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    肥前長崎紀行
     
      肥前長崎紀行 1 目次

   

  長崎駅  長崎中華街  出島築造  オランダ商館  開国と出島の消滅 
  
  京華園  長崎ちゃんぽん  極東支配人  テレックス
  島原半島  ETC  仁田峠  平成の大噴火  噴火活動の経緯
  火砕流   平成新山  雲仙の四季  地獄巡り  切支丹雲仙地獄
  切支丹の山入  蓑おどり  踏み絵  神父フェレイラ  竹中釆女
  長崎奉行  三途の川

   
    肥前長崎紀行2    ■日本紀行TOP    ■Top Pageへ
     長崎港全景
       長崎港
 

長崎駅

   
 10年ほど続いたOB会は、前回幹事の提案で、夫婦同伴の旅に衣替えすることになり、2003年の今回が夫婦同伴の旅の一回目となった。
 H幹事から集合場所を、長崎駅かもしくは博多駅という提案を頂いた。
 東京から長崎は飛行機の便がよく、N夫妻は長崎へ前泊し、長崎市内の観光を愉しみ、長崎市内で合流する事となった。
 我が夫婦は、福岡に前泊し博多駅前でH幹事夫妻と合流して、H幹事の車で長崎へ向かった。Y氏夫妻は、高速途中の鳥栖SAで合流となった。
    
    JR長崎駅

 JR長崎駅で11時頃の待ち合わせとなり、前泊したN夫妻と合流し、ここで四組の夫婦が長崎駅構内で初めて顔を合わせた。広い長崎駅構内で、互いの夫婦が挨拶を交わした。
 昼食は長崎の中華街がよいとの意見で、H氏のセドリックと、Y氏のクラウンで中華街へ向かった。
 地図で後づけすると、長崎駅前から市電が走っている大波止通を南下し、出島から市電の線路は左折している。
 この市電の路面に沿って走ると、市電が築町通りで丁字路のように交差している。 その突き当たりに長崎バスターミナルがある。長崎バスターミナルの上は、長崎バスターミナルホテルである。




長崎中華街

     長崎中華街

 この辺りが新地で、長崎の中華街の一角である。
 横浜、神戸と並ぶ長崎中華街の新地は、江戸時代中期に中国からの貿易品の倉庫を建てるために海を埋め立てて出来た街である。
 東西、南北が約250mの正方形に近いこの地域は、長崎市の姉妹都市である福建省の協力で出来た石畳で覆われている。

     江戸時代の長崎唐人町

 現在、中華料理店や中国菓子、中国雑貨など約40店舗が軒を並べている。
 江戸幕府は鎖国政策を続けていたが、オランダと唐と清の時代の中国とは、長崎だけに限定して例外的に国交と貿易を許していた。
 唐との貿易が盛んになった江戸時代の元禄期に、出島に住むオランダ人と同様、中国人も居留地が設けられていた。 
 中国人居留地は、唐人屋敷(唐館)とも呼ばれ、総面積約九千坪余りで、役人詰め所、大門、二の門、住宅、市場、関(かん)帝(てい)廟(びよう)、土神堂、観音堂などがあり、その周囲は高い練塀をめぐらせていた。
 日本人の出入りは、出島と同様厳しい制約があったが、中国人たちの出入りは比較的自由であったという。
 
   長崎唐館交易図説      長崎唐館交易図説 渡辺秀詮
   
 この頃に長崎に在住する唐人は一万人ともいわれ、当時の長崎の人口が六万人であったから、たいへんな数の中国人が居住していたことになる。
 中国船からの積荷は、五島町や大黒町の海岸の荷蔵に納めていたが、1698年の大火で荷蔵が焼失したため、唐人屋敷前面の海面3,500坪を埋め立て、隔離された荷物蔵所を造った。この場所は新しく築地によってできた場所という意味で、「新地」とか「新地蔵所」と呼ばれ、今の新町に相当する。

  唐蘭館図巻
     唐蘭館図巻 高川文筌筆

 明治維新後、唐人屋敷とともに新地蔵所も廃止されたため、在留中国人は、港に近い新地蔵所跡地に移り住み、長崎独特の中国人街を作ってきた。これが現在の長崎中華街の原型である。




出島築造

 唐人屋敷の話しのついでに、出島の歴史にもふれておきたい。
 出島は、天文十九年(1550)、平戸に一隻のポルトガル船が入港したことに始まる。これが長崎に入港した最初のヨーロッパの貿易船である。
 その後、福田(長崎市福田本町)が開港され、さらに島原半島の口之津港へ移された。
 ポルトガル人たちは、大村領の大村純忠(すみただ)が切支丹大名となり、さまざまな庇護を与えたため、大村領内に拠点を移すべく、元亀(げんき)二年(1571)、ポルトガル船の入港によって事実上長崎港を開港した。
 以後、毎年のようにポルトガル船が訪れるようになり、長崎はポルトガル貿易港として急速に発展していった。また、天正八年(1580)、大村純忠は長崎の町を教会知行地(所領として徴税権がある)としてイエズス会に寄進している。

  長崎出島之図
    伝川原慶賀筆「長崎出島之図」 

 その後、豊臣秀吉は天正十五年(1587)、伴天連追放令を出し、長崎を没収し、直轄領とした。
 ただ、南蛮貿易そのものまで禁止はしていない。
 秀吉の没後、徳川家康も幕府の財政を考慮し、南蛮貿易を続け、キリスト教に関しては寛大であった。
 このため、天文十八年から寛永七年(1549~1630)の約八十年間に、切支丹に改宗した人は、約76万人に達したといわれている。
 その後の曲折は省略するが、慶長十九年(1614)、ついに幕府はキリスト教禁止令を発令している。
 徳川幕府は、キリスト教の布教を阻止するため、当時市内に雑居していたポルトガル人を収容する島を造ることにした。

   出島絵図面
      出島絵図面

 出島は寛永十一年(163)から二年の歳月をかけ、ポルトガル人を管理する目的で、幕府が長崎の有力者に命じて作らせた。
 築造費用は、門・橋・塀などは幕府からの出資であったが、それ以外は高木作右衛門、高島四郎兵衛などの長崎の二十五人の有力者が出資した。
 この人工島は、扇型になっており面積は3969坪(約1.5ヘクタール)の広さがあった。
 ポルトガル人は、出資者に土地使用料を毎年銀八十貫匁を支払う条件となっていた。現在の価値では約一億五千万円に相当する。

   長崎奉行所と出島

 出島が扇形をしている理由としては、以下のような諸説がある。
 長崎に新しく作る島について、当時の将軍の徳川家光に伺いを立てたところ、自らの扇を示し、見本にするように言ったという。これは、シーボルトの著書である『日本』に書かれている話である。
 また、中島川の河口に土砂が堆積し、弧の形をした砂州があつた。それを土台として、埋め立てたという説もある。 また、海側の岸壁を弧状にすると、波浪の影響が少なくなるため、扇形としたという説もある。
 要は、もともと中島川の河口に弧の形をした砂州があり、それを元に波浪の影響が少ない扇形に築造したのであろう。ともかく海を埋め立て築いた島から「築島(つきしま))」、その形状が扇型をしていたことから「扇島」とも呼ばれていた。ただ、その土木技術の詳細については、現在でも謎に包まれている。





オランダ商館

 寛永十六年(1639)、幕府は切支丹禁止令に基づき、ポルトガル人やイスパニア(スペイン)人を国外追放としたため、出島は一時無人状態となった。
 その後、出島築造の際に出資した人々の訴えにより、寛永十八年( 1641)に平戸からオランダ東インド会社の商館が移され、武装と宗教活動を規制され、オランダ商人が居住することになった。
 オランダは、カトリック(切支丹)教国ではなく、むしろ対立する新教(プロテスタント)という事で、切支丹とは区別されたのである。
 以後、出島は約二百年間、オランダ商館が設けられ、日本人の公用以外の出入りが禁止され、オランダ人も例外を除いて狭い出島に押し込められた。ただ、医師としての信頼が厚かった、シーボルトなどは例外的に外出を許されていた。

   オランダ商館長室の再現
     オランダ商館長室の再現

 幕府は、切支丹禁令とポルトガル人追放を徹底するため、伴天連(宣教師)の潜入や、ポルトガル人など切支丹勢力に関する情報提供をオランダ人に義務づけた。
 このためオランダ船が入港すると、通詞(通訳)はオランダ商館長を訪れ、世界の情報を聞き取り、通詞と商館長が署名捺印し、長崎奉行が江戸に送ったといわれている。この文書が「和蘭風説書(ふうせつがき)」と呼ばれているものである。
 江戸幕府は鎖国していたが、この「和蘭風説書」によって海外の事情を知ることが出来たのである。
 鎖国によって閉ざされた日本にとって、出島は唯一欧米に開かれた窓だった。
 オランダ商館に医師として赴任したケンペル(1690年-1692年滞日、主著『日本誌』)、ツンベルク(1775年-1776年滞日、主著『日本植物誌』)、シーボルト(1823年-1828年および1859年-1862年滞日、主著『日本』『日本植物誌』)らは、西洋科学を日本に紹介し、日本の文化や動植物を研究しヨーロッパに紹介したことから「出島の三学者」と称される。

   左オランダ商館長 カピタンの事務所・住居
      出島の再現  左オランダ商館長 カピタンの事務所・住居

 江戸時代を通じて出島に来航したオランダ船は、二百二十七年間に延べ七百隻以上にのぼる。
 オランダ船が長崎港に入港する時期は、季節風の関係から旧暦の六月、七月が最も多く、バタビア(現在のジャカルタ)を出港し、長崎の野母崎をめざしてやってきた。
 オランダ船が出島沖に碇をおろすと、船の出航地や乗組員の人数などの取り調べ、そして積荷の検査が行われ、その後荷役作業が行われた。
 この荷役作業が終わると長崎奉行所役人や長崎会所立ち会いで、舶載品の入札が行われていた。
  
 1810年オランダがフランスに併合され、翌1811年にはバタビアがイギリスの占領下に置かれたため、1810年から三年間は、出島には一隻のオランダ船も入港しなかつた。この間、食料品などの必需品は幕府が無償で提供し、長崎奉行は毎週、不足品があるかを問い合わせていたという。
 その支払いについては、貿易事務の一切を取り扱う「長崎会所」の立て替えを受けたが、それでも文化九年(1812)には、その総額が八万二百両を超えた。この頃、商館長所有の「ショメール家庭百科辞典」を、幕府が六百両で購入したという記録は、当時のオランダ商館の厳しい財政難を物語っている。
 その後、1815年には、ネーデルランド(オランダ)王国が成立し、オランダが復活している。つまりこの五年間は、世界中でオランダ国旗がひるがえっていたのは、日本の出島だけだったのである。この一事をもって、幕府のオランダへの恩義が感じられる。
 オランダ商館長は、初代のヤックス・スペックスから、最後のドンケル・クルチウスまで、全部で163人に渡っている。
 滞在期間は一年となっていたが、ヘンドリック・ヅーフのように、十四年間も滞在した商館長もいた。このヅーフが編纂したヅーフハルマと云われる『和欄辞書』が、日本の蘭学に果たした役割は大きい。  



開国と出島の消滅

 隣国の中国の「清(しん)」で勃発したアヘン戦争の結果、清は香港の割譲、広州、上海など五港を開港し、南京(なんきん)条約によって開国を強いられた。
 アヘン戦争勃発の情報は、長崎に入港したオランダ船から伝えられていたが、幕府は逡巡し有効な手だてを打てなかった。
 これに対しオランダ政府は、開国勧告の親書を提出していた。が、嘉永六年(1853)にはペリーが浦賀に来航するなど、アメリカからも開国を求める動きが活発化し、翌年の安政元年(1854)に「日米和親条約」が締結され、続いてイギリス、オランダとも和親条約が結ばれることになった。

   日米和親条約を締結
    日米和親条約を締結
  
 安政三年(1856)には、ハリスが軍事力を背景に通商条約締結交渉のために来日し、幕府はついに安政五年(1858)「日米修好通商条約」に調印した。これが実質的な鎖国体制の崩壊、江戸幕府の崩壊につながっていった。
 一方、安政二年(1855)の「日蘭和親条約」締結によって、オランダ人の長崎市街への出入りが許可され、翌年には出島開放令が出されている。
 出島監視役人が廃止され、出島の存在意義は失われ、安政五年(1859)に、出島オランダ商館はついに閉鎖された。
 
 安政の開国後の出島は、長崎を近代的な貿易都市に改良するため、西側の水門付近や南側が拡張されるなど、地形が大きく変わった。
 その後、周囲が埋め立てられ、さらに明治十八年(1885)に起工した中島川変流工事では、出島の北側約18mが削り取られた。
 そして明治三十七年(1904)の港湾改良工事で、その扇形の島は完全に姿を消してしまったのである。
 

 

京華園

 さて、長崎中華街に話を戻す。
 新地の約250mの正方形に近いこの地域のほぼ真ん中に十字路が走っていて、四つのブロックを形成している。
 地図で確かめると、その北西のブロック中央の川筋に面してワシントンホテルがあり、対面する北東ブロックの中央にホテルJALシティー(日航ホテル)がある。他にもバスターミナルホテルなど二つのホテルがあり、この狭い中華街の街に合計四つものホテルと、大小の中華料理店が、約40軒も軒を連ねている。

   長崎中華街

 今や、この中華街は長崎観光の中心地として、多くの観光客で賑わっている。
 私事ながら現役のころ出張で長崎を訪れ、長崎ワシントンホテルに投宿した事がある。
 その時、偶然ちょうど冬を彩る一大風物詩のランタン(中国提灯(ランタン))フェスティバルが開催されていた。 
 中華街は中国万燈会(まんとうえ)(ランタンフェスティバル)の華やかな万燈の提灯つられ、一人中華街を歩き回った。
 龍踊りや獅子舞、そして中国雑伎団のアクロバット演技などを愉しみ、ワシントンホテルの横のひときわ大きな中華料理店の「京華園」で食事をした。

     京華園

 もともと「春節祭」(中国の旧正月の祭り)として、長崎新地中華街を中心に行なわれていたが、平成6年から規模を拡大し、長崎全体のお祭りとして、冬を彩る一大風物詩となっている。
 偶然、OB会のわが一行も、この大きな中華料理店の「京華園」が目に付き、ここで昼食に「長崎ちゃんぽん」や「長崎皿うどん」などを食べた。
 



長崎ちゃんぽん

 長崎ちゃんぽんは、福建料理をベースとした長崎を発祥とする郷土料理である。
 明治時代中期、長崎市に現存する中華料理店「四海楼」の初代店主陳平順が、当時日本に訪れていた大勢の中国人(当時は清国人)の留学生たちに、安くて栄養価の高い食事を食べさせる為に考案したとされている。 肉、魚介類、野菜など十数種の具材をラードで炒め、豚骨と鶏がらのスープで味を調え、ちゃんぽん用の麺を入れて煮立る。

    長崎ちゃんぽん

 太い麺と具材の多さが特徴で、他の麺類と大きく異なる点は、麺をスープで煮込むことである。
 雲仙市小浜温泉の「小浜ちゃんぽん」は、長崎からの湯治客を通じて定着したという。
 約一キロ四方に、専門店が20店近くもあり、寿司屋、居酒屋、洋食屋、食料品店などのメニューにも「ちゃんぽん」があるという。
 ところで、いかにチャンポンが日本人に人気があるメニューかは、言葉の形容としての「ちゃんぽん」に集約されている。
 言葉の形容としては、色々な物を混ぜる事または混ぜたものチャンポンという。また多種類の酒を、一時に飲むことや、酒と一緒に他の物を飲むことも、チャンポンという。更に、医薬品その他の薬物を、数種類同時に服用すること等の形容に良くチャンポンという表現が用いられる。
 ところで、「ちゃんぽん」を名物としているのは、長崎だけではない。
 福岡ちゃんぽん、愛媛のちゃんぽん (八幡浜ちゃんぽん)、沖縄のちゃんぽん 、彦根のちゃんぽん、熊本県天草のちゃんぽん等、その地独自の ちゃんぽがある。




極東支配人

 長崎にまつわる、ジョンソン時代のひとつの想い出がある。
 ジョンソンのハウスホールド担当になってから、日本ジョンソントップで、極東支配人でもあったMrワイリー(Wiley)が、筆者と長崎で得意先同行をしたいと連絡があった。
  Mrワイリーは、ジョンソンの極東地区のトップながら、時々営業担当と一緒に主要得意先を表敬訪問していた。
 特にアポイントを取るわけではなく、外人が店に突然訪れるから各得意先担当者は慌(あわ)てる。すぐに店長応接室に通したりするが、あくまでも店頭の現状を確かめるのが目的であった。ジョンソン製品に万一埃(ほこり)でもあれば、白のハンカチを取りだし、製品を拭くというパフォーマンスで、店の責任者を驚かせるのである。

   長崎大村飛行場

 
 Mrワイリーとは、東京の全体営業会議の後のパーティで面識はあった。
 担当テリトリーを訊かれたので、福岡を基点に、佐賀・長崎を担当している旨を伝えると、
「長崎には友人が居るから一度行きたい」
と話しをされたが、それが現実となったのである。
 連絡を受けて、大村の長崎空港でMrワイリーを出迎える予定であった。が、予定の飛行機到着の便からは降りて来なかった。
 福岡~長崎の飛行機は便数が少なく、その便に乗っていないと、次の便は夕方まで無いのである。当時はむろん携帯電話などはなく、途方にくれた。狭い長崎空港の到着ロビーで呆然(ぼうぜん)としていると、
「ジョンソンの佐野さま、ワイリー様をお出迎えの佐野さま、案内所までお越しください」
と呼び出しの放送があった。案内所へゆくと、電話ではなくテレックスが入り、
「ワイリー様は、長崎行きをキャンセルされ東京へ戻られました」
と言う。
 訳が分からず詳しく訊くと、テレックスの電文を見せられた。 電報の電文のような片仮名とアルファベットや数字だけの文字が並んでいた。
 要は、福岡の全日空のカウンターから、長崎空港の全日空カウンターへ、テレックスで連絡文が届いていたのである。
 Mrワイリーが乗るべき飛行機便が、予約の不手際で満席のため乗ることが出来なかった。
 そこで、出迎えの筆者への連絡の非常手段としてテレックスが使われたのである。
 これは当時の九州エリアのマネージャーの大失態であった。
 長崎訪問の連絡を受け、乗るべき便名まで連絡を受けたが、福岡~長崎間の飛行機予約を入れることを怠ったのである。つまりマネージャーは自分の役割について確認を怠り、たんに福岡空港で出迎えたに過ぎなかった。
 東京本社としては、日本ジョンソンのトップが公務で長崎へ行くのだから、福岡~長崎間の飛行機予約は、当然福岡駐在責任者の、マネージャーが行うべきと判断していたのである。
 こうした手違いで、Mrワイリーは長崎行きの飛行機に乗れず、大変立腹して東京へ戻ってしまったのである。Mrワイリーは、友人と会えることで楽しみであったはずの長崎行きが、初歩的なミスでキャンセルとなり、余ほど腹立たしかったのであろう。空港を出ずに、東京へ戻ってしまった。
 このような初歩的なミスを犯したマネージャーに対して、その後どのようなお咎めがあったのかは知らない。 もっともその半年後位には、カナダジョンソンの社長として転任になっている。敬虔なクリスチャンで、子宝に恵まれていたと聞いている。




テレックス

 当時はまだファックスが誕生する以前であり、大手企業の支店間の情報連絡は、テレックスが全盛の時代であった。
 キーボードを打つと、それに応じて細い紙テープに小さな孔(あな)が空く。 このさん孔(こう)テープをテレックス発信器にセットし、先方のテレックス番号をダイヤルすると、このさん孔テープの孔(あな)を読み取って、受信先のテレックスに自動的に片仮名の文字を印字するのである。
 ただ、漢字を使うことは出来ず、片仮名とアルファベットや数字だけのみであった。
 そこで、大文字・小文字と、空白や改行を繰り返し、できるだけ読みやすい電文にするのである。
 テレックスのメリットは、相手が不在でも自動受信できるから、時間を問わずに発信できる事と、間違いやすい数字などの情報を正確に送ることができる。
 また、このさん孔テープは何度でも使用できるから、本社から各支店へ同一文書を送るのに便利であった。

   テレックス

 テレックスは、電話回線とは別のデジタル回線を使用しているから、通話料は電話より安かった。このため、さん孔テープを作らず、直接会話形式で電文を送ることもできた。
「モシ モシ。 ダレカ オウトウデキマスカ?」
「ハイ ハイ。ドウゾ。」 
 筆者がみたテレックスの電文も、このような直接会話形式であった。
 ジョンソンの前の大和証券に勤めていた頃、この「さん孔テープ」の細い孔の空いているテープを見たことがあったが、当時は何に使用しているのか見当も付かなかった。
 のち、友人と興した事業に失敗し、東京へ転身を図ったとき、会社にこのテレックスがあった。
 本社と支店間や、韓国の合弁会社とも、このテレックスで連絡をとりあった。この東京時代に覚えたテレックスのキーボードの配列は、JIS規格であったから、その後のパソコンでも、キーボードの配列は同一であったから、キーボードに対するアレルギーがなく、すんなりとパソコンを使うことができた。





島原半島

 さて島原半島は、雲仙普賢岳を中心に半月状の半島である。
 古くは『肥前国風土記』で「高来峰」と呼ばれているのがこの山であり、温泉についての記述がある。
 雲仙はもとは「温泉」と表記され「うんぜん」と読ませていたが、明治期の国立公園指定の際に現在の表記に改められた。 

   島原半島

 大宝元年(701年)に僧行(ぎようき)が大乗院満明寺を開いたことが伝えられている。
この満明寺の号が「温泉(うんぜん)山」である。以後、雲仙では霊山として山岳信仰(修験道)が栄えた。
 また、行基は同時に四面宮(温泉神社)を開いたといわれている。祭神は、『古事記』に筑紫島をあらわす一身四面の神と記している。この神社は、上古には温泉神社、中古には四面宮と称されていたが明治二年(1869)の神社改正で、筑紫国魂(みたま)神社と改称され、大正四年(1915)の県社昇格に際して、温泉神社に戻した。島原半島中に十数の分社がある。
 ついでながら行基は、奈良初期の修験者僧で、一説では百済系の帰化僧といい、筆者の現在住んでいる堺から活動を始めている。
 行基上人の宗教活動は、全国的におよそ四九の寺院をつくり、橋を架け、潅漑用の用水路を設けるなど、社会福祉事業を積極的に行ない、「菩薩」と呼ばれ民衆に慕われた。
ところで雲仙普賢岳からは、天気のいい日には西彼杵(そのぎ)半島東岸、および長崎半島東岸、佐賀県南部、福岡県筑後地方、熊本県西部など、見通しのいい場所でその姿を眺めることができる。





ETC

 我々一行は昼食後、二台の車で長崎市内を抜け、長崎自動車道の長崎インターから高速道路へ乗った。N夫妻はY氏の新車のクラウンに乗り、筆者夫婦はH幹事のセドリックに分乗した。
 Y氏のクラウンは、長崎ICの料金所ゲートを通過するとき、格好良くETC専用レーンを通過したのである。クラウンは、買い換えたばかりの新車で、ETCが装備されていた。
 幹事のセドリックもまだ新しい形式ながら、ETCの装備はまだ装着していなかった。この当時は、ETC装着車はまだ少なく、料金ゲートに並んでいる車を尻目に格好良くノンストップで通り抜けた。

   ETCゲート

「おー、格好いいな!」
と、筆者が声を上げると、負けず嫌いの幹事は、少し悔しそうな表情をしたのを覚えている。
 ETCは、高速道路の料金所の渋滞解消を目的に、平成5年の試験的運用から始まり、約十年を経てようやく全国の主な高速インターで使用できる程度になっていた。
 だから、幹事の「雲仙島原の旅」の平成15年では、普及率はまだ一割程度であった。
 現に、Y氏とは長崎自動車道の「鳥栖SA」で待ち合わせ、二台の車を並べて走ったが、長崎ICでのクラウンは、ETC専用レーンを通過しようとしたが、バーが開かなかったのである。
 これは、大分から高速に乗る時、そのICにはまだETC専用ゲートが無かったらしい。このため、長崎ICでETC専用レーンを通過できなかったとの話しであった。
 つまり、ICの入口と出口と双方にETC専用ゲートがなければ、その恩恵に浴しないのである。この思い出話の通り、ETCはまだ普及の初段階であった。
 その後、ETC車載器の普及を図るため、さまざまな助成金制度が設けられ、深夜の料金割引制度などが設けられ、急速に普及した。
 余談ながら、筆者の車のETC車載器は、この助成金制度のキャンペーンの時に購入したから、なんと名目上の「一円」で手に入れている。
 今は経済刺激政策の一環で、土日祭日は、高速道路料金「上限千円」の適用があるから、ETC車載器を装着していないと、この恩恵に浴することができない。

 



仁田峠

 我々一行の二台の車は、高速の諫早ICを出て、国道57号線を走った。
 途中の小浜温泉を過ぎてから、
 国道57号線は山道になり、雲仙温泉市街を抜け、普賢岳方面の国道389号線に乗り入れ、雲仙ゴルフ場を過ぎてしばらく走り、さらに分岐した登山道を上ると、仁田峠の展望所があった。
 到着時間は一時五十分頃であった。

   仁田峠

 ここには雲仙ロープウェイがあり、仁田峠駅から妙見岳駅へ約1,300mを結んでいる。往復1,220円とあったが、ロープウェーに乗るのは割愛した。幹事は役目柄、雲仙ロープウェイの駅を示し
「みなさんロープウェイに乗りますか?」
「まぁ(乗らなくても)いいか」
とみな、気のない返事をした。年々互いに年齢を重ね、暑い中を歩いてロープウェイの駅まで歩くのが面倒になったのである。
 暑かったから売店でソフトクリームを購入し、舐めながら展望台へと移動した。
 しかし、ロープウェイに乗らなくても、仁田峠の展望所からは、普賢岳と平成新山がよく見えた。

    普賢岳

 雲仙火山の活動は、 約四百万年前、島原半島の 南端の早崎半島から始まり、その後、噴火は徐々に北に移り、「南(みなみ)島(しま)原(ばら)期」「雲仙期」を経て「現在」 に至っているという。
 五十万年前の「雲仙期」に噴火活動は島原半島の中心部に移った。
 現在我々が見ている普賢岳は、約十万年前に形作られたという。

島原大変
 古文書の記録によれば、今から約二百年前の寛政四年(1792)に 、「島原大変」と記録されている雲仙普賢岳が大噴火している。

    島原大変図
      島原大変図

 この時は、まず体に感じる地震が続き、さらに普賢岳からの噴煙が上がり、溶岩流や火山ガスの噴出も見られたとある。
 激しい地震の連続に、城下の人々は不安な日々を暮らしていた。
 次第に収まりかけたかに見えた寛政四年旧暦4月1日(西暦5月21日)、大音響とともに襲った大地震によって、城下町の背後にそびえる眉山(まゆやま)が突如大崩壊し、土石流は島原城下の田畑の半分近くを埋め、 さらには有明海に流れ込れこんだ。
 この時の死者は約五千人とされている。これを「島原大変」と記している。
 このため大津波が発生し、 対岸の肥後天草を含め、約一万五千人が死亡するという、わが国最大の火山災害となった。これを「肥後迷惑」という。そして、肥後の海岸からの返し波がまた島原をも襲ったという。





平成の大噴火

 普賢岳は平成二年(1990)11月17日、百九十八年ぶりに噴火を開始した。
 普賢岳の一連の活動は、一年間にわたる前駆的な地震活動を経て、水蒸気爆発となり、続いて半年間の噴煙活動がつづき、三年九ヶ月に及ぶ溶岩噴出へと発展し、 ひとつの巨大な 溶岩ドームを形成した。 これが平成新山である。
 この溶岩ドームは 普賢岳山頂部東端から 東斜面にかけて成長したため、きわめて不安定で、その間、局部的に崩落し、 火砕流を頻発させた。
 火砕流の発生は数千回にもおよび、焼失した家屋は 820棟、44人の命を奪っている。
 
   普賢岳と平成新山
   中央に見えるのは普賢岳と平成新山。火砕流と土石流の痕跡が茶色い川のように残っている。

 平成七年(1995)二月には、溶岩噴出を停止したが、この間の総噴出量は約2億立方メートル(国土地理院)と推測され、その約半分が崩落している。   
 なお、降り積もった火山灰は、雨が降ると土石流となり、 約千三百棟が 損壊するという大災害となつた。 これらの普賢岳の一連の噴火活動や、その後の火砕流、そして平成新山の土石流の発生と、生々しい被害状況は、連日テレビの報道でまだ記憶に残っている。
 火砕流が、世界で初めて鮮明な映像として、継続的に記録された火山としても有名となっている。






噴火活動の経緯
 
 現在の平成新山を形成した噴火活動は、昭和64年(1989)の橘湾群発地震より開始されたとされている。
平成二年(1990)2月に噴火し、それ以後、降噴煙活動が観測された。最初の噴火は大規模なものではなく、12月には小康状態になって道路の通行止めなども解除された。
 そのまま終息するかと思われたが、平成三年(1991)2月12日に再噴火した。さらに4月3日、4月9日と噴火の規模を拡大していった。

    普賢岳爆発

 5月15日には、降り積もった火山灰などによる最初の土石流が発生し、さらに噴火口西側に多数の東西方向に延びる亀裂が入り、マグマの上昇が予想された。
 5月20日に、地獄跡火口から溶岩の噴出が確認されたが、粘性が高かったため火口周辺に溶岩ドームが形成された。
 翌21日には崩壊が始まったことが確認され、事態は一気に深刻化した。
 溶岩ドームの崩壊は、新しく供給されるマグマに押し出されたドームが斜面に崩落することにより発生し、破片が火山ガスとともに山体を時速百㎞ものスピードで流れ下る火(か)砕(さい)流(りゆう)と呼ばれる現象を引き起こした。
 噴火活動は途中一時的な休止をはさみつつ、平成七年(1995)3月ごろまで継続した。
 火砕流が、世界で初めて、鮮明な映像として継続的に記録された火山として有名である。
(過去にプレー山などの火砕流が写真として多く記録されており、小規模なものは映像も撮影されている)。





火砕流

 普賢岳の溶岩は粘度が高く、流れ落ちるかわりに火口付近に大きな溶岩ドームを形成した。 この溶岩ドームが、噴火による成長で堆積し、やがて崩壊する際に起こったのが火砕流である。
 最初の火砕流は、最初の溶岩ドームが現れた平成三年5月20日の四日後に発生した。

   普賢岳火砕流
     深江町岩床山から見た夜の火砕流

 火砕流は、高熱の火山岩塊、火山灰、軽石などが、高温の火山ガスとともに、山の斜面を流れ下る現象で、流下速度は時速百キロメートルを越えることもあるという。
 また、極めて高温なため、火山の噴火現象の中で最も危険な物のひとつである。
そして溶岩ドームの成長とともに、火砕流の到達距離が長くなった。
 平成三年6月3日に発生した大火砕流は、巨大な黒煙を上げながら、水無川に沿って猛スピードで流れ落ち、北上木場地区を飲み込んでいった。
 避難勧告地区内で警戒中の消防団員、警察官、取材中の報道関係者などが巻き込まれ、死者四十人、行方不明三人という犠牲者を出した。
 また、人家や農地、山林などを、広範囲に焼き尽くした。

   普賢岳北東斜面で、最大規模の火砕流

 6月8日には、さらに大規模な火砕流が発生し、人的な被害はなかったが、火口から六キロメートル下流の国道57号線付近まで到達し、207棟の家屋が焼失し、倒壊した。
 9月15日には、普賢岳北東斜面で、最大規模の火砕流が発生している。
 この時の火砕流は、おしが谷を下り、先端は上木場地区に到り、白谷町に達した。また、火砕流に伴う広範囲な熱風によって、深江町大野木場地区、島原市上木場地区で、住宅や山林火災が発生し、218棟が焼失、倒壊した。
 平成五年5月~6月にも、大規模な火砕流が発生した。
 新たに中尾川方面で、治山ダムを越えて南千本木地区の集落に達した。
 6月23日には一名の犠牲者が発生し、
 6月24日には、県道愛野島原線を飲み込み、
 6月26日には、初めて国道57号線を越える地点まで火砕流が到達した。

 噴火活動が終息するまで、実に9432回の火砕流が発生し、一日最多の記録では平成六年8
月25日の68回が数えられている。
 溶岩の総噴出量は2億4千万立方メートル、東京ドームの190杯分といわれている。島原市民は、いつ果てるともしれない火砕流の恐怖とともに生活を続けた。


 


平成新山

 平成三年5月20日、初めての溶岩ドームが出現して以来、実に13の溶岩ドームが誕生している。
 ドームは成長とともに幾度かの崩落を繰り返し、その崩落の際に引き起こされたのが火砕流で、沢山の人命が奪われた。 
 しかし現在、噴火活動はようやく収まり、溶岩ドームも雄大な景観を持つ雲仙岳の一部となっている。
 島原市は小浜町とともに、最初の溶岩ドームが出現して5年目を迎えた、平成八年の5月20
日に、このドーム部分を「平成新山」と名付け、長く続いた災害と新たな復興の記念とした。

   平成新山

 平成新山の標高は、平成七年6月の1488メートルをピークに、現在はやや縮小して1482.7メートル(国土地理院火山基本図より)である。
 それでも普賢岳の1359メートルを抜いて雲仙岳の最高峰である。
 平成新山は、火口から吹き出した溶岩が冷えて固まったもので、その容積は約1億立方メートル、実に東京ドーム84杯分の熱い岩の固まりが出現したことになる。噴火活動は終息したが、平成新山の内部はいまだに高温を保っているという。





雲仙の四季

 普賢岳の爆発について多くふれたが、もとも雲仙は自然が豊かで、温泉地でもあったから、昔から多くの人が観光に訪れた。
 雲仙岳は、昭和二年の「日本新八景」山岳の部で一位になり、雲仙地域は、昭和九年に我が国で「最初の国立公園」に指定されている。
 雲仙岳とは、普賢岳、国見岳、妙見岳、絹笠岳、高岩岳、野岳、矢岳、九千部岳、この三峰五岳と言われる八つの山々を総称して雲仙岳と呼んでいる。
 雲仙は自然が豊かで、昔から自然が大切に守られてきた雲仙は、野鳥や高原植物の宝庫でもある。
雲仙の春の訪れは、四月下旬頃から咲き始めるミヤマキリシマの彩りで始まる。
 「ウンゼンツツジ」とも云われるミヤマキリシマは、地獄周辺から宝原、池之原と咲き出した群落は、5月中旬頃には、 仁田峠は濃淡織り成す赤い花が鮮やかに咲き誇る。
 雲仙岳の山々が、新緑の黄緑色に着替えると、山はピンクのミヤマキリシマで見事に染め尽くされていき、雲仙は彩り豊かな季節を迎える。雲仙のつつじは、ミツバツツジ、ヒカゲツツジ、ミヤマキリシマ、ヤマツツジなどがあり、ミツバツツジからやや遅れて 妙見岳の岩場などに淡黄色の花で 目を引くのがヒカゲツツジである。 

     雲仙の四季

 
 雲仙の夏は、平均気温21~22度と涼しく、蝉時雨(せみしぐれ)が聞こえはじめたら、緑の息吹があたり一帯を包み込み、涼やかな風が吹きわたるという。ギンヤンマが飛び交い、そして雲仙はオアシスになる。
 雲仙は標高700m程の高地のため、温泉街の温度は低く、明治時代から避暑地・保養地として有名であった。8月の平均気温は21.7度程で、北海道の札幌と同じ涼しさである。このため昔から避暑地として知られ 内外から多くの人が訪れている。 

 夏山は、ヤマボウシの花が覆い尽くすように咲き、ひときは目を引く。
 また、妙見岳にのぼり 三峰五岳の雲仙岳」と呼ばれる、普賢岳、妙見岳、国見岳、絹笠山、高岩山、野岳、矢岳、九千部岳の八つの山々を、切り立った谷間からの風を受けながら 見渡す眺めは格別であると、登山者には格別の人気があるらしい。

   夏山は、ヤマボウシの花が覆い尽くす 
     夏山は、ヤマボウシの花が覆い尽くす 

雲仙の秋は、自然の景観の美しさとして一年のクライマックスを迎える。 
燃えるような鮮やかな紅葉が山々を染め尽くし、全てが清らかに澄みわたる。 
 10月下旬から山の山頂からはじまって、徐々に全山を染め上げて11月初旬まで見ることができる。

 雲仙の冬は、まるで天使が白い衣を羽織ったように、霧氷が冬枯れの景色を真っ白な山並に変身させる。永遠に静寂が続くかのように、神秘的な美しさに包まれる。
「花ぼうろ」と呼ばれる霧氷は、気象条件が整って初めて見ることができる貴重な自然現象である。
 朝日に輝く、白銀と霧氷の光の芸術は、現地に赴かなくては体験できない、貴重な物であるという。






地獄巡り

 雲仙の古湯と新湯の間の、白い土(温泉余土)におおわれた一帯が雲仙地獄地帯で、雲仙温泉地の中心市街に近いところある。

 地獄とは仏教の教えで、前世の悪業の報(むくい)を受ける所という意味である。
 至る所から高温の温泉と噴気が激しく噴出し、強い硫黄臭が漂う中、湯けむりをもうもうと立上げるさまは、恐ろしげな地獄の景色そのものと言える。
雲仙地獄のエネルギー源は、橘(たちばな)湾の海底のマグマ溜りだと考えられている。
 このマグマ溜りから発生した高温高圧のガスは、岩盤の裂目を通って上昇し、その途中で化学変化を起こし、地下水に出会って高温熱水となる。
 その熱水の沸騰によって生じた蒸気が、激しい噴気となって現れている。雲仙の温泉はこのガスと、まわりの山からの地下水が混ざり合って生成されたものである。

   雲仙地獄地帯

 旧火山の中央火口丘の三十余の硫気孔より、熱湯を噴出している。
 ここから湧きだす温泉の泉質は硫黄(いおう)泉で、温泉の最高温度は
98度、湯けむりの温度は120度にまで達している。
 雲仙の温泉の泉質は硫酸(りゆうさん)性の硫黄(いおう)泉で、強い酸性を示している。温泉の主成分は鉄イオン、アルミニウムイオン、硫酸イオンであり、温泉療法としてリュウマチ、糖尿病、皮膚病に効果があると云われている。
 白い土(温泉余土)におおわれた一帯が雲仙地獄で、雲仙観光の中心であり、また雲仙温泉街の中心にある。

   雲仙地獄地帯

 雲仙温泉としては、承応二年(1653)に加藤善右衛門が開湯した延暦(えんりやく)湯が始まりといわれている。これは雲仙に湯つぼを開き、延暦湯と名づけたもので共同浴場の始まりとされている。
 加藤善右衛門は、肥後の加藤清正の一門で、加藤家滅亡の時に柳川の立花家に仕えている。剣術、槍術、砲術、水泳に長けていたとあるが、雲仙温泉の開湯の経緯は伝わっていない。
 水蒸気が噴出して硫黄(実際は硫化水素)の臭いがたちこめる光景から地獄と形容されている。地獄地帯の岩石は、噴気や温泉の熱と酸性水の影響で変質し、白く脱色した粘土状の温泉余土となっている。
 地獄の噴気孔のまわりに白から淡黄色の湯ノ花がみられる。
 これは噴気の硫化水素と、土中の鉄やアルミニウムなどが反応し、結晶化したもので、雲仙の湯ノ花は温泉水中ではなく、地表面に析出(せきしゆつ)するのが特徴とある。
 あたり一面に硫黄の匂いが漂う雲仙地獄の一帯には、「大叫喚地獄」「お糸地獄」「清七地獄」など、それぞれの由来や伝説にちなんで名の付いた三十余りの地獄がある。
 




切支丹雲仙地獄

 我々一行は、三時二十分頃に雲仙地獄に到着している。
 硫黄の臭いを嗅ぎつつ、地獄巡りをし、にこやかに写真を撮影している。
 地獄や天国は、あくまでも仏教説話としての例えであり、現実のものとしては認識していなかった。
 ところが、この雲仙地獄で実際に生き地獄を体験させられた人々がいたのである。
 紀行の中で、拷問についてふれるのは少し気が引けるが、地獄巡りのついでに触れざるを得ない。
 ここは切支丹が禁止されて以来、処刑場としても使われ、切支丹殉教の地でもある。
 その名残が「清七地獄」や「大叫喚地獄」などの名前に残されている。雲仙地獄を利用して切支丹の処刑や拷問を発案し、実行し始めたのは島原藩主の松倉重正(まつくらしげまさ)である。
 寛永四年(1627)二月二十八日、雲仙地獄に、島原の切支丹のパウロ内堀作右衛門ら十六人が、引き立てられてきた。その中には女と子供もいた。
 全員の両手は、後ろ手に縄を掛けられている。役人は柄(ひ)杓(しやく)で温泉の熱湯を汲み、顔に近づけ
「転ぶか?」
と役人が、パウロ内堀作右衛門の顔をのぞき込む。   
 作右衛門が頭(かぶり)を振ると、役人は、容赦なく作右衛門の身体に熱湯を掛ける。しかし激痛に耐えながら、声を出して神への祈りのオラショを唱えた。
 オラショは、ラテン語の「主をたたえよ」の賛美歌の一節ともいうが、訳の分からない呪文のような祈祷語である。
 たちまち焼けただれ真っ赤にそまっ身体は、皮膚が破けて肉がはじける。
 目をつむり十六人は一斉にまたオラショを唱え始めた。
 役人は更に柄杓で温泉の熱湯を汲み、作右衛門の体のところ構わず掛け続けた。
「転ぶか?」
 役人の声はオラショに打ち消された。役人はその異様な雰囲気の中で逆上し、全員に猿ぐつわをはめ、全員に硫黄の熱湯を、頭から次々に掛けていった。
 洗礼名のマグダレナという女性は、柄杓で熱湯をかけられ、更に湯壺に吊り下げて浸けられた。
 熱湯で、皮膚を生剥ぎされたようなひどい有様となった。
しかし呻き声や苦悶の声は発するが、誰一人「転ぶ(改宗する)」ことに同意する者は一人もいなかった。やがて、全員を地獄の湯壺に放り込んで殺してしまった。

   切支丹雲仙地獄

 
 翌寛永五年(1628)には、江戸幕府の通達により、責め苦の方法が変わった。
「切支丹に拷問を加えるは、改宗こそが目的で、苦痛と恐怖を与え、転向させる術として用いよ。繰り返しても転向しない場合のみ刑殺する」と方針が変わった。
 特に島原藩は、戦国時代は切支丹大名で有名な有馬晴信が領主であったから、切支丹信者の農民が特に多い。農民の切支丹をすべてを拷問し刑殺すると、農業生産人口が減少する。だから、農民の切支丹を転向させることが、拷問の主眼となった。
 このため、拷問の方法が恐怖と激痛を与えつつ、しかも殺さず「転ぶまで」繰り返すという凄惨なものとなった。人間は強い信念があれば、死ぬことをも恐れなくなる。死ぬ覚悟を固めた人間は、激痛にも耐え死ぬことが出来る。
 ところが、拷問でも死ぬ事が許されず、幾度も激痛を繰り返されると耐えられなくなる。  




切支丹の山入
 
 寛永六年(1629) から、切支丹拷問で名高い長崎奉行の竹中卯女(うめね)が、島原藩主松倉重正から勧められ、長崎の牢にいる切支丹たちを雲仙に連れて行った。
 雲仙地獄の拷問で「転ばせる」のに余計な仕掛けが不要だという理由からであった。
 長崎奉行所の記録『長崎旧記』には、「山入り」と記してある。 長崎から茂木に出て乗船し、千々石灘(ちぢわなだ)を渡って小浜に上陸し、
ここから徒歩で雲仙に登った。
 最初の犠牲者は六十四人、そのうち二十七人が女だった。

 洗礼名イザベラは朝鮮系婦人で、二時間も憤気口の側の石の上に立たされた。憤気口の蒸気の温度は120度にも達する。
 やがて気を失うと中止される。全身が大火傷で、ケロイドが出来ている。翌日も、手足を縛って裸の体に熱湯をかけられた。
   
失神寸前に、奉行は「転び証文」をつき出し、イザベラの同意を迫る。

    切支丹雲仙地獄

「命有る限り、神の名で、この責めを凌(しの)ぎまする」
と「転び証文」から目を背ける。
 拷問は「転ばせる」事が目的だから、体力を回復させるために、しばしば中断させる。
三日間も大火傷の傷養生をさせた後、その傷口に海水を掛け、大激痛を与える。
 こうして十三日間、果断なく拷問を繰り返し、殆ど失神以外は眠る事も許されない。
 こうして気丈なイザベラも、考える力も、声を上げる力も無くした。奉行は「転び証文」をつき出し、イザベラの手をとって爪印を押させてから長崎に連れて帰した。





蓑おどり
 
 特に島原藩主の松倉重正は、さまざまな切支丹の「転び証文」を取るための拷問方法を考案したことで有名である。
 前述の雲仙地獄の拷問をはじめ、「蓑(みの)踊り」と称される拷問も考案している。
 両手を後ろ手に縛り、両足も緩(ゆる)く縛り、雨具の蓑を頭から纏(まと)わせ、それに火を付けるのである。 拷問を受ける切支丹は、火だるまで、まるで踊るようにしてもだえ苦しむのである。
 やがて悶絶する前に、桶の海水を掛けるのである。大火傷の傷に海水を掛けるから殆ど失神する。これを幾度も繰り返すのである。
 これは死ぬよりも過酷で、凄惨な拷問である。
このよう凄惨な大叫喚地獄のような拷問を目にした切支丹たちは、いわゆる隠れ切支丹となっていった。切支丹弾圧で潜伏した信徒達は、観音像を聖母マリアに見立て、表向きは仏教徒として振舞いつつ、ひそかに祈祷文「オラショ」を唱えたという。





踏み絵

 もう一つ松倉重正は、隠れ切支丹の発見方法として有名な「踏み絵」も考案し実施したとの説もある。
 別に絵み踏を発案したのは転びバテレンの沢野忠庵だという説もある。
 沢野忠庵は、元イエズス会のフェレイラ神父で、拷問で転び証文にサインし、帰化して日本名を名乗っているが、後で詳しく触れる。
「この背教者は、足に踏ませて切支丹を発見するために十字架を寺の屋敷においた」
と、近代日本研究の先駆者であるレオン・パジェスは『日本キリシタン宗門』にのべている。
 
    絵み踏

 踏み絵は拷問ではなく、隠れ切支丹を発見するために大変効果があると、江戸幕府でも正式に採用され、長崎奉行所を始め広く用いられた。
 当初は文字通り、紙にイエス・キリストや聖母マリアが描かれたものを利用したが、損傷が激しいため版画などを利用し、さらに木製や金属製の板に彫られたものを利用するようになった。
     踏み絵

 年に数度「切支丹狩り」のため、キリストや聖母が彫られた板などを踏ませ、それを拒(こば)んだ場合は、切支丹教徒として逮捕し、さまざまな拷問で「転び証文」を取り、その後、なんと三世代にわたって監視し続けたという。
 それでも、隠れ切支丹は、役人の前では敢えて踏み絵を踏み、帰宅してから密かにオラショを唱えて、神に祈って許しを請うたという。




神父フェレイラ

 まだ地獄巡りの写真があるから、写真とは無関係で恐縮ながら、やむを得ず地獄のような拷問の話しを続ける。
 
 穴吊りという拷問がある。
誰が考案したか分からないが、これを実行したのが、拷問で悪名高い長崎奉行の竹中卯女(うめね)である。
「穴吊り」とは、文字通り人間を逆さまにして穴に吊す拷問である。
人間は、普通に逆さ吊りにされると、内蔵が下がり肺を圧迫し、数分で死亡する。
逆さ吊りで、殺さずに苦しみだけを与えるため、身体に布を巻き付け、その上から縄を何重にも緊縛(きんばく)させて吊すと、内蔵は動かないからすぐには死なない。
 ただ、血流が頭に充溢し意識を失う。このため、額に傷を付け、血流滴らせる。
 それでも頭に血流が充満し、神経が過敏となり、異常な苦痛を味わうという。
 さらには苦痛を増すため、穴には汚物を入れ、大音響を響かせるという。
 そして穴から引き上げたり、また穴へ落としたりを繰り返すという。引き上げては、「転ぶか」と尋ねるのである。

     穴吊り拷問

 これが、どれだけ凄惨な拷問かは、想像ができない。
 この長崎の西坂刑場での「穴吊り」の拷問で、ポルトガルのイエスズ会の日本管区代理区長で、日本語に堪能なクリストファン・フェレイラ神父が、長崎で「穴吊り」の拷問をうけ五時間後には転んで、棄教を誓ったという。 
 いわゆる転び伴天連となり、「転び証文」にサインして棄教した。
 西坂刑場での「穴吊り」には、同時にイエズス会のジュリアノ中浦、アントニオ・ソーザ、日本人ペトロとマテオの両修道士、ドミニコ会のルカス・デル・エスピリット・サント神父と、日本人フランシスコ修道士らが一緒であった。
 彼らは、長い拷問に耐え、真の信仰の殉教者になった。
 一緒にこの刑をうけたジュリアノ中浦神父は、六十五歳の老体ながら、八日間苦しみに耐えて殉教した。この人はかっての遣欧少年使節の一人である。
 最後まで生きていたのは、ドミニコ会のルカス神父で、九日目に息を引き取ったといわれている。
 フェレイラは、「転び証文」にサインし、後に日本人妻を娶って沢野忠庵(ちゆうあん)と名乗った。
 この背教者の沢野忠庵が、前述の「踏み絵」の考案者とも云われている人物のひとりである。
 その後は、キリシタン弾圧に協力し、遠藤周作の『沈黙』のモデルとなった。
 幕府の切支丹取り締まりに協力し、踏み絵を管理し保管したという。
 拷問に耐えられず、異国の地で、かつてのイエスズ会の日本代表であった神父が、キリスト教徒を摘発し、改宗させるという役割を演じさせられ、図らずも生き続け、しかも長命した。
 一方、これとは別に、天文学書『天文備用』や医学書『南蛮流外科秘伝』などにより西洋科学を日本に伝えている。



 

竹中釆女

 前にふれた、切支丹弾圧の拷問で有名な竹中釆女は、正式には竹中重義が本名で、釆女(うねめ)は官位で、正式官位は釆女(うねめ)司(つかさ)の釆女(うねめ)正である。采女司は、元来は宮中の女官を管理する役職であったが、のち単に大名の五位の下の官位として使用された。
 美濃斎藤氏の武将であった竹中重光の孫で、秀吉の軍師として有名な竹中重治(半兵衛)の従兄弟にあたる竹中重利の子であった。
 慶長六年(1601年)、父重利の代に関ヶ原の戦いで東軍に与(くみ)し、その功によって、豊後高田から豊後府内に移封され、二万石を領しのち大分城を築いている。
 父の後を継いで豊後府内藩主となり、二代将軍の徳川秀忠の側近として仕えていたが、長崎奉行として抜擢された。
 幕府の重臣松平康重の娘を正室として迎え、娘は譜代大名の名家、西尾忠照のもとへ嫁いでいた。
 寛永六年(1629年)長崎奉行に就任してから、江戸幕府の意向に従い、過酷な切支丹弾圧を実施し、穴吊りなど多くの拷問法を考案し実施他したことは前にふれた。また有名な絵踏み(踏絵)も、初めて雲仙で行っていることもすでにふれた。

   徳川家光
     徳川家光

 寛永十年(1633年)大御所の徳川秀忠が亡くなり、徳川家光が完全に権力を握ると、最初の鎖国令を発した。これと連動するかのようにして、竹中重義は長崎奉行としての密貿易など、職務上の不正を数々訴えられた。
 庇護者の将軍秀忠が卒したため、それまで見て見ぬふりをした長崎奉行所の役人達が、見るに見かねて訴え出たのであろう。
 すでに寛永六年(1629年)十月に書かれた、平戸のオランダ商館長の手紙には、
「長崎奉行が、幕府老中しか発行できない朱印を、勝手に発行し東南アジアとの密貿易に手を貸している」 と指摘されている。
 将軍が徳川家光に代替わりしたため、先代の秀忠の側近であった竹中重義は、粛正される対象となった。長崎奉行という権能を、私的にも最大限利用した竹中重義は、幕府の調査の結果、寛永十年(1633年)二月に奉行職を罷免され、切腹を命じられた。
 翌年、嫡子源三郎と共に、浅草の海禅寺で切腹し、一族は隠岐に流罪となった。
 これにより竹中家の宗家は改易・廃絶となった。
 こうして、切支丹弾圧を強行した長崎奉行の竹中重義と、また島原藩主の松倉重正)も、のちに島原の乱の責任と過酷な藩政の責任をとらされ、斬首されているのである。





長崎奉行

 ついでに長崎奉行についても記しておきたい。
 戦国期の大村氏の所領であった長崎は、天正八年(1580)以来イエズス会に寄進されていた。
 九州を平定した豊臣秀吉は、後で詳しくふれるが天正十五年(1587)に「伴天連追放令」を発布し、翌年には長崎を直轄地とし、肥前佐賀藩主の鍋島直茂を代官とした。
 文禄元年(1592年)に、奉行として肥前唐津藩主の寺沢広高が任命された。これが長崎奉行の前身である。
 秀吉死後、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、豊臣氏の蔵入地を接収し、長崎の行政は江戸幕府直轄に移管された。
 初期は、前述の竹中重義など、秀忠側近の大名が任ぜられたが、やがて小禄の直参旗本が、長崎奉行に任ぜられるようになった。
 ほぼ千石~二千石程度の、上級旗本が任ぜられ、長崎奉行職は幕末まで長崎に置かれた。
奉行職は老中支配で、江戸城内の詰席は芙蓉(ふよう)の間で、元禄三年(1690)には、諸大夫(しよたいふ)格(従五位下)とされた重要な役職であった。
 長崎奉行の役所は、江戸町(現、長崎市江戸町・長崎県庁所在地)と、立山(現、長崎市立山一丁目・長崎歴史文化博物館在地)と二箇所あり、総称して長崎奉行所と呼んだ。
 奉行の配下には、支配組頭、支配下役、支配調役、支配定役下役、与力、同心、清国通詞、オランダ通詞がいた。これら以外にも、地役人(じやくにん)、町方役人、町年寄(まちとしより)なども長崎行政に関与しており、総計千名にのぼる行政組織であった。

    能勢頼之長崎奉行
         能勢頼之は1865-1866年の間長崎奉行

 長崎奉行は、鎖国以来、全国で唯一出島にオランダ商館や市街に唐人の商館を抱えているため、天領の奉行職としては特異な立場にあった。
 長崎の行政・司法・外交・貿易・軍事全般と、さらに切支丹や密貿易の取り締まりなど、じつに多岐にわたる職責を担っていた。

 奉行は天領長崎の最高責任者として、長崎の行政・司法に加え、長崎会所を監督し、清国、オランダとの通商、収益の幕府への上納、江戸勝手方勘定奉行との連絡、諸国との外交接遇、唐人屋敷や出島を所管し、諸国の動静探索、日本からの輸出品となる銅・俵物の所管、西国キリシタンの禁圧、長崎港警備を統括した。
 長崎港で事件がおこれば、佐賀藩・唐津藩をはじめとする近隣大名と連携し、指揮する権限も有していた。
 ところで長崎奉行は、格式は公的な役高千石で、在任中役料四百俵であったが、長崎奉行は公的収入よりも、余得収入の方がはるかに大きかった。
 つまり、輸入品を関税免除で購入する特権が認められ、それを国内で転売して莫大な利益を得ることが出来た。
 加えて舶載品をあつかう清国人やオランダ人、長崎町人、貿易商人、地元役人たちからの献金(入朔(にゆうさく)銀)もあり、一度長崎奉行を務めれば、子々孫々まで安泰な暮らしができる程だといわれた。そのため、長崎奉行職ポストは、旗本垂涎(すいぜん)の猟官ポストであった。長崎奉行就任のための運動費の相場は、三千両ともいわれたが、それを遥かに上回る余得収入があったという。

 江戸時代も下ると、ロシア艦レザノフの来航、フェートン号事件、シーボルト事件、そしてまたロシアのプチャーチン来航など長崎近海は騒がしくなり、長崎奉行の手腕がますます重要視されるようになる。  



 
三途の川

話題を仏教説話に転ずる。
 雲仙地獄に、地獄に因(ちな)んでか「三途(さんず)の川」があった。
が、善人ばかりのわが一行は難なく渡ることが出来た。
 ところで三途の川は、仏教における正式名称では、葬頭川(そうずがわ)と云う。
 三途の川の河原が、賽(さい)の河原である。幼くして死んだ子供の霊は、ここで親の恩に報いるため、石を積んで塔を築こうとする。が、何度作ってもそれは壊われ、それを繰り返すという。

             【地獄極楽掛図】 賽の河原
     【地獄極楽掛図】 賽の河原

 川岸には、脱衣婆という鬼がおり、脱衣婆が死者の衣服を全て脱がせる。
 死者の衣服は、生前に俗世で背負ってきた物すべての象徴である。
 ここで俗世を剥ぎ取られ、真の裸になった死者は、「浄玻璃(じようはり)の鏡」の前に立つという。
 浄玻璃の鏡とは、閻魔大王(えんまだいおう)が持つ水晶の鏡であり、生前の悪業を全て暴きだすという。 
【地獄極楽掛図】 初七日・泰広王・三途の川 
【地獄極楽掛図】 初七日・泰広王・三途の川
【地獄極楽掛図】 初七日・泰広王・三途の川
【地獄極楽掛図】 初七日・泰広王・三途の川
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【地獄極楽掛図】 初七日・泰広王・三途の川
【地獄極楽掛図】 初七日・泰広王・三途の川
【地獄極楽掛図】 初七日・泰広王・三途の川
【地獄極楽掛図】 初七日・泰広王・三途の川
   
  
 ここまで来たら、もう生前の悪業を隠し通す事は出来ないのである。
 葬頭川(そうずがわ)とは「この世」と「あの世」を隔てる川とされている。渡り方に三通りあることから三途の川とも呼ばれるという。
 閻魔大王(えんまだいおう)が持つ水晶の浄玻璃の鏡で、それぞれの生前の行いを検証し、善人は金銀七宝で作られた橋を渡り、罪の軽い者は浅瀬を渡り、罪の重い者は深場を渡ると云われている。 
 こうして、閻魔大王(えんまだいおう)は、仏教で云う五戒(殺生(せつしよう)・偸盗(ちゆうとう)・邪淫(じやいん)・妄語(もうご)・飲酒)を全て犯した者は、地獄に落すとされている。この地獄で、なんと八千地獄年の間、地獄の責め苦を負うという。
 ちなみに、地獄界の一年は、人間界の時間で言うなら三十二億八千五百万年になるという。これは計算することも無意味な程の、途方もない年数となるから、いわば永遠の地獄としての象徴として使われているのであろう。
 それにしても、五戒(殺生・偸盗・邪淫・妄語・飲酒)を犯すと、永遠の地獄に落とされるとは、なんとも凄い話しではないか。
 筆者など、妄語は発するし、飲酒はするし、空想では邪淫もしている。
 さらに夢では、盗みもしたかも知れぬ。唯一、殺生だけはしていないと、言いたいが、どれほど豚肉や牛肉や魚を喰ってきたか。
 だから、筆者は三途の川を渡るつもりは無いし、地獄なぞは存在しないと、固く信じて疑わないのである。 




続く

肥前長崎紀行2

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