宇和島城は、
中世期にあった板島丸串城の跡に藤堂高虎によって築かれた近世城郭である。
標高74メートルの丘陵とその一帯に、山頂の本丸を中心に囲むように
二ノ丸、その北に藤兵衛丸、西側に代右衛門丸、
藤兵衛丸の北に長門丸を中腹に配置し、麓の北東に三ノ丸、
内堀で隔てて侍屋敷が置かれた外郭を廻らせる梯郭式の平山城で、
東側に海水を引き込んだ水堀、西側半分が海に接している「海城」でもある。
現在見られる、天守などの建築は伊達氏によるもので、
縄張そのものは築城の名手といわれた藤堂高虎の創建した
当時の形が活用されたと見られている。
五角形平面の縄張り「空角の経始(あきかくのなわ)」は
四角形平面の城と錯覚させる高虎の設計で、
現に幕府の隠密が江戸に送った密書には「四方の間、合わせて十四町」と記された。
天守構造
複合式望楼型3重3階(慶長7年(1602年)築 非現存)
独立式層塔型 3重3階(寛文6年(1666年)再 現存)
現在に伝わる天守の廊下の内側に障子戸が残る形式は現存唯一とされ、
また畳敷きの名残である「高い敷居」があり、
これらは簡略化されがちとされる江戸時代中期の天守に
安土桃山時代から江戸時代初期にかけての古い意匠が用いられたとされる。
|