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    肥前長崎紀行2
    
      肥前長崎紀行 2 目次

   

  雲仙福田屋  せせらぎの湯  数寄屋造り   相田みつを  みずなし本陣
  
被災家屋保存公園  普賢岳の土石流   普賢岳火砕流  土石流対策
  島原城  森岳城築城  南蛮貿易とカトリック  伴天連と切支丹

   
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雲仙福田屋

 幹事が予約していたのは、民芸の宿「雲仙福田屋」であった。
 雲仙市小浜町雲仙にあり、雲仙の温泉街の端に位置していた。
 大きな観光ホテルに比較するとやや小振りなホテルであったが、中に入ると古民家を思わせる風雅な造りが随所にみられ、とても落ち着いた雰囲気であった。

      雲仙福田屋

 早めの四時半頃に到着し、エントランスを入ると、古民家の黒光りする梁をふんだんに使った、全体的に和風のまさに民芸調のロビーがあった。
 ロビーには、相田みつをの「こころのギャラリー」があり、独特の書体の「今日が一番いい日」などの書が展示されていた。   
 湯につかり「体を癒し」、書につかり「心を癒す」という「もてなしの心」かららしい。 我々が通されたのは、純和風の落ち着いた部屋であった。
 HPを見ると、無論洒落た洋室もある。洋室とはいいながら、天井の照明や家具調度に、民芸風の装飾で、個性を演出している。
 今回初めての夫婦同伴の旅となり、それぞれ夫婦一部屋の部屋割りであった。

 


せせらぎの湯
 
 各自割り当てられた部屋で一息入れ、さっそく和風の露天風呂の白濁した温泉に男性四人で浸かった。
 少人数の団体や家族旅行に主眼を置いているから、貸し切り露天風呂が四つもある。
 ホテルの裏に清流が流れており、せせらぎの音を愉しみつつ入る露天風呂は、自然の豊かさを感じられ、まさにくつろぎと癒しの温泉である。

      雲仙の湯 

 雲仙の湯は、硫黄を含んだ強い酸性泉で、前にも触れたが温泉の主成分は鉄イオン、アルミニウムイオン、硫酸イオンであり、温泉療法としてリュウマチ、糖尿病、皮膚病に特に効果があると云われている。
 温泉療法が盛んなヨーロッパでも、これだけ強い酸性泉は見られないという。
 温泉が透明だったり、白く濁っていたりする。本来、硫黄泉は透明だが、源泉の地獄からの配管で引湯するとき、硫黄を含んだ鉱泥が混じって流れてくる。そのため白く濁って見えるという。

 温泉の楽しみは、やはり何度も温泉に浸かることで、特に朝湯が楽しい。
 朝は血液の粘性が高くなっているから、温泉に入るとサラサラの状態になって血流が活発になり、身体が活動的な状態になる。
 だから、朝湯が一番健康によいという。
 熱いお湯は、交感神経を刺激し、身体を活動状態にする。
 また、ぬるめのお湯は副交感神経に作用し、体をリラックスさせる。旅行などで体が疲れている時は、ぬるめのお湯に入り、朝、活動前には熱いお湯に入るのが理想だという。
人の血液は、夜になると粘性が強くなっている。そこで熱いお湯にすぐに入ると血管が詰まりやすくなるという。
 宴会などで大量の飲酒をした後「酔い覚まし」に温泉に入ることがあるが、これはとても危険だという。特に血圧が高い人は要注意だという。
 アルコールも入浴も、血管を広げ血液の循環をよくする。本来脳へ行くはずの血液が、皮膚表面へ移動し、貧血をおこしやすくなるという。また心拍数が上がるので、不整脈・心臓発作もあり得るという。
 また食事の後すぐ温泉に入ると、胃や腸に行くはずの血液が皮膚表面へ移動し、消化・吸収の働きが低下する。また、お湯の圧力で、胃から腸へ行くはずの食物が移動しにくくなる。
 だから、最低三十分から一時間ほどの休憩をとり、ぬるめのお湯に入浴するのが良いとあった。

 



数寄屋造り

 今回の旅で、初めて顔合わせをした我々OB会の奥方同士は、現役のキャリアウーマンで如才無く、しかもお互いの伴侶が仲の良い友人達という関係もあり、すぐに打ち解け合ったようである。
 各奥方は、お互いにOB会旅行の話しを何度も聞かされているから、とても初めて逢った気がしないのであろう。
 さて、我々八人に準備されていた宴会場は、まさに民芸茶屋のような、とても雰囲気の良い和風の広すぎるほどの部屋であった。黒光りする板張りに、重厚なテーブルが中央に据えられ、囲炉裏のような切り込みがあり、天井から自在鉤(かぎ)が吊り下がっている。
 壁面には砂壁調の壁紙が貼られ、ちょうど茶室のように和紙の裾張(すそばり)が貼ってある。
窓ガラスには、軽快な銀杏(いちよう)模様の変形桟木がある洒落た建具であった。
また床の間の壁面が、大胆な変形の半円状にくり抜かれていた。桂離宮を思わせる、その大胆な数寄屋風の意匠に目を見張った。
 この稿を書くに辺り、改めて福田屋のHPを見に行ったが、我々が案内された雰囲気の良い和風の広すぎるほどの部屋はなく、三つの小さな宴会用和室に改装されていた。
 いわゆる団体客が減少の一途で、小グループの旅行が主流となったからであろう。
 数寄屋造りとは、日本の建築様式の一つであり、数寄屋(茶室)風を取り入れた住宅の様式とされている。

   数寄屋建築

 語源の「数寄(すき)」(数奇)とは、和歌や茶の湯、生け花など風流を好むことであり、「数寄屋」は「好みに任せて作った家」といった意味がある。数奇屋大工が造る、独特の軽快な木造軸組工法の家屋のことをさしている。
数寄屋建築は、書院建築が重んじた「格式や様式」を極力排しているのが特徴である。虚飾を嫌い、内面を磨いて、客をもてなすという茶人たちの精神性を反映し、シンプルながらも、洗練された意匠となっている。
数寄屋と呼ばれる茶室が出現したのは安土桃山時代である。もとは庭園に面した別棟として造られ、多くは四畳半以下の茶室を「数寄屋」と呼んだ。
 当時は、床の間、棚、付書院(つけしよいん)を備え、座敷を荘厳(そうごん)する書院造が確立されて、身分の序列や格式を維持する役割を持つような時代であった。
 安土桃山時代に流行し始めた茶道は、格式ばった意匠や豪華な装飾をきらった。そこで好まれたのが軽妙な数寄屋だったのである。




相田みつを

 福田屋の正面玄関には、相田みつをの「きょうが一番いい日」
の書を板に彫り込み、店の看板のように立てかけてあった。
ホテルに到着した人も、こらから旅立つひとも、みなこの
「きょうが一番いい日」の書を
みて、なんとなく気分が良くなるのである。

          相田みつを

 昨日も楽しかったが、きょが一番いい日にしよう、そんな気分で出発した。

 相田みつをは、書家・詩人として、誰のまねでもない、自分の書、自分の言葉を探し続けた。
戦中・戦後の混乱期の中で青春を過ごし、「いのち」の尊さをみつめながら、独自のスタイルを確立し、多くの作品を生み出している。
自分の弱さや甘えを正直にさらけだし、人間である自分をあるがままに表現した。その作品をみると、ある時は「しみじみと」、ある時は「勇気を与え」てくれるのである。

 大正十三年栃木県足利市生まれ、本名は相田光男である。
 旧制足利中学を卒業後、歌人山下陸奥に師事し、のちに曹洞宗高福寺高僧の武井哲応老師に師事し仏法を学んでいる。
 また書を岩沢渓石に師事して学んでいる。
 これらの経歴が相田みつをの独特の哲学的な詩と書を創り上げている。 
 昭和二十九年三十歳のとき、足利市で第一回の「自分の言葉・自分の書」による展覧会を開催している。
 その後、独特の書体で「毎日書道展」に七年連続で入選している。
 以後全国で展覧会を開催し、また多くの詩集も出版している。
 六十歳の時出版した『人間だもの』 がミリオンセラーとなっている。『おかげさん』 『一生感動、一生青春』など多数の著書がある。
我が家にも相田みつをの
『いのち いっぱい』が書棚にある。一部を転載しておきたい。

      相田みつを
    相田みつを
 
      
     相田みつを
    

   



みずなし本陣
 
 福田屋の前で記念撮影したあと、幹事は、我が一行を国道251号線沿いの、普賢岳を望む水無(みずなし)川そばに位置する道の駅の「みずなし本陣」へ案内してくれた。
 この道の駅が建てられている地域こそ、平成三(1991)年の雲仙普賢岳噴火で、特に大きな被害を被った場所であった。
 このため、道の駅としては全国初の「土石流被災家屋保存公園」に隣接している。

    みずなし本陣

 自然との共存をテーマに、「雲仙岳噴火災」と、「土石流被害」を、風化させない様に、後世に伝える貴重な施設として建設されている。
 このため、火山学習館や大火砕流体験館なども併設されている。
 しかし本来が道の駅だから、当然レストラン等の施設が充実している。他に、島原半島の特産品が揃うお土産屋や、地元の新鮮な農産物が手に入る青空ふるさと市場などもあった。島原は、この未曾有の普賢岳の噴火と、そのあとの土石流被の大災害を乗り越え、逞しく復興しているのである。
 我が一行は、火山学習館や大火砕流体験館などには時間の都合で立ち寄らなかったが、被災家屋保存公園で、実際に土石流の被害にあったままに保存されている家屋を目の当たりにして声えもなかった。
 



被災家屋保存公園 

公園の敷地面積は、約6,200平方メートルで、大型テント内に三棟(内一棟移築)、屋外に八棟、合計十一棟の被災家屋を保存展示していた。
 公園内のすべての家屋は、平成四年八月八日~十四日の土石流により被害にあったもので、平均約二・八m埋没している。

    被災家屋保存公園


 このような土石流災害跡を保存した公園は、全国でもこれまでに例がない。
この公園は、普賢岳のふもとに位置し、日本で一番新しい山である平成新山を一望することができる場所にある。
この位置から何キロも離れ、公園から遠望しているあの平成新山の一部が、長雨によって表層の火山灰などが崩落し、土石流となって一気に海岸へ流れ落ちたのである。
 当時は、テレビの報道番組で、何度も火砕流や土石流のすさまじい流れを見た記憶がある。
 しかし、改めてこの罹災(りさい)家屋の屋根を目線低く見て、まさに息をのむ思いであった。
 旅行の記念として、風景のようにカメラを向けるのに、一瞬ためらいを感じた。

     被災家屋保存公園

 この土石流被災家屋保存公園では、土石流災害のすさまじさと、火山砂防・治山事業など、防災事業の重要性を学ぶことが目的で造られたという。





普賢岳の土石流
 
 この自然災害の恐ろしさについて少し触れておきたい。
 谷や川底に積もった石や土砂が、長雨や集中豪雨によって、地下の保水能力が飽和点に達すると、一気に下流に押し流される現象が土石流である。
 数十トンもある大岩を、石ころのように押し流す破壊力をもつ土石流は、毎年集中豪雨で日本各地でも様々な被害をもたらしている。

    普賢岳の土石流

 しかし島原では、火砕流によって、火山岩や火山灰が厚く堆積した山の斜面や川を中心に、長雨によって何回も土石流が発生した。 もともと集中豪雨や台風の被害は少なくない地域ながら、火砕流の後遺症によって、比較的降雨量の少ない場合でも被害が広がった。
 火砕流が到達しなかった地域でも、土石流が発生し民家や橋、道路、鉄道を押し流し、市街地や耕地を土砂で埋め尽くした。
 普賢岳の山ろく地域は、酪農や葉たばこの産地として知られていたが、土石流や火砕流って大きな被害を受けた。 平成三年6月30日に発生した土石流は、国道57号線を寸断し、国道251号線を越え海岸線まで達した。
この土石流での、家屋の全半壊は148棟に及んでいる。
 平成四年8月8日には、台風10号の影響で土石流が再発生し、30ヘクタールの地域で氾濫が起こり島原鉄道、国道251号線が土砂に埋没した。この土石流での、家屋の全半壊は355棟に及んでいる。
  
   土石流

   平成五年4月28日~五月2日には、水無川、中尾川で土石流が発生し、水無川河口より2キロメートルの地点で70ヘクタールにわたり扇状に氾濫し、国道、島原鉄道が広い範囲で土砂に埋没した。
 この土石流で、家屋の全半壊は338棟に及んでいる。
 さらに六月13日から七月17日にかけて、水無川、中尾川で大規模な土石流被害が頻発した。国道251号線は、市内を南北に横切る幹線道路である。
 その南端を流れる水無川の土石流は、上流から国道を縦断し有明海にいたる広い範囲で、橋梁の流失や道路の埋没が起こり、諌早方面へ抜ける北側の中尾側沿いでも道路の水没に見舞われ、島原市は幾度となく孤立状態に陥った。
 またこの時期は、火砕流も頻発し、降雨に多量の降灰が混じり、泥雨化するなど市民はダブルパンチを受けて絶望的な気分が広がった。





普賢岳火砕流
 
 雲仙・普賢岳は、平成二年11月17日、百九十八年ぶりに大噴火した。
 普賢岳の噴火は、災害史上例のない異常な長期災害(1990年~1995年(平成2~7年))となり、そのため多くの被害をもたらした。
 災害は、直接の被害地である、島原市や深江町などにとどまらず、島原半島全体が、人口の減少や経済活動の停滞などの影響を受けた。

     普賢岳の爆発    

 当初は九十九島、地獄跡両旧火口から白い噴煙が上がり、水蒸気を上げて噴火が百九十八年ぶりに始まった。
 初めは、火山灰も少なく、溶岩ドームも形成されなかった。
 が翌年、平成三年2月の屏風岩火口ができてから、火山活動が活発化し、三つの火口からの噴火で、大量の降灰が深江、島原方面へ降り注くようになった。
 また、雨が降ると火山灰の土石流が発生し、水無川に沿って海岸まで達した。
 五月20日、地獄跡火口に、最初の溶岩ドームが出現し、その後溶岩ドームは成長と崩壊を繰り返し、火砕流が頻発するようになった。
  
     普賢岳の溶岩ドーム

 六月3日には、成長した溶岩ドームの地滑り的崩壊によって、最大規模の火砕流が発生し、報道関係者、消防団員、警察官ら四十三名の犠牲者を出す、大惨事となった。 
 当初の小規模の火砕流の映像が衝撃的だったことから、テレビ局などの取材競争が過熱した。
 十分な知識を持たない報道関係者が、普段消防や警察も立ち入らない危険地帯に多く潜入する事態を招いた。無人になった人家に侵入したり、取材班による電力窃盗も発生していたため、消防団員や警察官はそれらを取締るために、引きずり込まれる形で危険地域に入ってしまい、結果として大量の犠牲者が出ることになった。   

 取材に当たっていた報道関係者十六名(アルバイト学生含む)、火山学者(クラフト夫妻と案内役)三名、警戒に当たっていた消防団員十二名、報道関係者に同行したタクシー運転手四名、警察官二名、選挙ポスター掲示板撤去作業中の職員二名、農作業中の住民四名の合わせて死者行方不明者四十三名と多数の負傷者を出す大惨事となった。
報道関係者が残したフィルムの中には、明らかに警察官や消防団員の避難勧告や静止を無視して撮影された内容が記録されている。
また、報道関係者に同行したタクシーの運転手は、報道関係者の身勝手な行動に巻き込まれ亡くなっている。
 当時、島原の被災地域では、拘束力のない「避難勧告地域」に指定しただけで、結果として行政の対応も問題とされたが、同時に加熱する報道のあり方を、改めて問われる事となった。
   
     普賢岳の火砕流

最終的には、普賢岳の火砕流は9,432回にも及んでいる。
 その後、溶岩ドームは、第十三ドームまで出現したが、平成七年(1995)には、噴火活動~停止し、5月には「終息宣言」が出されている。
 約二百年ぶりに起きた「平成の島原大変」は、死者44名、建物被害2,511棟、被害総額2,299億円など、地域生活や経済活動に長期にわたって大きな被害を与えた。





土石流対策
 
 大量の土・石・砂などが、集中豪雨などの大量の水と混じり合って、津波のように流れ出てくるのが土石流である。
 流れの先端部に、大きな岩があることが多いため、破壊力も大きく、スピードも速い。
 日本全国の山間部では、毎年豪雨の度に土石流の悲惨な被害を受けている。
 このような災害を防ぐために、砂防事業として、「砂防えん堤」が築かれている。 
 砂防えん堤は、上流から流出してくる土砂を、貯留し、下流への流出を軽減するとともに、渓床(川床)に溜まっている、不安定な土砂の流出を抑制する働きをもっている。
 最近は、平常時の無害な土砂を通過させ、魚などの往来を容易にする透過型の砂防堰堤の設置も進められている。 

      砂防えん堤

 島原では、砂防事業として、砂防えん堤や、その他渓流保全工事、地滑り防止対策として、横ボーリング等で地下水を取り除くなど、地すべりの動きを抑える工法で、もう一つは、動こうとする地面に大きな杭を打ち込むなど、力で地すべりの動きを止める工法などが採用されている。
 




島原城

 被災家屋保存公園で、改めて自然災害の驚異を実感した。
 被災家屋などを見学した後、広瀬幹事の車に乗り込むと、次の目的地がJR島原駅近くに復元されていた島原城であった。
時間は十時半ころであった。
 青い空に白い五層の天守閣がよく映えていた。
 堀から十五mも上に矢狭間(やはざま)をもつ瓦葺白壁塀とその上に三層の巽櫓(たつみやぐら)、右手の丑寅櫓(うしとらやぐら)と左手の西櫓も見える。
 その上に五層の白色総塗込(ぬりごめ)の天守閣が35mの高さに聳え立っている。

    島原城

 島原城は寛永元年(1624)、松倉豊後守重政(しげまさ)が七年の歳月をかけて築いたものである。
 五層天守閣を中核に、大小の櫓を要所に配置した、安土桃山期の築城様式を取り入れた壮麗な城であったらしい。
 築城以来、約二百五十年間、四氏十九代の居城としてその偉容を誇ってきた。
 しかし明治時代に入り、多くの城と同様に廃城となり、惜しくも島原城も解体されてしまった。
 この名城と云われた島原城も、立ち木一本に至るまで民間に払い下げられ、売却されてしまった。
 島原の乱で炎上を免れ、寛政の普賢岳噴火でも倒壊を免れた天守閣も、明治九(1876)年には解体されている。
 その後長い年月、本丸は畑地となり、天守台のみが残っていた。

     島原城

 三の丸は学校用地になり、広大な御殿跡に第一小学校と島原中学校(後の島原高校)が開校し、一時期女学校と商業学校、第一中学校が置かれた。
 天守閣をはじめ、すべての建物を破壊された島原城は、唯一城壁だけがそのまま残っていた。  
 島原市民は、島原の象徴として、また観光の目玉として「島原城」の復元を各方面に働きかけ、大正末の島原城絵や藩日記や記録などを元に、築城当時のように復元されたものである。
 昭和三十五年にまず「西の櫓(やぐら)」を復元し、続いて三十九年に「天守閣」を復元させている。
 復元された島原城は、館内を資料館として公開している。
 我が一行は資料館には入らなかったが、各階毎に「キリシタン史料」「郷土資料」「民俗資料」と分けて展示している。
 昭和四十七年には「巽(たつみ)の櫓」を復元して、郷土出身者で文化勲章受賞者である彫刻家の北村西望(せいぼう)の彫塑を展示した「西望記念館」開館している。
 北村西望(せいぼう)は、南島原出身の日本を代表する美術家の一人であり、特に代表作である大作「長崎平和祈念像」は、特に有名である。文化勲章、文化功労者顕彰、紺綬褒章受章している。
 さらに平成八年には、雲仙普賢岳噴火災害を映像と各種資料で紹介する「観光復興記念館」を開館している。
 島原城の石垣は、緩やかな曲線を描きながらも垂直近くに立ち、築後三百八十年の風雪によく耐え、独特の風格を持っている。
 突角(つきかど)が十三箇所もあり、この突角(つきかど)を設けることで防衛上の死角をなくす工夫を施している。次頁写真の通り、突角(つきかど)は城に荘重さもたらし、またそれが美観を醸し出している。兵法の大家、築城の名人と云われた、松倉豊後守重政の築城で、名城の名があった。
 御堀には、春の菖蒲、夏は蓮の花に彩りされ、島原市民の憩いの場所だという。
 また年間約30万人が訪れて、島原観光の名所となっている。





森岳城築城

 かつて此処には森岳(もりたけ)と言う小山があった。
 有明海に臨み、雲仙岳の麓に位置するこの森岳に、延べ百万人という労力と、七年の歳月をかけ寛永元(1624)年、島原城を築城したのが、松倉豊後守(ぶんごのかみ)重政(しげまさ)である。
元々は筒井家の家臣であった松倉重政は、後に豊臣家の家臣に転じた。その後の関ヶ原の役(えき)では、機敏に東軍の家康側に加勢し軍功を上げて、家康により大和五条の城主となった。
 その後大阪の陣の直後の元和二年(1616)、有馬晴信の旧領であった肥前日野四万三千石を与えら、島原に入部し日野江城に居を構えた。
 その後、江戸幕府の方針により、「藩に一城」の法度(はつと)が出され、不要の城は破却せよとの達しがでた。
 このたため、重政は有馬氏の居城であった原城と日野江城とを廃し、島原港近くの森岳の高台に、新城を築くことにしたのである。有馬氏の居城であった原城と日野江城は、その位置が島原の南に偏り過ぎ、また中世の平城(ひらじろ)では防御に弱く、また手狭であった。この為、幕府に新城である森岳城の築城を願い上げ、許可されている。これが島原城で、当初は森岳城と呼ばれていた。
 
    森岳城の遺構

 森岳に築城するにあたり、北側と東側を埋め立て、武士屋敷や三会町を造り、さらに城下町を整備したから、かなり大規模な土木工事であった。
 縄張りは南北に連なる連郭式(れんかくしき)平城で、外郭は周囲約4㎞の長方形で塀をめぐらし、城門が七か所、平櫓(ひらやぐら)が三十三カ所あった。また突角(つきかど)が十三箇所もあり、この突角(つきかど)を設けることで防衛上の死角をなくす工夫を施している。
 約4㎞の堀は、十五mの深さがあり、垂直に近い頑丈な石垣が特徴である。
 内郭は堀にかこまれた本丸と二の丸を設け、その間は廊下橋で結ばれていた。その北に藩主の居館である三の丸が造られた。
 本丸は、安土桃山式建築の粋を集め、総塗り込みの五層の天守閣をはじめ、三か所に三層櫓(やぐら)を備えた豪壮堅固な城構えである。

     森岳城築城と天守閣

 天守閣は、破風(はふう)を持たない独立式層塔型の五重五階で、最上階の廻縁(まわりぶち)高欄(こうらん)を後に、戸板で囲ったため「唐造り」とも呼ばれていた。
島原は元来、火山灰や溶岩流から形成されている地盤だから、その普請工事は困難を極めたという。
 七年にも渡って、延べ百万人という領民が労役に徴発され、加えて過酷な年貢の取り立てに合い、やがて領民の一揆を引き起こす一因となっている。
 ともかく四万石の大名にしては、過分の城の縄張りであった。
 
 島原城は、築城以来二百五十年にわたり、歴代島原藩主の居城として、藩政の中心として栄えた。また軍事上の拠点として、特に松平氏統治時代は、九州の隠れ目付として重要な任務を担った。





南蛮貿易とカトリック

 戦国時代の終わりに、ポルトガル人やスペイン人が相次いで日本へ来航して、カトリック教と共に南蛮文化を伝えた。当然長崎に近い島原地方にも、キリスト教をはじめ南蛮文化が栄えた。
 そもそも南蛮とは、元来は中国王朝が、その南の地方のことを、未開文明の地域として蔑称して、南蛮地方と呼んでいた。
 日本では『日本書紀』の時代には、朝鮮半島南部の未開の地や、薩摩の西の琉球も南蛮と称している。室町時代以降は、日本では南蛮とはポルトガル、スペインを意味する言葉として使用されている。
 
 さて、南蛮文化の代表は、天文十二年(1543)ポルトガル人が種子島に漂着して伝えた鉄砲と、天文十八年(1549)にスペインのイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルとその一行が、鹿児島に上陸し伝導したカトリック教である。
 ザビエルの一行は、薩摩領主の島津貴久(たかひさ)から許可を得て布教活動に従事した。しかしその後、仏教の僧侶からの猛反発にあい、鹿児島には一年ほど布教活動しただけで、長崎の平戸に移っている。
 その後、博多、山口を経て、日本国内全域での布教活動の許可を求め、堺に上陸し京に向かった。しかし時の室町幕府将軍の足利義輝(よしてる)は、すでに将軍としての権力を失いかけており、布教の許可を与えなかった。

   南蛮貿易

 これらの事情を知ったザビエル一行は、地方の有力大名の保護を求めるのが得策であると、方針転換を余儀なくされた。
 まずは、足利将軍家に対抗しうる山口の有力大名の、大内義隆(よしたか)に接触して布教の許可を求めた。 代々大内家は、細川家と交互で、室町期の「日明(にちみん)勘合貿易(かんごうぼうえき)」を主催し、貿易がどれほどの利益があるかを体験的に知っている。
 このため南蛮貿易の利を考え、ザビエル一行を保護し、布教活動を許可した。
 続いて、九州に覇を唱える豊後の大友宋麟(そうりん)にも迎えられ、順調に信者を増やして行った。
 戦国期の西日本は、山口の大内家、豊後の大友家、薩摩の島津家が三すくみでライバルとして互いに牽制しあっていた。
こうした背景で、有力大名は、この南蛮貿易で大きな利益を得、さらには鉄砲などの武器も手にした。
 南蛮貿易では、ポルトガルはヨーロッパの毛織物、鉄砲、火薬、タバコと中国からの生糸、絹織物、皮革、サツマイモ、そして東南アジアからの香料を日本にもたらし、日本の銀と交換していた。当時、世界の貿易決済の通貨の役割は銀であった。
ところが、戦国時代の日本では石見(いわみ)銀山の開発や他の銀鉱脈の発見が相次ぎ、また「銀の灰吹き法精錬」が開発され、日本国内の銀の生産が急増している。
 このため、日本の銀は、世界相場と比較すると安かった。
 こうした背景で、ポルトガル船来航の最大の目的のひとつは、日本銀の獲得であった。ポルトガルは日本から、銀・銅・鉄・硫黄などの鉱産物、刀剣・工芸品・各種道具、海産物、漆器、工芸品などを輸入した。
ポルトガル人は、南蛮貿易で輸出品の決済通貨として銀を要求し、さらに非鉄金属としも銀を獲得し、ヨーロッパで巨利を得たのである。

    島原の千々石ミゲルら四人の少年使節

 弘治二年(1556)には、ついに将軍足利義輝も布教を許可することになった。
 これによって全国的にカトリック教は広まり、中には大名自らが信者となる切支丹大名もあらわれた。
 こうした背景で、切支丹大名として有馬晴信(はるのぶ)、大村純忠(すみただ)、そして黒田如水や黒田官兵衛、高山右近などが有名である。
 当時の領主の有馬晴信(はるのぶ)は、南蛮貿易を積極的に進め、自ら切支丹大名となってカトリック教を保護した。
 そのため島原地方は、長崎と共に一時は切支丹王国のようになった。
 島原領内各地に教会が建てられ、有馬にはセミナリヨ(初等神学校)が、後には加津佐にコレジオ(高等神学校)が開かれた。
 島原の千々石(ちぢわ)ミゲルら四人の少年使節は、遙かなるローマまで旅立ち、教皇(きようこう)に拝謁する快挙を成し遂げた。





伴天連と切支丹

 キリシタン(christão)は、日本の戦国時代から江戸時代、更には明治の初めごろまで使われていた言葉である。 もともとはポルトガル語であり、英訳すればクリスチャン(Christian)となる。
 日本の歴史で使用される通例では、カトリック信者のみを指し、漢字では吉利支丹、切支丹などと書く。 江戸時代以降は、禁教令等による弾圧に伴い、侮蔑を込めて切死丹、鬼利死丹という当て字も使われるようになった。
 ポルトガルとイスパニア(スペイン)は、ローマン・カトリックを世界に弘め、貿易による国家繁栄を目指し、植民地を求めて世界の海に乗り出した。イスパニアは西回りに、ポルトガルは東回りに大航海に乗り出した。地球を半周し、その合流地点が偶然日本となっている。

         南蛮人


 日本でのカトリックの布教は、ポルトガル船が先に戦国時代の薩摩に漂着し、島津氏の庇護の下薩摩から始まった。
 南蛮貿易の利益を目当に、薩摩を始め有力大名の庇護を受けて、九州地方を中心に布教が進んだことは前にふれた。
 また、天下統一を目指していた織田信長も切支丹の庇護者の一人であった。伴天連(ばてれん)のもたらした、ヨーロッパ文明を信長流に利用しようとした。
 特に鉄砲を戦術的に利用した最初の武将でもある。
     
      南蛮人

 ところで、伴天連(ばてれん)とはポルトガル語のパードレ(padre )の漢字表記で、カトリックの宣教師の称であったが、のちカトリック教、およびカトリック教徒の称として使われている。
 一般的には、伴天連(ばてれん)はカトリックの宣教師、切支丹はカトリック教、もしくはカトリック教徒の意味で使用されているから、この稿はそれに従う。
 が、信長が本能寺の変で急逝し、秀吉がその跡目を継いで日本の統治者になってゆく。この信長の継承者である豊臣秀吉が、天正十五年(1587)六月十九日、全面的な「切支丹禁止令」と、「伴天連追放令」を発布しているのである。      



続く

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