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鳥の子紙
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この項目に含まれる文字「襖」は、オペレーティングシステムやブラウザなどの環境により表示が異なります。 |
襖(ふすま)は、木などでできた骨組みの両面に紙や布を張ったものでそれに縁や引手を付けたもの[1]。和室の仕切りに使う建具の一つである。「襖障子」(ふすましょうじ)または「唐紙障子」(からかみしょうじ)と呼ばれることもある。単に「唐紙」と呼ばれることもある。
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障子という言葉は中国伝来であるが、「ふすま」は唐にも韓にも無く、日本人の命名である。
「ふすま障子」が考案された初めは、御所の寝殿の中の寝所の間仕切りとして使用され始めた。
寝所は「衾所(ふすまどころ)」といわれた。「衾」は元来「ふとん、寝具」の意である。このため、「衾所の衾障子」と言われた。さらには、ふすま障子の周囲を軟錦(ぜんきん)と称した幅広い縁を貼った形が、衾の形に相似していたところから衾障子と言われた、などの説がある。
「衾(きん)」をふすまと訓ませるのは、「臥す間(ふすま)」から来ていると想像される。
いずれにしても「ふすま」の語源は「衾」であるという学説が正しいとされている。
ついでながら、襖の周囲に縁取りとして使用した軟錦は、もとは簾や几帳に、縁取りや装飾として使用された、帯状の絹裂地のことである。寝殿造で多用された簡易間仕切りの衝立てにも縁取りとして軟錦は使用され、また畳の繧繝縁(うげんべり)などの縁取にも使用されている。
几帳は、台に二本の柱を立て上に横木を渡して、絹綾織りの帳 とばりを掛けたもので、主として女性の座する空間の間仕切りとして、使用されていた。帳は絹布を軟錦の縁取りでつなぎ合わせて、軟錦の上からさらに軟錦の帯を飾りとして重ねて垂らし、裾は長く流して十二単衣の裾のような風情を作っていた。
「襖」は衣服のあわせや綿いれの意で、両面が絹裂地張りであったことから「ふすま」の表記に使用された。
襖の原初の形態は、板状の衝立ての両面に絹裂地を張りつけたものであったと考えられる。
この衝立てを改良して、框かまちに縦桟横桟を組み、両面から絹布などを貼って軽量化を図った。この軽量化された衝立てを改良発展して、張り付け壁(副障子)や屏風にも応用していったと思われる。むろん、張りつけ壁や屏風にも、幅の広軟錦が張りつけられていた。「襖」が考案された当初は、表面が絹裂地張りであった。このため「襖障子」と称された。のちに、隠蔽性の高い厚手の唐紙が伝来して障子に用いられて普及していくが、襖障子と唐紙障子は混同され併用されて、絹張りでない紙張り障子も襖と称されていく。
一応、正式の客間には、白地または襖絵が描かれたものを用いて襖障子と称し、略式の居間や数寄屋風の建物には、色無地や小紋柄を木版で刷った唐紙を使用し、唐紙障子と称したようである。唐紙障子の考案からやや遅れて、「明障子(あかりしょうじ)」が考案された。今日の障子である。
時代を経るに従い言葉が縮まり、「襖障子」「唐紙障子」の内、「障子」が脱落して「襖」「唐紙」となり、「明障子」は逆に「明」が脱落し、障子が固有名詞となり、間仕切りの総称から地位を譲った。
『源氏物語』の中に「開きたる障子をいま少しおし開けて、こなたの障子は引きたて給いて」とあり、また障子に歌を書き付ける話が何度か出てくる。
『源氏物語』は、引き違いの襖障子をありふれた情景として描いている。この頃になると貴族や上流階級の邸宅には襖がかなり普及していたと判断できる。
『源氏物語』が書かれてから凡そ100年のちの藤原隆能の描いた『源氏物語絵巻』は、濃い色彩を塗り重ねていく、つくり絵の独特の優美な日本最古の絵巻物語である。人物は下ぶくれの顔に細い横線を引いて目とし、鼻を鉤かぎ状に描く「引目鉤鼻」の手法で描かれ、家屋は屋根や天井を省略した吹抜け屋台となっている。この絵巻物によってで室内の様子がよく判り、衝立、几帳、簾、蔀、屏風など建具の使用状や、襖障子に大和絵が描かれているのが分かる。
「宿木」の巻では、清涼殿朝餉の間には大和絵の襖障子と、銀地に流水飛鳥の図を描いた副障子(可動式の壁として使用した、嵌め込み式の襖障子の一種)が描かれている。「東屋」の巻では、浮舟の住まう三条の小家の縁側には、遣戸が見える。
室内の間仕切りに襖障子が使用されているが、姫君の座している側にはかならず几帳が置かれ、個性を演出する織物が使用されていて、部屋をさらに細分化して使用するための重要な隔ての役割を演出している。華麗な室内意匠は実に王朝絵巻にふさわしい。外回りの隔てには、明かり取りに簾や格子も多く見受けられるが、要所には舞良戸が使用されている。
帝やその他位高き男性の側には、屏風が描かれている。それぞれの建具にそれぞれの役割とインテリアとしての意匠や象徴的意味が込められているようだ。この時代の襖障子は、板戸用の骨太い組子桟に、絹裂地(きれじ)張りであった。開閉の為、引き手として太い総(ふさ)や、戸締まり用の懸金(かけがね)が付けられていた。そして多くは絵師による絵付けが施されていた。当時の一間は3mであり、2枚引違いにすると現在の建具の倍近い巾があった。しかも大工道具が未発達で台鉋もない時代で、骨太い組子しか作れなかった為、今日から考えると実に武骨で大変重い建具であったと思われる。
現存最古の襖は、建久8年(1197年)に建立されたと伝えられる、高野山金剛峯寺不動堂の内陣と外陣の境にたてられている襖である。ただ上張りも下張りも張り替えられており、当時のものは襖の骨組みだけである。ヤリ鉋で仕上げられた組子骨は太く、見付け3cm見込み2cmの桧造りで、縦骨が4本、横骨が7本組まれている。しかも現在の組子と同じ縦横の骨を交互に組付ける地獄組で、大変手のこんだ作り方であるという。
平安時代の寝殿造の内部は、丸柱が立ち並ぶだけの、構造的な間仕切りが無い、板敷きの床の大広間形式であった。開放的な空間を、住む人の日常生活の都合や、季節の変化や年中行事の儀礼や接客饗宴などに応じて、几帳や屏風や障子などによって内部を仕切り、帳台や畳その他の調度を置いて、その都度適切な空間演出を行った。
このような室内の設営を「しつらい」と呼んだ。
「しつらい」には「室礼」とか「舗設」などの漢字を当てている。
やまと言葉としての「しつらい」の「し」は「為(し)」で「する」という意であり、「つらい」は「つれあう」や「つりあう」の意で、その時々の情況に応じて「連れ合う」あるいは「釣り合う」ように「する」ことだという。
その時々の季節や住む人の格式や生活様式、行事としての儀式の状況などに調和し融和するように、さまざまな障屏具で「しつらえ」た。「しつらえ」のための主要な間仕切りであった障子が、今日の「ふすま」の原型をなしている。平安時代の寝殿造りの「しつらい」の間仕切りとしては、まず建物の外部と内部との隔てる蔀戸、蔀戸に沿ってかける御簾がある。御簾には外側にかける覆い御簾と内側にかける内簾がある。
冬には御簾の内側に重ねて壁代という帷をかける。室内には、いわば帷で作った衝立ともいえる几帳を置いたり、絹や布地の引き幕に近い間仕切りの引帷や軟障で小空間を間仕切った。さらには屏風や衝立障子、衝立障子の発展的形態として、木格子の表裏に絹や布地、後に和紙を張り黒塗りの縁をつけた衾障子などを用いた。
なかでも、「しつらい」の間仕切り具として最も重要な「障子」は、平安時代にさまざまな形式の障子が考案されている。仕上げ材料によって絹障子、布障子、紙障子、板障子、杉障子、そして副障子(押障子ともいい壁として用いた)や平安末期には明かり障子などが工夫されている。木の組子格子の表裏に絹や和紙を張り重ねた障子が衾障子あるいは襖障子と呼ばれた。板障子も板を下地として紙や布を張ったもので、柱間にはめ込んで壁として用いた副障子である。
間仕切り建具としての発展的形態から見ると、「障子」は、衝立の原型といえる台脚の上に立てる衝立障子が原型である。絹障子、紙障子、板障子なども台脚の上に乗せる衝立障子であった。衝立障子の中に、四角に窓を開け簀を張りさらに御簾をかけて、内側から向こう側が見えるようにした通障子(透障子)なども工夫されている。「しつらい」として時々の情況に調和させるように「しつらえる」ためには可動形態が便利である。マルチパーパス空間としての寝殿造りは、便所や湯殿さえ固定されていなかった。衝立障子から、柱間に一本の溝を設けてはめ込む副障子が考案された。副障子は建て込み式の障子で、「しつらえ」に応じて建て込んだり、取り外したりできる可動式の壁であった。
この副障子を、鴨居と敷居という二本の溝を設けて、引き違いに動くように工夫したのが鳥居障子(鴨居障子)で、今日の「ふすま」の原型となったもので、衾障子・襖障子と呼ばれた。このような内部空間を間仕切る多様な障子の発明は、寝殿造りの住宅の公と私の明確な分離に基づく、住まい方の変化をもたらした重大な転機となった。
特定の機能や目的を備えた小空間への分離独立への展開は、「室」という概念をもたらした。平安末期に明かり障子が誕生しているが、その原型は帳台と呼ばれる寝所の明かり取りの天井に由来していると思われる。帳台は、寝殿のほぼ中央に設けられた寝所で、畳を敷いて一段高くして、四本の柱を立て、帷や御簾を立て回した。後に衾障子で囲われるようになった。帳台の柱には天井も設けられている。寝所とは言っても、昼間は居間として使用するため、組子格子の片面に光を透かす「すずし」(生絹)を張った天井を設けて、天井の明かり取りとした。そして、この帳台の格子天井の「明かり取り」が後の明かり障子の原型であり、「天井」そのものが、後の書院造りで目的や機能別に小空間に間仕切りされた「室」に、杉板天井が設けられる原型ともなっている。
書院造のひとつの特色に、華麗な金碧障壁画がある。金碧障壁画は、金箔地に群青・緑青・白緑そして朱や濃墨などを用いた、濃彩色の障壁画(襖や貼り付け壁、屏風などに描かれた絵)で、狩野永徳によって新しい画法が創造された。書院造の障壁画として、有名な二条城の二の丸殿舍や西本願寺の対面所がある。正面床の間の、貼り付壁や付け書院、違棚の小襖や間仕切りとしての襖、長押の上の壁面などをすべて構成要素として利用した、雄大で華麗なパノラマ金碧障壁画が描かれている。
狩野永徳は、足利将軍家の御用絵師として、漢画の技法と伝統的大和絵の技法を折衷した新しい画法を創造した。平安時代の貴族の邸宅や寺院に描かれた障壁画は、中国の故事や風物を描いた唐絵であったが、日本の四季の花鳥風月や風景を主題に選び、独特の画法を確立した。また、連続したパノラマ画面を構成する為に、襖から軟錦という幅の広い装飾の縁取りの裂地(簾みすや畳にも装飾の縁取りが付けられた)を取り除き、さらに長押の上の小壁も連続した画面として利用するなどの工夫がなされた。金碧障壁画は、書院の単なる装飾的な価値だけでなく、当然ながら地位権力を象徴する演出として利用された。のちの安土桃山時代には、織田信長の安土城や豊臣秀吉の聚楽第や大阪城などに壮麗な金碧障壁画が描かれ、権力の誇示に利用されていく。
永徳は時代の変革に柔軟に対応して、時の権力者に巧みに取り入り、これらの障壁画のほとんどを狩野永徳とその一門で描いている。ついでながら、狩野派一門は江戸時代徳川将軍家の画工の長として、勢力を維持し続け、画才の他に鋭い政治感覚も合わせて持ち合わせていた。俵屋宗達や尾形光琳などが狩野派の絵画技法を継承発展させて、金碧障壁画は日本美術に実に大きな影響を与えた。
から紙は、紋様を刷り込んだ襖障子の上張り(表張り)のことで、襖障子には多くの下張りが行われる。下張りの工程は、骨縛り、蓑張り、べた貼り、袋張り(浮張り)、清張りなどの工程があり、種々の和紙を幾重にも丁寧に張り重ねてできあがる。
「骨縛り」は、組子に最初に張り付けるもので、組子骨に糊を付けて、手漉き和紙・茶チリ・桑チリなどの繊維の強い和紙を、障子のように張る。霧吹きをすると和紙の強い繊維が収縮して、組子骨を締め付けてガタがこないようにする重要な役目を担っている。
「打ち付け貼り」は、骨縛り押し貼りともいわれ、骨縛りをより強固にするための重ね張りとともに、骨が透けないようにする透き止めの効果もある。
「蓑張り」は、框に糊付けしずらしながら蓑のように重ねて張る。これを二回〜四回繰り返す。これは重要な工程で、組子骨の筋の透け防止と襖建具の裄 をだす。さらに、蓑張りが作り出す空気の層は、断熱保温効果と吸音防音効果も果たしている。
「べた貼り」は、紙の全面に糊をつけて貼り、蓑張りの押さえの役割を持つ。
「袋張り」は、半紙または薄手の手漉き和紙や茶チリなどの紙の周囲だけに、細く糊を付けて袋状に張る。袋状に浮かして張るので「浮け張り」ともいい、奥行きのある風合いを完成させる。
「清貼り」は、紙の全面に薄い糊を付けて貼る。これは上張りの紙の材質や裏と表に材質の異なる表面紙を張るときなどに限って使用する。
これらの幾重にも和紙を張り重ねていく工程は、組子の障子の格子を紙の引きで固定し、木材のひずみを防止するとともに、裄のある(ふくらみのある)風合いをもたせて仕上げるためのものである。骨縛りは引きの強い反故紙を用い、中期工程には湊紙(和泉の湊村で漉かれた漉き返しの紙で、薄墨または鼠色の紙)や茶塵(ちゃちり)紙(楮の黒皮のくずから漉いた紙や、故紙を再生したもので単に塵紙ともいう)を用い、清貼の工程には粘りの強い生漉きの美濃紙・細川紙・石州半紙などが用いられた。
板戸や明かり障子は建具職人によって作られるが、襖は一般に建具とは言わず、「ふすま」と言い、経師や表具師によって、幾重にも紙を張り重ねることによって「ふすま」となって行く。紙質を変え、張りの仕口をかえて、紙を張り重ねていくと、ふすまは丈夫になるとともに、吸音効果や断熱効果そして調湿効果などとともに、ぴんと張りつめたなかにも、ふっくらとした柔らかい味わいで、落ち着いた和風の雰囲気を醸し出す。
古来から、日本人は「白」という色を、汚れのない清らかなもの清浄なもの、神聖なものとして特に大切にしてきた。白に無限の可能性を感じ、美しさの原点でもあった。
古代から麻や楮の繊維から衣料を作ったが、特に楮の皮の繊維は「木綿(ゆふ)」と呼ばれ、剥いだ樹皮の繊維を蒸した後、水にさらして糸状に精製したものである。この木綿で織った布を白く晒したものを白妙と呼び、日本人の白さに対する感覚の原点と言える。清らかな冷たい水の中を幾度もくぐらせて、何度もさらすことによって、身を浄めるようにして得られた、美しく白い繊維の木綿の白さに神聖なものとしての感情が移入されている。木綿は「ぬさ」とも呼ばれ、幣または幣帛という漢字が当てられている。
木綿は、神を招来するための祭具であり、神の座の飾りでもあった。神前で舞う巫女の持つ榊の小枝や、神に捧げる若竹や篠などを用いた斎串に付けたり、しめ縄に垂(四手)として飾り、神聖な領域を示す結界の象徴として用いてきた。木綿は楮の皮の繊維からつくり、紙もまた楮の繊維からつくる。和紙が普及する奈良時代には、木綿に代わって紙が幣の座を占め、どこの神社も紙の幣帛で飾られるようになった。
和紙の普及に伴い、奈良時代には木格子の両面に和紙を張った衝立障子が用いられ、平安時代には衾障子が用いられるようになっている。障子は古来間仕切りの総称として用いられたが、「障」はさえぎる、へだてるの意がある。障子は神聖な「奥」への視界をさえぎり、さらには物の怪や邪霊を防ぎ、風や冷気をさえぎる。衝立障子や屏風、帷そして衾障子には、木綿で織られた白妙や麻・絹そして紙を張ったが、神聖な場所としての結界として、聖域を邪霊から守り防ぐ意味から、清浄で神聖な「白」が張られた。そして、寝具として身を包む衾も清らかな白が用いられた。
『類聚雑要抄』(るいじゅうざつようしょう)所収の永久3年(1115年)藤原忠実の東三条殿の寝殿しつらえ図面によると、すべての障子には絵画も唐紙紋様もない「地・白」と記されている。随身所のしつらえ立面図などには、すでに障子の表面に「襖」という文字が記され、「襖類何レモ白」と記されている。襖に白鳥の子を張るという伝統は今日にも引き継がれており、格式の高い料亭や旅館にも使われており、皇居の和室の襖も白の鳥の子が張られているという。
古代以来の日本人の白に対する神聖性とは別に、仏教伝来と共に対局の金色燦然とした「荘厳」といわれる飾りの聖性を獲得していった。仏教における祭壇で、黄金の光背を放つ金色燦然とした金銅仏が安置され、きらびやかに彩られた欄間などの装飾によつて、空間全体が極楽浄土を暗示している。古代の神道の清浄な「白」に対す聖性に対して、光り輝く黄金色の新しい聖性は、古代の日本人に大きな価値観の変化をもたらした。仏教の影響は、神道の拭い清める白の神聖性と、白の装飾性から、仏像伽藍のような、より立派により華やかに装飾するという加飾性を大きくしていった。
襖の原型である衝立障子や屏風そして押しつけ壁にも、唐絵が描かれるようになり、九世紀中頃には大和絵が描かれるようになった。鎌倉・室町時代に寝殿造りから書院造りへと移行し、江戸時代に書院造りは武士階級の住宅様式として完成していった。初期の書院造りの特徴は、接客対面の儀式の場としての書院を、権力の象徴として、襖障子と張り付け壁を連続させて、その全面を金地極彩色の金碧障壁画で飾り立てた。織田信長の安土城は、殿中が金箔で光り輝いていたという。
唐紙(からかみ)とは、襖に貼る加工紙の一種。産地・特徴において、京から紙と江戸から紙の2系統に分かれる。
京都の西北に連なる鷹ケ峰、鷲ケ峰、釈迦谷山などの山稜から一筋の川が流れている。南下して北野天満宮と平野神社の間を抜けて、西流してやがて御室川と合流し再び南下して、桂川に注ぐ。この流れを紙屋(かんや)川と呼ぶ。
紙屋川と呼ぶのは、平安時代の初期に図書寮直轄の官営紙漉き場の紙屋院がこの川のほとりに設けられたからである。紙屋院の置かれていた位置の明確な記録はないが、『擁州府誌(ようしゆうふし)』には、「北野の南に宿紙(しゅくし)村あり、古この川において宿紙を製す。故に紙屋川と号す。」とある。
『日本紙業史・京都篇』によっても、北野天満宮あたりの紙屋川のほとりにあったことは確かである。官営紙漉き場であった紙屋院は、平安時代の製紙技術のセンターであり、当時の最高の技術で紙を漉き、地方での紙漉きの技術指導も行った。
『源氏物語』には、「うるわしき紙屋紙」と表現し、またその色紙を「色はなやかなる」と讃えている。紙屋院が設けられる前の奈良時代にも図書寮が製紙を担当していた。
『令集解』には、紙戸五○戸を山代国(山城国・現京都)に置いたと記録している。山城国に特定したのは、古代における最大の技術者渡来集団といえる、秦氏が勢力を張っていた拠点であったからである。
秦氏の渡来当初は、現在の奈良県御所市あたりにヤマト政権より土地を与えられている。のちに主流は山城国に移り、土木・農耕技術によって嵯峨野を開墾開拓し、機織り・木工・金工などの技術者を多く抱えて、技術者集団をなしていた。
機織りの技術者がいたことから、当然当時の衣料の原料である麻や楮の繊維から製糸する技術者もいた。製糸の技術は、麻や楮の靱皮(じんぴ)繊維を利用することでは、製紙と類似技術であり、原料の処理工程は殆ど一緒であり、繊維を紡ぐか、繊維を漉くかの、まさに紙一重の違いしかない。すでに原始的な紙漉きの技術を、持っていた可能性もある。
このような技術的な基盤のもとに、平城京の政権は、山城国(山代国)に紙戸(官に委託された紙漉き場)を置いた。飛鳥時代の宮廷・官衙の物資調達に任じたのが蔵部で、秦大津父は大蔵掾に任じられ、聖徳太子の蔵人となった秦河勝は京都太秦に峰岡寺(後の広隆寺)を造営している。
秦忌寸朝元は天平11年(739年)に図書頭に任じられている。平安時代に入ると、秦公室成は弘仁2年(811年)、図書寮造紙(ぞうし)長上であった秦部乙足に替わって、図書寮造紙長上に任命されている。秦氏は、このように古くから、造紙関係の要職と深くつながっていた。秦氏のような、技術者の基盤の上に製紙の国産化が行われ、山城国が製紙の先進技術を誇り、和紙の技術センターの役割を担ったが、紙の需要が高まるにつれ、原料の麻や楮は地方に頼らざるを得なくなった。
紙の需要が高まるにつれ、皮肉なことに律令制度に緩みがでて、紙の原料の供給が細ってしまった。紙屋院の技術指導によって、各地で紙漉きが盛んになり、律令制度の統制力の弱体化とも相まって、紙屋院は原料の調達が思わしくなくなった。このような経緯で、紙屋院は反故紙を集めて漉き返しの宿紙を漉くようになった。
のちに、紙屋紙は宿紙の代名詞とも成り、のちに堺で湊紙、江戸で浅草紙という宿紙が漉かれるようになってから、京都の宿紙は西洞院紙と呼ばれるようになった。
京では、紙漉きそのものが、律令体制の緩みによる原料の調達難から衰退したのとは対照的に、紙の加工技術で高度な技術を開発して、和紙の加工技術センターとして重要な地位を占めるようになっていく。紙を染め、金銀箔をちりばめ、絵具や版木で紋様を描くなど、加工技術に情熱を傾け、雅で麗しき平安王朝の料紙を供給していった。
京における高度な紙の加工技術が、平安王朝のみやびた文化を支えたともいえる。豊かな色彩感覚は、染め紙では高貴やかな紫や艶かしい紅がこのんで用いられるようになった。複雑な交染めを必要とする「二藍」や「紅梅」さらには、朽葉色、萌黄色、海松色、浅葱色など、中間色の繊細な表現を可能とした。
かな文字の流麗な線を引き立てるには、斐紙(雁皮紙)が最も適している。墨流し、打ち雲、飛雲や切り継ぎ、破り継ぎ、重ね継ぎなどの継ぎ紙の技巧そして、中国渡来の紋唐紙を模した紋様を施した「から紙」など、京の工人たちは雁皮紙の加工に情熱を注ぎ、和紙独特の洗練された加工技術を完成させた。王朝貴族の料紙ばかりではなく、実用的なさまざまな加工紙が京で加工された。元禄5年(1692年)刊の『諸国万買物調方記』には、山城の名産として扇の地紙、渋紙のほか、水引、色紙短冊、表紙、紙帳、から紙などをあげている。このほかにも万年紙屋、かるた紙屋があり、半切紙の加工も京都が本場であった。
万年紙は、透明な漆を塗布した紙で、墨筆で書くメモ用の紙で、湿った布で拭けば墨字が消え、長年に使えるので万年紙の名がある。製法は、楮の厚紙(泉貨紙)の表裏を山くちなしの汁で染め、渋を一度引いて乾かし、透明な梨子地漆で上塗りして、風呂に入れて漆を枯らし、折本のように畳んで用いるとある。半切紙は書簡用紙であり、これを継ぎ足したのが巻紙である。この書簡用紙を京好みに染めたり紋様を付けるなどの加工を施した。 半切紙の加工は、西洞院松原通りで盛んであった。色紙や短冊は、この半切紙に比べてより高級な加工が必要であったが、宮中御用の老舗が多かった仏光寺通りが色紙短冊の加工の中心であった。
から紙は、平安時代には詠草料紙として加工が始まり、後にふすま紙の主流となったが、本阿弥光悦の嵯峨の芸術村では、紙屋宗二が嵯峨本などの用紙として美しい紙をつくった。ふすま用の「から紙」は、東洞院通りを中心に集まっていた。このように中京・下京区には京の紙加工センターであった。
から紙の地紙はもともと檀紙(楮紙)や鳥の子紙(雁皮紙)が使われ、「京から紙」は主に鳥の子紙と奉書紙が用いられた。斐紙(ひし)と呼ばれていた雁皮紙は、特にその薄様が平安時代に貴族の女性達に好んで用いられ、「薄様」が通り名となっていた。この雁皮紙が鳥の子と称されるようになるのは、南北朝時代頃からである。
足代弘訓の『雑事記』の嘉暦3年(1328年)の条に「鳥の子色紙」の文字があり、『愚管記』の延文元年(1356年)の条に、「料紙鳥子」とあり、さらに伏見宮貞成親王の『看聞日記』永享7年(1431年)の条にも「料紙(りょうし)鳥子」の文字が見える。平安の女性的貴族文化の時代から、中世の男性的武士社会にはいって、厚用の雁皮紙が多くなり、薄様に対してこれを鳥の子紙と呼んだ。近世に入ると雁皮紙はすべて鳥の子紙と呼ぶようになった。
『宣胤卿記』の長享2年(1488年)の条に「越前打陰」(鳥の子紙の上下に雲の紋様を漉き込んだもので、打雲紙ともいう)、文亀2年(1502年)の条に「越前鳥子」の文字が記されている。「越前鳥子」の文字は他の史料にも多くあり、室町中期には越前の鳥の子が良質なものとして、持てはやされるようになっている。 この鳥の子紙に木版で紋様を施したのが「から紙」である。紙に紋様をつける試みは中国の南北朝時代に始まり隋・唐時代に発展した。日本でも奈良時代から行われ、中国の木版印刷による「紋唐紙」をまねて「から紙」作りが試みられ、「唐紙」にたいして「からかみ」と称した。京の紙加工の工人によってさまざまの独自の工夫が施され、量産されるようになって「ふすま」用の「から紙」に用いられるようになった。さらに木版印刷の技術の蓄積により、江戸時代になって千代紙として庶民にも親しまれるようになった。
「からかみ」作りは、もともと都であった京で始まったもので、京都が発祥地であり本場であり、その技術も洗練されていた。近世初期の、本阿弥光悦の鷹ケ峰芸術村では、「嵯峨本」などの料紙としてのから紙を制作し、京から紙の技術をさらに洗練させ、京の唐紙師(かみし)がその伝統を継承していった。
本阿弥光悦(1558ー1637)は多賀宗春の子で、刀剣の鑑別、研磨を業とする本阿弥光心の養子となった。絵画・蒔絵・陶芸にも独創的な才能を発揮したが、書道でも寛永の三筆の一人でもあった。本阿弥光悦の晩年の元和元年(1615年)、徳川家康から洛北の鷹ケ峰に広大な敷地を与えられ、各種の工芸家を集め本阿弥光悦流の芸術精神で統一した芸術村を営んだ。
本阿弥光悦の芸術の重要なテーマは王朝文化の復興であり、その一つとして王朝時代の詠草料紙の復活と「からかみ」を作り、書道の料紙とするとともに、嵯峨本の料紙とすることであった。
嵯峨本は、別名角倉本、光悦本ともいい、京の三長者に数えられる嵯峨の素封家角倉素庵が開版し、多くは本阿弥光悦の書体になる文字摺りの国文学の出版であった。慶長13年(1608年)開版の嵯峨本『伊勢物語』は、挿し絵が版刻された最初のものであった。嵯峨本の影響を受けて、仮名草紙、浄瑠璃本、評判記なども版刻の挿し絵を採用するようになった。仮名草紙の普及で、のちに西鶴文学が生まれ、挿し絵と文字を組み合わせた印刷本が、庶民の要望に応えて量産されるようになった。
嵯峨本は、豪華さと典雅さを特徴とし、装幀・料紙・挿し絵のデザインのきわめて優れたものであった。料紙は王朝文化の伝統に新しい装飾性を加えた図案を俵屋宗達が描いている。俵屋宗達は慶長から寛永にかけて活躍した絵師で、光悦の芸術村での独特の表現と技術を凝らした画風がのちに宮廷に認められ、狩野派など一流画壇の絵師たちと並んで仕事を請け負うようになり、町の絵師の出身としては異例の「法橋」に叙任され、今日に残るふすま絵や屏風絵の名作を描いている。
俵屋宗達は、のちの尾形光琳やその流れを汲む琳派に強い影響を与えている。この俵屋宗達の図案を版木に彫り、印刷してから紙料紙にする仕事を担当したのが紙師宗二である。紙師宗二は、光悦の芸術村活動に参加した工芸家で、「紙師」の文字は、紙を漉く工人を意味するのではなく、唐紙師の意で称されている。
光悦の発想と宗達の意匠に宗二の加工技術が調和して、美しいから紙の料紙が生み出された。芸術村で作られた「から紙」は、ほとんどが嵯峨本の出版用の料紙や詠草料紙であったが、近世の京唐紙師の一部にその技術が伝承されて、京からかみの基礎を築いたとも言える。京からかみの紋様のなかに光悦桐や、宗達につながる琳派の光琳松、光琳菊、光琳大波などのデザインがある。
『雍州府志(ようしゅうふし)』(擁州とは山城国の別称で山城の地理案内書の意)貞享元年(1648年)刊に、京の唐紙師について「いまところとどころこれを製す。しかれども東洞院二条南の岩佐氏の製するは、襖障子を張るのにもっともよし、もっぱらこれを用いる」とあり、『新撰紙鑑(かみかがみ)』には、「京東洞院、平野町あたりに唐紙細工人多し」とある。
元禄2年(1689年)刊の『江戸惣鹿子』には、13人の唐紙師の名がある。文政7年(1824年)の『商人買物案内』には、唐紙屋として八軒の名が挙がっている。現在も続いている京唐紙師の「唐紙屋長右衛門(唐長)」の家系を継ぐ『千田家文書』に、天保10年(1839年)に唐紙師が十三軒あったと記されている。からかみの紋様は、当初「唐紙」の唐草や亀甲紋様などの幾何学紋様が主流で、近世にはいって光琳派などの絵画の技巧的な装飾文様が多用されるようになった。
京の唐紙屋仲間の多くは、元治元年(1864年)の禁門の変で多くの版木を焼失してしまった。唐紙屋長右衛門は、禁門の変の時、タライに水を張り、目張りした土蔵に版木を入れて、戦乱の火災から唐紙の版木を守り抜いた。禁門の変で版木の焼失を免れて、明治以後に残った唐紙屋は、唐紙屋長右衛門を含めてわずかに5軒であった。しかし、文明開化など暮らしの変化に伴い次第に廃業、江戸のからかみ屋は、関東大震災、東京下町大空襲などにより焼失、戦後近年復興されたところもあるが、現在では江戸時代より代々続いてきた唐紙屋は日本でただ1軒、唐紙屋長右衛門、すなわち「唐長」のみである。
唐長には約六百枚の版木がある。これらは、12枚で一面の襖になる十二板張り判と十板張り判そして五枚張り判とがある。十二枚張り判はほとんどが江戸時代のもので、版木の大きさは約縦九寸五分、横一尺五寸五分である。天明8年(1788年)の大火で版木を全て焼失し、再刻されたもので、最も古いものは「寛政四年六月 唐紙屋(からかみや)長右衛門 彫師平八」と墨書されている。十枚張り判は明治・大正期のもので、縦一尺一寸五分、横一尺五寸五分である。五枚張り判は、大正・昭和期のもので、十枚張り判の横幅を二倍にしたもので、横三尺一寸と間似合紙の寸法に合わせてある。 これらの版木の材質は、サクラやカツラのものもあるが、ほとんどはホオノキで作られている。これらの多くの版木から、華麗で多彩な京唐紙が摺り出されて、日本の伝統工芸としての唐紙が作り続けられてきた。
千田家の先祖は、もともと摂津国出身の北面武士であったが、初代長右衛門はその晩年に唐紙屋を始めたと伝えられている。初代長右衛門の没年は貞享4年(1687年)十一月となっているので、「唐長」の伝統は三百年をすでに越えている。ちなみに千田家の元当主竪吉は十一代目である。唐長については、ホームページや「和の学校」内参考ページがあるので参照されたい。
唐長の次世代を担う11代目千田堅吉の長女である千田愛子は、2004年、現代の暮らしにあう唐紙のありかたを考え、 COCON KARASUMA に、KIRA KARACHO を立ち上げ、ビルのファサードには、唐長文様「天平大雲」を掲げた。千田愛子夫妻は、さまざまな企画展やコラボレーションを手がけている。
2009年、夫トトアキヒコとと共に唐長サルヤマサロンで開催した展覧会「Inochi」展での夫婦合作作品「Inochi」は、MIHO MUSEUM に収蔵、
2010年、MIHO MUSEUM創立者生誕100年記念特別展 「MIHO GRANDAMA Arte della Luce」(ミホ グランダーマ アルテ・デラ・ルーチェ)にて披露された。 唐紙の作品が美術作品として収蔵されるのは、創業以来、はじめてのことである。
2010年には、トトアキヒコの唐紙作品「星に願いを」が名刹養源院に奉納。 俵屋宗達の重要文化財である唐獅子の杉戸絵に並んだ。歴史的にさまざまな寺社に唐紙は襖や壁紙、屏風などに用いられてきたが、作品として唐紙が納まるのは、歴代はじめてのこと。
江戸の唐紙師を「地唐紙師」ともいうが、これは京を本場とする呼称であった。その江戸から紙を「享保千型」ともいい、享保年間(1716〜36)に多様な紋様が考案され、江戸から紙が量産されたからその名がある。
江戸から紙は、江戸という大消費地を控えて需要が多く、から紙原紙は近くの武蔵の秩父・比企郡で産する細川氏を用いた。細川氏は純楮の生漉紙で「生唐」とも呼ばれた。
これに対して、京から紙は越前奉書紙や鳥の子紙などの高級な加工原紙を用いて、伝統技法と王朝文化の流れを汲む洗練された紋様を摺って、京から紙の伝統を守りそれを誇りとしていた。
京から紙師の意気を示すものとして、八代目の唐紙屋長右衛門が明治二十八年の第四回内国勧業博覧会に出品した時の審査請求書に、「東京、大阪地方ニ於ケル製品ハ、・・・・・粗製ノ上同業者競争ヲ起コシ 益々濫造ニ流ルゝノ傾向ナリ。之ニ反シテ京都製品ニ於テハ、紙質其他原料等ヲ撰ミ、・・・白地雲母唐紙ノ如キハ京都ノ水質ニ適シ、他ニ比類ナキ純白善良ナル品ヲ製ス。故ニ下等室壁張ニハ適セザルモ、上等室壁張唐紙等ハ悉く京都ニ注文アリ。之レ 我京都功者ノ名誉ナリ。」とある。
時代の流れで量産の必要性から、やや粗製濫造の傾向にある東京・大阪の唐紙屋に対して、伝統を重んじる京都の伝統工芸的職人の唐紙師の意地が示されていると言える。
京唐紙の技法の概略は、地紙をまず紙に礬水(どうさ)を引き、顔料あるいは染料で染める。そして具あるいは雲母を溶き、姫糊を加え、布海苔、膠(にかわ)、合成樹脂などを適宜に調合した顔料を、大きな篩に塗って、版木にまんべんなくつける。次に紙を版木の上に置いて手のひらでこすり紋様を摺る。その紙を篩でまた顔料で塗り、手のひらで摺ること二度三度と繰り返して、量感のあるふっくらと摺り上げて仕上げる。
京から紙は、版木に柔らかいホオノキを用い、刷毛でなく篩で顔料を塗り、バレンでなく手のひらで摺り上げ、独特の暖かみのある京から紙が作られる。また、版木による型押しの技法のほかに型紙による技法もある。 片目によく練った雲母粉を、竹ベラでこの型紙の紋様部分を埋めていく。この他にも漆型押し技法や金箔・銀箔の箔押しや糊を付けた筆で紋様を描いて金銀砂子(すなご)を振り掛ける砂子振り等の技法も用いられた。さらに京独特の揉み紙技法もあった。
揉み紙の技法は、熟練した指の動きで各種の揉み紋様を表す技法で、上層と下層に違った顔料を塗って、揉み皺によって上層の顔料が剥落し下層の顔料が微妙な線となってあらわれ、独特の紋様を作る。揉み方には15種類があり、小揉み、大揉み、小菊揉み、菱菊揉み、山水揉みなどの名称がある。この揉みの技法に各種の型押し技法を組み合わせた手の込んだ、から紙もあった。京から紙の伝統は、手間暇を惜しまず、量産効果を望まず、ひたすらに伝統工芸の手作りの暖かみを保ち続けた。
襖障子は、明かり障子のように採光性という重要な目的性という機能を持たず、たんに室内の間仕切りとしての役割しか持っていない。 それでいて、構造的な壁面と違って、その部屋の役割や個性や室礼(しつらい)に重要な役割を果たしている。
その部屋の果たすべき目的や雰囲気は、襖障子に描かれた紋様によって、大部分が決定されているとも言える。格式を重んじる応接間としての書院と、やすらぎを得る家族の居住する居間とは自ずから襖障子の紋様の果たす役割が異なる。さらに、その家の主の社会的立場や好みによっても、襖障子の紋様は異なった。襖の紋様を大別すると、公家好み、茶方好み、寺社好み、武家好み、町や好みに分けられる。
格式を重んずる公家らしく有職紋様が多い。 有職紋様には幾何紋が多く、松菱、剣菱、菱梅などの菱形が目立ち、武家や町屋向けにも流用されている。
唐草紋様は中国の影響で古くから用いられ、想像上の動物や植物を図案化した宝相華唐草や鳳凰丸唐草がある。このほか牡丹唐草、獅子丸唐草、菊唐草などがある。松唐草、桐唐草、桜草唐草などは、有職紋様から発して和風紋様として広く用いられ親しまれている。
京から紙の有職紋様としては、東大寺紋様とか花鳥立涌紋がある。立涌紋は「たちわき」とも言い、公家装束に多く用いられ、相対した山形の曲線を縦に連ね、向き合った中央はふくれ、両端はすぼまった形の図案のこと。中央に描いた紋様によって雲立涌、牡丹立涌、藤立涌、桜橘立涌などがある。桜橘立涌は、右近の橘、左近の桜にちなんでいる。
宮廷雅楽に伝承されている「青海波」の装束紋に由来する青海波は特に有名である。雲に瑞鳥を配した雲鶴紋は、今も京都二条城の襖を飾っている。 このほか鳳凰の丸、萩の丸、梅の丸などの丸紋も公家好みとして多用された。
茶道の家元は、独自性を重んじる禅宗文化の影響で、それぞれの家元の好みの紋様を版木に彫らせて、独自の唐紙を茶室に張らせた。表千家の残月亭には、千家大桐と鱗鶴が使われている。桐紋は、唐紙紋様の中でも最も多く、平安時代は皇室の専用であったが、のちに公家や武家にも下賜されて多彩に変化した。
太閤秀吉の好んだ花大桐は、花茎が自由な曲線で左右に曲がり、葉形に輪郭がある。千家大桐は、花茎が直線で葉形に輪郭がない。これは太閤秀吉の花大桐が版木を用いたのに対して、型紙を用いて胡粉を盛り上げた技法の違いである。このほか茶道の好みの桐紋には、変わり桐、光悦桐、光琳桐(蝙蝠桐)、兎桐布袋桐、お多福桐などさまざまな意匠がある。
松葉図案も茶道好みの紋様で、茶道の家元では十一月中旬の炉開きから三月頃まで、茶室の庭には松葉を敷く習わしがあり、このしきたりに由来した図案である。表千家の不審庵には千家松葉(こぼれ松葉ともいう)、裏千家には敷松葉が好まれている。このほか表千家好みには、唐松、丁字形、風車置き上げ、吹き上げ菊などがある。裏千家好みには、小花七宝、宝七宝、細渦、松唐草などの図案を工夫している。
武者小路千家では、吉祥草を特別に好みとし、壺型の土器を散らした「つぼつぼ」は三千家共通に用いられている。このほか小堀政一の流派には、遠州輪違いを用いている。茶道の家元での紋様は、ほとんどが植物紋様で、整然とした有職紋様のような幾何紋様は見あたらない。茶道の精神は、俗世間を超越した精神的高揚を重んじる「侘茶」の世界であり、秩序正しい有職紋様はそぐわない。
寺院の大広間などに使われている紋様には雲紋が目立っている。大大雲、影雲、鬼雲、大頭雲などで、これに動物を配した雲鶴紋、竜雲紋などがある。京都の寺院では桐雲は一般的である。高台寺の高台寺桐、清涼寺の嵯峨桐、西本願寺の額桐などの桐紋がある。また西本願寺では下り藤を特に好み、東本願寺でも八つ藤を用いている。東本願寺の抱き牡丹は同寺院の象徴として用いられ、ほかに抱き牡丹立涌、六篠笹などがある。
知恩院好み抱き茗荷と三菱葵丸立涌である。三菱葵は徳川家の独占であるが、知恩院は家康の生母の菩提寺であるため使用が許されていた。一般の葵紋は双葉葵を用い、神社の代表的なものとして加茂神社が神紋の双葉葵を用いている。加茂神社の双葉葵は写実性が強く古風な格式がある。
武家好みには、雲立涌、宝尽し市松、小柄伏蝶、菊亀甲のような有職紋様の系譜の整然とした堅い感性のものが多い。また唐獅子や若松の丸、雲に鳳凰丸、桐雲なども公家や寺院で用いられた図案の系譜に属する。町屋好みは、豆桐や小梅のようにつつましさを持ちながらも、光琳小松、影日向菊、枝垂れ桜のような琳派の装飾性の高い紋様を好んだ。琳派紋様は、京の唐紙師たちが嵯峨の芸術村の強い影響を受けて、洗練された唐紙紋様として多様化した。
琳派紋様の系譜には、枝紅葉、紅葉と流水、竜田川、光悦桐、光悦蝶、荒磯、光琳大波、光琳菊、光琳小松などがある。幾何紋様は直線、曲線、渦線、円などで構成され、単純な紋から複雑な紋まで多彩で、京唐紙にも多く用いられている。菱形、亀甲、麻葉、市松、丸紋、渦紋、輪違いなどが多用されている。また寺社や名家では家紋を襖障子に用いる事も多かった。
京から紙が越前奉書紙や鳥の子紙など高級な紙を用いたのに対して、「江戸から紙」は、西ノ内紙、細川紙、宇陀紙などを用いた。西ノ内紙は、常陸の久慈川上流地域の那珂郡の西の内で漉かれた、純楮紙で黄褐色の厚紙で、丈夫で保存性が良い紙である。水戸藩の保護の下、常陸特産の紙として江戸時代には高い評価を受け、『日本山海名物図絵』には、越前奉書・美濃直紙・岩国半紙と並んで、西ノ内紙は江戸期の最上品の紙とされている。
細川紙は、もともと紀州高野山麓の細川村で漉かれた、楮紙の細川奉書を源流としており、江戸期に武蔵野の秩父・比企・の両郡で盛んに漉かれた。細川紙では、特に比企郡小川町が有名で、「ぴっかり千両」という言葉があり、「天気さえ良ければ一日千両になる」と言われたほど繁栄し、江戸町人の帳簿用や襖紙加工の原紙として利用された。細川紙技術保存会によって今日まで技術が伝承され、昭和53年(1978年)に、細川紙の製紙技術は重要無形文化財に指定されている。 細川紙も西ノ内紙と同様に純楮の生漉き(一切他の原料を混ぜない)が特徴で、生唐(生漉き唐紙の略)と称した。宇陀紙は、大和の吉野の産の紙で、もともと国栖紙と呼ばれた楮の厚紙で、吉野郡国栖郷で漉かれたものを、宇陀郡の紙商が大坂市場に売り出し、吉野紙専門の紙問屋があって全国に売り広められて、宇陀紙の名が広まった。
「吉野紙」としては極薄様の紙で名高く、『七十一番職人歌合』に、「忘らるる我が身よ いかに奈良紙の薄き契りは むすばざりしを」とあり、奈良紙すなわち吉野の延紙(鼻紙)の薄さを「やはやは」と、みやびやかに呼んで、公家の女性たちはその薄さを愛した。また、その特性を活かして「油こし」や「漆こし」に利用されて全国にその名が知られていた。宇陀紙は、吉野ので漉かれた杉原紙(中世の武士社会に最も流通した中葉の楮紙で、本家播磨の杉原紙を各地で模造した)を源としており、江戸でも多く流通し江戸からかみに用いられた。
江戸期の人口は100万を越えて紙の需要も大きく、唐紙の普及と大火が相次いだことで、唐紙の需要も急拡大して、関東の紙漉き郷は、江戸市民に日用の紙を供給する重要な役割を果たした。
そして明治期以降は、襖紙の業界を東京がリードするようになっている。江戸からかみの紋様絵付けは、木版摺りと共に更紗型染めが多く用いられた。木版に絹篩を通して絵具を移して摺る木版摺りは、やわらかい風合いがあるが型染めの捺染では、硬く鋭い鮮明な紋様がやや冷たい感じとなるが、型合わせができるため、多くは三枚から四枚の型紙を用いて染める多色摺りの追っかけ型を用いた。江戸では、しばしば大火に見舞われ版木を消失することが多く、応急にからかみのを作る必要に迫られて、型紙の捺染を用いたものが発展した。江戸からかみのデザインは、捺染に適した小粋な江戸小紋が多用されたのが特徴のひとつといえる。
江戸時代の建築図面では、襖障子と唐紙障子の区別が有ったようだ。襖障子は、表面仕上げに鳥の子紙を貼り、その上に金箔を貼りその上から極彩色の岩絵の具で絵柄を描くか、鳥の子の地肌に直接彩色あるいは墨で絵を描いたものを指した。
唐紙障子は、無地色紙あるいは木版で紋様を摺った「から紙」を仕上げに貼った障子を指している。唐紙は、胡粉(鉛白を原料とした白色顔料で、室町期以降は貝殻を焼いた粉末を用いた)に膠をまぜたものを塗って目止めをした後、雲母の粉を唐草や亀甲などの紋様の版木で摺り込んだものである。国産化された初期の唐紙は、斐紙(雁皮紙)に「花文」を施したもので、「からかみ」「から紙」と表記された。
『新選紙鑑』には、襖紙のことを「からかみ」とし、「から紙多く唐紙といふ。しかれども毛辺紙にまぎるるゆへ ここに から紙としせり」とある。このことは以前にも記した。
唐紙障子に貼る襖紙を江戸時代後期には、和唐紙と称してさまざまに改良工夫されて量産化されている。江戸において唐紙の需要が最も多く、和唐紙も江戸で盛んにつくられた。和唐紙は、江戸後期では三椏七分、楮三分の原料で漉かれ、大判を特徴としている。文化四年の「和製唐紙 紙漉屋仲間 新規議定之事」によると、幅二尺長さ四尺五分が標準寸法としている。
このころに岩石唐紙という、幅三尺長さ六尺という、いわゆる三六判の大判も初めて漉きはじめられている。石で叩いたような皺紋があったので、岩石唐紙と呼ばれた。漉き方はいわゆる「流し込み式」で、紙料液を漉き桁に流し込んで、手で均等に分散させ、簀に乗ったままの湿紙を天日で乾燥させる。このように簀のまま乾燥させると、簀の目が皺紋をつけて、独特の風合いをもった唐紙となる。一般には水を濾し終わったら、簀のうえに紙層を載せたまま、紙床にうつ伏せにして、静かにめくるように簀だけをはがし、漉き上げた湿紙を紙床に重ねて行く。
岩石唐紙の皺紋をさらに工夫改良して、皺紋をより目立たせたものが、泰平紙(太平紙)である。漉くときの流し込みの時に、四隅に簀よりはみ出すように漉きあげ、水を濾し終わった湿紙の時に、左右に引っ張ったり、前後に縮めたりを繰り返して、皺紋を大きくつくり乾燥させる。乾燥すると岩石唐紙の皺紋よりもくっきりとしたエンボス上の凹凸ができる。
『楽水紙製造起源及び沿革』によると、「天保14年(1843年)初めてこれを製し、将軍家斉公の上覧を かたじけなふせしおり、未だ紙名なきを以て、泰平の御代にできたればとて、泰平紙とこそ下名せられたれ」とある。この泰平紙は、皺紋だけでなく染色したり、透かし文様を入れて襖障子用に用いられた。泰平紙の製法について『明治十年内国勧業博覧会出品解説』によると、「漉框(漉桁)に紙料を注ぎ入れてから、竜・鳥・草花などの画紋を描き、引き上げて水分がやや滴下したときに、簀を六〜七回振り動かして皺紋をつくる。」とある。
皺紋を特徴とする泰平紙に対して、海藻を漉き込んで独特の紋様をつけた、襖障子一枚の大きさのいわゆる三六判の紙を楽水紙という。泰平紙を創製したのは、玉川堂田村家二代目の文平であったが、楽水紙もやはり田村家の創製であった。玉川堂五代目田村綱造の『楽水紙製造起源及び沿革』によると、「和製唐紙の原料及び労力の多きに比し、支邦製唐紙の安価なると、西洋紙の使途ますます多きに圧され、この製唐紙業の永く継続し得べからざるより、ここに明治初年大いに意匠工夫を凝らしし結果、この楽水紙といふ紙を製することを案出し、今は玉川も名のみにて、鳥が鳴く東の京の北の端なる水鳥の巣鴨の村に一つの製紙場を構え、日々この紙を漉くことをもて専業とするに至れり。もっとも此の紙は全く余が考案せしものにはあらず、その源は先代(田村佐吉)に萌し、余がこれを大成せしものなれば、先代号を楽水といへるより、これをそのまま取りて楽水紙と名ずける。」とある。
玉川堂五代目田村綱造が漉いた楽水紙は、縦六尺二寸、横三尺二寸の大判であった。漉桁の枠に紐をつけ滑車で操作しやすくし、簀には紗を敷き、粘剤のノリウツギを混和して、流し込みから留め漉き風の流し漉きに改良している。さらに染色し、紋様を木版摺りすることも加え、ふすま紙として高い評価を得て需要が急増した。三椏を主原料とした楽水紙にたいして、大阪では再生紙を原料とする大衆向けの楽水紙が漉かれるようになり、新楽水紙と称された。やがて、新楽水紙が東京の本楽水紙を圧迫する情勢となった。やがて東京でも大正二年には十軒を数える業者が生まれている。
大正12年(1923年)の関東大震災で、復興需要の急増と、木版摺りの版木が焼失したのに伴い、新楽水紙が主流となった。昭和12年(1937年)には、東京楽水紙工業組合が組織され、昭和15年(1940年)には組合員35名、年産450万枚に達していた。太平洋戦争後には、越前鳥の子や輪転機による多色刷りのふすま紙に押されて衰滅した。
鎌倉時代にはいって書院造りが普及してから、「唐紙師(からかみし)」という襖紙の専門家があらわれ、表具師(布や紙を具地に貼る)は分業化され、その名を引き継いで経師ともいわれた。経師が木版摺りを行ったようである。経師とは、本来は経巻の書写をする人のことであり、経巻の表具も兼ねており、さらに唐紙を障子に張るようになって、襖の表具もするようになった。そして、「からかみ」の国産化に伴って木版を摺る絵付けまで守備範囲が拡大したようである。むろん当時の「から紙障子」は公家や高家の貴族の邸宅に限られており、需要そのものが少なく、専門職を必要とはしていなかった。
南北朝から室町初期に完成した『庭訓往来』には、「城下に招き居えべき輩」として多くの商人、職人の名を列挙しており、襖障子に関係するものとして唐紙師、経師、紙漉き、塗師、金銀細工師などが挙げられており、襖建具が分業化された職人を必要とするほどに、武士階級に相当普及していた事とが知れる。
唐紙師は、漉き上がったかみにさまざまな技法を用いて紋様絵付けを摺る職人のことである。職人衆の知行を記している『小田原衆所領役帳』には、永禄二年(1559)の奥書があり、職人頭の須藤惣左衛門の二九一貫に対して、唐紙師の長谷川藤兵衛は四十余の知行を受けていたことが記されている。明応9年(1500年)の『七十一番職人歌合』の唐紙師の図には、「 そら色のうす雲ひけどからかみの 下きららなる月のかげなり から紙師」とある。
「からかみ」は、紋様を彫った版木に雲母または具(顔料)を塗り、地紙を乗せて手のひらでこすって摺る。雲母は花崗岩の薄片状の結晶の「うんも」で古くは「きらら」、現在では「きら」といい、白雲母の粉末にしたものを用いる。独特のパール状の光沢があり、どの顔料ともよく混ざり、大和絵の顔料として用いられてきた。
具は、蛤などの貝(ばい)殻を焼いて粉末にした白色顔料の胡粉に膠や腐糊 と顔料を混ぜたものである。胡粉は鎌倉時代までは「鉛白」が使われ、白色顔料として使用された。胡粉は顔料の発色が良くなり、また地紙の隠蔽性を高める。このため地塗りとしても使用された。一般的には、顔料を混ぜた具で地塗りをして、雲母で白色の紋様を摺る方法(地色が暗く、紋様を白く浮かせるネガティブ法)と、雲母で地塗りして、具で摺る具摺り(地色が白く、紋様に色がつくポジティブ法)も行われた。
これらを基本に各種の顔料や金銀泥(きんぎでい)を加えて紋様が摺られるが、絵具を版木に移すときに絹篩という用具を用いる。絹篩は、杉などの薄板を円形状に丸めた木枠に、目の粗い絹布か寒冷紗(粗くて硬い極めて薄い綿布)を張ったもので、これに絵具を刷毛で塗り、版木に軽く押しつけて顔料を移す。顔料の乗った版木の上に地紙を乗せて、紙の裏を手のひらで柔らかくこする。その動作が平泳ぎのような手の動きに似ている事から、「泳ぎ摺り」ともいう。版画のように版木に直接絵具を刷毛塗りをせず、から紙は絹篩を通して絵具を移し、手の平でこするのは、顔料の着量の調節が目的で、ふっくらとした風合いのある仕上がりを得るためである。木版摺りには、この他に空摺り・利久紙(利休紙)摺り・月影摺り・蝋箋などの技法も使用されていた。
空摺りは、同じ画の版木を陽刻の凸状のものと、陰刻の凹状の二版に彫り分け、陰刻の版木の上に地紙を乗せて、上から陽刻の版木を重ねて圧をかけると、凸状の形が浮き出る技法で、今日のエンボスと同様な形押しの技である。浮いた凸面から彩色加工を施し、レリーフのような質感をもたらす。
利久紙摺りは、西ノ内紙などの生漉き紙に礬水(明礬を溶かした水に膠を加えたもの。絹や紙の表面に引いて墨や絵具のにじみを防ぐ)を引き、乾燥させてから染料を塗る。次に版木に薄い米糊を塗って、紙の上に載せて押しつけてから、版木を取ると版木の紋様の部分の染料が薄くはがし取られ、微妙な濃淡のあるネガ状の風雅な紋様が現れる。
月影摺りは、細川紙や西ノ内紙などの生漉き紙に、礬水を引かず、薄墨色だけで紋様を摺ったもので、墨のにじみを特徴とし、江戸で多く作られた。また版木の代わりに型紙を用いる絵付け技法もある。京からかみの場合は、型紙(紙を貼り合わせて柿渋を塗った渋紙を用いて型を切り抜いたもの)を用いて絵具を厚く盛り上げる「置き上げ」が行われ、江戸からかみでは更紗型染(捺染型染で、染料に膠を加えたもので型染めする)の技法を用いている。
蝋箋(ろうせん)は、紋様を彫った版木の上に紙を載せて、紙の上から固い物でこすって磨き、あたかも蝋を引いて紋様を描いたような図柄ができる。また、特殊な技法として、墨を水面に流した上に松脂を滴して、墨を水面に散らしこれを紙に写し取る、「墨流し」という技法もあった。
からかみの技法のなかに、版木などによる摺りものとは異なる「揉み紙」という独特の技法がある。紙を揉むのは、布地の感触をだす技法で、中世に茶道の表具用の紙として揉み紙が使用され、のちにから紙にも揉み紙の技法が採用された。
ノート:襖を参照。
障子(しょうじ)は、日本家屋における扉、窓に用いる建具の一つで、明かりを通すように木枠に紙張り(主に和紙、今では「化繊入り紙」もある)になっているものは明障子(あかりしょうじ)ともいう。
元来は現在の襖(襖障子)も含めて障子(さえぎるものの意)と言った。平安時代に「明障子」として襖から分離した。扉を閉じたまま採光できるという機能により広く使われるようになった。ガラスが普及するようになって使用は減ったものの、ガラス併用の障子なども作られ消滅することはなかった。一部がガラスになっていて障子部分が開け閉めできるものを雪見障子という。(地域などによって名称が曖昧であり、擦り上げ障子が付いているものを猫間、無いものを雪見と区別している場合あり)
古来より、日本家屋独特のほの暗さの文化や陰翳の美を演出するものとして、日本の建築文化の象徴的な存在であった。
近年は、適用範囲の広い意匠性と適度な透光性のほか、ガラス戸との組合せによる断熱効果、紫外線の軽減効果、紙による調湿効果といった優れた性能が評価され、洋室においてもカーテンの代替として障子が用いられる[1]。
障子紙については家庭用品品質表示法の適用対象とされ雑貨工業品品質表示規程に定めがあり[2]、日本工業規格(JIS S 3102)で形状や寸法などの規格が定められている[3]。
明障子の誕生は、平安時代末期の頃で、襖よりもおよそ100年程後に工夫されたと推測されている。建具の構造としては、間仕切りとしての隔ての機能をもつ襖に近く、さらに襖よりも簡素ながら、隔てと採光という矛盾した機能を併せもつ明障子の発明は、画期的なことであった。
平安時代後期になると、引き違いの格子戸が広く使用されるようになった。『源氏物語絵巻』『年中行事絵巻』などには、黒漆塗の格子戸を引き違いに使ったり、嵌め込み式に建て込んだ間仕切りの様子が描かれている。
天喜元年(1053年)藤原頼通が建立した平等院鳳凰堂は四周の開口部には扉を設けているが、その内側に格子遣戸も併せ用いている。このような格子遣戸の用い方は、隔ての機能を果たしながら、採光や通風を得ることができる。機能としては、明障子の前身ともいうべきものである。
現在のような薄紙を貼った明障子の誕生は、平安末期のころである。六波羅の地には平家一門の邸宅が、甍を競って建ち並んでいた。なかでも平清盛の六波羅泉殿は、その権勢を象徴する豪壮な邸宅であったという。その復元図によると、従来の寝殿造りとはかなり異なり、間仕切りを多用した機能的合理的工夫がみられる。
その中でも、明障子の使用は画期的な創意工夫であった。 室外との隔ては、従来壁面を除き蔀戸や舞良戸が主体であり、開放すると雨風を防ぐ事ができず、誠に不便な建具であった。採光と隔ての機能を果たすため、簾や格子などが使用されていたが、冬期は誠に凌ぎにくかった。京都は盆地なので、ことに冬期は底冷えする。室内では、屏風をめぐらし、几帳で囲み火鉢を抱え込んだと思われる。
隔てと採光の機能を充分に果たし、しかも寒風を防ぐ新しい建具として、明障子が誕生した。しかし、明障子のみでは風雨には耐えられないため、舞良戸、蔀、格子などと併せて用いられた。六波羅泉殿の寝殿北廂では、外回りに明障子が三間にわたって使用されていた。
『山槐記』には、この寝殿や広廂に「明障子を撤去する」とか「明障子を立つ」などの記述もある。
平清盛が願文を添えて長寛二年(1164年)厳島神社に奉納した『平家納経』図録には、僧侶の庵室に明障子が描かれている。
この時代の明障子の構造は、四周(ししゅう)に框(かまち)を組み、太い竪桟二本に横桟を四本わたし、片面に絹または薄紙を貼ったものであったという。
寝殿造りの室礼を記した古文書の中に、「柱をたてまわして鴨居を置きてのち、塗子(ぬりこ)の明障子を間ごとに覆う」とある。
『春日権現験絵日記』にも、黒塗りの明障子が描かれている。また、襖障子と同じように、引手に総が付けられている。明障子の歴史的発展の過程で、漆の塗子の縁が寝殿造りに使用され、襖障子と同様な室礼としての位置付けがあったことは注目に値する。
框に細い組子骨を用いる現在のような明障子は、鎌倉時代の絵巻物に多く登場するようになるが、多少の時間と技術改良を必要とした。
明障子は壊れやすく、現存するものは極めて少ない。南北朝期康暦二年(1380年)の東寺西院大師堂の再建当時のものとされている明障子が、最古の明障子といわれている。上下の框と桟も同じような幅でできており、縦桟と横桟を交互に編み付ける地獄組子となっており、また桟の見付けと見込みもほぼ同じ寸法でできている。
1本の溝に2枚の明障子を引き違いにしたものを子持ち障子という。たとえば、元興寺の鎌倉時代の禅室にある。当時のみで深い溝を彫るのは、相当の手間であったろう。2本の溝を彫るよりも、幅の広い溝を1本彫るほうがわずかに簡単であったのかもしれない。しかし、禅宗様の建築であることから、技巧的な遊びと考えた方が妥当と思われる。
1本の溝に2本の障子を入れても、そのままでは引き違えないので、工夫がある。召合わせの縦框はそのままにして柱側の縦框をほぼ溝幅に合わせて作ってある。こうすると、明障子は外れることなく、引き違うことができる。
子持ち障子は、禅宗方丈建築の最古の遺構である、東福寺竜吟庵方丈にも使われている。ここでは、一本の溝に四本の明障子が立てられている。中央の2枚が上記の方法で引き分けられ、外の2枚は幅が狭く、開閉のできない嵌め殺しとなっている。 禅宗様の建築では、随所に意匠の工夫や技工の斬新さが見いだされる。
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明障子は採光の必要から考案された建具である。採光の為に建物の外回りに使用する。しかし、風雨に曝されると薄紙は破れてしまう。実際の使用状況を絵巻物で見ると、半蔀を釣って内側に明障子を立てている。つまり、下半分の蔀は建て込んだままである。
こうした実際の使用状況から、明障子の雨が当たりやすい下半分に板を張った、腰高障子が考案されている。腰高はおよそ80cmで、半蔀の下半分と同じ腰高であったのも、必然であった。南北朝時代の観応二年(1351年)に描かれた真宗本願寺覚如の伝記絵『慕帰絵詞』に僧侶の住房に、下半分を舞良戸仕立てにした、腰高障子が2枚引き違いに建てられているのが描かれている。
室内を明るくする採光を目的とした明障子は、透光性のよい薄い紙が良いが、破れにくい粘り強さが必要であり、また価格も安い物が好まれる。このような条件を満たす紙としては、壇紙(だんし)や奉書紙、鳥の子紙などは不適当で、障子紙としては雑紙や中折紙など、文書草案用や包み紙などの雑用の紙を用いた。中でも美濃紙は美濃雑紙と呼ばれて、多用途の紙として最も多く流通していたので、障子紙としても多用され、美濃雑紙が明障子紙の代表として評価されるようになった。
明障子は書院造様式によって普及し、「書院の明障子」といわれたことから、明障子に貼る紙は、書院紙と呼ばれるようになった。書院造では、障子の格子桟の寸法が地方によって異なるので、書院紙は全国ほとんどの紙郷で漉かれたが、産地周辺で消費され、市場で流通することが少なかった。ごく一部が書院紙として流通したが、『和漢三歳図絵(わかんさんさいずえ)』(寺島良安編 1713年)には、「濃州寺尾より出るものもっとも佳し。防州之に次ぎ、奥州岩城、野州、那須、芸州広島、また之に次ぐ。」とある。この他に、因幡、甲斐、肥後、土佐、信濃などで産した書院紙が市場で流通した。この中では、美濃国、甲斐、土佐の書院紙が、今日でも障子紙の産地として命脈を保っている。
『新選紙鑑(かみかがみ)』には、書院紙として美濃書院紙・美濃紋書院紙、安芸の諸口紙そして因幡書院紙をあげているが、中折紙、三つ折紙、大判紙なども書院紙として利用された。
明治初期の『諸国紙名録』には多くの紙に障子用として注記しているので、このころでも全国の各地でさまざまな地域の建具寸法に合わせた書院紙が漉かれ続けていたことが分かる。
『和漢三才図会』には、障子の項で、「濃州寺尾より出るものもっとも佳し。故に呼びて美濃紙と称す。以て書籍を写し 書翰を包み、障子および灯籠を張るのに 之にまさるものなし。」とある。濃州寺尾とは、現在の岐阜県武儀郡武芸川町寺尾である。
『新選紙鑑(かみかがみ)』には幕府ご用の障子紙、すなわち書院紙の漉工として、市右衛門、五右衛門、平八、重兵衛の4人の名をあげている。このほかにも濃州牧谷、洞戸、岩佐、谷口のものも良品としている。美濃書院紙という名は、書院造とともに発展し、明障子に最もふさわしい紙として定着した。
明治初期の『岐阜県史稿』によると、二つ折美濃、三つ折美濃という紙があり、明治九年(1876年)の『米国博覧会(フィラデルフィア万国博覧会)報告書』には、「二ツ折ハ障子二格間(格子間)ヲ貼るニ便シ、三ツ折ハ三格間ヲ併セテ貼ルの料トス。」とある。
書院紙は、障子の格子幅に併せて漉かれたが、障子の格子の幅は各地域でまちまちで規格が統一されていなかつた。たとえば、美濃書院紙の場合、尾張・美濃用は縦寸法が九寸三分、三河用は八寸三分、伊勢用は八寸二分であった。此の各地の格子の幅のまちまちの伝統は、今日でも受け継がれている。
障子紙の中に、紋書院紙と呼ばれる透かし文様が入ったものがある。享保十七年(1732年)刊の三宅也来の『万金産業袋』の美濃国のなかに「紋障子」とあり、元文三年(1738年)刊の伊藤実臣の『美濃明細記』には、武儀川流域で紋透かし紙を漉いていたことが記されている。
また安永六年(1777年)刊の『難波丸項目』に紋美濃そして同年刊の『新選紙鑑(かみかがみ)』のなかの美濃産紙の項に「紋障子」とある。この紋書院紙は、美濃のほか筑後柳川や肥後でも紋書院紙を産し、『諸国紙名録』には、肥後産紋書院紙を「スカシヨシ」と注記している。
美濃紋書院紙では、鹿子(かのこ)・紗綾形・菊唐(から)草・七宝 ・亀甲(きっこう)などの美しい紋様が漉き込まれ、障子以外にも行灯や灯籠などにも用いられた。近年美濃市でつくっている落水紙(美光紙ともいう)には、紋様を入れた紋書院紙風のものもある。
紋書院紙のほかに紋天具(てんぐ)帖というのがある。これは極薄の天具(てんぐ)帖紙に透かし紋様ではなく、胡粉(ごふん)の具などで木版摺(す)りしたもので、のちに型染めで捺染するようになったが、やはり光を透かして美しい紋様を浮かび上がらせて楽しむもので、灯籠などに用いられた。
城の堀底に設けた、堀底を仕切るような土塁状の障害物も、障子または堀障子という。その障子のある堀を、障子堀という(堀を参照)。