あり。
衣更(ころもがへ)の二字、力ありてきこゆ。廿余丁(にじゆうよちよう)山を登つて滝有あり。
岩(がん)洞(どう)の頂より飛流して百尺(はくせき)、 千岩(せんがん)の碧潭(へきたん)に落ちたり。 岩(がん)窟(くつ)に身をひそめ入りて、滝の裏よりみれば、うらみの滝と申伝(もうしつた)へ侍(はべ)る也なり。

 しばらくは 滝に籠こもるや  夏(げ)の初はじめ







 ■石鳥居

 「三仏堂」を急いで出て、めざす東照宮の表参道をあるいた。
 表参道をあるくと正面に大きな石鳥居がある。 
 普通の石鳥居と思ったが、この石鳥居は東照宮ができた翌年、元和4年(1618)に福岡藩の初代藩主・黒田長政によって寄進されたもので、福岡から海路で運ばれ、江戸からは川をさかのぼり、小山近くの乙女河岸で陸揚げされ、陸路人力で運ばれた。
 切り出された石は鳥居の形に15個に分割加工されて運び、東照宮では足場を組み上げピラミッドのように積み上げてできたものだという。運搬と組み立てともに難工事であったという。
 高さ9m、江戸時代に建てられた石鳥居では日本最大のものという。
 京都八坂神社、鎌倉八幡宮とあわせて、日本三大石鳥居と呼ばれている。
 そもそも鳥居は、宗教用語では結界と呼ばれ、俗域と聖域を仕切る印の役目がある。
 日光東照宮の鳥居は、「明神(みょうじん)」系で、全国の神社に多く見られる鳥居の形である。
 今年で三百九十五年もの歳月、ここに立ち続けている。国の重要文化財に指定されている。
      
       日光東照宮石の鳥居

  鳥居に掲げられている「東照大権現」の額は、後水尾天皇が書いたもので、これだけでも畳1枚分の大きさがあるというが、下から見上げるとそれ程大きいとは思えなかった。
 柱の太さ3.6メートル、柱の間隔が6.8メートルの石造り(花崗岩)の鳥居である。近年の平成になって西側の柱の方が周囲10センチ程太いということが、実測で判明している。
 さらにこの石鳥居は、15個の石材を組み合わせただけで何の固定もないが、笠木・島木(最上部に2段重なっている横方向の部分)の中を空洞化したり、重量と石の組み方によって全体の重量を巧妙に計算され、地震の揺れに耐えられるように造られている。
 実際に、1683年に起きたマグニチュード7と推定されている「天和の大地震」の際にも、1949年の今市地震の際にも崩れずに、わずかにズレが生じただけだったという。

 ところで鳥居と言えば「神社の象徴」ながら、鳥居の先の左隣にある五重塔は、仏式の建築物である。日光山内には、こうした神仏混淆しんぶつこんこうが多く見られる。

 
       日光東照宮石の鳥居



       日光東照宮石の鳥居の額









 ■五重塔

 石鳥居をくぐると、左手に五重塔がそびえていた。
 この五重塔は、慶安3年(1618)、福井の小浜藩酒井忠勝によって奉納されたものという。惜しいことに文化12年に火災で焼失したが、再び小浜藩主酒井忠進によつて再建されたものという。
 
         日光東照宮五重塔

再建されてからでも、二百年ほど経っており、やはり国の重要文化財に指定されている。
 この塔は三間四面の五重塔で、朱色を基調とし、金物を金、組物、彫刻を極彩色で彩る豪勢な造りで、東照宮入口にふさわしい姿をもっている。
 高さ35m、吊られた心柱により、高層建築の振動を調整する工夫がされているという。
 内部は吹き抜けになっていて、中心を貫く直径60㎝の心柱が、四層(四階)から、鎖でつり下げられ、その下層部は、礎石の穴の中で10㎝ほど浮いているという。

         五重塔断面図

 これは、耐震・耐風対策であり、また木材の伸縮などで生じる、ひずみに対応する構造である。
 その優れた耐震構造は高く評価されていて、東京スカイツリーも、この耐震システムを応用して設計されたという。
 また、五重塔の建つ場所の標高は634mで、奇しくも東京スカイツリーとほぼ同じ高さだという。
 初層から四層までは、屋根の垂(たる)木(き)が平行の和(わ)様(よう)、五層は扇の骨のように、放射状の唐(から)様(よう)になっている。

       日光東照宮五重塔
 
 初層を飾る十二支の彫刻は、子(=北)、卯(=東)など、それぞれ方角を表している。また初重(一層目)の内部の心柱(しんばしら)などは、金に彩られているという。
 今回、日光東照宮では、東照宮四百年年祭(2015年)のプレ企画として、特別公開が行われている。



 





 ■三神庫

 表門をくぐり、右から正面ににかけて鉤手のように建つ、校倉(あぜくら)造りの建物が目を引いた。 右から正面並ぶ校倉造りの三棟は、下・中・上の三神庫で祭器や渡御祭の装束が収められている。
 ここで目を引くのが上神庫の妻にある「創造の象」だ。 下絵が狩野探幽といわれ本物の象を知らずに描いたところからこの名前が付いたと云われている。
 向かって右側の象三日月形の目をした独特の表情、耳を結んだ金具。 左側の象体毛がマンモスの用にフサフサ、尻尾が3本。実物の象はともかく、 日本には既に仏教伝来の折普賢菩薩の乗り物として紹介されている。

      日光東照宮三神庫

 右から下神庫(じんこ)、中神庫、上神庫と並んでおり、三棟とも切妻、銅瓦葺きの校倉造りの高床で、内部には「百物揃(ひやくものそろえ)千人武者行列」に使用される千二百人分の装束や舞楽用の装束などが収められている。

      日光東照宮三神庫側面

 下神庫、中神庫、上神庫を総称して三神庫(さんじんこ)と称し、寛永12年(1635)に建てられている。写真の上神庫の屋根の妻(つま)面(めん)には、狩野探幽が下絵した「想像の象」の彫刻があり、「三猿」と「眠り猫」と共に、日光三彫刻の一つとされている。

      三神庫の象の彫刻







 神厩舎・三猿

 神厩((しんきゆう)舎は、御神馬(しんめ)をつなぐ厩(うまや)のことである。
 古来から、猿が馬を守るとされているところから、長押(なげし)上に、猿の彫刻が八面彫られている。

      新厩舎三猿

 古来から猿は馬を病気から守るとされ、室町時代までは、猿を馬屋で飼う習慣があったらしい。
 この神厩舎には、現在は神(しん)馬(め)は常駐せず、神に仕えるため神(しん)馬(め)が勤務してくる。
 勤務時間は午前10時から、午後2時までで、しかも雨や雪の日は休みという。
 この条件に合えば、神馬を見る事が出来る。この神馬は雄の白馬が条件で、現在二頭が飼育されている。
      新厩舎の白馬

 百物揃千人行列には神馬もお供をするという。神厩舎は本来、神馬を飼う場所で、東照宮で漆を塗っていない唯一の素木造(しらきづくり)りである。
 神馬は、神社に奉納された馬や、神事に使用される馬をさす。
 奈良時代から祈願のために、神社に馬を奉納する習わしがあり、中世の武士も、戦での勝利を祈願して、神馬を奉納した。
 小規模な神社では、その世話などが重荷となること、また献納する側でも、大きな負担となることから、絵馬などに置き換わっていった。また、等身大の馬の像をもって神馬とすることも多い。実際には等身大の馬の像が多い。
 ところで、奉納された馬には神が乗るとされている。

 さて、神厩舎の猿の木彫像の話にもどる。神厩舎北側から

 ①母と子 
 母と子の絆の強さを表現している。子は母を信頼して顔を覗き込む。母猿は警戒を怠らず、額に手をかざして周囲の様子をうかがっている。

       母猿と子

 ②三猿
 一番有名な三猿で「見ざる、言わ猿ざる、聞かざる」を表現している。
「幼少期には悪事を見たり・言ったり・聞いたりしない」がよい。とする見方もあるが、都合の悪いことがあれば、見ざる、聞かざる、言わざるで、処世術の教育ともいわれる。

       三猿

 ③独り立ち前の猿
 親もとを離れ独立した猿の姿で、まだ座っているが、飛躍を期している。
 じっくり腰を落ち着けて、これからの人生を考えなさいという表現。

       独り立ち前の猿

 ④青雲の志の猿
 独立した猿に仲間ができ、はつらつとした姿に変貌している。右の青雲が、志をもって空を見上げていることを暗示している。

       青雲の志の猿

 新たな展開 [神厩舎西側、左から]

 ⑤ 下を見る猿
 人生の崖っぷちで、励ましてくれる仲間がいる。崖っぷちに立たされた猿、しっかりと足元を見ている。その背に手をかけて前を見ている。

       

 ⑥恋愛中の猿 
 つがいの猿、一方は嬉しそうに、はしゃいでいるが、一方は将来を見つめている。

       恋する猿


 ⑦新婚の猿
 八面の中で、一番ゆったりした表情をしている。新婚の表現であろう。力を合わせて人生の荒波を乗り越える象徴であろう。

       


 ⑧妊娠した猿
 .やがて子が生まれ母になる。最初の場面に戻り、新たな人生が始まる。
 やっと親の苦労が分かるという暗示である。
 全八面の彫刻が猿の一生かと思ったら、出生から出産までであった。神殿だから、老いや死を避けたのだろう。子猿もやがて母猿になり、子供が生まれると物語は(1)の赤ん坊時代に戻る。 


      妊娠した猿

 3匹の猿というモチーフ自体は、古代エジプトにも見られるもので、シルクロードを経由して中国から伝わったものだという見解がある。
 また『論語』の一節に「礼にあらざれば視るなかれ、礼にあらざれば聴くなかれ、礼にあらざれば言うなかれ、礼にあらざればおこなうなかれ」があり、中国では今日でも妊娠中の女性は胎教の観点から「目は悪色を視ず、耳は淫声を聴かず、口は敖言を出さず」という戒めを受ける。
  
 朝鮮半島においても、結婚前の女性は「見ても見ぬふり、聞いても聞こえないふりをして、言いたくても言うな」と教育される。インドのマハトマ・ガンディーは常に、3匹の猿の像を身につけ「悪を見るな、悪を聞くな、悪を言うな」と教えたとされており、教科書などに「ガンディーの3猿」が掲載されている。
  
 また、アメリカ合衆国では教会の日曜学校などで三猿を用い猥褻なものを見たり、性的な噂を聴いたり、嘘や卑猥なことを言わないよう諭すことがある。「見ざる、聞かざる、言わざる」は日本には8世紀ごろ、漢語の「不見、不聞、不言」を訳した天台宗の教えとして伝わったものだという説がある。

 





 ■陽明門

 日光東照宮の象徴的な建築である陽明門は、東照宮の中門であり、最も有名な門で国宝に指定されている。
 三間一戸、八脚楼門、入母屋、四方軒唐破風(のきからはふ)、銅瓦葺きの楼門建築である。三神庫と同じ寛永12年(1635)に建てられ、門は北極星を背に、江戸城のある真南を向いて建っている。
 この楼門には天井画を備え、彫刻・彩色・飾り金具が施された絢爛豪華な建築で、日がな一日眺めても飽きないことから、日暮門(ひぐらしのもん)とも呼ばれている。

      陽明門

 名称の由来は、京都御所にある十二門の中で、東正門が陽明門と呼ばれているところから授かったとされている。
 正面唐破風下には、元和3年(1617)に後陽成天皇から下賜それた「東照宮大権現」の額が掲げられている。
 陽明門は、最高の彫刻技術者が集められ、その精魂がつぎ込まれている。
 柱は全部で十二本、胡(ご)粉(ふん)が塗られ、渦巻状のグリ紋地紋と、鳥獣、草花が彫られている。特に、裏側の左手二番目の柱は、「魔除けの逆柱」と呼ばれ、グリ紋の向きが逆で、「完成した瞬間から崩壊が始まる」という古事から、わざと未完成の部分を残している。
 龍、唐獅子、麒麟などの霊獣、動植物、人物など、見事な彫刻が隙間なく施されている。その種類や配置にすべて意味が込められているという。
 陽明門の彫刻の内訳は、霊獣194、植物159、鳥類71、人物42、雲18、水波17昆虫7の合計508体に及ぶ。

      陽明門の彫刻

 唐子や聖人・賢人などの彫刻は、中国の故事・逸話を題材にしたものが多く、家康の教えや理想、平和への願いを表しているらしい。
 屋根の上辺には魔除の鬼瓦が据えられいるが、耐久性を持たせるため、銅版の上に金箔を厚く貼っているらしい。

      陽明門の唐獅子

 軒下の扁額「東照大権現」は、75歳で生涯を終えた徳川家康公へ、朝廷が送った神号である。 東照宮の建物は、すべてきらびやかな極彩色が印象的だが、実際に用いられた色は、 白・黒・金・朱・群青・緑青・黄土の七色だけという。絢爛豪華な門は、時を刻むように刻々と変化する光の具合によって、様々な変化を見せる。
 訪れた時の時間や、天候によって全く違う印象を与えるように造られている。なお東照宮は、徳川家康の御廟であるため、陽明門より先は、一般庶民は立ち入る事ができなかったらしい。
 
 

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 ■唐門
 
 唐破風屋根が特徴の唐門で、本社の正門で、東照宮では最も重要な正門である。
 その奥が拝殿と東照宮の本殿である。
 唐門は、桁行3m、梁間2m弱の小さな楼門である。
 全体が胡粉で白く塗られ、紫檀や黒檀で細工された寄木の昇竜・降竜が門柱に彫られ、その他様々な彫刻が施され、建物全体が工芸品のような美しさである。
 台輪(柱の上をつなぐ厚い板)の上に配置された人物の彫刻は、竹林の七賢人など中国の聖賢が彫られている。

     日光東照宮の唐門

 正面は「舜帝(しゆんてい)朝見の儀」が彫刻されている。
 一本のケヤキに四列27人の人物が彫られている。
 この古代中国の伝説上の皇帝、舜帝が残した「内平外成」の言葉から、いまの平成の元号が選ばれている。
 西の側面には、七福神のなかの大黒天、寿老人、布袋の彫刻が掛かっている。
門柱と透塀(すきべい)の境にある鶴のデザインは、日本航空のマークに採用されている。
 陽明門に次いで、彫刻の多い楼門である。

      日光東照宮の唐門の彫刻

 彫刻の数は、柱などに嵌め込まれた小さな花形の文様彫刻などを含めると、その数611にも及び、柱などの軸部は、すてに地紋彫りが施されている。
 門の上部の人物の彫刻は、古代中国の物語を彫刻によって再現している。

 中祭や大祭のとき、国賓級の人の参拝のとき以外は閉ざされている。
 屋根の上では、鋭い眼差し四頭の霊獣が本社を守っている。
 江戸時代には御目見得以上の幕臣や大名だけが使用できた。現在も正月や大祭などの祭典や、国賓に相当する参拝者しかくぐれない。

       日光東照宮の唐門の装飾








 ■眠り猫

 神(しん)厩(きゆう)舎(しや)から陽明門をくぐり、右手の東回廊の奥(おくの)宮(みや)(家康の廟)に行く通路の頭上に、「眠り猫」の彫刻がある。
 柱間の梁の上に、欄間の位置に取りつけられていた。想像していたより小さな彫刻であったから、表示が無ければ通り過ぎてしまうほどである。

      眠り猫


 この有名な眠り猫については、さまざまな伝説と解釈がある。
 東照宮の建物には、多様な動物の彫刻がある。これらの動物のほとんどは平和を象徴するものとして描かれている。
 「眠り猫」についても、日光の日(ひ)向(なた)で、安全で心地よく居眠りできるほど平和なところを象徴しているとされる。「眠り猫」の裏面には、雀が舞っている彫刻がある。
 小さな雀は、猫に怯え飛び立つのが普通ながら、「猫も寝るほどの平和」で、安心して、雀が舞っている。つまり戦国時代が終わり、徳川政権という安泰な時代になった、という平和のシンボルとして考える説が有力である。

       眠り猫

 別の解釈では、奥社入口を護る「眠り猫」は、前足をしっかりと踏ん張っている事から、実は家康の廟を護るため、寝ていると見せ掛け、いつでも飛びかかれる姿勢をしているともいわれる。さらには、廟の入り口だから、「鼠一匹、不浄なものは通さない」という説もある。


       眠り猫


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 日光東照宮の沿革

日光東照宮は、初代将軍徳川家康を御祭神とした神社である。
 陰陽道に強い影響を受け、本殿前に設けられた陽明門と、その前の鳥居を中心に結んだ上空に、北辰(北極星)が来るように造られているという。
 また、真南が江戸城本丸の方位を示しているとされている。
 さらに、主要な建物を線で結ぶと、北斗(北斗七星)の配置と寸分違わぬよう設計されているという。このため、陽明門の前辺りが、気学における四神(しじん)相(そう)応(おう)の土地相といわれている。

       日光東照宮の石の鳥居

これらの陰陽道の考え方は、中国や韓国の宮殿や廟の位置にも配慮されている。
 ただし、厳密に経緯度を測定すると、江戸城本丸から日光東照宮本殿への方位角は、6度43分ほど西に振れている。
 およそ南北の位置関係にあると言えるが、江戸時代初期の、天文学的方位測定では、かなり精度があったともいえる。
 
       日光東照宮の境内

 ところで、家康が日光に祀られることになったのは、家康本人の遺言とされている。
 日光山は、奈良時代の末、勝道上人によって開山され、四本龍寺が建てられ、日光(二荒)権現もまつられた。
 鎌倉時代には、頼朝の寄進などが行われ、関東の一大霊場として栄えていた。鎌倉幕府と将軍家の守護神として、三山(男体山・女峰山・太郎山)、三仏(千手観音・阿弥陀如来・馬頭観音)を信仰の対象として一大霊場として発展した。
 室町時代には、所領十八万石、五百におよぶ僧坊が建ちならんでいたという。
 こうした日光山信仰を背景に、家康は「遺体は久能山に納め、(中略)一周忌が過ぎたならば、日光山に小さな堂を建て祀れ。八州の鎮守とならん」
と遺言したという。

       日光東照宮境内図

 家康が目指した「八州の鎮守」とは、日本全土の鎮守を意味している。
 家康は、不動の北辰(北極星)の位置から、徳川幕府の安泰と、日本の安泰を願ったという。
 こうして「東照大権現」として「東照社」に祀られた。
 現在のような規模になったのは、寛永11年(1634)、三代将軍、家光が華麗荘厳な社殿への大規模な造替を命じてからである。
 正保2年(1645)、朝廷から宮号が授与され、東照社から「東照宮」に改称した。
 国家守護の「日本之神」として、翌年の例祭からは、朝廷からの奉(ほう)幣(へい)が恒例となり、奉幣使(日光例幣使)が派遣されるようになった。
 三代将軍家光の時代になると、幕府の権威も確立し、諸大名にその造営を命じることが出来た。
 総奉行(日光造営奉行)は秋元泰朝、作事奉行は藤堂高虎、そして普請は江戸はもとより京・大阪からも集められた宮大工たちが、作事方大棟梁・甲良宗広一門の指揮の下で務めた。
 現在は、日本全国の東照宮の総本社的存在である。






 

 ■日光駅

 トヨタレンタカーは、日光駅の近くであった。
 先にJR日光駅で旅行鞄と妻を降ろし、身軽になって15時30分ころレンタカーを返却した。簡単なボディーチェックを終えて、無事に返却が終わったた。
 駅に戻ると妻が切符を買っていてくれたが、新幹線の切符はここでは買えないと勘違いしたのか宇都宮までであった。
 仕方が無いので窓口で切符をキャンセルし、改めて東京までの切符と、新幹線指定席をとってもらった。

     JR日光駅改札

 JR日光線の各駅停車で、45分も揺られ宇都宮駅で新幹線ホーム移動したとき、レンタカー返却の時、ETCカードを抜き忘れたことを思い出した。それも間もなく列車が到着する時刻であった。
 ETCカードも、クレジットカードで紛失すれば大変である。
 胸ポケットにレンタカー返却時の精算書があり、電話番号の表記もあった。
 結局、宅急便の着払いで送付を依頼した。今回は、何かとアクシデントが多い。 

      JR日光駅外観

 さて、レトロな日光駅舎のことに少しふれる。
 私鉄であった日本鉄道が、支線の終着駅として明治23年に開設している。
 当時から日光東照宮や中禅寺湖など、景観の美しい日光は、日本有数の観光地で、皇族や外国人観光客なども多く訪れる駅であった。
 明治39年に国有化さて国鉄の駅となり、日光駅の所属する路線は日光線と名付けられた。
 初代の駅舎は、質素な平屋建てであったが、大正元年(1912)、現在も使用されている二代目の駅舎が落成した。

       JR日光駅貴賓室


 ネオ・ルネサンス様式の木造洋風建築二階建で、二階には貴賓室が設けられていた。大正天皇も、ここで休息されたらしい。今も貴賓室は残されていて、見学することができる。このような大正時代の駅舎は、まさに文化財と言える。

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 東京スカイツリー

 今日は旅行最終日ながら、7時にチェックアウトした。
 いまや東京の新名所となつたスカイツリーは、開業以来人気沸騰で、旅行会社などが先にチケットを押さえるらしい。ネット予約も可能ながら、希望の時間に合わない。
 結局、朝8時までに並ぶと、30分くらいの待ち時間で入れるらしい。
 そんな事情で、ホテルから東京駅にはタクシーを利用した。朝が早いから渋滞は無く15分で八重洲口に到着。
 ただ、残念なことに朝から小雨が降っている。
 八重洲口のロッカーで旅行鞄を預け、身軽になって京浜東北線、地下鉄銀座線、東武のスカイツリー線を乗りついで、スカイツリー駅に到着した。
 駅の横に「ソラマチ」があり、ビルの横の長いエスカレータで一気に4Fにある当日券売場に到着。

      東京スカイツリーチケット売場

 チケット窓口は10ほどもあり、かなりの行列かと思ったが、行列はスムーズに流れて、簡単にチケットを手に入れることができた。
 8時15分であった。
 簡単にマックで朝食をと考えたが、
問題はこれからで、展望台行きのエレベーター待ち時間が凡そ30分という。時間が遅くなれば、それだけエレベーター待ち時間が長くなるだろう。
 朝食は後回しで、エレベーターに乗った。展望室は「340mの展望デッキ」と、「450mの展望回廊」の二つがある。最初のエレベーターは、340mの展望デッキ行きで、全員ここで降ろされる。
 この展望デッキを回遊し、希望者は追加料金を支払い、別の専用エレベーターで、450mの展望回廊へゆくという仕組みになっていた。

      東京スカイツリーエレベーター内部
       エレベーターの天井はシースルーで、速さを実感で来た
 
 高さ約634m、日本一の高さを誇る東京スカイツリーは、エレベーターも高性能である。
 展望デッキまで、日本一の速さの分速600mで到着する。
 所要時間はわずか50秒である。
一般的なマンションのエレベーターの10倍以上の早さである。
ところが、台湾の台北101には、分速1010m、時速に換算すると60㎞超のスピードのものがあるという。むろん日本製だという。
 さて、東京スカイツリーには、展望デッキまでのお客様用エレベーターは40人乗りが4台ある。展望デッキから展望回廊までは、40人乗りが一台で、分速は240mとある。
 収容人員は展望デッキは2000人、展望回廊は900人とあった。

      東京スカイツリー

 ところで、スカイツリーの開業初日、強風の影響を受けて、午後5時半頃、展望デッキ(350m)と展望回廊(450m)をつなぐエレベーターを一時停止したらしい。
この時点で風速毎秒15m以上の風が、数時間にわたって吹き付けていた。風速毎秒30m以上になると、自動的に速度を落としたり、途中で停止されてしまう。
 基準の半分ほどの風速だったが、途中での閉じ込めなどの事故を未然に防ぐための対策だらしい。
 このため、展望回廊にいた客約200人が一時的に下に降りられなくなってしまった。
 30分ほど経ってから、下に向うエレベーターのみ運転を再開したという。大きな混乱には至らなかったというが、強風の影響は大きい。
 ビルの中のエレベーターとは異なり、スカイツリーのエレベーターは特殊な構造で、風速毎秒30mくらいが限界だという。 つまりは、はるばるスカイツリー見学にやってきても、天候次第ではエレベータが停止されるということもある。
 我々は、小雨が降るという恵まれない天候ではあったが、強風は吹いていない。
 展望デッキ(350m)に登ったところ、以外に展望がきいていて、遠く新宿もなんとか見る事ができた。
 小雨はほとんど止みつつあり、雲の位置は高く、幸い霞もなかった。
 不幸中の幸いであった。

 8時30分ころには展望デッキに登ることができた。小雨降る天気で、まだ時間が早いから、想像していたような混雑はなかった。
 第一展望台は350m、345m、340mと三つのフロアがある。350mにはカフェ、345mにはレストランとオフィシャルショップ、340mにはカフェがある。営業しているカフェは、いずれも満席であった。

      東京スカイツリー内部1

 追加料金を支払い、空中回廊へ登った。
 空中回廊の直径は約40m、通路幅は約2・4m、二周する回廊の長さは約110mある。
 回廊は緩やかな勾配のスロープで、下界の景色を楽しみながら、ゆっくり歩くことができる。
 これは、設計者が拘(こだわ)ったもので、「いちばん高いところへ行くのは、自力で、自分の体を使って登ってもらうのが、ドラマチック」という思い入れから設計されているという。
 エスカレーターと待ち時間のあるエレベーターを乗りついで来るから、最期の展望台の頂点には、まるで空中散歩を愉しみながら、自分の脚で登って特別の感慨を味わって欲しいとの意図のようである。
 他にも、観光客のために細かい配慮がある。
 第一展望デッキは、インテリアの色調を深い色にし、エレベーターを降りた瞬間、下界の風景が飛び込んでくるような驚き感じることができるような配慮がある。
 急いで大きな展望ガラスに寄って、「あれが新宿だ」などと歓声をあげて愉しむ。
 空中回廊を含めて、第二展望デッキは、逆にインテリアの色調を白っぽくし、 外からの光と、回廊から見下ろす下界風景は、まるで空中を歩くかのような浮遊感や、空との一体感を楽しむことが出来る。

       東京スカイツリー

 ところで、スカイツリーの最大の目的は電波塔である。
 都心部には200mを超える超高層ビルが林立していて、電波が届きにくくなる。つまりデジタル放送の電波死角を解消することにある。
 が、同時に、「世界に類の無い新しい観光施設」としての顔もある。
 写真の展望デッキの最高到達地点は、451・2mだが、電波塔の頂点は
634mで、高さは世界一である。また634は語呂で武蔵とよめる。
 かっての武蔵国(東京、埼玉、神奈川の一部)を一望のもとに睥睨(へいげい)できるということでもある。

       墨田区航空写真


 さて、スカイツリーのエピソードである。
 電波塔として最大の特徴は三本脚で立っ経っていることである。
 なぜ3本脚なのか。
 スカイツーの建設されている土地は、隅田川、荒川、南側の鉄道路線と幹線道路、という三本の「都市軸」に囲まれた地勢の中央に位置している。それら「都市軸」の三つの面が「通り」に向き合うかたちで、つまり三角形のデザインが決定されたという。
 スカイツリーは、高さが634mで、 足元は幅が一辺約68mの正三角形をしいる。

 ところが、上部へいくにしたがって、底面三角形の「辺」の部分が、しだいに膨らんできて、三角形のおむすびのようになり、さらに果物のような、まるっこい平面形になって、 高さ約300mから完全な円形へと変化している。.
 つまりスカイツリーは、どの高さで輪切りにしても同じ形が無いという。
 構造的に横から見ると、三角形の頂点から伸びるラインは、地上300mに向かって凹状のゆるやかな円弧を描いている。いわゆる「ソリ」をつけられている。
 一方、三角形の三辺の真ん中辺りから伸びるラインは、それぞれが凸状のゆるい円弧を描いる。つまり「ムクリ」をつけられている。
一見、単純に見えるが、実は極めて複雑な曲面の構成となっている。
 凹状の「ソリ」や凸状の「ムクリ」を付けるのは、その曲面の持つ機能性と美的な感性から、日本の伝統的なデザインで好んで使われている。寺社建築や茶室、日本刀などに特徴的である。
 二種類の曲線(曲面)を持っているために、スカイツリーは、見る方向によって両側が「そり」に見えたり、右側が「そり」左側が「むくり」に見えたり、そのシルエットが変わって見えるのである。
 この事は、設計の段階から慎重に考慮されたひとつだという。
 東京の新しいシンボルとして、多くの人々が毎日訪れ、あらゆる角度から写真に撮られる。
 だから、単調で退屈な印象となってしまわないように、また634mの高さが、角度による形態的な変化をもたせ、景観としても変化をもたせ、威圧感のない心地よい佇まいにしたいと考えた、という。

       スカイツリーからの眺望

 もうひとつ世界に類例の無い、スカイツリーの地震対策と強風対策がある。
 タワーの場合は、地震だけでなく、風の影響がすごく大きい。その制振システムは、世界初のオリジナルなもので、「心柱(しんばしら)制振」と名付けられている。
 スカイツリーでは「質量付加機構」という技術を応用している。この技術は、構造物本体の揺れと、タイミングがずれて揺れる「おもり」を組み合わせることで、 全体の揺れを小さくするという原理である。
 質量付加機構で、「おもり」の揺れるタイミングを本体とずらし、二つの揺れる向きが逆となり、 全体の揺れを小さくするというシステムである。

「心柱制振」の原理は、「おもり」を、主体とは別個に揺らすことで、主体の揺れを抑えるという方法で、古くか五重塔などで使われている原理である。日光東照宮の五重塔の稿でもすこしふれた。

          心柱制震構造 

「関東大震災でも五重塔はまったく損害がなく、歴史上、五重塔が倒れたケースを知らない」と、建築家で建築史家の伊東忠太は記している。
 さらに阪神・淡路大震災のときも兵庫県にある15の三重塔は、ほとんど無損傷であったらしい。
 三重塔、五重塔は「多重塔」という形式で、その基本的な構成は、一重ごとに軸部・組物・軒を順次組んで積み重ねていくが、内部の真ん中は、相輪(そうりん)という塔の先端部を支持する心柱だけが一本でつながっている。
 つまり、真ん中は、吹抜けの中空構造で、そこに心柱が立っているという構造である。
 この心柱が、多重塔の本体と切り離れていることで、地震の揺れを心柱が吸収していると考えられている。構造力学的には、厳密な証明はできておらず、様々な説が唱えられている。
 しかし「五重塔」や「三重塔」が地震で倒壊した事例ないという事実もある。
 スカイツリーでは、「心柱(しんばしら)制振」を応用するため、吊り下げる「おもり」の役割を、中央の非常階段の円筒部分を応用することで解決している。
 ただ、古来の五重塔の心柱制震を単純に応用した訳ではない。
 非常階段の円筒部分は、鉄筋コンクリートの「柱」であり、周囲の鉄骨造部分とは基本的には、構造的に切り離されている。しかし五重塔の心柱とは異なり、高さ125m以下は、固定域として鋼材で塔体とつないでいる。
 可動域の部分は、1m程度の隙間があり、隙間にオイルダンパーというクッションを設け、「おもり」が塔自体に衝突しないように制御する。
 「おもり」を固定域と可動域に分けているのは、地震は一定の揺れ(定常波)ではないことから、多くの地震動波形のシミュレーション解析で、もっとも効果がある可動域を決定したという。
 この制振システムによって、地震時の揺れを最大五割低減することができたとしている。
 もうひとつ、塔の色である。
 スカイツリーだけは日本の伝統的な白色である、少し青みを帯びた白色である。一方、東京タワーや札幌テレビ塔などは赤色の鉄塔というイメージがある。
 こ航空法51条によって、高さ60mを超える建造物には、「航空障害灯」の設置と、骨組構造の建造物や煙突には、「昼間障害標識(赤白に塗装)」の設置が義務づけられている。それを赤白の塗装にする代わりに、白色航空障害灯(閃光を発する照明)をつけることで、赤白塗装を回避できている。

      東京スカイツリーのLED証明 

 スカイツリーの、わずかに青みのある白は、時刻、天候、季節の変化を映し出す。晴天の日中は、タワーが真っ白に見え、夕方には、タワーが真っ赤に見える。
 また、タワーは丸パイプでできているため、影が、鋼管の円に沿って、美しいグラデーションを描いている。タワーの色にわずかに青みがあることで、影もより美しく見える。逆に、陽が刺したときも、柔らかく白く輝く。設計者はこの白を「空を映すキャンパス」として イメージしたという。「空を映すキャンパス」には、1995台のLED照明が取り付けられていて、タワーを夜空へ映し出す照明演出にも成功している。




 

 ■
スカイツリーの設計

 このスカイツリーの設計は、世界的に活躍している日建設計である。
 しかし実際の建設は、大林組である。
 大林組は、日本を代表する最大手の建設会社だから、とうぜん設計部門を有している。
 にもかかわらず、発注者の東武鉄道が、設計だけを切り離して依頼したのは、日建設計の世界的な設計実績と、そのグローバルな設計思想であったであろう。
 また、スカイツリーを世界一高い電波塔として、東京の新しいシンボルとするだけでなく、後世に誇れる世界的なタワーにしたい、と願ったからであろう。

         エッフェル塔

 例えばパリといえば「エッフェル塔」をイメージする。1889年完成だから、124年ものあいだ、パリの顔で有りつづけている。
 大型建築物というものは、その都市と一体となり、新しい都市とその文化を形成してゆく。 建築は街となり、街は風景となり、風景は日々の生活の環境となる。
 人はその生きる環境から、さまざまな影響を受け、ときに順応し、ときに克服し、そして記憶に刻んで生きている。
 建築や街はそこに生きる人の内面に影響を与え、時代の文化に多くの影響を与えるのである。

 さて、日建設計のことである。
  創業は古く、1900年(明治33年)で、約2万件の大規模な建築設計の実績がある。また、国家プロジェクトレベルの、大規模開発の計画、設計等の実績もある。
 日建設計の起源は、「住友本店」臨時建築部である。
 これは、住友家の第十五代当主で、住友銀行創設者の住友吉左衛門氏が、商都大阪に図書館が無いこと恥とし、個人資産を投じて「中之島図書館」を建築するためであった。
 当時は、東京と京都にしか公立の図書館はなかった。完成すると大阪市に寄贈され「大阪市立中央図書館」となった。

        大阪中之島図書館

 ついでながら、「大阪市立美術館」も、その所在地は、住友家本邸のあった場所で、住友家から美術館の建設を目的に、日本庭園「慶沢園」とともに敷地を寄贈され、1936年(昭和11年)に開館している。
 住友本店の建築部としてスタートしたが、やがて独立会社となり、数多くの建築設計を手がけ、その名を知られるようになった。
 初期は、当然住友財閥系の建築が主体であったが、優秀な建築技師や設計者があつまり、現在は世界最大規模の建築設計会社となっている。
あくまで設計だけで、施工部門は持っていない。施工部門をもつと、その技術レベルとその意向を無視できなくなり、理想的な設計思想や、自由な発想での設計は難しくなるからであろう。
HPには「設計から街づくりや都市政策提言まで、また、企画段階から完成後にいたるまで、スケール、プロセス、地域性を含め、建築・都市と環境に関わるあらゆる要望にお応えする総合コンサルタントです」とある。

        東京タワー 

 主な建築物では、東京タワー、さっぽろテレビ塔、 神戸ポートピアホテル、成田国際空港旅客ターミナルビル、東京ドーム、さいたまスーパーアリーナ、東京ミッドタウンなどなども設計している。
 ところで東京タワーの時代に比べ、技術と建築材料は格段に進化している。
 地震発生の仕組みの研究は進み、コンピュータでの複雑な構造解析や設計ができ、詳細なシミュレーションも行えるようになっている。
 素材の「鉄」についても、 1889年完成のエッフェル塔では、「錬鉄」が使われている。1958年完成の東京タワーでは「鋼鉄」が使われている。東京スカイツリーでは、「高強度鋼材」が使われている。同じ鋼鉄ながら単純にいえば、約二倍の強度をもつという。
 さらにいえば、スカイツリーはその耐久性から300年以上も、東京の顔として生き続けるかも知れないのである。


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 不忍池

 スカイツリーに時間をとられ過ぎた。四階の土産売場で、孫たちへのプレゼントを買い、マックでようやく朝食にありついた。
 つぎの目的地、上野の旧岩崎邸を目ざさねばならない。
 メトロ銀座線の上野広小路駅で降りると、出口が松坂屋上野店の地下売場と直結していた。これ幸いと松坂屋のトイレを拝借したものの、地上にでると方向が分からない。
 大きな通りが交差していた。中央通りと春日通りである。
 あとで地図と照合すれば、春日通りを左に行けば、旧岩崎邸の入り口に近かった。
 頭では不忍池に近いという意識から、不忍池をめざして歩いた。

      不忍池

 不忍池は東京時代何度も車で通っているが、歩いた事はなかった。
 立ち寄ると、大きな蓮が群生していた。大きな蓮の花が咲いていて、しばし写真撮影。ところが、蓮池の表示板があった。しかし地図には不忍池と記されているから少し混乱した。現在の不忍池は、その中央に弁才天を祀る弁天島(中之島)を配している。ただ、池は遊歩のための堤で三つの部分に分かれていて、それぞれ、別名が付与されている。
 一面が蓮で覆われる「蓮池」、ボートを漕いで楽しめる「ボート池」、上野動物園の中に位置し、カワウが繁殖している「鵜の池」の三つである。その三つを合わせた総称が不忍池である。
 
      不忍池図

 話が飛ぶが、明治維新のとき、左手の本郷台地にあった加賀藩邸に据えられた官軍のアームストロング砲が、右手の上野山に籠もる彰義隊へ砲弾が撃ち込まれた。
 つまり、この不忍池の上を砲弾が飛び越えたのである。アームストロング砲の威力で、彰義隊は一日で壊滅したのは有名な話である。
 左手の旧加賀藩邸は、今は東京大学のキャンパスである。
 不忍池の名は、上野台地と本郷台地の間の地名が、忍ヶ丘と呼ばれていたことに由来する。
 縄文時代ごろは、この辺り一帯は東京湾の入り江であったらしい。
 その後海岸線の後退とともに取り残され、聖徳太子の時代ごろに池になったと考えられている。
 1625年、江戸幕府は、西の比叡山延暦寺に対応させ、この地に寛永寺を建立した。
 開祖である慈眼大師・天海は、不忍池を琵琶湖に見立て、竹生島になぞらえ弁天島を築かせ、そこに弁天堂を作った。
 当初の弁天島は、文字通り船で渡る島であった。
 1672年に石橋が架けられ徒歩で渡れるようになった。
 明治の初期までの池は、今よりもかなり広く藍染川も注いでいた。
 しかし明治17年、池を周回する競馬場の建設で埋め立てられ、ほぼいまの形が出来上がった。
 明治40年、東京勧業博覧会のために西に向かって観月橋がかけられ、池の中央を横断できるようになった。
 1929年に築堤工事が行われ、池が四つに分割され、のちに三つになった。現在は、東京都によって水質浄化のために層流多循環システム、などが設けられている。







 
旧岩崎邸

 旧岩崎邸庭園は、明治29年(1896年)、岩崎彌太郎の長男、三菱三代目社長の岩崎久彌の本邸として造てられた。
 往時は約一万五千坪の敷地に、20棟もの建物が並んでいた。
現在は三分の一の敷地となり、現存するのは 洋館・撞(どう)球(きゆう)室・和館の三棟である。
 木造二階建、地下室付きの洋館は、鹿鳴館の建築家として有名な英国人ジョサイア・コンドルの設計で、近代日本住宅を代表する西洋木造建築で、岩崎家の迎賓館として用いられた。コンドルは、工部大学校造家科(建築学科)で、西欧建築を教えると共に、鹿鳴館の他ニコライ堂、三井倶楽部などを設計した。教え子には東京駅や日本銀行を設計した有名な辰野金吾などがいる。

     旧岩崎邸正面

 洋館は17世紀の英国ジャコビアン様式の見事な装飾が随所に見られ、イギリス・ルネサンス様式や、イスラーム風デザインなどが採り入れられている。
 客室の天井装飾、床のタイル、暖炉などの細部には、イスラム風のデザインを施すなど様々な様式を織り交ぜている。
 洋館南側は、列柱の並ぶベランダで、コロニアル様式を踏襲し、一階列柱はトスカナ式、二階列柱はイオニア式の特徴を持っている。
 また、一階のベランダには、英国ミントン製のタイルが目地無く敷き詰められ、二階には貴重な「金唐革(きんからかわ)紙」の壁紙が貼られた客室もある。
 建設当時は、多くの部屋や廊下の壁面に金唐革紙が貼られていたが、現在当時の壁紙は失われている。

     旧岩崎邸内部1

 平成の修復に際し、二階の二部屋だけ金唐革紙が復元されている。
 岩崎久彌の留学先である米国・ペンシルヴァニアの、カントリーハウスのイメージ も採り入れられた。
 併置された和館との巧みなバランスは、世界の住宅史においても、希有の建築とされている。
 往時は、主に岩崎家の集まりや、外国人、賓客を招いてのパーティーなどプライベートな迎賓館として使用された。
 洋館と結合された和館は、書院造りを基調にしている

      旧岩崎邸和室

 完成当時は、建坪550坪に及び、洋館を遥かにしのぐ規模を誇っていた。現在は、洋館同様冠婚葬祭などに使われた大広間の一棟だけが残っている。
 施行は大工棟粱として、明治政財界の大者たちの屋敷を数多く手がけた、大河喜十郎と伝えられている。床の間や襖には、橋本雅邦が下絵を描いたと伝えられる日本画など障壁画が残っている。

      旧岩崎邸和室2

 現存する大広間を中心に、巧緻を極めた当時の純和風建築を見ることができる。
 今は失われた岩崎家の居住空間は、南北に分けられ、南に主人部屋、子供部屋などが置かれた。
 北には使用人部屋、台所、事務方詰所、倉庫などがあった。
 洋館と和館は船底天井の渡り廊下で結ばれ、和館を日常生活空間、洋館を公的な接客空間として使い分けられていた。

      旧岩崎邸撞球室

 別棟の撞球室(ビリヤード場)は、当時の日本では非常に珍しいスイスの山小屋風の木造建築で、洋館から地下道でつながっている。
 コンドル設計の撞球室は、洋館から少し離れた位置に別棟として建っている。
 全体は木造建築で、校(あぜ)倉(くら)造(づくり)り風の壁、刻みの入った柱、軒を深く差し出した大屋根など、アメリカの木造ゴシックの流れを組むデザインである。そして内部には貴重な「金唐革紙」の壁紙が貼られている。

      旧岩崎邸ベランダ

 
 この地は元々、江戸期には越後高田藩榊原氏、明治初期は舞鶴藩牧野氏の屋敷であった。
 明治11年、三菱財閥初代の岩崎弥太郎が牧野弼成から邸地を購入したものである。
 大名庭園の形式を一部踏襲する庭は、建築に際して池を埋め立てて広大な芝庭とし、庭石・灯篭・築山などを配して、和洋併置式の庭園として改修された。
 建築様式同様に、「芝庭」をもつ近代庭園の初期の形を残している。 往時をしのぶ庭の様子は、江戸時代の石碑、和館前の手水鉢や庭石、モッコクの大木などに見ることができる。

      旧岩崎邸庭園側

 この和洋併置式の邸宅形式は、その後の日本の邸宅建築に大きな影響を与えた。
 「旧岩崎邸庭園」として公開されているのは、旧邸宅敷地の一部にすぎず、かつての敷地は、西側の湯島合同庁舎、南側の湯島四郵便局や切通公園一帯を含む、広大な敷地であった。
 戦後、GHQに接収され、返還後は昭和27年(1925)年、国有財産となり、最高裁判所司法研修所として使用された。
 昭和36年(1961年)、洋館と撞球室が重要文化財に指定された。
 昭和44年(1969年)、和館大広間は洋館東脇にある袖塀とともに、重要文化財に指定された。
 現在は、敷地全体と実測図も重要文化財に指定されている。


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金唐革紙

 今度の旅で旧岩崎邸をコースに入れた最大の目的が「金唐革(きんからかわ)紙」の実物を見たいがためであった。
 筆者の『和紙と日本の伝統文化』の中で、擬(ぎ)革(かく)紙(し)と壁紙の項目がある。 そのひとつが、明治期に欧州に輸出された金唐革(きんからかわ)壁紙がある。
 残念なことに、その現物に接したことがなかったから、ぜひとも現物を確かめたかった。

     金唐革紙
 
 江戸中期に、長崎オランダ商館からもたらされた皮革工芸品を「金唐革(きんからかわ)」という。
 「金唐」とは、当時は「舶来の艶やかな」、という意で、金唐革(きんからかわ)は、舶来の革という意味である。
 金唐革(きんからかわ)は、欧州でも宮殿や市庁舎などの壁や天井を飾る高級壁装材で、皮革に型押しし、彩色を施した高級壁装材であった。
 これを見た伊勢の油紙商の堀木忠治郎が、美濃和紙の奉書紙に荏油を含浸させ、藁(わら)火でいぶし、木版で型押しし凹凸模様をつけた。
 革に見えることから、擬革(ぎかく)紙と称した。

      旧岩崎邸室内3

 擬(ぎ)革(かく)紙(し)は伊勢参りの土産品として、煙草入れや袋物が造られ、繁昌し広まった。
 これにヒントを得て、江戸の油紙屋の竹屋では、擬(ぎ)革(かく)紙(し)の表面に皺紋加工し、さらに大判の擬(ぎ)革(かく)紙(し)が売り出された。
 これを見た英国の鉄道雇技師のオルドリッチが、製作方法を助言し、竹屋の山本清蔵は金唐革(きんからかわ)壁紙の製造に成功した。
 金唐革紙は、和紙に荏油を含浸させ、金属箔(金箔・銀箔・錫箔等)をはり、版木に当て凹凸文様を打ち出し、彩色をほどこし、全てを手作りで製作する高級壁紙である。
 金属箔の光沢と、華麗な色彩が建物の室内を豪華絢爛に彩る。
 明治6年のウィーン万国博覧会に出品し、好評を得てイギリスなどに輸出している。
 ただ、油くさいという欠点あった。

       旧岩崎邸室内4

 輸出産業育成が重要課題であった明治政府は、この欠点を解消するため、大蔵省印刷局に命じて、全く油を使用しない金唐革(きんからかわ)壁紙の製造に成功した。
 ついでながら、明治初期の大蔵省印刷局には、越前和紙の最高の技術者が集められ、新しい紙幣の研究開発と製造を担当させられていた。
 つまり当時の和紙の最高の技術者集団が、大蔵省印刷局であった。
 この製法は、模様を彫った版木に、厚手の和紙を重ね、叩いて模様を浮きださせ、その表面に錫泊、金箔などを張りつけた。

      金唐革紙2 

 明治時代には、大蔵省印刷局が中心となって製造・輸出され、パリ万国博覧会など各国の博覧会で好評となり、欧米の建築物(バッキンガム宮殿等)にも使用された。
 明治23年には大蔵省印刷局での壁紙製造は中止され、技師職員であった山路良三に設備を払い下げている。
 この山路の金唐革(きんからかわ)壁紙の会社も、昭和37年に閉鎖されその技術は消滅した。
 国内では、国会議事堂、鹿鳴館等の明治の洋風建築に用いられたが、その多くは現在消滅し、現存するのは数ヶ所だけという貴重な文化財になっている。








 丸の内駅舎

 東京駅に着いたのは12時25分ころであった。東京駅・丸の内駅舎保存・復原工事が平成25年6月に完成し、10月1日に全面再開業している。
高層ビルが林立する丸の内側の、赤煉瓦の丸の内駅舎が、大正3年の開業当時の三階建てに忠実に復元された。

       東京駅1

 機能性、実用性、効率性を求められる東京駅が、一部とはいえ赤煉瓦のまま維持され利用されるのは嬉しいことである。
 最近は、古い建築物に興味が湧き、好んで武家屋敷や町屋を訪ねては写真に納めている。
 だから、この復元された東京駅丸の内駅舎の写真を撮るため、一旦丸の内の改札を出た。
 東京時代から大阪に転勤してからも、東京駅は数え切れないほど利用している。
 しかし東京駅は、あくまでも乗り換えのための中継駅であった。通路を間違えず、めざす路線のホームに移動するために利用してきた。

        東京駅2

 中央線、総武線、京浜東北線、山手線などのJR線の他、地下鉄の丸ノ内線や銀座線などに乗り換えた。 東京時代は、出張の帰りは、迷わず地下鉄の丸ノ内線の池袋行きに乗車し、池袋から東武東上線で朝霞台でおりた。
 普段は新宿拠点だったから、中央線で東京駅へ行き総武線、京浜東北線などへ乗り換えた。
 大阪に拠点が移ってからは、東京駅は新幹線の乗り継ぎが主になった。
 ともあれ、使用頻度が高かったから、乗り換え通路を間違えることはなかった。が、東北新幹線の東京駅乗り入れや、山形新幹線、秋田新幹線、上越新幹線、長野新幹線などの相次ぐ開業で、ホームの新設や移転などがあり複雑になった。
 それに暫くぶりの東京駅であったから、多少のまごつきがあった。

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 ■東京駅物語

 赤レンガ造りの丸の内口駅舎は辰野金吾らが設計したもので、大正3年(1914年)に竣工している。施工はスカイツリー同じ大林組である。
 駅舎の構造は、鉄筋レンガ造り、三階建て、総建坪9,545m2・長さ330mの豪壮華麗な洋式建築である。

     東京駅全体
       1914年(大正3年)に創建された東京駅丸の内駅舎

 駅舎の正面は、江戸時代からの繁華街である京橋(八重洲)側ではなく、建設当時はまだ野原で、かつての大名屋敷が取り壊された跡の皇居の正面、丸の内側に建設された。
 そして丸の内口の中央に、皇室専用貴賓出入口が造られた。このように、国家の象徴的な位置付けであった。
 設計者の辰野金吾は、工部大学校(現東京大学工学部)で、旧岩崎邸を設計した英国人ジョサイア・コンドルに学んでいる。のち工学博士、帝国大学工科大学学長、建築学会会長などを歴任している。
 その設計の頑丈さから「辰野堅固」と呼ばれ信頼された。
 この駅舎は、元々は「国鉄」東海道線と、当時は私鉄で、上野から青森までの線路を持つ「日本鉄道」の乗り入れを計画し「中央駅」と命名される予定であった。
 東北地方の鉄道は、西南戦争の出費などで明治政府の財政が窮乏し、民間資本を活用して鉄道を敷設することになり、設立された最初の私鉄である。
 東京から青森に至り、北海道開拓を支える鉄道の建設という目的で、岩倉具視など華族などが参加し、私立鉄道会社「日本鉄道」が創立された。のち明治39年に国有化され、国鉄東北本線などになった。
 こうして、「中央駅」の実際の開業のときには、日本鉄道は国有化されていて東京駅と改称された。

      東京駅完成時

 関東大震災にも耐えた堅固なレンガ駅舎は、昭和20年5月、東京大空襲で丸の内駅舎に焼夷弾が着弾、大火災を引き起こした。
 幸い耐火性のレンガ造壁と、コンクリート造床の構造体は残った。
 が、鉄骨造の屋根は焼け落ち、内装も大半が失われた。

     終戦直後の東京駅

 上の写真は修復前の無残な駅舎である。
 昭和22年にかけて修復工事を行い、現在に至る二階建ての外観に修復された。
 三つのドーム部分の外壁は修復されたが、安全性への配慮から、焼失の著しかった三階部分の、煉瓦造の内外壁は取り除き、二階建てに変更された。
 中央ドームは、木造小屋組で元の形に復原され、南北両ドームは、丸型から台形に変更された。
 軒蛇腹・パラペット・壁面・柱型・窓枠などは、二階建てに変更しても忠実に復元されている。
 南北ドーム内のホール天井は、ローマのパンテオンを模したデザインに変更、といった内容だった。二階建で復元された丸の内駅舎は、その後何度か、老朽化の問題で建替えの話がでたが、反対運動などで立ち消え、2003年に国の重要文化財に指定されている。
  また東京駅八重洲口も、空襲で焼失し、復興したが、また昭和24年に失火により再び焼失した。
二度の焼失で再開発が促され、昭和29年に鉄道会館ビルが建設され、八重洲口のランドマークとなる大丸東京店が開業した。この時代の八重洲口には馴染みが深い。
 ところが、丸の内の赤煉瓦駅舎を創業当時の姿に復元する計画と共に、八重洲口も「東京駅ルネッサンス」の構想のもと、再開発事業が進められている。
 この機会に、東京駅百年の歴史を紹介し、さらに東京駅と駅周辺エリアが、どのように生まれ変わるのか、将来ビジョンの広報のため2006年(平成18年)、丸の内駅舎内で「東京駅ルネッサンス」という特別イベントが開催された。
 2007年には、鉄道会館ビルの南北に超高層ツインタワービル「グラントウキョウ」が大丸の移転とともに竣工した。

     東京駅八重洲口開発事業パース

 鉄道会館ビルは解体され、2013年春ごろには、跡地にペデストリアンデッキ「グランルーフ」と駅前広場が整備される予定とあった。
 ペデストリアンデッキとは、車道から立体的に分離された歩行者専用の回廊で、大規模なものは広場の機能も併せ持つ。
 ちょうど訪れた仙台駅前の、歩行者専用デッキがこれに当たるであろう。
 その歩行者専用回廊の大屋根が、「グランルーフ」である。

      東京駅八重洲口グランルーフ 

 昨日、ホテルへタクシーで移動するため、八重洲口に出て、タクシー乗り場の案内表示を辿ったが、乗り場がない。
 この大屋根「グランルーフ」工事の遮蔽板で、乗り場が移動していた。
 この紀行を書いている9月20日、グラントウキョウ・「ノースタワー」と「サウスタワー」をつなぐ大屋根「グランルーフ」が完成、開業したようだ。

       東京駅   
 
 丸の内駅舎の復元に戻る。
 2007年(平成19年)、鹿島・清水・鉄建による「建設共同企業体」が組織され、駅舎を創業当時の姿に近い形態に復原する工事が開始された。
一日90万人が乗降する現在の機能を維持しつつ、新たに地下一・二階を増築し、免震装置を設置するという大工事であった。
 また駅舎復元工事では、鉄骨鉄筋コンクリート壁で躯体を増築し、建築当初の三階建てに戻した上で、外壁、尖塔、南北両ドームの内外の意匠も再現した。
 免震装置には、地上部分と地下部分との間に、免震ゴムとオイルダンパーを設置した。2012年(平成24年)6月、復原された駅舎の一階部分が再開業し、10月1日に全面再開業した。

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 ■赤煉瓦

 当初の駅舎建設で大量に使用されたのが、レンガ発祥の地、深谷(ふかや)の「日本煉瓦製造」の重厚で堅牢な赤煉瓦であった。
 明治20年(1887)創立の日本煉瓦製造の創立者は、埼玉県深谷出身の渋沢栄一である。
 この会社は、日本初の機械方式による煉瓦工場で、日本の近代化を象徴するものであった。
 以後、日本煉瓦製造の重厚で堅牢な赤煉瓦を使用した近代建築物が、日本中に数多く作られることになる。

      東京駅赤煉瓦
         建設当時の 丸の内駅舎の煉瓦

 煉瓦は、粘土や頁(けつ)岩(がん)、泥を型に入れ、窯で焼き固めて、あるいは圧縮して作られる建築材料である。通常は赤茶色で直方体をしている。
 焼成レンガは、土の中の鉄分の影響により赤褐色となる。
 赤茶色のレンガの感触は、石やコンクリートに比べ、木造住宅のような温もりを感じさせる。
 これは土という自然素材だから、コンクリートとは違う暖かみがある。また、当時の日本では近代建築の象徴であり、モダンでハイカラなイメージであった。
 現代では、ノスタルジックな哀愁のあるレンガの持ち味は、落ち着いた雰囲気を醸しだす。
 ところで、煉瓦造りは、組積式構造ともいわれ、柱と梁で屋根を支える「架構式構造」に対するものである。

       JR深谷駅
          日本煉瓦の発祥地 JR深谷駅

 組積式構造のレンガ造りでは、耐火性に優れているが、地震の水平の動きに弱い。このため、鉄骨や鉄筋で補強する。
 鉄筋レンガ造りとは、穴を開けたレンガを用い、その穴に鉄筋を通し、さらにその周囲にモルタル、コンクリートなどを流し込んで補強したものである。
 関東大震災の時、多くの煉瓦造りの建物が倒壊した。が、東京駅だけは大地震に耐えた。 これは辰野金吾が、鉄筋レンガ造り方式を採用したからである。

       京都文化博物館別館

 上写真の京都文化博物館別館は、辰野金吾の設計である。当初は日銀京都支店であった。







 ステーションシティー

 元来、駅の役割は人々が集まり、そこを通過して目的地に行くためのターミナルとしての役割が主であった。
 つまり乗り換えを行なう施設として、乗り入れしている路線や、接続している交通機関が多いほど便利であった。多くの人が利用する拠点だから、多くの商業施設が出来た。
 大都市のターミナルには、百貨店がほとんど隣接している。こうしてターミナルは、交通の拠点であると共に、商業施設が集積する都市の核へと変貌してきた。

     東京ステーションシティー

 が、それらは自然発生的に集積したもので、駅との一体感がなく、街としての統一性もなく、雑多な施設が猥雑さと雑踏をうむ結果となっていた。
 その利便性から買い物客が集まるが、その雑踏で疲れてしまう。
 こうした背景で、大都市の大阪駅、名古屋駅、東京駅では、再開発事業が盛んとなった。そのコンセプトは、「ステーションシティ」という概念である。

      大阪駅北ゲートデッキ

 ターミナル駅を中心に、いこいの広場や緑のスペース、立体的デッキによって遊歩道を設け、隣接させる商業施設と一体となった、新しい街を創るという発想である。
 大阪駅も「大阪ステーションシティ」の構想で、北梅田ヤードの再開発事業が進行し、ドーム駅や、ノースゲートビル、駅北前広場と、隣接してグランフロント大阪の商業施設やホテルなどが開業している。
 これはまだ一部で、広大な緑のスペースやスタジアムなども計画されている。
 東京駅も「東京ステーションシティ」のコンセプトで、東京駅、駅周辺のサピアタワー、グラントウキョウ・ノースタワー、サウスタワーなど東京駅周辺エリア全体をひとつの街として再開発された。

      東京駅八重洲口完成パース

 ノースタワーとサウスタワーが、デッキでつながれ、壁面は緑化され、グランルーフという大屋根が設けられた。
 グランルーフは「光の帆」をイメージし、再開発された東京の「顔」にふさわしい多彩な魅力と、先進の機能をもった駅をイメージさせる。









  ゆりかもめ

 「ゆりかもめ」は、新橋駅と豊洲駅までを結ぶ16駅、15㎞の高架橋を走る新交通システムである。株式会社ゆりかもめが運営し、平成7年11月に開業している。
 都心と臨海副都心を結ぶ公共交通機関として、東京都と共同して建設されている。
 このシステムは、軌道系交通システムともいわれ、専用の道路を自動運転により走行する旅客輸送システムである。

      ゆりかもめ

 運行中は車内に運転士や車掌がいないため、緊急時などには、車内備え付けのインターホンで対応することになっている。
 ゆりかもめは、ゴムタイヤ式AGTで、一両四輪のタイヤで、コンクリートの専用道路を走行するから、振動や騒音もなく走行する。
 日本でのAGTは1981年、神戸新交通ポートアイランド線に、初めて無人運転の営業路線として導入されて以来、各地に新しい路線が開業している。
 AGTはゴムタイヤの摩擦力が大きく、急勾配路線も可能となるため、過密な都市内や幹線道路上に建設することも可能である。

       お台場案内図

 一車両の寸法が小さく、一車両にドアが二つ程度で、軌道、車両を含めた総合的な軽量化が可能で建設費が抑えられている。
 動力は、案内軌条の給電線から給電するモーターで走行する。
 このため架線がなく、沿線の景観を損ねにくい。
 ただし電源供給が側部になるため、踏切りは作れず高架橋などの完全立体交差となっている。また、都市高速鉄道のような高速運転には適していない。
 この路線は、1996年に開催される予定であった「世界都市博覧会」のアクセス線として建設された。

     レインボーブリッジ

ところが、博覧会を当時の青島幸男知事が中止したため、「ゆりかもめ」は40億円の赤字を出すと言われていた。
しかし、開業してみると乗客は順調に増加し、一日10万人以上を数えるようになった。最近の新線、特に案内軌条式鉄道としては、数少ない黒字経営の路線となった。
 沿線には多数の観光資源、お台場や有明、汐留シオサイト、シティリゾートホテル、フジテレビ本社、アクアシティお台場、デックス東京ビーチ・パレットタウン、船の科学館、大江戸温泉物語、日本科学未来館、東京みなと館、テレコムセンターなどや、国際展示場(東京ビッグサイト)などの集客施設が林立し、これが利用増につながっている。
 東京ビッグサイトへは、インテリアの展示会で一度だけ訪れているから、ゆりかもめは二度目である。


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 お台場

 最近、東京の新名所として「お台場」の名を聞くことが多い。
 お台場へ渡る「レインボーブリッジ」は何度もテレビで見ている。
 お台場海浜公園やホテル、アミューズメント施設、ショッピングモールその他、東京国際展示場のビッグサイトなどもある。
 お上りさんのように、東京スカイツリーに登ったから、話題ついでに「お台場」へ行こうと決めていた。

      お台場周辺マップ
     
 それも「フジテレビ本社ビル」の25階の球体展望室「はちたま」で、東京臨海副都心を眺めてみたいと思っていた。スカイツリーと違い、いわば海側からの東京都心を眺めるつもりでいた。
 フジテレビ本社ビルは、一般向けに開放されているのは、素晴らしい眺望が楽しめる25階の球体展望室「はちたま」、5階のきっかけストリート、1階のシアターモールであった。 

      フジテレビ本社

 あまりテレビは見なくなったが、テレビ局の雰囲気を見てみたいとも思っていた。
 ゆりかもめの台場駅で降り、連結されている立体デッキを渡って、偉容を誇る大きなフジテレビ本社ビルを目ざした。
 ゆりかもめ自体も、日曜日のためか、かなり混雑していたが、フジテレビ本社ビル前の二階のイベント広場の混雑に驚いた。
 小さなブースがいくつもあり、飲食物を売っていたり、何かのキャラクターを販売していたり、ゲーム機などもあった。
 いわばお祭りの屋台が幾つもあるような雰囲気で、真っ直ぐに歩けないほどの雑踏だった。デッキから下を覗くと、一階ステージでは、何かイベントが行われていて、司会者の甲高いマイク音声が聞こえていた。
 ともかく、ビルの中へはいるべく、人混みをかき分け階段を上ると、チケットを購入しないと中に入れないようであった。

      フジテレビ

 また、25階の球体展望室へは外側の別の専用エレベーターを利用しなければならないという。
 その専用エレベーターも、待ち時間が60分とかいう。さらには、25階の球体展望室へのチケットの売り場も、長蛇の列であった。これま全く計算に入れていない。
 東京スカイツリーだけは、開業してまだ日が浅く、東京の新名所として脚光を浴び続けているから、早起きしてなんとか上ることができた。
 が、フジテレビ本社ビルが、これほど人気があるとは考えなかった自分に、苦笑せざるを得なかった。 日曜日であり、若者たちや、小さな子供連れのファミリーなどが、手軽なレジャーとして訪れているのであろう。

       フジテレビビル

 そもそも、古希を迎えた年代の夫婦が訪れるような施設ではないらしい。そう悟った裕江は、
「帰えろうよ」
という。こうしてこの雑踏から離れることにした。ただ、お台場の駅に行く前に、せっかく此処まで来たから、せめてコーヒーでもと、グランパシフィックホテル近くのカフェで一休みした。
 
 コーヒーを飲みながら、お台場について考察する。
 お台場のある臨海副都心は、全て埋め立て地である。
 それも江戸末期、ペリー来航のあと、黒船対策として築いた大砲台場の建設が、この地区の埋め立ての始まりらしい。この地域を「お台場」と呼ぶのも、幕府の台場があったことを由来としている。
 近年になって、東京都は東京臨海副都心として臨海部の埋め立て開発を進めた。バブル景気絶頂期の1989年から始まり、東京都は企業誘致を積極的に行った。
 ところが、バブル崩壊で企業進出のキャンセルが相次ぎ、開発計画の見直しを迫られることになった。

      ゆりかもめレール

 その頃、計画第二期が始まり、臨海副都心のアピールを兼ね、「世界都市博覧会」の開催が予定され、レインボーブリッジの建設も行われた。
 ところが、平成7年(1995年)、青島幸男都知事のとき、臨海副都心開発見直しを掲げ、世界都市博覧会を中止したが、開発計画自体は止めなかった。
 1999年(平成11年)、都知事に石原慎太郎が就任してから、臨海副都心の開発事業を推進している。
 このころから、地元の活性化運動もあって、本社屋を移転したフジテレビが牽引役となり、東京ビッグサイトやホテル、ショッピングモールの誘致が進んだ。
 近年ではアミューズメントやアクアシティお台場など、ショッピング施設が次々に開業し、海の景色と広々した空間も手伝い、新しいファッショナブルなイメージを持つエリアとなっており、週末の気軽な観光地として賑わっている。
 ところで、お台場付近は港区・江東区・品川区のちょうど境界線にあり、場所によって行政区が異なる。
 お台場に程近い東京ビッグサイトと、テレコムセンターは江東区、船の科学館は品川区、フジテレビは港区にある。
 帰ってから、「東京オリンピック」の開催が正式に決定した。この臨海副都心には、いくつかの競技場などが造られるから、これからますます発展するだろう。
  





 スターフライヤー

 予定よりはやくモノレールに乗って羽田空港に到着した。羽田空港では、利用する航空会社によって、ターミナルが異なる。 第1旅客ターミナルは日本航空グループ、スカイマーク、スターフライヤー(北九州線、福岡線)。
第2旅客ターミナルはANAグループ、AIRDO、スカイネットアジア航空、スターフライヤー(関西線)となっている。
 モノレールの駅では、終点の第2旅客ターミナル駅で降りた。
 関西空港へはANA3827便だが、スターフライヤー便となっていた。
 関空ー羽田間は、LCC航空会社の運行がなく、航空券の予約はANAであったが、時間によってはスターフライヤー便となっていた。

      羽田空港

 つまり共同運航便(コードシェア便)であった。
 コードシェアとは、二社以上の航空会社が、一つの飛行機を、共同して運航している形態のことである。
 運航している航空会社から、その便の座席の一部を譲り受け、その座席を「自社便の座席」として販売している形である。
 コードシェア便は、自社が運航していない路線・地域、または時間帯であっても、他社便を自社便として売出せる。このため飛行機の機内では、同じ客室にいる乗客の間で、違う便名の飛行機に乗っているという状態が発生する。つまり航空券を購入した会社と、実際に乗った航空会社が違う場合が出てくる。
 ともかく初めて利用するスターフライヤーであった。
 飛行機を利用するのは4年ぶりながら、その間、規制緩和などでLCCが誕生し、航空会社の再編成がなされている。
 この御陰で、仙台まで信じられないような格安の飛行機便を利用できた。ただ東京からの帰りはLCC便がなくANA便のチケットを持っている。
 お台場を早めに切り上げたから、予定より一時間以上も早く16時前に羽田に着いた。
 帰りの便はANA3827便、15時20分発である。

      羽田空港

 ANAの自動受付機で発券されたチケットには、「SFJ」のカウンターで手荷物を預け下さいと表示されていた。 「SFJ」のカウンターで旅行鞄を預けて身軽になって、出発ロビーの上の階で一息いれることにした。
 まだ夕食には早すぎるので、カフェでもと探していたら、「カフェエクスプレス」という飲み物専門のスタンドのある店を見つけた。
 コーヒーを買って、窓際の背の高い椅子に座った。脚が地に着かない高さで、背もたれもないから、座っていて落ち着かない。
 結局、早めにチェックインして、搭乗口の待合室に入り、本でも読むことにした。
 初めての「SFJ」ながら、どうやらLCC便ではないかという予感がしてきた。なぜなら、待合室にボーデンブリッジが接続されていなかった。
 ピーチと同様、バスでの移動の模様だ。しかし、料金は一人14,170円で、早割ではあっても、決して格安ではない。
 ともかく時間がきてバスで移動すると、見たことがない真っ黒の機体に驚いた。 

     スターフライヤー
 
機体が黒塗りのAIRBUS A320型機であった。
 日本の飛行機は、ベース色は白という概念だったから、少し異様に感じたのである。 
 機内に入ると、また驚いた。
 座席シートは本格革張りであり、しかも座席間隔も広い。
 さらに座席の背もたれには、機内液晶パネルが付いていた。なるほど機内の搭乗口でイヤホーンを貰っていた。
 これは仙台便で利用したLCC便の、ピーチとはまるで違う。
 とてもゆったりとした雰囲気であった。
 調べてみると、液晶パネルには、操作しやすいタッチスクリーンを採用されていて、リクライニングに合わせて、角度調節までもできる。

      スターフライヤー機内
 
 番組はいくつも有るが、利用しなかった。搭乗機はAIRBUS A320とあったが、通常170席クラスの座席を、144席に減らし、座席間隔を約12cm広くしているとあった。普通のプレミアムクラスの室内であった。
 そして無料のドリンクサービスまであった。調べてみてまた驚いた。

 スターフライヤーの正式名称は
「株式会社スターフライヤー」で、北九州市に拠点を置くベンチャー企業で、正式に航空会社となったのは2006年1月という。
 2006年3月、新北九州空港と、東京羽田空港の運行を開始した。
 さらに、2007年9月から羽田ー 関空線、2011年7月から羽田 ー福岡線の運航を開始している。
 機体を含めたトータルデザインは、デザイナーの松井龍(たつ)哉(や)とあった。
 丹下建築事務所に勤務したあと、現在は有名なロボットデザイナーらしい。松井龍(たつ)哉(や)によって、コーポレートカラーは黒。受け付けカウンターや自動チェックイン機・運航機材のみならず、オリジナルグッズも黒に塗られている。
 スターフライヤーは、社長以下経営陣は、旧・日本エアシステム (JAS) の元社員を中心に、日本航空 (JAL) や全日本空輸 (ANA) の出身者で成り立っている。
 ベンチャー企業を創業し、わずか4年で膨大な資本金を集め、飛行機を飛ばすという偉業をなしている。

     スターフラヤー飛行機


 航空会社の裏表を知っている創業者たちが、知恵を絞って、普通のLCCではない新しいコンセプト、つまり「価格が安くても、十分満足が得られる」飛行機を飛ばしている。
 期間限定で格安便も運行しているが、全日本空輸とのコードシェアを開始し、2007年度の年間搭乗率は75%と改善し、2008年度では80%前後で推移している。
 ただ、航空券はピーチなどLCCと同じで、ネットでしか買うことが出来ない。
 運営自体は他のLCCと同様、徹底したローコストながら、運用する飛行機だけはプレミアム座席である。だから、ANAとコードシェアができるのであろう。
 はやくも2011年末には、東京証券取引所第二部に株式上場している。
 余談ながら、Airbus A320型機の本体単体価格は、1億ドルから2億ドル程らしい。
 一機100億円以上もする航空機を、数十億円の資本金しかないベンチャー企業が、どうして何機も運用できるのか。
 調べてみると、エアラインは、ほとんどが機関投資家がシンジケートを組んだり、航空機専門の会社から、リースされているという。
 スカイマークのB767のリース価格は、月6000万円ほどらしい。

     関西空港

 あれこれスターフライヤーについて詮議していると、無事に予定時刻に関西空港に着陸した。
 空港で食事をして、関空快速にのって一安心したところ、僅かばかり列車が走ったところで、臨時停車してしまった。
 車内放送では、日根野駅構内が浸水しているとか言う。
 東京にいたから、関西の天気はチェックしていなかったが、どうやらゲリラ豪雨があったらしい。状況が分からないまま、30分ほども車内に閉じ込められた。
 こうして、今回の「みちのく」の旅は、じつに初物尽くしと、アクシデントの多い、想い出の多い旅となった。



みちのく紀行 終わり

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