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    韓のくに   ソウル紀行1

景福宮全景
 
  
   目次

  
   会社の寿命   関西国際空港(KIX)   出国手続き   ムクリ・コクリ   百済 (ペクチェ)   

   金浦空港 (GMP)  入国審査 (immigration )  ソウル市内へ   韓国国産車    

   漢江(ハンガンHan-gang)   ロッテホテル   デラックス・ルーム    イルミネーション
   
   明苑 (ミョンウォン)   韓式マナー   S社長   両替店(換銭)     ウォン安
  
   ソウル地下鉄    東大門市場 (トンデムンシジャン)    東大門 (トンデムン) 

   清渓川(チヨンゲチヨン)   アクシデント1   故宮ツアー   景福宮(キョンボックン)

   青丹(あおに)よし   西遊記と玄奘三蔵   景福宮の復元    数奇な運命     



 

会社の寿命

 SS工業株式会社の創業50周年記念イベントとして、本社全社員の海外旅行が企画され今回はソウル旅行が実施された。
 
 昨年九月の「サブプライム問題」に端を発した、アメリカ発の金融危機が発生し、世界的な金融危機と経済危機が世界中に連鎖している。 ついには日本を代表する製造業が、昨年から何度も業績修正発表を余儀なくされ、大幅な赤字決算予想を相次いで発表している。
 その結果、いわゆる派遣社員の途中契約解除や派遣契約更新打ち切りが国会でも大きく取り上げられ、「派遣切り」が深刻な社会問題となった。
 多くの人々が、かつてだれも経験したことのないような世界的な経済危機に直面している。
 こんな時代に、本社全社員で海外社員旅行を敢行するというのは、まさに堅実経営を果たしてきた結果の証といえる。
 
 SS工業株式会社は、昭和36年12月に設立されているから、去年十二月で創業50周年である。
 会社を創業して無事50周年を迎えられるというのは、人生に比較すると百歳の長寿を祝う事と同じような希有(けう)のことと言わねばならない。
 なぜなら、『会社の寿命30年』という本がかつて出版され、「会社の寿命30年説」が今も幅を利かしているからである。
 ちなみに、優良企業として名のある企業で、今年で創業50年前後の企業を列記してみると、船井電機(47年)、京セラ(49年)、ローム(50年)、 イトーヨーカドー(50年)、テレビ朝日(50年)、ホンダ(50年)、NTT(56年)、などとなっている。テレビ朝日が今年が開局50周年で、さまざまな特集番組を組んでいる。
 企業の設立50周年というのは、このように実に大変な偉業ともいえる。
 日経ビジネスが1983年九月、総資産額のランキング分析を基に唱えた
 「企業にも寿命があり、優良企業とはやされても盛りは30年まで」
という調査結果を出版し、企業経営者に衝撃的に受け止められた。
 
 それから21年経た2004年九月公表の、日経優良企業ランキング(NEEDS-CASMA)を使って、日経ビジネスが再度「30年説」の検証を試みている。
 調査対象企業は、CASMAと同じ2,278社で、NEEDSに収録されている企業の設立年月日から、2004年三月末時点の企業の年齢をはじき出し、それを基に11のグループに分けて調査した。11のグループごとに、CASMAの総合評点と、規模、収益性、安全性、成長力の4部門の得点を平均した。
 その結果、設立十年代未満のグループが、599点と総合評点が最も高く、十年代の577点、二十年代の541点と若い順に高得点が続いている。
 それ以外のグループは、30年代、40年代、100年代以上のグループが、比較的健闘しているが、全体としては平均点である500点前後となっているという。 

    高層ビル

 結論として、
「本当に生きが良いのは、最初の 10年」
「元気な優良企業でいられるのは、30年」
迄という実証結果であり
「会社の寿命30年説」は、いまも健在といえる、と結論づけている。

 ただ、企業年齢がすべてではなく、設立30年を過ぎた企業群について、総合評点の上位を見ると、一位の武田薬品工業(設立後79年)、五位のキヤノン(同66年)、六位の任天堂(同56年)、八位のトヨタ(同66年)など、十位のローム(同46年)など、超優良企業がひしめいている。
 トップ十社のうち、七社は設立30年以上の企業である。
 こういった企業群は、規模の得点が高く、収益性や安全性などでも高得点とバランスよく得点を稼いでいるのが特徴である。
 超優良企業がいながら、30年以上の会社群がグループとして「並」になってしまうのは、企業が中高年になるにつれ、脱落する会社も多いことを示している。
 トップテン入りする企業の多くは、収益性の高い事業への「選択と集中」や、グローバル化などの最適展開などを図っているからである。

          会社の寿命

 そうした自己変革を続けることが、設立30年を過ぎた後も、輝きを保つカギのようである。
 四つの指標のうち、最も年齢と関わりがあるといえるのが規模の指標である。
 設立十年以下が38点と最も低く、年数と共に上昇、百年以上は60点と最高点に達する。
「小粒でも、生きが良いのが、30年」
というのが、優良企業となりうる最初のステージであるという。
 その後は、規模をさらに拡大しつつ、変革を続け、以前の強さも維持していくのが、次に訪れるステージといえると、結論をだしている。

 以上のような調査結果をみると、SS工業株式会社が、S会長が創業され、まさに優良企業として30年の歳月を費やされて、安定基盤を構築された。この優良企業を継承された二代目のS社長は、時代の変化に対応すべく、収益性の高い事業への様々な「選択」と経営資源の「集中」を果敢に実行された。 
 またS会長の意向を受け、地球環境を考えた、次の戦略事業の芽もちゃんと種まきされ、育まれている。
 このような収益性の高い事業への「選択と集中」へのシフトが成功し、創業50周年記念イベントが敢行されるのである。

 



 関西国際空港(KIX)

 1994年9月に開港した関西国際空港は、日本の空港初の旅客と航空貨物の24時間運用の第一種空港である。 泉州沖5㎞の人工島に作られた、日本で二番目の本格的な海上空港で、国際空港コードKIXと登録されている。  関西の国際拠点空港として、二本のオープンパラレル(同時に離発着可能)の並行滑走路を有し、二本目は日本最長の四千m滑走路である。

   関西国際空港全景

 イタリアを代表する建築家レンゾ・ピアノ(Renzo Piano)が設計した空港ターミナルビルは、翼を模した緩やかな円弧状のカーブを描く独特の形となっている。
 20世紀を代表する建築物に贈られる「Monuments of Millennium」の「空港の設計・開発」部門に選定され、また空港の設備やサービスでも利用者の投票による評価で、世界第4位に選ばれるなど、空港設備やその機能について、海外から非常に高い評価を受けている。
 
    関西国際空港ターミナルビル

 ただ、この空港の運用については、当初の方針と異なり、伊丹空港に国内線の大半が残され、当面黒字化が見込めないらしい。複雑な空港行政に翻弄されている。
 
 




 出国手続き

 さて、今回の「50週年記念旅行」は、この関西空港の4階にある国際線出発ロビーの日本航空カウンター前で集合となった。妻の家族という資格で参加を許された者としては、社長以下全員とは初対面で、ご挨拶するまでは少し緊張した。
 4階にある国際線出発ロビーに上がり、日本航空カウンターの集合場所を確認しようとしたら、
「佐野さん」
と声が掛かった。
 社長と奥様が、すでに椅子に腰掛けておられたのである。
 妻も海外旅行ということで緊張しており、うっかり社長ご夫妻の前を素通りしてしまったらしい。慌てて社長ご夫妻に挨拶をさせて頂いた。まもなく、T部長、S課長その他の社員さん達も揃われ、妻に伴われて一々挨拶をさせて頂いた。この間が一番緊張したが、幸いどなたも気さくに対応して頂いた。
 
    関空出国ロビー

 社長の第一印象は、とてもダンディーな英国紳士を想像させた。
 ラフな格好ながら、上質な上着の着こなしが粋で、メタボとは縁遠いスレンダーな体型をしておられた。
 そして何よりも、とても気さくに社員さんと会話を楽しんでおられた。
 社長は、英国留学の経験をお持ちだと、帰ってから妻に聞いて得心した。また社長は常々、
「人との出会いと、その縁を大切にしている」
と言っておられると聞いた。
 まさに「企業は人なり」と言うが、社員を大切にする会社は発展するという。
 その事を、着実に実施されているのだと実感した。

 ここで少し余談をはさみたい。 
 一口に創業50周年と言うが、企業が一本調子で成長できる筈(はず)もない。
 まして、二代目社長が、先代の事業を引継、その業容を拡大できるのは希有(けう)のことである。半世紀という長い時代の変化のなかで生き残り、かつ発展させるのは容易なことではない。
 これは先代の会長が、社長に対して、的確な帝王学を薫陶(くんとう)し、その経営哲学を実行されたからだと推測している。
 こうして揺るぎのない経営哲学のもとで、この世界的な経済的危機を迎えたなかでも、敢えてこのような本社全員の海外旅行を企画されたと思う。
 先行き不透明な経済的危機の時代にこそ、社員のやる気を如何に引き出すか、社員の結束力を如何に発揮させるかで、企業の命運は変わるであろう。
 また、企業間の取引でも、その製品の技術力や価格・品質なども重要な要素ながら、やはり人間関係が取引の永続性を保証するであろう。
「人との縁を大切に」
されて来た社長の経営哲学があればこそ、次々と事業運を呼び込み、大企業と互角の立場で海外子会社を運営されていると推測できる。

   関空免税店

 さて、今回の旅の幹事は、S課長でテキパキと搭乗手続きをして頂いた。
 海外旅行に不慣れな私達夫婦が、隣の席になるようきめ細かい配慮もして頂いた。
 ソウル金浦空港行きのJAL 8965便の搭乗手続きが済むと、なんとモノレールに搭乗して国際線の出国ロビーへと移動することになった。 関西空港から海外へ出国するのは初めてのことで、モノレールで搭乗口まで移動するとは予想していなかった。
 
 出国審査窓口を通ると、搭乗待合い室があり、そこには免税店があった。
 海外旅行の楽しみの一つに免税店での買い物がある。そこで、つい免税のタバコを買ってしまった。じつは、二月一日から禁煙するつもりでいたが、つい免税の魅力で、延期することになってしまった。 
 ところで、S課長のことである。
 初対面のはずなのに、なんだか初めてではない、ような親近感を感じた。
 よく考えてみると、この顔はテレビで見た気がして来た。そう、サッカーで馴染みの中村俊介にイメージがそっくりの好漢であった。帰ってからこの事を妻に言うと、ご本人も
「中国で中村俊介に似ている」
と言われた事がある、とのことであった。
 




 ムクリ・コクリ
 
 こうして無事にJAL 8965便に搭乗し、機上の人となった。
 久しぶりの海外旅行であり、前夜は興奮していたから寝不足で、機上ではついうとうとと一睡した。
 目覚めてから、これから訪れる国のことを考えようとしたら、ふとまだ幼児の頃に、駄々(だだ)をこねて叱(しか)られ泣いていると、祖母が
 「ムクリ・コクリが、さらい(掠)に来るよ」
と嚇(おど)かした事思い出した。幼い筆者は、ムクリ・コクが、とても恐ろしい妖怪のように感じていた。長じて、ムクリが蒙古(もうこ)、コクリが高句麗(こうくり)(高麗)のことであることを知った。

   蒙古来襲の図

 鎌倉時代の1274年の文永(ぶんえい)の役(えき)と1281年の弘安(こうあん)の役と称され、二度に渡って来襲し、博多でさんざん殺戮(さつりく)をした。蒙古(もうこ)と高麗(こうらい)の連合軍による「元寇(げんこう)」の恐ろしさが、侵略された博多の人々は、こういう躾(しつけ)けの形でムクリ・コクリ伝説として伝えられたのであろう。
 だから、近年の三十五年間もの日本統治時代に苦難を強いられた経験を持つ年配の朝鮮半島の人々は、日本人に対して、現在でも潜在的な反日感情が根強い。
 それでいて、経済的には密接な相互依存の関係にあり、また観光客でも日本人が一番多い。ために屈折した感情が濃厚である。
 
 朝鮮半島は、その地理的位置から、満州や蒙古などの北方民族からの侵略と、漢民族との抗争や侵略と連合といった複雑な歴史を有している。
 「前高句麗(こうくり)」王朝は、満州系の扶余(ふよ)族が、満州と朝鮮半島をほぼ勢力下においた。
 のち朝鮮半島に統一国家をたてた「新羅(しらぎ)」も、元は漢民族の「秦(しん)」帝国滅亡後に亡命してきた民族である。
 その後、また高句麗系の高麗王朝(後高句麗)が新羅を滅ぼし半島を統一している。
 この高麗時代は貿易が盛んで、アラブの商人たちが、高麗(こうらい)(コリョゥ)を、いつしかコウリアと音が変わって呼んでいたのが、今日の英語表現のコリア(Korea)となっている。
 この高麗時代に、中国にモンゴルの元帝国が成立し、六回にわたって元(げん) (モンゴル)軍が半島へ侵攻し、各地で民兵や僧兵がよく抗戦したが、1259年に降伏し、元(げん)の属国となった。この元帝国の拡張政策に基づき、高麗(こうらい)は日本への侵攻の片棒を担わせられたのである。これが、モクリ・コクリとして筆者に記憶されている。

     蒙古兵

 しかし、高麗王朝時代は、アラブとの貿易が盛んで経済的に繁栄し、朝鮮の歴史にとって、新羅に次いで女性の社会的地位が高いという時代で、独自の高麗文化が花開いた時代でもあた。
 しかし高麗王朝の末期には、官僚の腐敗が横行し、圧政に苦しむ農民の暴動が頻発(ひんぱつ)し、さらには王位継承問題で国内が乱れた。この混乱の時代に、高麗王朝の武将であった李成桂(イ・ソンゲ)が、クーデター(1388年)を起こして政権を掌握し、高麗王朝は消滅し、以後、李氏朝鮮(りしちようせん)が長く半島を統治することになる。






 百済 (ペクチェ)

 話は遡(さかのぼる)が、六世紀から七世紀の朝鮮半島は三国鼎立(ていりつ)時代である。
 韓半島北部には高句麗(こうくり)があり、半島西南部に百済(くだら)があり、半島東南部には新羅(しらぎ)があった。 百済と大和朝廷との外交関係は、高句麗・新羅に比べて友好的であった。
 この頃の大和朝廷は、半島南部の伽耶(かや)(任那(みまな)、加羅(から)ともいう)を通じて影響力を持っていたと『日本書紀』にある。  

         高句麗

 百済は、常に隣国の新羅の圧迫を受けていた。このため、百済は大和朝廷と連携し、さらに北方の高句麗とも連合し、新羅と唐(とう)の連合軍に対抗した。
 しかし、新羅に連戦連敗し、天智(てんじ)天皇の時代(660年)に、滅亡寸前の百済の要請を受け、親密な関係から大和朝廷は、援軍として水軍を派遣した。  
しかし、白村江(現 錦江近郊)で、百済と連合して新羅と戦ったが、唐・新羅の水軍に破れ百済は滅亡した。
 
   白村江の闘い

 百済滅亡により、百済王と王族・貴族を含む数千の百済人が、日本に亡命し、王族・貴族をはじめ、様々な技能を持った人々も多くが大和朝廷に仕えた。
 飛鳥時代の文化は、この百済系渡来人(とらいじん)によって繁栄したという。
 
 大阪の東住吉区から平野区、生野区、東成区の南部にかけて、摂津国百済郡が置かれたのは、西暦660年の百済滅亡から間もないころのことだったと思われる。
 近江地方には、百済寺が多く残っているし、また大阪の東住吉区には、西日本最大の貨物駅である百済駅がある。
 さらに東住吉区には、市立南百済小学校、百済本通商店街、百済大橋などもあって、古代朝鮮の国名である「百済」の名を今に残している。






 金浦空港 (GMP)

 わがJAL 8965便は、目的地が空港コードGMPの金浦(キムポ)国際空港であった。
 2001年に空港コードICN仁川(インチヨン)国際空港ができる以前は、この金浦国際空港が韓国への玄関口としての国際空港として、世界中の国際空港と結ばれていた。
 仁川国際空港は、イギリスの有名な建築家が大型船舶の帆をイメージして設計し、最先端の施設と機能を持つ、アジアのハブ空港の役割を担い、毎年世界ベスト空港にも選ばれている。金浦(キムポ)国際空港は、仁川(インチヨン)国際空港が開港するにあたり、2001年3月には国内専用空港として位置づけられた。
 ところが2003年に急増する日本人観光客の利便性を考慮してか、日本線専用の国際線として復活している。
 同様に国際線として復活した羽田空港との直行便が最大の狙いであるらしい。

    金浦国際空港ロビー

 この為か、入国審査を終えて、空港ロビーに降りるとき、上の写真が目に付いた。
 当初、ソウルに行くについては、当然新設の仁川国際空港に降り立つものと思いこんでいたが、上記の事情で違ったのである。
 
    金浦国際空港ターミナルビル

 さて、金浦空港のことである。
 金浦空港は、1939年日本統治時代に軍用飛行場として滑走路が作られた。
 また朝鮮戦争中には、米軍の航空基地としての重要拠点ともなった。
 1971年に空港の運営が民営化され、「金浦国際空港」として韓国の玄関として利用されるようになった。
 ソウル市内からは鉄道・バス・タクシーなどを使って40~60分ほどでアクセス可能な便利な場所に立地している。 このために観光客が急増している、日本線専用の国際線として復活しているのである。

    金浦国際空港

 広い敷地内は主に、国際線ターミナル・国内線ターミナルと、ショッピングゾーン3つの施設に分かれている。
 ショッピングゾーンは、「Sky city」とEマートがあり、また映画館やゲームセンターといったレジャー施設もそろった複合施設となっている。それぞれは無料シャトルバスで結ばれている。
 建物で主に使われるのは1階~3階で、1階が到着(入国)ロビー、2階が出国の際のチェックインカウンター、3階が出発ロビー(出国)という構造になっている。
 前後するが、出迎えのバスの中から眺めていたら、ロッテ・プラザが建設中であった。金浦国際空港は、単なる空港というより、地元密着のターミナルとして新しい変貌を遂げようとしている。






 入国審査 (immigration )

 外国を訪問するとき、必ず通過しなければならないのが入国審査である。
 古風な言い方をするならば、いわゆる関所である。
 我が「50周年記念旅行」の一行は、ターンテーブルでそれぞれの旅行鞄(かばん)を受け取り、税関を抜け1階にある入国審査のロビーへ降りた。1階の入国審査ロビーの左端にトイレマークを見つけて、T部長にひとこと言って急ぎ用を足したが、当然女性達も又たトイレを必要とした。
 このため、全員が揃うまで多少の時間を要した。この間、次の便が到着し、大勢の観光客がこの1階ロビーに溢れだし、入国審査を待つ長蛇の行列で混雑した。
 全員が揃ったところで、T部長は
「イミグレは、いつも右端に並ぶことにしています」
と、人混みをかき分けて進み始めた。イミグレとは、無論イミグレーション
( immigration 入国審査)を、大阪人らしく端折(はしよ)った言い方である。
 我々一行は、人混みを恐れつつも、とにかくはぐれないよう、必死の思いで人混みを掻(かき)分けて、部長を追った。

    入国審査ロビー

 混雑した人混みの列を、いわば縦断するようにして行くため、ちゃんと全員が付いてきているのかと振り返ると、中ほどに課長が目配りをされており、長身のKさんがちゃんと殿(しんがり)りを努めて、落伍者(らくごしや)が出ないように気配りをしているのに気がついた。 なるほど旅慣れた社員によって、阿吽(あうん)の呼吸で我々をエスコートしていただいているのに気がついた。
 こうして右端の列に並んだが、なるほど他の列よりも審査の進み具合が早く進んでいる。

 よく見ると、通常の仕切りのある入国審査窓口とは別に、右端に搭乗乗務員(クルー)専用のオープンの審査デスクがあった。
 飛行機の搭乗員の数は、一機にせいぜい十数人に過ぎない。しかも一般旅客と違って、旅券の代わりの写真の付いた書類を提示し、本人確認をするだけで、スタンプの押印もない。
 だから、通常の旅客の審査に比較すると十数秒で審査を終えている。
 列に並んでいる間、洒落(しやれ)たグレーの制服を着たアジア系の客室乗務員が数名降りてきたが、すぐにこの審査官の前を通り抜けた。大韓航空のアテンダントやパーサーだったのかも知れない。
 クルー専用の女性の審査官は、手が空くと右列先頭の一般旅客の人に手招きをして、一般旅客の審査をしていた。だから、右端の列は二人の審査官が対応しているに等しいから、他の列よりも審査のスピードが早いのである。
 この事を海外出張の多い部長は経験的に知っており、混雑したロビーの人混みを敢えて掻き分け、右端の列に誘導してくれたのである。
 この時、社長夫妻はトイレに寄ることなく、先に入国審査を済ませて出国されていた。
 これらの状況を部長は的確に判断し、一番早く入国審査を抜ける方法を選択し、果敢に我々一行を先導してくれたのである。この一事をもって、部長は流石(さすが)に国際ビジネスマンとして活躍しておられる、と畏敬の眼差しで見つめるようになった。
 こうして入国審査官のデスクに進み、パスポートと入国カードや、関税申告書を審査官の前に提出すると、当然ながら本人確認のため、ジロリと顔を凝視された。初めての経験ではないが、やはり少しだけ緊張する。
 審査官は、パスポートの写真と本人の顔を見比べ、本人かどうかを、また、パスポートの磁気記録や、IC情報を読み取り、過去の入国記録などを調べ、入国に不都合な人物か否かを審査しているのである。
 韓国と日本の間はビザ無しで入国出来るが、単独旅行で、パスポートの有効期間が滞在日数より少なかったり、復路の航空券を所持していないと入国を拒否される可能性があるという。

    入国審査官

「訪問の目的は何ですか?」
 と審査官から質問されることもなく、無言のままで審査をパスした。
 日本人でしかもビザがなく、宿泊先がロッテホテルとあれば、当然観光目的と判断するらからであろう。

 入国審査を受けて、待合いのロビーに出ると、日本語で書かれた「SS工業株式会社」のプラカードが掲げられているのが目に付いた。よく見ると、なんと先に出国された社長であった。
 本来、ツアー会社の出迎えの人が出すサインである。それを借りて、我々に掲示して集合場所を知らせてくれたのである。







 ソウル市内へ

 出迎えてくれた旅行会社の女性ガイドが、我が一行を確認し、到着ロビーから手配の出迎えのバスへ誘導してくれた。
 我が一行は無事に全員が乗車すると、ガイドがにこやかに慣れた感じ挨拶をした。
 「お疲れ様です。私は、チョン・ヘギョン(鄭恵慶)と言います。皆さんの三日間のソウル旅行の案内をさせていただきます」と、流暢(りゆうちよう)な訛(なまり)のない聞き取りやすい日本語で喋り始めた。彼女は、品の良い小学校の先生のような中年女性であった。

    観光ガイド

 「チョン・ヘギョンは言いにくいと思いますので、チョンと呼んでください。ヘギョンは、日本の拉致被害者の横田夫妻の孫娘のキム・ヘギョンさんと同じヘギョンです。漢字は違いますが・・」
 日本人観光客専属なのか、日本のことについてもちゃんと理解しているようであった。ともかく、日本語の通じるガイドが三日間付いてくれるのであれば安心であると思った。
「皆さんは、大変良い時に韓国へいらっしゃいました。今、韓国のウォンは円に対して大変安くなっています。去年の夏頃までは千円が1万ウォンくらいでしたが、今は1万5千ウォンと交換できます。買い物を楽しんでください」
 そんな事は当然承知しているが、我が一行に割安感を強調しつつ、しっかりオプショナル・ツアーの売り込みを開始した。
 今日のこれからの予定や、明日の故宮見学のオプショナルツアーやアカスリエステなどの案内などを紹介し、割安感を強調しつつ、希望者に手を挙げさせるなどして、しっかり営業をしていた。







 韓国国産車
 
 ガイドのチョン・ヘギョンさんの、その後の案内を上の空で聞きつつ、バスの窓から市街地を眺めていた。
 すると、
「車が多いでしょう?90%以上が韓国の国産車です。その中(うち)、五割はヒュンデ(現代自動車)の車です」
と説明してくれた。現代自動車は、英語表記で「HYUDAI」と表記されるから、ヒュンダイと読めるが、韓国では「ヒュンデ」と発音するらしい。

   韓国車
 
 ソウルはおよそ30年も前に、やはり金浦空港を利用して何度か訪れた事がある。
 それだけにとても懐かしいが、ただ、当時の韓国はようやく高度成長の糸口を掴(つか)んだころで、工業力もまだ萌芽期(ほうがき)であったから、走っている車は殆どが外車であった。だから、目の覚めるような変貌ぶりに驚いて眺めていたのである。
 起亜自動車(KIA)や現代自動車(HYUNDAI)、GM大宇(Daewoo)などが、日本のマツダや三菱自動車、フォード、GMなどの技術支援やノックダウンでようやく自動車を国産化しつつある段階であった。
 初めて訪れたときに、特に驚いたのが、日本では姿を消しつつあったマツダの三輪トラックが大手を振って走り回っていたことであった。     
 またTOYOTAやフォード、GMのブランドが直接輸入され、輸入車が大半の時代であった。

     起亜自動車のマツダのオート三輪

 起亜自動車は、1962年にマツダのオート三輪の生産からスタートし、以後 マツダのトラック「タイタン」・「ボクサー」等を生産していた。1974年マツダファミリアを「ブリザ (Brisa)」の名称で生産していたが、1998年、韓国経済危機のために経営が破綻し、現代自動車の傘下となり、以後は現代・起亜自動車グループを構成している。
 
 現代自動車は、フォードとの提携で1968年に初めての自動車の製造を始めている。設立当初はフォードとの提携で、ノックダウン車を生産をしていたが、その後、三菱自動車からの技術協力を得て、1975年に韓国初の国産車「ポニー」を発売した。
 以後、数多くの三菱車ベースの車種、もしくは三菱車のプラットフォームを流用した独自の車種を生産している。
       韓国初の国産車「ポニー」
     韓国車

 1986年 に発売された最高級車グレンジャー(2代目デボネアの韓国版)は、三菱自動車との蜜月関係を象徴するような車である。
 現在、現代自動車の自動車は世界196の国と地域で販売され、韓国に次いで重要な市場はアメリカである。
 現代・起亜自動車グループ全体の販売台数は、アジアに本拠を置いている自動車メーカーとしては、トヨタグループに次ぐ規模であり、世界の自動車メーカーで第六位(2006年)にランクされている。
 
 大宇(ダイウ)自動車(Daewoo)は、1937年 National Motorとして設立しているから、最も設立が早い。
 当初は日産自動車と提携し、ブルーバードをノックダウン生産した。
 のちに トヨタ自動車と提携し、クラウン、コロナ、パブリカ、トヨエースをノックダウン生産していた。 1972年トヨタが撤退したのち、GMが資本参加し、社名「GMコリア」に変更している。
 1983年 韓国の大宇財閥が資本参加し、社名を大宇自動車に変更している。

      韓国車大宇

 その国の工業力の水準を知るには、その国の国産車を見るほど確かな物はない。車一台に数十万点以上の部品を使用しているから、その国の工業力のレベルがかなりの水準に達しないと純粋の国産車を生産することはできない。 いま韓国の道を走っている車の殆どが国産車である事実から、いかに韓国の工業力や経済力が、目を見張る成長をしたかが、実感できる。 
 ただ惜しいことに、韓国の自動車は、以前からデザインの類似性や模倣性が、韓国の新聞でさえしばしば批判しているのである。
 車種によって異なるが、リアデザインやフロントデザインが、それぞれホンダ・アコードや、日産のインフィニティ、またトヨタのレクサスやカムリ に酷似していると朝鮮日報が報じている。
 デザインの類似性は、韓国の自動車メーカーや中国の自動車メーカーの殆どに指摘されている問題である。
 日本車との類似性は、販売戦略上アメリカ市場においては有利に働いているが、日本市場においては不利に作用している。






 漢江(ハンガンHan-gang)
 
 空港を出たバスはソウル郊外を走り、やがて大きな河に差し掛かった。
 ガイドの説明で漢江(ハンガン)と分かった。
 バスは大河の漢江を渡ると、漢江沿いに走っている江辺(カンビヨン)北路を走行している。
 漢江の対岸にも同じように広い道路が走っているが、これはオリンピック大路と地図に書いてある。
 ともかく、ソウル市街は地図で見ると、まさにこの漢江の北側と南側に発展していることが分かる。
 新しくできた仁川国際空港からも、高速道路を降りて最終的にはこの江辺北路を走って、麻浦(マポ)大橋と合流する国道60号線を左折して、ソウル中心街に入るようだ。

    漢江
  

 漢江は、江原道の北朝鮮に源を発し、途中さまざまな支流と合流しながら、ソウル市域の中央部を北西方向へ流れ、途中臨津江(リムジンガン)と合流し黄海の江華(カンファ)湾に注いでいる、全長514㎞の大河である。
 臨津江との合流部付近では、北朝鮮との事実上の国境である軍事境界線が設定されている。
 さて、長い橋の対岸の奥に、超高層ビルらしきものがちらっと見えた。
 地図で調べると果たせるかな63シティー(63階建て)のビルであった。
 63シティと呼ばれるこの超高層ビルは、漢江を一部埋め立てて作った人工島のヨイド(汝矣島)の北側に聳(そびえ)ている。 ソウルで市街パノラマを眺望できる二大展望所の一つであり、もう一方は南山(ナムサン)公園に聳えるNータワーである。
 
   ソウル 63シティー

 ソウル中心部に入ると国道60号線を右折して大平路を走ったと推測している。
 大平路は南大門(ナンデムン)市場の横にある、南大門の横を抜けた。南大門は、放火によって消失し、現在修復工事で囲われていた。
 世界にその名を知られる電気メーカーのサムシングルーの三星プラザ、三星本館の高層ビルを左に見つつ進み、故宮の一つ「徳寿宮(トクスグン)」の交差点を左折し、少し走って右手にあった、光化門(クァンファムン)ビルの前で停車した。ここに老舗(しにせ)の東和(ドングァ)免税店があった。
 ここで、バスを降りて韓国免税店で初めてのショッピング時間が与えられた。
 1階のフロアーはコスメと国産品の免税店があり、地下に目指すブランド店があった。妻は、さっそくルイビトンのコーナーに向かったが、お目当ての財布が気に入らず、結局FENDYの財布を購入した。
 筆者は、国産品の珍しい鰻(うなぎ)革の財布と小銭入れを購入した。
 免税店の価格表示はドル表示であった。
 





 ロッテホテル

 ロッテホテルは、5つ星にランクされ、本館38階・地下3階、新館は35階・地下3階の偉容を誇る、1479室のホテルであった。
 レストランやバー13店、大型国際会議場、宴会ホールが16、その他ビジネスマン用のクラブフロア、ホテル免税店、フィットネスセンターなど、様々な施設を備え韓国を代表する特級ホテルである。
旧館の29~32階にあるリニューアルを終えクラブフロアーは、階ごとにデザインの雰囲気が異なるという。
 この異なる理由は、リニューアルにあたり、ホテルのオーナーがデザインコンペを数社に依頼したところ、そのうち四つが大変気に入ってしまい、各四つのデザインを各社に一層ずつ依頼をしたからだそうだ。

  

            ロッテホテル

 このホテルに宿泊したVIPを調べたら、小泉純一郎 、森喜朗等の日本の元首相が宿泊しており、さらに中国の胡錦濤国家主席 、フィリピンのアロヨ 大統領などの名が列記されている。まさに韓国を代表する5つ星のホ
テルだからこそであろう。  
 今年で35周年を迎えるというロッテホテルは、ロッテデパートと直結しており、ロッテデパートにはロッテ免税店も構えている。
 さらに、アミューズメント施設のも隣接しおり、まさにグローバルなサービスを提供する、企業グループの中核として、ホテルのその存在感が大きく、日本の観光客に人気を集めている。
 特に、ソウルの中心的な繁華街の明洞(ミヨンドン)に歩いてアクセス出来る便利の良さも人気の要素かも知れない。
 光化門ビルにあった東和免税店からバスでロッテホテルへ向かったが、意外に近くにホテルは在り、車ですぐであった。 が、我々一行のバスは正面のエントランスへではなく、裏側の2階のツアー・ラウンジへと向かったため、2階の駐車場が他の観光バスの到着と重なり、なかなか進めなかった。
 ツアー客のバスは、正面エントランスに横付け出来ないように定められているのであろう。
 かなり時間を費やして、ようやくホテルの裏側の2階部分のバスの駐車場に昇り、ようやくロッテホテルに入ることが出来た。
 時間を見ると、丁度六時半であった。
 しかし、いわゆる裏口からのアプローチとなったため、ホテルが誇る広々としたホテルロビーを、その時は知らなかった。 
 やはり一流ホテルの味わいは、その正面エントランスから入るべきで、その回転扉を押して入った瞬間の、その日常性とは異次元の広大な空間の広がりと、豪華なシャンデリアや贅(ぜい)を尽くしたロビーの装飾性に圧倒されるのが、楽しみのひとつと思っている。
 ともかくも、我々一行は、裏口からのアプローチを余儀なくされ、それ程広くもないツアーラウンジに陣取り、ガイドの鄭(チョン)さんのチェックイン手続きを待った。
 思い思いに適当にソファーに腰掛け、それぞれが、これから始まるソウルの旅の楽しみの始まりに、それなりの期待の胸を膨らませつつ 待機した。
 この間、幹事の曽和課長は、ガイドのチョンさんと打ち合わせを行い、部屋割りと、今夜の夕食の場所の打ち合わせ等に時間を取られていた。こうして、それぞれの部屋のカードキーを貰って、一旦部屋に入ることになった。
 




 デラックス・ルーム

 筆者夫婦は、社長夫妻と同じ26階の高層階に部屋割りされていた。
 本館ながら、22~28階まではリニューアル済とあった。
 最近のホテルはカードキーは当たり前なのだが、ドアの前でそのカードを挿入する所が見あたらず戸惑った。
 やがて、妻がカードキーをドアノブの近くにあるセンサーに接触させることで解錠できる、電子センサー錠であることを発見した。
 室内に入ると、想像していたより広い部屋で、後で課長の特別の配慮があったことを知った。
 割り当てられた部屋は、帰ってから調べてみると、「デラックスキング・クラブルーム」という部屋ランクである事が分かった。

    ロッテホテル客室

 旅行会社で予約すると、2名利用で333,000ウォンとあった。
 今はウォン安だが、昨年夏頃であれば3万3千以上もした部屋である。
 室内に入ると、タペストリーでベッドルームと仕切られた、書斎のような大きなデスクと椅子が置かれていた。
 右奥にクローゼットと、ドレスルームのような小部屋があり、大きな姿見のミラーがあった。
 部屋に入った当初は、冷蔵庫も見あたらず、またテレビも見あたらない。
 「この部屋はテレビも無いの?冷蔵庫は何処だ?」
と妻に聞いた。
 この小部屋のクローゼットの右側の扉を開けると、一つは冷蔵庫でもう一つの扉を開けると金庫室であった。
 バスルームや洗面所は、ガラスのパーテーションで仕切られており、透明感があふれていた。
 しかし、ラブホテルとは違い、中が透けて見える訳ではない。
 当初はテレビが無いと勘違いしたが、なんと洗面所との仕切りのガラスパネルにはめ込まれていた。
 最近、超薄型の壁掛けテレビが発売されているが、まさかガラスのパーテーションに嵌(はめ)め込めれているとは気づかなかった。
 前後するが、就寝前に照明を消すのに、また戸惑った。
 試行錯誤でようやく、ベッドサイド・テープルにある液晶画面で、エアコン、電話から照明、テレビや音楽などと共に、カーテンの開閉まで全てのコントロールが出来ることが判明した。
 まさにハイテクの設備で、いちいち驚きの連続であった。
 改めて、5つ星のホテルだと感心した次第である。





 イルミネーション

 各自の手荷物を割り当てられた部屋に置くと、旅行幹事の課長の手配で、すぐに食事に出かけるため1階のロビー集合となった。 レストランからの出迎えのバスが正面エントランスに来ているとのことで、初めてホテル中央のエントランスから外へ出た。
 すでに日が暮れていたので、エントランス前の大小の植栽に施されたイルミネーションが目に飛び込み、予期していなかっただけに、みな感嘆の声を上げていた。

    ロッテホテル正面エントランス

 ゆっくり写真を撮りたいとも思ったが、団体行動のため、さっそく出迎えのバスに繰り込んだ。 
 最初にソウルに訪れた約30年ほど前の光景とあまりに違い、日本の繁華街を走っているような錯覚を覚えるほどであった。
 ビルが林立し、ネオンや街頭ビジョンが目に付き、また走っている車も日本の車とよく似ており、左ハンドルの左側通行でなければ違和感はほとんどない。






明苑 (ミョンウォン)
 
 ネオンの灯るソウル市街をおよそ15分程度走って、所在地の確認を怠ったが、幹線道路から少し奥まった焼き肉料亭「明苑」の2階の客席へ案内された。さて、2階に上がると、五、六十人は座れる程のテーブルが並んでいたが、中央の列に着席するよう案内を受けた。
 今日の宴席の予約は、我が「SS工業50周年記念旅行」一行だけのようで、貸し切り状態で宴会が始まった。
 二階は団体用の観光客用のテーブルであろうか。
 
   焼き肉明苑

 筆者は、社員の家族に過ぎないため、入り口に近い末席に座ることにした。
 このような宴席では、当然入り口から奥まった場所が上席であるが、おおらかな社長は、テーブルの中央辺りで、随意に着席を進めたため、女性社員たちは奥まった上席に固まって着席した。
 置かれていた箸の袋に「明苑」と書かれていたから、店の人に
「ミョンエン?」
 と尋ねたら
「ミョンウォン!」
 と答えてくれた。

  韓式焼き肉
 

 韓国料理の代表格は、やはり焼き肉料理であろう。
 旅行幹事の曽和課長の旅行計画書にも、初日の食事は焼き肉と記されていた。
 テーブルの中央に円形の鉄板があり、日本のような網焼きではない。
 その韓国式の焼き肉を、いまから堪能できるのである。すでにテーブルには、キムチやその他の韓国料理の総菜や調味料などが所狭しと並べてあった。






 韓式マナー

 さっそく韓国の「Hite」というブランドのビールの栓が抜かれた。
 社長は立ち上がり、
「SS工業50周年記念」について、簡単に社員への感謝の辞を述べられ、また50周年という節目についての社長としての感慨が述べられ、拍手の後、乾杯となった。 
 ただ、社長以下、部長、課長なども、あまりアルコールを飲まれないらしい。

 この料亭では韓国のHiteというビールが供されたが、アルコール度数4・5%とあったが、日本のビールよりも喉ごしが軽く、ホップが利いていない感じがした。
 韓国には、他にOBラガーとCASSという国産ビールがある。
 CASSは翌日の昼食の時に飲んだが、やはりホップが利いていなかった。
 
       韓式料理


 さて、テーブルの右側に箸とスプーンが縦に置かれている。日本の料亭では、テーブルの手前に横向きに置かれるから、少し違和感を感じた。が、よく考えてみると、西洋料理では当然ながらフォークやナイフは縦に置かれているから、これは国際的には正しいのであろう。
 箸はハングルではチョッカラ、スプーンはスッカラと呼ぶ。しかし金属の箸には不慣れで、少し重いと感じる。
 しかし、これも考えてみるとフォークやナイフと同様、繰り返し使用する食事の道具だから、金属性が合理的であろう。
 更に言えば、一般的にはお椀(わん)やお皿も殆どが金属製なのである。
 この「明苑」では陶器の皿が使用されていたから、日本客をターゲットにしている事が知れる。
 この金属の箸とスプーンを使って食事をするのだが、ご飯は箸ではなくスプーンで食べるのがマナーらしい。 しかも、韓国式の食事マナーでは、食器類を手に持つ事はタブーであるという。
 総菜や肉類は箸を使用するが、汁物やご飯などはスプーンで食べるから、日本人には馴染みがない。
 この食事マナーについて話題がでたとき、
 「日本の常識、世界の非常識」
と間髪をいれずに、部長が言った言葉が耳に残っている。
 確かに、日本人ほど、自分の文化を中心に考える民族は他にはないのではないか。
 また、韓国のマナーでは、目上の人が箸を付ける迄は、目下の人は箸を取ってはいけないという。
 儒教(じゆきよう)の優等生である韓国だから、中国と同様に現在でもかなり儒教の影響が色濃く残されている。
 酒やビールを注ぐ時には、右手で注ぐ場合は、左手を右腕に添えるのがマナーという。日本でも、躾(しつけ)の良い高級なクラブやスナックでは、ホステスが片方の手を添えて上品にお酌してくれる。
 しかし、一般の会社の宴会では、そんな事に頓着することは殆ど無い、と思っていたら、Hさんは、ちゃんとマナー通りに片手を添えて、社長夫人へのお酌をされているから、さすがである。






S社長
 
 社員の海外旅行は初めてではないとの事であった。
 かつては、ハワイやグァムなどへも社員旅行で行ったとの話しがあった。また、長野の工場があった頃には、
「長野工場の社員旅行で沖縄へ行き、帰ったその翌日には、また本社工場の社員旅行へ同行した」
などと懐かしそうに話しをされていた。 
 今は、インドネシアに日本を代表する商社の伊藤忠商事との合弁会社を運営されているから、長野工場は閉鎖したという。
 50年という長い社歴があるから、その間にはさまざま重要な決断事があった事は、想像に難(かた)くない。それだけに、社員を大切にして来られたということであろう。
 また、今回の50周年記念旅行の旅では、社員への気遣(きつかい)が至るところでみられた。海外旅行が初めての女性達の緊張をほぐされたり、さらには、社員の家族に過ぎない筆者にも気遣いをしていただいた。
 社長は、イギリスの留学の経験があると聞いていた。
 その故か、お洒落なだけでなく、自然に身についたスマートさと、エスコート精神が旺盛である。
 特に奥様へのエスコートが目に付いた。
 前後するが、この料亭での宴会が終わって席を立つとき、奥様の後ろに回り、自然に奥様の肩に脱いでおられた上着をさりげなく掛られ、椅子を引いて自然な仕草で片手出して、奥様の席を立つのを手伝われていた。
 またいつも奥様の手をとって、自然にエスコートされていた姿は、印象深い。
 並の男ではできない仕草である。
 さらに社長夫人も、知性を感じさせる気品のある顔立ちで、物静かで控えめな態度は、さすがと言う他ない。







 両替店(換銭)

 宴会の後、東大門(トンデムン)市場(シジヤン)へ繰り出す事となった。
 が、ガイドのチョンさんの話しとは行き違いが生じ、結局地下鉄で向かう事となった。
 明苑(ミヨンウォン)の人が、地下鉄の入り口近くまで案内してくれた。
 地下鉄の入り口の近くに、すでに夜の8時半なのに「両替店」が店を開けていた。これから買い物をするには、手持ちのウォンが少ない。そで円とウォンを両替する事にした。
 「銀行よりも高いレート。手数料不要」の表示があり、¥=15・1のレートであった。
 事実、1万円で15万1千ウォンと交換する事ができた。
 金浦空港で両替した時のレートは、交換手数料込みでは、¥=14・85の計算であった。旅行案内によると、ホテルで両替すると、もっと率が悪くなるという。

     ソウル両替店

 調べてみると、日本でも外貨両替専門店は、銀行窓口よりも手数料が安くなっているようだ。結局、銀行の両替手数料が割高という事であろうか。
 ところで、東和免税店での、クレジット・カードのレートは、¥=15・21ウォンで、翌日のロッテ免税店でのレートは、¥=15・4であった。
 不思議なことに、円を両替して現金で買い物するよりも、クレジット・カード決済の方が、換算レートが高いことが後で分かった。 
 本来、クレジットカードを利用すると、その店はカード会社に14%の手数料を取られるはずなのに、不思議なことである。
 ただ、カード使用が出来ない店もあるから、両替は不可欠ながら、銀行で円を外貨に交換し、出国の際にまた外貨を円に交換すると、往復で交換手数料を支払う事になる。
 海外旅行では、クレジットカードが必須という結論を得た。






 ウォン安

 初めて韓国を訪れた時は、円が対ドル360円の固定レートの時代であった。
 この当時の円とウォンの交換レートは、百円が千ウォン位であった。
 ところが、最高額紙幣が500ウォン札しかなく、円をウォンに交換すると分厚い札束を手にして驚いた記憶がある。 余談ながら、当時、交通違反しても、警察官に500ウォン札一枚渡すと、見逃してくれたという時代でもあった。
 ちなみに、千札や万札が発行されたのは2007年の事である。
 ウォンの為替相場は、2007年の中ごろまでは、¥100が750程度で安定していた。
 ところが2008年の円高ドル安傾向を期に、¥100が千ウォンと、ウォン安となり、更に昨年8月の米国発のサブプライムローン問題以降は、千五百ウォンという市場最安値を更新している。
 一年前に比べて、ウォンの為替相場は半値に落ちている。

    ウォン安

 ウォンが急落している原因は、経済的基盤の弱さと、外為市場の要素が大きい。
 韓国の経常収支は、今年に入り、すでに78億ドルの赤字を出している。
 赤字の分だけドル買いが必要となる。 さらに、原油価格の高騰が続き、ドル決済の金額も拡大している。また、タイミングが悪いことに、ドル建ての大量の国債が近く償還期限を迎える。
 こうした特殊事情から、ますます韓国の手持ちドル資金流出が加速するとの懸念が広がっている。
 このため韓国の外為市場は、韓国の実体経済以上に、ウォン売り・ドル買いが集中し急激なウォン安を招いている。

     1万ウォン札

 外為市場は、当然ながら投機市場であり、ウォン安で儲ける手段としても利用されている。このため、アメリカの金融危機以降、ドルは世界的に売られ、ドル安が続いているにも拘(かか)わらず、ウォンに対してだけは、ドル安ではない事情がここにある。
 一方で、円はドルだけでなく世界の通貨に対して、ひとり円高が続いている。
 アメリカ発の金融危機も、日本の金融機関では、その他の国に比較し、ダメージが少ないからである。また日本の経済基盤が盤石で、莫大な経常収支黒字を出している。経常収支赤字の韓国とは、雲泥(うんでい)の開きがある。
 韓国は、特に日本に対する経済依存度が高い。これらの要素から、円とウォンのレートは、約一年前に比較して、半分にまで下落しているのである。







 ソウル地下鉄

 課長の引率で、焼き肉料亭の「明苑」を出てから少し歩き、両替を済ませてから、「忠武路(チユンムロ)」駅から地下鉄4号線に乗って、東大門市場を目指した。
 課長は旅慣れているから、地下鉄の料金表示をみて、全員から千ウォンを集め、まとめて切符を購入してくれた。今回の円高で換算すると65円くらいであったが、急激なウォン安を除外すると、130円くらいで、日本とあまり変わらないであろう。
 初めて乗る韓国の地下鉄だったが、ホームと線路の間に、仕切壁りがあり、列車が到着すると自動で開閉する扉が設けられていた。日本では、新幹線の一部の駅でしか設置されていない。
 これは、安全に対する考え方の違いなのかとも思った。
 この線路との間の仕切壁には、大きな広告が多かった。地下のホームは明るく清潔な感じであった。

     ソウル地下鉄

 到着した列車に乗り込むと、車両はステンレス車体で、意外に車内が広かった。
 調べてみると、レール間隔が日本の狭軌(1,067mm)に比べて、標準軌(1,435mm)で建設されている。ちょうど日本の新幹線が標準軌(1,435mm)である。
 ソウルのメトロは、日本のODA(政府開発援助)による開発援助に基づき、日本の資金と技術によって、1974年にメトロ1号線が開業している。
 1960年代からの、漢江の奇跡と呼ばれた高度経済成長により、ソウル首都圏を中心に人口が急増した。
 そこで、大量輸送に適した公共交通機関が重要課題となり、韓国政府は、諸外国の鉄道技術の導入を検討していた。
 この当時、日韓関係は政治的には良好ではなかった。
 このため、政府の政治決断により日本のODA(政府開発援助)が適用されたのである。
 しかし、ソウルのメトロ1号線の開通式には、日本人は一人も招待されなかったという。
 その後の30年間で、地方都市にも地下鉄が整備され、世界有数の地下鉄保有国となっている。
ソウル特別市と釜山広域市にあった路面電車は、それに先だってモータリゼーションの進展のため、双方とも全廃されており、2007年現在、韓国では、商用に運用される路面電車は存在しない。

    ソウル地下鉄車両
     
  現在のソウルメトロは、駅のナンバリング表示を実施しており、駅名のハングル文字が読めなくても、駅のナンバーで降車駅を判断できるから、観光客でも非常に利用しやすくなっている。
 また、最近は、電車の中で字幕付きのテレビが設置されており、ホームの至る所に大型のテレビが設置してあった。

      ソウル地下鉄路線案内図
        地下鉄4号線の駅のナンバリング

 我々一行が利用した地下鉄4号線は、漢江を挟んで南北に直線だが、北方の郊外では右に曲がっている。 南方は、郊外で逆に左に曲がっている。ソウル市街をちょうどS字の形をしている路線であった。
 他にも路線図を調べていたら、地下鉄2号線が、漢江を中心に、ソウル市街の環状線となっていた。
 東京や大阪でも山手線、大阪環状線として列車が走っているが、地下鉄が中心のソウルでは合理的な発想である。
 他に南北、東西方向に6路線が走り、合計7路線が縦横に配置されている。
 こうして見ると、ソウルは大変交通の便がよい大都市という事がわかってきた。
 少し穿(うが)った見方をすると、ソウルは北朝鮮に近いから、万一の場合に大変な事態に陥る。このため地下鉄のホームは、ソウル市民のシェルターに利用できると考えていも不思議はない。






 東大門市場 (トンデムンシジャン)

 ソウルメトロ4号線の「東大門駅」で下車し、課長の案内でファッションビルの立ち並ぶ一角に案内された。
 ピーコックの羽根をイメージしたイルミネーションが輝いていた高層のファッションビルは、地図で確認すると、トゥンサン・タワー(斗山、別名トゥタDOOTA)と呼ばれている。
 その隣には、ミリオレが偉容を誇っていた。
 ミリオレとは、イタリア語で「より良い」を意味し、より良い品を、より安い価格で、というコンセプトで品揃えされ、韓国国内の業者や、日本からもバイヤーや観光客が訪れているらしい。
 斗山タワーでは、一部の店舗で「事後免税制度」が適用されている。附加税率10%に該当する金額が、出国の際空港で払い戻されるとのこと。

     トゥンサン・タワー


 このように、東大門市場は、南大門市場と同様、長い歴史を誇る大規模な総合市場で、90年代以降に、新しいファッションビルが相次ぎ、近代的市場へ変貌したという。
 ビルの外では、日曜日の特設ステージがあり、イベントが開催されていた。
 このDOOTA前の広場を集合場所として確認し、それぞれショッピングを楽しむ事になった。
 
 ここで暫(しばら)く自由行動となったが、女性軍は大半が目の前のファッションビルに入る事になり、幹事の課長が同伴することになった。
 筆者夫婦が躊躇(ちゆうちよ)していると、部長が、
 「何処か行きたい所がありますか?」
と訊(き)いてくれた。
 そこで、観光マップの東大門市場の地図にある「光煕市場(クァンヒシジヤン)」という場所を示した。
 すると部長は、地図を覗き、DOOTA前の道路の向かい側を指し示して、
「あちら側の筈です。行きましょう」
と、H氏と筆者夫婦の四人を別働隊として、地下道へ降り、向かい側の市場へと、先頭に立って案内してくれる事になった。
 実は、今回の「50周年記念旅行」のスケジュール表では、初日の夕食の後は「自由行動」とあり、翌日も昼食後は自由行動と記載されていた。
 このため、ガイドブックで行動計画を立て、さらにJCBの「SHOPPING&DINING PASPORT」の韓国版を手に入れて、ショッピング先の検討もしていた。
 こうして東大門市場の一角にある、光煕市場にある東明社という、革専門店を事前に見つけていたのである。

 1980年にオープンした「光煕市場(クァンヒシジヤン)」は、レザー製品、牛皮衣料の国内で唯一の卸・小売の専門市場とあり、韓国内だけでなく、日本を始めアメリカ、ヨーロッパ、ロシアと、世界中から革製品を求めてやって来る、世界的な皮革市場である、とあった。
 田中部長は、流石(さすが)に国際ビジネスマンだけあって、旅行中いつも行動的に我々をエスコートしてくれた。この時も、この「光煕市場(クァンヒシジヤン)」を探すべく行動してくれ、行動を共にしてくれたH氏と筆者夫婦が従った。

    新平和(ピヨンファ)市場

 地下道を抜けて最初に入った市場は、後で地図で確認すると、新平和(ピヨンファ)市場であったろう。
 東大門の各市場というのは、写真のように3階建て程度のビルに、様々な専門店が入居していた。
 新平和市場の横手から店に入ると、通路が一人やっと通られる程度の幅しかなく、その両側にまるで見本市のブースのように、細かく小間割された店が軒を連ねていた。
 それぞれ専門店で、靴下だけの店や下着だけの店など日用衣料品の専門卸店の市場であった。この細い延々と続いている通路を抜けて、外へ出た。
 日用衣料品を扱う卸店であり、目指す光煕市場ではない事は明白であった。

     光煕市場

 次の建物を通り過ぎて、次の建物の前に来ると、筆者が偶然「kUWANGHIJANG」というガラスの扉に書かれた文字を発見したのである。光を「kUWANG」と発音することは知識として持っていた。
 だから「kUWANG・・」と表示があるから、部長へ、
 「此処じゃないでしょうか?」
 部長もその文字を見て、
 「此処でしょうな」
同意してこの建物に入ると、
 「二階に「東名社」という店がある筈です」
 筆者は俄然(がぜん)勇気を得て、果然(かぜん)と先頭に立ち、また見本市のようなブースの前を歩き始めた。
 この市場は、先ほどの新平和市場よりも通路が広く、2m以上はあったろうか。
 世界からバイヤーが来る程の市場だからであろう。
 各ブースは、一間(いつけん)幅(2m弱)程度の店もあるが、二間(にけん)幅程度の店も多いが、どの店も奥行きが浅い。各ブースには、写真のように社名とブース番号が表示されていた。この2階だけでも200もの店があるから、各店を回りつつ比較検討し、マークした店へ戻りやすいような工夫であろう。
 人気の店では、写真のように日本語で「るるぶに紹介された店」と看板があった。
 多くの店は、注文生産が主体ながら、試作品を店頭販売しており、東名社も品質の良いオーダーで人気の店であった。

     東名社

 こうして幸運にも、筆者は希望の革ジャケットを発見したが、気に入ったジャケットも、丈はピッタリながら、
「袖が少し長い」と言うと、「10分で直す」という。
 事実、支払いを済ませて、部長やH氏にお付き合いして頂、他のブースを巡回して戻ってみると、ちゃんと寸法が直っていた。
 買い物が済み、地下道へ降りて集合場所の斗山タワー前の広場へと向かった。地下道にも、やはり間口の狭い衣料品のが多く、部長はパーカー専門店で気に入った物を見いだし、価格を聞くと、「3万。特別2万7千にします」という。
 部長は、手を振って行きかけると、「2万5千!」と女店主が叫ぶ。
「2万!」と部長が言うと、店主は無理と顔を振り、「2万3千!」と叫ぶ。 田中部長は、また手を振って数歩行きかけると、女店主は手招きし、袋に商品を入れ始めた。こうして見事な値引き交渉が成立したのである。 
 部長の絶妙な価格交渉に、さすがは大阪の国際派ビジネスマンであると感心しつつ、斗山タワー(DOOTA)前広場に、予定の十時半に戻ってきた。
 課長引率の女性達も、時間通りに全員が揃った。
 左手の奥にライトアップされている東大門(興仁之門)が見えたので、
「記念撮影しましょう」ということになり、清渓川の橋を渡って東大門前の広場へ向かった。
 夜景モードで撮影したが、その影響でシャッタースピードが遅くなり、手ぶれ防止機構が働かず、三脚も持っていなかったため、手ぶれ状態の写真で鮮明ではないのが悔しい。






 東大門 (トンデムン) 

 東大門(トンデムン)は、鍾路区(チヨンノク)にあり、正式には興仁之門(フンインジムン)といい、李氏朝鮮時代の漢城を取り囲んだ城郭(じようかく)の門の一つであった。一般的には東大門(トンデムン)と言い、大韓民国指定宝物第1号に指定されている。

     東大門
        東大門 

 1396年(太祖5年)に建てられ、二度にわたり修繕されている。
 城郭を取り囲む四大門の名前は、儒学の徳目である「仁義礼智信」からきている。
 東西南北の四大門は、興仁之門(フンインジムン)(東大門)、敦義門(トニムン)(西大門)、崇礼門(スンレィムン)(南大門)、粛靖門(スクジヨンムン)(北大門)である。
 敦義門(トニムン)は現存しない。

      崇礼門(南大門)
        崇礼門(南大門)

 崇礼門(南大門)は、残念なことに放火によって消失し、現在は再建中である。
 なお、他の四大門の名前が3字であるのに対し、興仁之門(フンインジムン)だけが4字となったが、これは風水地理では、城郭の東の地気が弱いため、その気を高めるため4字にしたとされている。
 今は、夜間照明で、不夜城をなしている、東大門市場の象徴的存在でもある。

 東大門市場の昔を偲ぶ写真があった。
 東大門の方から見た鍾路の街なみである。
 街には、電車や牛馬などが走っている。
 中央には普信閣が見える。道ばたには、露天商がいた。彼らの子孫が、現在の東大門市場の主役になって行ったであろう。






 清渓川(チヨンゲチヨン)

 清渓川の橋を渡ったが、夜間のことで素通りしたが、この稿では清渓川(チヨンゲチヨン)について触れておきたい。

 李氏朝鮮時代には、この川を境に北側( 現在の景福宮と昌徳宮の間の三清洞(サムチヨンドン)あたり)を「北村(プッチョン)」、南側( 現在の忠武路、明洞あたり)を「南村(ナムチョン)」といった。
 もともと清渓川は、ソウル中心部を、西から東に流れていた、全長約8㎞ほどの小さな自然河川で、東大門を過ぎてから南下し、他の川と合流して漢江へ流れていた。
 地理的だけでなく、政治や社会、文化的にも、ソウルを分ける川であった。  特に鍾路近くの橋の周辺は、商人が密集する中心地として活気にあふれていたが、川辺はソウルの中で、最も人口が密集したエリアとなっていた。

     清渓川(チヨンゲチヨン)

 このため、当時から市民の生活排水を流す清渓川は、下水の悪習や、洪水などの問題が再三取り上げられ、結局1978年に、川を暗渠(あんきよ)化(蓋をした水路)してしまった。その後は、ソウルの高度成長時代に、高架道路が川の上に建設され、清渓川は完全に消えてしまった。
 しかし、清渓川の高架道路が、老朽化して危険な状態となった。この為、2002年の市長選挙で、「清渓川の復元」を公約に掲げた、李明博(イ・ミョンバク)市長が当選した。当時の李明博市長は、現大統領である。
 
 こうした経緯で高架道路を撤去し、河川を復活させ2005年世界でも例がない都市再開発を成功させている。
 今は都市景観美に寄与し、観光客も訪れ、市民の憩いの場所となっている。
 上の写真は、偶然バスの中から、変わったモニュメントだと思って二日目に撮影していた。
 帰ってから調べてみると、スプリングという名が付いていて、清渓川の復元完成1周年記念として、2006年にスウェーデン出身の芸術家が造形したものだという。写真の、ビルの中間が清渓川で、スプリングは、今や清渓川のシンボルだという。
 前頁の写真のちようど、逆から見た位置の写真にあたるであろう。






 アクシデント1

 翌日の朝食は1階ロビー集合で
「ペニンシュラにしましょう」
旅行幹事の課長から話しがあって、それぞれの客室に入った。
 翌朝、妻は「早く降りよう」 と言たっが、
「1階ロビー集合だから五分前で十分だよ」と鷹揚(おうよう)に構えていた。
 ところが、五分前に1階ロビーに降りてみると、誰の姿も見あたらなかった。
 慌ててレストランに入って見たが、やはり一行の誰の姿も見えなかった。
 妻が、
「たぶん部長とKさんらしき人が、地下へ降りて行った」
と言ったが、この時はこの重要な目撃情報を無視した。

    ロッテホテル ペニンシュラ
       ペニンシュラ

 1階ロビー集合と、ペニンシュラというレストランの名にこだわったのである。 
 こうして広い1階のロビーを右往左往し、二階のツアーラウンジも覗(のぞ)き、ついには部屋に戻り、携帯で部長や課長へ電話を入れるが繋がらなかった。
 妻の目撃情報を思い出し、地下にも降りて見た。

    ロッテホテル  ビュッフェ「ラ・セーヌ」
      ビュッフェ「ラ・セーヌ」

 ビュッフェ「ラ・セーヌ」があったが、奥が深く中がよく見えない。
 地下の筈(はず)はない、そういう思いこみで、また引き返し、また「ペニンシュラ」に入り、やむなく、ここで二人で食事を、と席を物色していたら、
 「すんませーん」
と、部長と課長が現れた。
 こうして、無事に地下の「ラ・セーヌ」で合流できた。中にはいると、大変広いビュッフェで、バイキングスタイルであった。ちなみに、「Peninsula」はイタリア料理とあり、変更の事情がよく理解できた。
 ともかく、旅にはアクシデントが付きもので、後で振り返ると、楽しい想い出のアクセントになっている。
 





 故宮ツアー

 午前九時、ホテル2階のツアーラウンジに集合して、旅行社ガイドのチョンさんの案内で、オプショナル・ツアーに出かけた。 
 やはり旅行の楽しみは、名所旧跡を訪ね、その土地の文化や歴史に触れることも楽しみの一つである。
 だから、空港からロッテホテルへのバスの中で、しっかりオプショナル・ツアーを売り込みされた時、一番に手を挙げて参加の意思表示をしてしまった。
 このツアーは、故宮見学と南大門市場、仁寺洞(インサドン)を見学の後、ヒビンバ昼食が付いているとの説明であった。

    景福宮全景

 バスの中で、一行の大半が手を挙げ、社長夫妻と課長以外の人たちが参加することとなった。
 部長やKさんは、海外旅行に慣れぬ「50周年記念旅行」一行の付き添い役として、同伴していただいたと思われる。料金は切りの良い一人5千円で、バスの中で徴収された。
 その時は、決して高いとは思わなかったが、昨年8月以降の急激な円高、ウォン安が反映されていない料金だったろうと、いま想像している。
 昨年夏以前は、円とウォンは、1対10の交換レートであった。だから、5千円は、ほぼ5万ウォンに相当した。
 この旅行当時は、1対15迄ウォン安になっているから、5万ウォンなら3千4百円程度に下がらなければならない。昨年夏から、急に韓国内の物価が5割も急騰した話は聞かない。
 しかし日本人旅行客は、つい円で言われると、国内の感覚で判断してしまう。だから、現地通貨の「ウォンで幾ら?」とは聞かないのである。
 これは、まだホテルに到着前の我々に、バスの中で徴収した旅行社の作戦勝ちであろう。






 景福宮(キョンボックン)

 景福宮(キヨンボツクン)は、1395年(太祖4年)創建された李氏朝鮮の正宮であった。
 王朝末期で腐敗していた「高麗王朝」を、軍事クーデターで倒した李成桂(イ・ソンゲ)は、初代朝鮮王に即位し、首都であった「開京」(現在は北朝鮮にある開城)から、当時は「漢陽」と呼ばれたこの地に王宮を建設し、景福宮(キヨンボツクン)と名付けられた。1397年には漢陽の城郭と四大城門が完成している。
 景福宮の「景福」は、『詩経(しきよう)』に出てくる言葉で、「王とその子孫すべてが、大きな幸せを得ることを願う」という意味がある。

    景福宮(キヨンボツクン)

 『詩経(しきよう)』は、古代中国の殷(いん)から春秋時代までの詩・歌謡三百余篇を採録したものである。
 また、王宮が完成してから、この地は「漢陽」から、王城ができたことで「漢城」と改称されている。
 景福宮は、漢城の南方に向かって建てられている。
 南方正面の中央に正門を建て、正門から一直線上に重要な建物が並んで建っている。現在は、この景福宮の後ろの丘に、現在の大韓民国大統領官邸の青瓦台(せいがだい)(チョンワデ)がある。
 さて、我々一行のバスは、地図で後づけすると、光化門(クァンファムン)の栗谷路(ユルゴクロ)前を通って、東十字閣という交差点を左折し、三清洞(サムチヨンドン)ギルから建春門という城壁の横から、大きな駐車場へ入っている。
 だから、景福宮の南側の正門である「光化門」の後ろ側から城内へ入った事になる。
 そのため、正門である「光化門」の後ろに位置する「興礼門」がすぐあった。この「興礼門」の正面で記念撮影をした。

     景福宮 興礼門

 その奥に「勤政殿」の出入門である「勤政門」がある。
 さらにその奥に、正殿である「勤政殿」が建ち、勤政門の後に、君主が国政を行う執務室である「思政殿」があるという配置である。
 景福宮の背後には、白岳山(ペックァッサン)がそびえ、また左側には宗廟(そうびよう)(君主の祖先の霊をまつった建物)、右側には社稷(しやしよく)(土地の神(社)と五穀の神)がそれぞれ位置されていた。
 ただ、地図の方位は北だから、観光地図でも、景福宮の右手に宗廟(そうびよう)が描かれている。

 この景福宮の建物の配置は、古代中国の「周」で定められた、宮城の様式に従ったものである。
 ただ、古代中国様式とは異なり、宮殿を首都の北方ではなく、西方白岳山のふもとに置いている。
 
 これは朝鮮人が特に重視している、自然に依拠して家を建てる「風水」の考えが反映しているからである。
 山が多い朝鮮では、家を建てるとき、山の形態や水の流れを考慮し、風水地理的観点から家を建てる位置をきめたという。
 つまり、風水地理は、このような考えを根拠づける理論でもある。
 景福宮の建設でも、この風水地理を検討し、王宮を漢城の北方におかず、ソウルの代表的な山である「白岳山」のふもとにおいたのである。
 ガイドのチョンさんも、この風水地理でこの地が選ばれ、ここに景福宮が建てられたと、説明してくれた。






 青丹(あおに)よし

 チョンさんの歴史的な説明は的確であった。楼門(ろうもん)を潜って振り返り、
「韓国の古い王宮や寺院の建物は、赤や黄、青、黒、白の五色からなる幾何学模様で飾られています。この色は宮廷以外では使用することが出来なかったのですよ」
 日本の神社仏閣でも青や赤(丹(に))を使用しているという説明の中で、
 「青丹(あおに)よし 奈良の都は 咲く花の 匂うがごとく いま盛りなり」
 という日本の古歌を披露したのである。
 この事で、チョンさんはかなり日本の歴史にも詳しい人だと感心した。
 ついでながら、その奈良の都の栄華の後の、百年のちに詠(うた)われた対句のような歌もある。
 「人の世は 定めなきものぞと いまは知る 奈良の都をみればなり」
 少し話しが外れた。
 
        勤政殿の玉座
          玉座

 この5色の文様は、古くは三国時代の古墳の装飾壁画にも見られる。
 また、この五色は、邪気をはらって幸運を招く聖なる色として、朝鮮王朝末期まで、王宮や寺院だけに限って使用された。
 現在は、この5色は韓国の民族を象徴する色として、民族衣装のチマチョゴリや、子どもの晴れ着であるセクトンチョゴリ、寝具にいたるまで使用されている。
 ついでに各楼門や殿舎の軒先にある装飾についても説明してくれた。
「あの屋根にある飾りは魔除けで、邪気を払うという三蔵法師です」
との説明であった。その後、観察すると、どの屋根にも同じ三蔵法師が飾られていた。

    邪気を払うという三蔵法師の屋根飾り



 日本でも、様々な魔除けとしての屋根飾りがある。鯱(しやち)や鬼瓦、そして鬼龍子などの想像上の動物などを配したものもある。沖縄ではシーサーを屋根に載せているが、三蔵法師が魔除けとは意外な気がした。
 






 西遊記と玄奘三蔵

 三蔵法師一行が、景福宮の瓦屋根の魔除けに載せられている話しから、日本でも有名な『西遊記(さいゆうき)』についても少し触れておきたい。
 三蔵法師とは玄奘(げんしよう)三蔵(さんぞう)のことで、実在の人物でインドから(645年)657部という膨大な経典を、長安に持ち帰った人である。
 経典の経蔵(きようぞう)・律蔵(りつぞう)・論蔵(ろんぞう)の三蔵から、その名がついた。
 一般的には、玄奘の旅の記録『大唐西域記』から創られた『西遊記』の方が有名である。
 
   西遊記の登場人物を描いた絵画(頤和園)
       西遊記の登場人物を描いた絵画(頤和園)

 『西遊記』は、中国で十六世紀の明(みん)の時代に大成した伝奇小説で、唐僧・三蔵法師が白馬・玉龍に乗って、三神仙(神通力を持った仙人)、孫悟空、猪八戒、沙悟浄を供に従え、さまざまな苦難を乗り越えて天竺(てんじく)へ経を取りに行く物語である。
 仏教の天界に仙界、神や龍や妖怪や仙人など、虚実が入り乱れる一大伝奇小説であり、中国四大奇書の一つである。
 『西遊記』で現存している最古のものは、元(げん)の時代に西遊記の逸話を収録した朝鮮の書『朴通事諺解(ぼくつうじげんかい)』(1677年)によるものである。
 朝鮮国王が明(みん)に朝貢していた関係で、『西遊記』は、早くから知られていた。

   国宝 玄奘三蔵絵 鎌倉時代 藤田美術館
      国宝 玄奘三蔵絵   鎌倉時代 藤田美術館

 天竺(てんじく)(インド)への旅をする三蔵一行は天界が用意した八十一の難と対峙する話しである。
 特にさまざまな妖怪変化に悩まされるが、最終的には三蔵法師の法力によって難を免れるという物語である。
 旅の終盤でも、とうとう天竺(てんじく)に辿り着いたが、さらなる試験を与えられる。
 ようやく経典を授かるが、観世音菩薩が、三蔵の災難簿を見ると、あと一難足りないと、また雲から落とされる。このような法難を幾度となく乗り越え、長安に戻ってくる。
 一行は、太宗皇帝に経典を渡し、雁塔寺に納めると、八大金剛が現れ一行を西域へ連れ去っていった。その西域で、釈迦に称賛の言葉をかけられ、遂に五人は罪を許され、三蔵は旃檀功徳仏(せんだんくどくぶつ)、悟空は闘戦勝仏(とうせんしようぶつ)、八戒は浄壇使者(じようだんししや)、悟浄は金身羅漢(こんしんらかん)、玉龍は八部天竜(はちぶてんりゆう)と成る。
 物語は、一大伝奇小説ながら、様々な鬼神や妖怪を退けたという物語から、景福宮の屋根の魔除けとなったに違いない。こうして、景福宮で日本でも有名な『西遊記』に巡り会あったのである。







 景福宮の復元

 ところで、かつての王宮を、観光客として見学しているが、これらは近年復元されたものばかりである。
 写真は、1930年の日本統治時代の航空写真である。

    景福宮正面に建てられた朝鮮総督府
       右上え景福宮の正面に建てられていた朝鮮総督府の建物

 歴史的に言えば、つい最近のことで、日本の軍事圧力によって、韓帝国を併合し(日韓併合1910年)、李氏朝鮮王朝は崩壊した。 
 韓帝国の国権は「朝鮮総督府」に移り、日本統治時代を迎えた。

     破壊される前の光化門
       破壊される前の光化門

 上の写真は、1925年以前に撮影されたものである。
 光化門とその前にある、六曹街(六つの中央官庁である曹が並んでいる)の写真で、「朝鮮古蹟(こせき)圖譜(ずふ)」に 収録されている。六曹街が取り壊される前のものである。

 李氏朝鮮王朝が消滅して、王宮としての役割を終えたと判断された景福宮は、貴重な文化遺産という発想は皆無で、「朝鮮総督府」によって、無惨にも、景福宮の約200もの王宮関連建物の八割と城壁は破壊されているのである。

 正面の光化門も取り壊され、代わって宮殿正面には、近代的な総督府庁舎が建てられた。
 この結果、街から宮殿は見えなくなり、王制時代の宮殿の様相は一変され、近代的な景観に変貌された。
 上の写真は、戦後の韓国政府によって正面の光化門が、1990年にコンクリート製で復元された写真である。
 この日本による正宮の破壊と、宮城内への朝鮮総督府建設は、朝鮮半島の人々にとって歴史的屈辱の象徴とされている。
 戦後は、韓国政府の中央庁舎や国立博物館として使用されていたが、屈辱の象徴としての旧朝鮮総督府の建物が取り壊される事になった。 
 この後1991年から、韓国政府によって「景福宮復元事業」が本格的に始まっている。 
「景福宮復元事業」は、写真の通り、2005年には、ほぼ復元工事は完成している。 
 ただ、景福宮正面中央の、コンクリート製の光化門は未着手で、2006年から光化門の本格的修復工事が始められている。
 2009年中には完成予定ながら、我々一行は、工事中の囲いがある裏の駐車場へと案内されているから、見学は出来なかった。 この「景福宮復元事業」は、周辺整備も含めると、なんと2025年完成予定とのことで、壮大な国家事業となっている。

     景福宮の光化門も復元
       現在は 景福宮復元事業が完成し、光化門も復元されている






 数奇な運命 
 
 景福宮は、1395年(太祖4年)創建された李氏朝鮮の正宮であったことは、すでに述べた。そして日韓併合の1910年まで、李氏朝鮮の王朝は五百十五年も続いている。
 詳細については省略するが、最後の国王が、日本の後ろ楯で「清(しん)」から独立し「韓帝国」が成立し、続いて日韓併合(1910年)が行われた。
 この結果、日本主導の「朝鮮総督府」が設立され、景福宮の大半の殿舎は無惨に破壊されたことも述べた。
 しかし、五百余年続いた李氏朝鮮の王宮であった景福宮は、その名に似ず数奇な運命を背負っていた。
 
   李氏朝鮮時代の正宮景福宮

 朝鮮総督府が、景福宮を破壊する遙か三百数十年前にも、「壬辰倭乱(じんしんわらん)」の戦乱で景福宮は全焼しているのである。
「壬辰倭乱」とは、韓国歴史のよびかたで、倭乱(わらん)すなわち、豊臣秀吉が朝鮮半島へ侵攻した戦乱のことである。 日本の歴史では、「文禄・慶長の役(えき)」と書かれている。
 晩年の豊臣秀吉が、無謀にも明(みん)(中国王朝)の征服をもくろみ、朝鮮王朝を従わせる為に起こした戦乱であった。最初の文禄の役の時にも、景福宮の一部を消失していたが、慶長の役(えき)の時、国王の宣祖が漢城から逃亡すると、秀吉軍の入城を前に、朝鮮の民衆による略奪と放火より、再び焼失した。
 
 秀吉の死によって「壬辰倭乱」は終わったが、景福宮は無惨にも全焼していたのである。
景福宮の造営からおよそ二百年弱の頃で、1592年(宣祖25年)の事であった。
「壬辰倭乱」で全焼して以降、
「景福宮は、王宮としては不吉」
という理由で、なんと二百七十三年もの間、再建されず放置されたのである。
 王宮はその間、昌徳宮(チャンドックン)に置かれていた。 

          興宣大院君
            興宣大院君

  ところが、1865年(高宗2年)、興宣大院君が再建に着手し、1868年(高宗5年)に創建当時の規模に復元した。 興宣大院君は、李氏朝鮮の第26代国王の高宗(こうそう)の実父である。
「景福宮」の造営が完成すると、当然ながら国王の高宗が「昌徳宮」から正式に王宮を移した。
 しかし、再建された王宮の「景福宮」は、朝鮮総督府によって再度破壊されるまでの、僅かに四十二年間の命脈で尽きたのである。
 破壊から免れたのは、慶会楼と「勤政殿」などの、十棟のみであった。その創建されてから百四十年後の「勤政殿」の前で記念撮影した。

     勤政殿
       勤政殿

  続く

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