東大寺は、
奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。
「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏(びるしゃなぶつ)を本尊としている。
奈良時代は華やかな一面で、政変・かんばつ・飢饉・凶作・大地震・
天然痘の大流行などが相次ぎ、惨憺たる時代でもあった。
神亀元年(724)二月、聖武天皇が24歳で即位し、
さまざまな国難を救う『華厳経』の教理の実現と、国家安定を祈願して、
天平13年(741)、国分寺・国分尼寺建立の詔が発せられ
さらに天平15年(743)盧舎那大仏造立を発願された。
造東大寺司・造仏殿司といった官庁が設けられ、造東大寺司長良弁が造営にあった。
大仏の造立は朝廷の事業のみならず、庶民に結縁を求め、
庶民の勧進協力によって完成させたのが特異である。
いわゆる大衆を知識(協力者)として造立を果したもので、
この精神は各時代の再興や修理にあたって、現代に至るまで常に相承されてきている。
天平勝宝四年(752)4月に「大仏開眼供養会」が盛大に厳修され、
その後も講堂・東西両塔・三面僧房などの諸堂の造営は、
延暦八年(789)3月の造東大寺司の廃止まで続行された
奈良時代の東大寺の伽藍は、
南大門、中門、金堂(大仏殿)、講堂が南北方向に一直線に並び、
講堂の北側には東・北・西に「コ」の字形に並ぶ僧房(僧の居所)その東には食堂があり、
南大門 - 中門間の左右には東西2基の七重塔(高さ約70メートル以上と推定される)が
回廊に囲まれて建っていた。
天平17年(745年)の起工から、伽藍が完成するまでに40年近い時間を要している。
中世以降、2度の兵火で多くの建物を焼失、大仏は約120年間雨ざらしとなった。
現存する大仏は、台座(蓮華座)などの一部に当初の部分を残すのみであり、
現存する大仏殿は、江戸時代の18世紀初頭(元禄時代)の再建で、
創建時に11間(86m)の高さであったものが、7間(57m)となり、
さらに間口が3分の2に縮小されている。
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