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        琉球紀行2

    
        名護市上空

 
    琉球紀行第二章  目 次
     
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沖縄自動車道路

 ホテルのレストランでバイキングの朝食を摂った。
 いつものように欲張って、スクランブルエッグ、ソーセージ、ベーコンと皿に盛りつけていると、沖縄料理の豚肉の三枚肉もありこれも皿に入れた。
 豚肉の三枚肉は本土のホテルの朝食にはない品目で、肉が軟らかくとても旨かった。
 満腹の腹を抱えて、予定より少し遅れて、8 時30分すぎにレンタカーに乗り、今日の観光メインである美(ちゆ)ら海水族館へ出かけた。

 那覇市内中心部から、高速で約2時間の距離にある。高速の「沖縄自動車道」は、現在の「高速道路無料化社会実験」対象道路で、無料であった。
 無料だから、ETCカードは不要かと思ったが、一応セットしていた。

    
     沖縄道 那覇料金所

 やはり那覇ICの料金所では、ETC専用のレーンがあり、結果としてはスムーズに通過できた。ETCを地元の車はあまり搭載していないようで、一般レーンに車が並び、料金所で一台づつ停止していた。
どうせ無料なら、フリーパスで良いはずだと思ったが、調べるとやはり、ETC搭載車以外は一旦停車するように記載されている。これは、本土の有料区間が混在する、広域の場合を想定したものであろう。しかし沖縄には、沖縄自動車道と那覇空港道路しか存在していない。
 にも関らず、高速道路が輻輳している本土と同じ扱いを不思議に感じた。

 那覇自動車道も、管理運営は「NEXCO西日本」であり、杓子定規に適用しているからであろう。まだ道路公団時代の役人意識が残っているといえる。
ともかく、沖縄には高速は沖縄自動車道しかなく、一般の人は普段高速を使う機会がすくないのであろう。
 許田ICで高速を降りると、沖縄本島の南北を結ぶ幹線道路の国道58号線を走り、すぐに国道449号線に分岐した。この国道は海岸線を走っており、エメラルドグリーン特有の遠浅の海が見えた。
 
    
        海洋博公園と辺戸岬の道路標識示

 ところで、沖縄の地名は独特で、漢字だけをみても、その音が不明で、英語表記に目がとまる。
 「辺戸岬」はHedoと表記されていた。「へんと」と思ったが「ヘド」であった。地名は実に面白い。
 那覇市だけでも、素直に読めない地名が多い。すこし列記しておきたい。
 安次嶺(あしみね) - 那覇市
 安謝(あじゃ) - 那覇市
 天久(あめく) - 那覇市
 奥武山町(おうのやまちょう) - 那覇市
 小禄(おろく) - 那覇市
 十貫瀬(じっかんじ) - 那覇市
 通堂町(とんどうちょう) - 那覇市
 西武門(にしんじょう) - 那覇市
 我如古(がねこ)- 宜野湾市





海洋博公園

 出発が遅れた分、予定より30分遅れの10時30分頃に海洋博公園に到着した。想像していたような渋滞にも遭遇せず、スムーズなドライブであった。
 広い駐車場に駐車したが、全ての車の表示が「わ」で、また無料駐車場であった。さすがは沖縄だと、妙に感心した。
 前後するが、途中コンビニに立ち寄ったとき、美ら海水族館の割り引き券を見つけて購入していた。 正規料金は1800ながら、団体割引の1440円で入場ができ、幸いであった。

   
       美ら海水族館入り口

 ところで「美ら海水族館」は、沖縄県本部町に所在する「国営海洋博公園」の中の一つの施設である。
沖縄に存在する「国営公園」は、昨日見学した「首里城公園」と、この「海洋博公園」の二つだけである。
 別に国定公園として平和の森公園がある。
 沖縄県の日本復帰を記念して1975年7月ら半年間開催された「沖縄国際海洋博覧会」を記念し、博覧会跡地に1976年8月に開設された公園である。
 正式には、国営沖縄海洋博覧会記念公園ながら、通称は海洋博公園である。

    
        海洋博公園の全景

 現在の海洋博公園の主な施設は
 ・沖縄美ら海水族館(有料)、イルカショー(無料)
 ・エメラルドビーチ  (環境省指定「日本の水浴場88選」に選出されている)
 ・おきなわ郷土村・おもろ植物園
 ・海洋文化館
 ・熱帯ドリームセンター(熱帯・亜熱帯都市緑化植物園)
 と施設が多く、全てを見学すると、一日は必要とかで、今回は水族館だけを見学する予定である。





美ら海水族館

 この水族館は、2005年にアメリカのジョージア水族館が開館されるまでは、名実共に世界最大の水族館であった。 いまでも国内にこれ程の規模の水族館は存在していない。
 水族館の事業主体は、「内閣府沖縄総合事務局・都市再生機構」とあり、いかにも役所というイメージである。 実際の管理運営は「財団法人海洋博覧会記念公園管理財団」とある。これまた役所の命名らしく長い名称である。
「海洋博公園」や、この「美ら海水族館」の職員は、公務員もしくはそれに準じる身分なのであろう。つまらない詮議はやめて、水族館に入る。

    
      美ら海水族館の全景

 幾つもの水槽があり、それぞれ区分けしているが、この辺りは普の水族館と変りがない。
 この水族館のハイライトは、世界最大級の大水槽「黒潮の海」である。
 水族館の1階から2階を貫く「黒潮の海」水槽は、長さ35m、幅27m、深さ10mの巨大な水槽で、世界でも有数の大きさを誇っている。
 しかし、つねに新鮮な黒潮を流入させているという。
 写真で見るのと違い、二階から眺めても、巨大なスクリーンに見える。近寄ってみると、まさに見上げるような位置をジンベイザメや大型のエイやサメが、まるで悠々と空を飛んでいるような錯覚を覚える。

    
        美ら海水族館の大水槽

 観客と大水槽を隔てる「アクリルパネル」は、高さ82m、幅22・5㎝、厚さ60㎝、パネル総重量は135トンもあるという。アクリルパネルを現場で積層して厚みを出す接着技術、接着剤の硬化時に強度を増す熱処理技術、そして1枚20tのパネルを7枚、現場で接着し水槽の躯体に接合する施工技術によって完成している。
 
 これだけ巨大なものは運搬が不可能あり、現場で加工するしか方法が無いという。
 こうして出来上がったアクリルパネルは、一本の柱もなく7500tの水圧に耐えるという。
 これは「ギネスブック公認」の世界最大のアクリルパネルであった。
 しかし2008年にオープンした、「ドバイ水族館」のアクリルパネルに記録を更新されたらしい。この「黒潮の海」水槽には、ジンベエザメをはじめ、大型のサメやエイなどが回遊し、来館者の視界いっぱいに水槽が広がる雄大な光景を見せている。





ジンベエザメ

 ジンベエザメは、成長すると全長9メートルにもなる、魚類の中の最大種である。
 世界中の熱帯・亜熱帯・温帯の、表層海域に生息し回遊している。
 ラグーン、珊瑚環礁、湾内にも入り込み、河口付近で見られることもあるという。
 ラグーンとは、サンゴ礁によって形成される地形の一で、サンゴ礁や島嶼に囲まれた海域を指す。
 沖縄本島海域で確認できるのは、5~6月頃が多いという。
 特定の海域に留まる傾向の見えるメスに対し、オスは広い海域を回遊する。基本的には単独行動性で、餌が豊富な海域でない限り、集団を形成しないらしい。そのため、世界の水族館で、ジンベエザメの複数飼育に成功しているのはここだけらしい。

    
       ジンベエザメ

 変わった名の由来は、模様が夏着の甚平に似ていることからジンペエと名付けられたとされている。
 大きな身体をしているが、動物プランクトンや小魚、海藻などの小さい餌しか食べないらしい。
 体に似合わず、極めて穏和なサメで、ダイバーが近づいても逃げようとしない。

 サンゴの産卵時期には、水面に漂う卵を食べたり、水面近くの餌を食べることが知られている。
 このように餌を採る際に、口を水面に向け垂直の姿勢をとるという。
 摂食は、濾過摂食で、海水と一緒にプランクトンなどの生物を吸い込み、エラで濾し、海水だけを排出し、残った生物を呑み込むという給餌方法である。
 このため、大きな個体を飼育する美ら海水族館では、成熟すれば全長9メートルに達するといわれ、尾が水底をこすらないように、「黒潮の海」水槽の深さは深さ10mとされたという。
 また、プランクトンは、海面付近に多いため、ほとんどを海面近くですごしている。
 この水族館でも、給餌ショーが開催されている
が、この時には、100リッターの海水とともに、餌のオキアミを、大口を開けて吸
い込む豪快な摂餌シーンを見ることができるとあった。

          
          立ち泳ぎでオキアミを捕食するジンベイザメ

 時間帯が合わなかったので、豪快な摂餌シーンは見る事が出来なかった。
 ところで、ジンベイザメの生態は、ほとんどわかっておらず、1995年、台湾で捕獲
された母ザメの体内から、約300個体の胎児が見つかったことで、胎生であることが
判明したという。
 一方、ジンベエザメは年々数が減っていて、ワシントン条約のレッドリストに入れられている。
 先進国では、サメの肉は食さない。しかし、中華料理では、「フカヒレ」が好まれている。
 特に、ジンベエザメのフカヒレは、フカヒレの中でも最高級のものとされ、「天頂翅」と呼ぱれ珍重される。このため、発展途上国の漁師によるサメ全体の乱獲に繋がっている。数が減った直接的原因は、発展途上国での乱獲によるが、「フカヒレ」を珍重する食文化に問題があるといえる。





 イノー

 美ら海水族館では、屋外のプールで「オキちゃん劇場」というイルカのショーがある。
 このイルカショーの次の開演時間が14時30からだったので割愛したが、[黒潮探検(水上観覧コース)」は13時30からのコースが参加予約が出出来た。
 まだ時間が十分にあり、その間に昼食をとることにし、見学コースを逆に進み、館内唯一のレストラン「イノー」で食事をとった。
 まだ11時40分頃であったから、席もすぐにとれたが、日曜祭日には大変混雑するらしい。ここは大水槽のある建物とは別で、四階建ての最上階にあるレストランであった。

    
         レストラン イノー

 オーシヤンビューで遠浅の向こうには、広大な東シナ海を眺めることが出来た。
 「イノー」は、バイキングビュッフェ方式でに1260円であった。
  郷土料理の三枚肉(ラフテー煮込み)や、ミミガー、ゴーヤーチャンプルー、ハーブチキンなどもあり、また朝食と同様にソーセージなども食べた。
 またデザートにスィーツもあった。価格にしては豪華なランチに満足した。
 ところで、レストランの変わった名の「イノー」については知らなかった。

    
       イノー (礁池)

 ところが、食事後また水族館に戻ると「イノーの生き物たち」という展示があり、サンゴ礁に囲まれた浅いおだやかな海のことだと知った。
 「イノー」とは、すなわち琉球語で礁池のことだとあった。

 イノーは昔から「海の畑」ともいわれ、海岸から波が砕けるサンゴ礁の縁(へり)りまでの浅い海のことであった。漁民にとっては、小魚・貝海藻など、海の幸を手軽に与えてくれる豊かな場所として、大切にされてきたという。
 「イノー」では、海藻の仲間で、お土産に人気の高い「海ぶどう」も取れる。別名グリーンキャビアとも呼ばれ、プチプチとした食感が楽しめる。
 生で、醤油や三杯酢等をタレのように浸けながら食べる。
 刺身の付け合わせや、ご飯の上にのせて三杯酢をかけた海ぶどう丼や、味付けせずに、「沖縄そば」の上に乗せ食べることもある。
  調味液に長く浸すと、プチプチとした食感をもたらす粒状の部分かしぼんでしまう。また低温に弱く、冷蔵庫で保存すると、萎んでしまうので常温で保存する。3~4日間は、常温で保存できるらしい。
 沖縄では、養殖が行われており、日本全国への発送も行われている。前後するが、旅行の最終日に、牧志公設市場でお土産に購入した。

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ニライカナイ

 古代の琉球人は、イノーの彼方に「二ラカイナ」という楽土があると信じていたらしい。 
 ニライカナイは、琉球地方に伝わる理想郷の楽士のことを指していて、遥か遠い東の海の彼方、または海の底、地の底にあるとされたらしい。

    
        東の海の彼方 

 古代の琉球人の信仰では、豊穣や生命の源であり、神界でもあるとされてきた。
 年の初には、ニライカナイから神がやって来て豊穣をもたらし、年の末にまた帰るとされた。
 また、生者の魂も、ニライカナイより来たりて、死者の魂は、ニライカナイに去ると考えられたらしい。
 琉球では、死後七代にして、「死者の魂は、親族の守護神になる」という信仰がある。
 後生(あの世)であるニライカナイは、祖霊が守護神へと生まれ変わる場所、つまり祖霊神が生まれる場所でもあると信じられた。
 このように、ニライカナイは、複合的な観念を持った古代人の楽土の概念で、本土の常世国の信仰と酷似している。常世国は、古代日本では、天人や神仙が住むとされる理想郷で、そこは時間も空間も超えた至福の世界であり、永遠なる生命の源があると信じられていた。

    
        ニライカナイのイメージ

 ニライカナイを、日本神話の「根の国」と同一のものとしている。
  「根の国」は、『古事記』では、その入口を黄泉の国と同じ、黄泉平坂(よもつひらさか)としている。 一般には「根の国」と「黄泉の国」は同じものと考えられている。しかし、大祓の祝詞では、根の国は、地下ではなく「海の彼方」または「海の底」にある国としている。
 古代琉球のラフィカナイの信仰が影響しているのかも知れない。
大祓とは、知らず知らずに犯した罪や過ち、心身の穢れを祓い清め、本来の清浄な心に戻り、日々の生活を営むための神事である。





イルカ

 12時30分頃に食事を終え、長いエスカレーターで、一気に一階へ下りた。まだ時間があったので、イルカショーのあるプールを覗いてみた。
 イルカ(海豚、鯆)は魚類ではなく、鯨と同じ哺乳類の動物である。生物分類上は、イルカとクジラに差はないという。
 日本語では、成体の体長でおよそ4mをクジラとイルカの境界と考えるらしい。
 しかし、コマッコウや、ゴンドウクジラの種は、4mに達しないが、クジラとされる。
 ただ、ゴンドウクジラは、マイルカ科であり、まれにイルカとされることがあるという。  それほど種として鯨に近い動物である。ほ乳類だから、頭頂部に呼吸のための独立した噴気孔をもち、そこから肺呼吸している。呼吸の周期はおよそ40秒である。

    
        イルカのショー

 イルカは、常に泳ぐのをやめず、息継ぎをしながら泳ぎ続けているという。
 特殊な能力があることが分かってきた。
 イルカは、生殖行為の後、一定期間の妊娠の後に出産する。誕生からしばらくの間は、母親の母乳によって育てられる。摂食は、多くは魚類や頭足類などを捕食する肉食である。

 ところで、イルカは知性が高いとよく言われる。
 イルカの体重に占める脳の割合が、ヒトに次いで大きいことから、その知性の潜在的可能性が、古くから指摘されている。 世界的にも研究対象になっている。
 ただ、イルカの脳は大きいが、クリア細胞の割合か多く、ニユーロン自体の密度はそれほど高くない。
 が、ニューロンの密度で知性が劣ると言い切れないともいう。
 要は、イルカの知能については、まだよく分からないのである。
 水槽のイルカに手を振ると、水槽のアクリルパネルに接触するほど近寄ってきた。
 イルカショーで、演技が出来るほどの知性は聞違いなく持っているのである。





巨大サメ

 サメの展示室のまえに、記念撮影用の巨大なサメの歯が展示されていた。
 2600万年~600万年前の、海が比較的暖かった時代に生息していたとされる、誰もが見たこともない巨大なサメをメガロドンという。
 体長は13~15mと推定され、現在のホホジロザメの体長の2.5倍マッコウクジラの大きさに相当するという。記念撮影したのは、この巨大サメのレプリカである。

    
        メガロドンの歯のレプリカ

 サメは、その種飢によって歯の形状が著しく異なる。 メガロドンの歯が、ホオジロザメと似ていることから、メガロドンの姿もまたホオジロザメと似ているという可能性が
高く、その理由からメガロドンは、ホオジロザメを巨大化させた姿で復元されているという。かつてメガロドンは、その巨大な歯の大きさから、25~30m、中には40mなどと、シロナガスクジラ並の大きさであったと推測されている。

    
        メガロドンのイメージ

 これは、メガロドンの化石が、歯しか見つかっていないことが原因だという。
 サメやエイなど、軟骨魚類(歯以外はすべて軟骨の魚類)は、歯以外が化石化する
ことは非常に希だからという。






チャンプル

 12時30分に出発する予定であったが、「黒潮探検」などで時間がずれ、14時過ぎに出発となった。  
 次の予定は、万座毛ビーチにあるANAコンチネンタルホテルで、沖縄のリゾート気分を味わう予定であったが割愛し、「琉球村」へ行くことにした。
 国道58号線を那覇方面に走り、15時25分頃に、道の駅「ちゃんぷ一る-」に到着した。
 万座毛ビーチを割愛しだから、結果的には「琉球村」に予定通りに到着することが出来た。道の駅『ちやんぷる-』と「琉球村」は併設された施設である。

   
        沖縄の駅ちゃんぷるーの入り口

 「ちゃんぷるI」という名は、琉球が長い海外交易を通じて取り入れた、琉球独特の複合文化を、「ちゃんぶる-」文化と言われ、そこから命名されたのであろう。
 琉球文化は、中国の影響が強いが、タイやフィリピンなどの交易、そして薩摩支配時代も経験している。
 そのため、それぞれの文化が混じり合い、独特の『ちゃんぷる-』文化を育んだ。

 ちゃんぶる-とは混じり合ったという意で、「チャンポン」や「やゴーヤチャンプル」も、同じ語源である。
 島国である琉球の人々は、元来が海洋民族の末裔であり、古代から船を操り交易で国を豊にしてきた。

 少し話がそれるが、一部の海洋民族は、黒潮に乗って島々を伝いつつ、古代の薩摩に土着し、さらに一部の人々は、古代の土佐に土着し、さらに一部の人は紀伊半島にまで到達したらしい。
 紀伊半島から更に大和に入り、大和朝廷の一翼を担ったらしい。司馬遼太郎の説に拠れば、これらの人々には共通した気質があるという。

    
        沖縄の駅ちゃんぷるーの内部

 一つは陽気で大声で話し、一つは政治的交渉力かおるという。
 海洋民族は、常に海を渡って異民族と出会い、交渉で食料や水を得、さらに交易を行ってきた。
 このためには、有能なりリ-ダーが不可欠である。潮の流れを読み、天候を読み、確かな情報のもとに、次の島を目指すからである。
 この黒潮を渡って日本に土着した海洋民族の末裔に、薩摩の西郷隆盛や大久保大久保利通が生まれ、土佐では坂本龍馬が生まれている。紀州では、戦国時代に水軍で名を馳せた九鬼嘉隆が生まれている。

 話を戻す。
 琉球の人々は、島に根付きながらも、つねに海を渡って、さまざまな地域の人々と交易と交流を重ね、さまざまな技術や異文化を取り入れてきた。
 さまざまな文化を取り入れ「ちやんぷる-」しながらも、模倣だけでなく、独自のものに発酵させ、琉球文化を築いてきたのである。





琉球古民家

 道の駅「ちやんぷるI」では、「ちやんぷる-劇場」があり、琉球舞踊や、迫力のあるエイサーと琉球太鼓の演技があるとあったが、プログラムは終了した後で、唯一16時からの「絵巻行列」のイベントがあるらしかった。 ともかく、琉球村に入ることにした。

 琉球村は、琉球の伝統文化・芸能・自然を体感できるテーマパークである。
このテーマークでは、沖縄各地の古民家を移築して保仁しており、それらの古民家を利用し、「工芸品を作る」、「おばあと語る」、「沖縄の文化を学ぶ」ことができるとあった。

    
       琉球古民家

 村に入ると、まさにタイムスリップし、古い時代の平和な琉球村を感じ耿ることができた。沖縄各地から古民家を移築しただけあって古色蒼然とした雰囲気があった。
 実際に使用されてきた民家を移築したもので、後世に残すために移築されたという。

  一番古い民家は、築200年で1987年、読谷村座喜味より移築した一般的民家の「旧仲曽根家」である。
 [旧大城家](築約200年)は、王府の重臣与那原親方の邸宅であったもので、那覇市首里より移築している。親方とは、王族の下に位置する琉球士族の最高の称号で、旧比嘉家(築129年)は、1982年、玉城村百名より移築したもので、沖縄の稲作発祥地とされている「受水走水」の地主の旧家だという。ここでは健康長寿につながる野草・薬草などについての説明や、又薬草なども販売している。
新しい民家でも、築100年以上の古民家ばかりであった。

    
       琉球古民家

 沖縄に現存する古民家はほとんど貫木屋形式(柱間を貫で繋ぐ)で、垣根形状は寄棟である。沖縄の古民家は、基本的に南向きであり、東から「一番座」、「二番座」があり(士族は三番座もある)、その背面に裏座がおかれていた。座とは座敷の意で、部屋を意味している。「一番座」には床の聞が、「二番座」には仏壇が配置されているのが普通である。

     
       琉球古民家の台所

 裏座には地炉(ジール・囲炉裏)が設けられ、西側に竈を設けて台所とし、火の神を祀っていた。
 屋敷内の建物の配置では、裕福な家では、屋敷内の東側に、アシャギという別棟を建てた。西側には、家畜小屋及び納屋を、北西の隅に豚小屋兼便所を設けていた。
 門の正面にあたる建物の前に、「ヒンプン」をおき、邪気払いと、外からの視線をさえぎる役目とした。
ヒンプンとは、中国語の屏風のことで、家の門の内側に建てる目隠しの衝立である。
 琉球では、魔物は角を曲がるのが苦手とされており、直進して入っくるのを防止する魔除けの意味もある。
 屋敷囲いは、かつては石垣とフクギなど屋敷林が多かった。沖縄の伝統的建築技術は、本土の寺院建築等の技法を取り入れており、多くの類似点がみられる。
 高温多湿、台風、虫害など、気候風土への対応と、材料の制限の事情から、琉球での技術の展開も見受けられる。

     
         琉球古民家の三番座 右が二番座

 頻繁に来襲する台風に備え、敷地周囲には、石積みの塀を巡らせ。また、屋敷林を植え、軒先が強風で煽られないように軒を低く構え、屋根が強風で飛ばされないように屋根瓦を漆喰で固定している。これは瓦の飛散防止と、屋根・建物の重量を増すことで強風に
耐える造りになっている。
 また、夏場の日射を遮るように軒を深く出した「雨端(アマハジ)」と呼ばれる軒下空間が設けられている事が多い。

     
         琉球古民家        

  琉球村では、この古き良き琉球の暮らし、文化を感じる体験プランがある。
 染・織物教室では、紅型、藍染め、花織りを体験できる。
 芸能・文化では、三線、サンバ、舞踊があり、カンカラ三線教室では、三線の弾き方を教わり、その後、カ  ンカラ三線を持って帰ることが出来るという。
 カンカラ三線とは、胴が「空き缶」の三線で、終戦直後、捕虜収容所で最初に作られたもの。胴は米軍支  給の空き缶を使用し、棹は米軍のペットの木部を利用し、弦はパラシュートの紐を使いカンカラ三線を作っ て、無聊を慰めたことに由来しているという。
 陶芸では、ロクロ、絵付け、手ひねりを体験できる。
 念仏踊りエイサー教室では、躍動感あるエイサーを教えてくれる。
 我々は時間がないので、体験教室は割愛し、古民家だけを見て歩いた。
 奥へ進むと、琉球の民族衣装の貸衣装屋かおり、そこの若い女性店員が、民家を前にしてツーショツトを 撮影してくれた。ついでに綺麗な娘さんだっから、記念撮影をしてもらった。 
 その奥に、登り窯かおり、その向かいに陶芸工房があった。

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道ジュネー

 大雑把に琉球村を散策し、道ジュネー(絵巻行列)を見るため、道の駅へ戻ると、16時から琉球村の中央広場で開催すると案内放送があった。太鼓の音がし始めたので、慌ててまた琉球村の広場へ急いだ。

 道ジュネーとは、芸能や祭りで、集落の路地を練り歩く行列のことという。
 また、各地域でエイサーの祭りが地ジュネーだという。
 路地を通って家々を廻り、先祖を供養するエイサーが、道ジュネーの基本とあった。
 エイサーとは、旧暦の盂蘭盆の時期に踊られる伝統の祭りである。
 お盆に現世に戻ってくるとされる祖先の霊を、旧暦8月13に出迎え、15日に送り出す行事で、若者たちが歌と囃子に合わせ、太鼓を叩き、勇壮に踊りながら地区の道を練り歩くという。
 ただ、この琉球村では、観光客のために演出した「絵巻行列」を道ジュネーとしている。
 琉球村の「絵巻行列」は、琉球古来の神祭り行事で、今でも年中行事として行われている祭りを、アレンジして観光の目玉として行列風に演出している。

    
       道ジュネー(絵巻行列)

 最初に、国王、王妃、三司官(王府の高官)、旗頭を先頭に、ゆるりと中央広場にパレードが入ってきた。広場を一周し、旧島袋家の前に設えられた赤毛氈の台に乗り、椅子に腰掛けた。
 赤い派手な衣装をまとった、国王、王妃であった。
 調べてみると、琉球王は、明王朝の影響からか、やはり赤錦の派手な衣装であった。




古武道演舞

 次に広場に入場してきたのが、エイサーの太鼓を叩く衣装で入場してきた。独特の黒の上下装束に、赤の帽子と赤の帯を付けた凛々しい姿で、棒術の演舞を始めた。
沖縄では、琉球王国時代から各種の武器術が首里、那覇の士族を中心に行われていた。
 琉球正史『球陽』には、17世紀に「槍棒の法あり」との記述かあり、薩摩服属後も琉球士族の間では槍術や棒術が稽古されていたという。

     
      
         棒術の演舞

 1867年、尚泰王の冊封のとき、冊封使の歓迎祝賀会で、「鉄尺」(二股の槍)、「棒」、「藤牌」(盾と手槍を用いる武術)、「車棒(ヌンチヤク)」等の武器術が披露されたと記録にある。
 琉球古武道では、これらの武器を使用する他、空手(唐手)などの武道もある。
琉球王朝時代の兵士は、棒術の演舞をした若者のような衣装だったのであろうか。





ミルク(弥勒)

 棒術の演舞が終わると、黄色の衣装に布袋のような面をかぶり、杖を突き、大きな団扇をゆっくり振りながら入ってきた。 面を見て布袋さんかと思っていたが、これは、「ミルク神」(弥勒菩薩)の衣装で、琉球では弥勒信仰が盛んで、「ミルクさん」と呼んでいる、とあった。
 弥勒を琉球音ではミルクと発音するらしい。
 祭りでは、笑顔のミルク仮面をつけたミルク神が、路地を歩き回るという。

    
        ミルク(弥勒)

 ミルク神は、女性であるとされ、付き人は子供達で、ミルクの子供であるとされてい る。弥勒菩薩像は、インドでは、水瓶を手にする像だが、中国の唐代までは、足を交差させ椅子に座る像であったらしい。

 時代が下って、元、明の時代以降は、弥勒の化身とされた「布袋」として肥満形で表されたという。
「布袋」は、日本では「七福神」の1人とされている。
 中国では、弥勒裡薩の化身とされ、下生(げしよう)(神仏がこの世に出現すること)した弥勒如来として、仏堂の正面に、その破顔と太鼓腹で、膝を崩した風姿のまま祀られ、幸福をもたらす神とされている。
琉球では、明国から冊封を受けていたから、この時代の[弥勒如来像]として、[布 袋」のような像を、弥勒菩薩としたのであろう。琉球では仏教の中で、特に「弥勒信仰」が強く、理想郷である「弥勒仏の世」が、現世への出現を期待したという。

 弥勒は、本来釈迦入滅後、56億7千万年後に、この世に出現し、釈迦が救済しきれなかった衆生を救うために現れるとされている。
 琉球では、弥勒菩薩を穀霊(穀物の中に宿ると信じられている神霊)とし、「弥勒仏の世」を、「稲の豊熟した平和な世界」であるとして、農耕民族の信仰となったのであろう。
 海の彼方から、人々の幸せや、農作物の豊かな実り、村の繁栄をもたらしてくれる来訪神の「ミルク神」として、旧暦7月16日に「ミルク神」と共に、大きなうちわを持って愛嬌をふりまくという。

 「ミルク節」は、八重山の節歌の一つで、祝いの席上や催しのしめの時、ヤーラーヨー節とともに合唱されるという。弥勒信仰は、琉球で素朴な農耕の神として、信仰の対象とされてきた。
 琉球村の「ミルクさん」が、椅子から立ち上がった国王や王妃に、ゆっくり団扇を下ろして寿ぎを与え、またゆるゆると歩き、時々観光客にも寿ぎを与えていた。
 観光客も、素直に頭を下げていた。





ジュリ馬

 「ミルクさん」がゆるりと広場を一周して退場すると、一転して賑やかな囃子と共に、艶やかな衣装の女性達が、踊りながら入場してきた。
 国王や王妃に深々と頭を下げたのち、踊り始めた。
 首から木馬の頭部を下げ、手綱には鈴が付いていて、鈴を鳴らしながら、軽やかに踊った。馬に乗っているという想定の踊りであろう。
 ユイ、ユイ、ユイと歌三線に合わせて舞い歩いた。

    
        ジュリ馬
  
 踊りの由来は、琉球王朝時代の旧暦1月20日、遊女(ジュリ)達が、美しい衣装に身を包み、木馬の手綱を振りながら踊ったことを発祥としている。

 琉球王府により1672年に「辻遊廓」が公設された。               
 そこに働く遊女はジュリと呼ばれていた。本土でも遊郭を別名「遊里」と称したから、琉球では「ジュリ」と発音したのであろう。
 琉球の遊女は、かつて地方に散在していたが、王府の政策で那覇の辻町にに集められ、一定の保護と権利を与えたものであろう。貧窮する農家から娘達が売られ、やがて那覇「汢遊廓」に集中したという。
 貧しさ故に遊女に売られ、「ジュリ」となった人々は、悲しみに耐えたであろう。

 民謡には、遊女を歌った唄、遊女と首里の士族の恋を歌った曲が多いという。
 王府の制度で、旧暦1月20日だけは自由を与えられ、豊年祈願と商売繁盛を願い、ジュリたちが遊廓を出て、舞踊行列(「ジュジ馬スネー」と呼ばれた)をしたという。
 このときに、分かれた両親とジュリたちは、互いの姿を確かめ合ったという。
この祭りが観光用に大規模に発展し、後に那覇三大祭りの一つといわれた。
 しかし、公娼制度を認めるものとして、戦後に女性団体から反発され1989年以来中止されていた。しかし、12年後の平成12年に、観光用に「豊年祈願」の祭りとして復活したという。





チョンダラー

 「ジュリ馬スネー」の演舞が終わると、奇妙な格好の道化者が入ってきて、おどけた踊りを披露した。
 馬鹿殿様のような丁髷を高く結い、顏には白粉を塗り、鉢巻きをして、芭蕉布の着物の裾をからげて、ひょうきんに踊った。
 この道化者を「チョンダラー」といい、祭りでは欠かせない重要な役割を果たしているらしい。

    
        チョンダラー

 語源的には『京太郎』の琉球音らしい。
 「京太郎」とは、元来は京の「扇の舞」で、京都から首里に伝わり、広まったとされる民俗芸能であった。
 「敵討」風の舞踏劇で、その中で「扇子舞」などの狂言や「鳥刺し舞」などを舞った。太鼓打一人、馬舞者二人、踊手十数人で構成されたという。

 泡瀬村では、「泡瀬京太郎」として、村行事に使う神輿の仕立て祝いで、青年たち演じ、これが「泡瀬京太郎」として今日まで伝承されている。
 明治期に入り舞踏劇「京太郎」を、面白く滑稽に振り付け、ユーモラスで軽快な動作で村々に講演して廻ったものが始まりといわれている。
 また、首里の安仁屋村の人だちか、ユーモラスで軽快な人形芝居に仕立て、各戸を回って人気を博したという。
    
        チョンダラー

 エイサーの前身である「念仏踊り」の踊り手も、このユーモラスな「京太郎」を演じ、今のエイサーにも取り入れられている。
 これらのユーモラスな「京太郎(チョンダラー)」を、明治期の新聞が面白く書き立てて、「京太郎」が道化者の代名詞になっている。
 エイサーには、道化役が欠かせない存在となっているが、その役割は演舞進行、交通整理、乱れた衣装直し、汗ふき、場を盛り上げるなど、重要な役割を担っているという。




獅子舞

 「チョンダラー」が、指をくわえて大きな口笛を吹くと、やがて獅子舞が現れた。
 チョンダラーが大きな鈴を鳴らとそれに從い、広場を一周した。
  一周しながら、時々大きな獅子の囗を開け、観光客の頭を噛む仕草で愛嬌を振りまいた。広場を一周すると、獅子に鈴を鳴らしてみをせ、離れた場所から鈴を投げると、見事に口で受け止めた。尻尾を大きく振って喜ぶ所作をする。
 再度、口笊を吹いて鈴を振ると、今度は獅子は、そっぽを向く。勝手に逆立ちしたり、前足を投げ出して座り込んだりする。
 この辺の所作が、呼吸か合っていてとてもユーモラスである。
 「俺じやいやか?何、若い娘がいい?」というと、大きく頷く。

   
       チョンダラーと獅子舞

 チョンダラーは、観客の中から若い女性の腕を引き、広場の中央へ引き出した。
 大きく投げる所作を見せ、女性にその鈴を投げさせると、一度目は、わざと逃げるようにして落とす。 観客から期待はずれの「あ-あ」と声があがる。
 獅子は尻尾を振りながら、やがてその鈴を蹴飛ばして、観客を笑わせて座り込む。
 チョンダラーが、口笛を鳴らして、獅子を説得する。
 獅子はうなずき立ち上がって、観客がもう一度鈴を投げると、見事に囗で受け止め、拍手を受ける。
 じつに観光客を楽しませる呼を心得ている。

    
        チョンダラーと獅子舞

 琉球の獅子舞は、本土の獅子舞と形と大きさ共に違い、大陸の獅子に似ている。
 中国では、獅子舞のことを「舞獅(ピンインごと呼ぶ。
 おおらかな動きで、どこか間の抜けた所作と面構えは、南島人の特色を表現したものであろう。
 現在演じられる中国式の形は、清の時代に確立された形で、北方の北獅子と南方の南獅
子の系統かあるらしい。

 獅子頭と前足に一人、後ろ足と背中に一人の二人で構成され、旧正月などの祝いで「招
福駆邪」「無病息災」として演じられる。
 日本の獅子舞は、全土で行われていて、そのバリエーションは多岐にわたり、同じ物は
二つとないとも言われる。
 大きく分けて、伎楽系の神楽獅子舞と、風流系の獅子舞がある。獅子の頭部は、木製が多いが、和紙による張子のものや、最近では発泡スチロールによるものもあるらしい。





マミドーマ

 獅子が退場すると、賑やかな囃子にのって、農民姿の一団が広場に入ってきて、円陣で民族舞踏を始めた。
 マミドーマは、今でも沖縄では、祝い事などの席で踊られる、賑やかな民族舞踏である。
 農耕の振る舞いを取り入れた庶民の集団舞踊で、鍬、鎌、ヘラを持ち、軽快でユーモラスな所作を繰り返す。素朴なこの踊りは、八重山地方から沖縄本島まで、運動会から結婚披露宴まで、広く親しまれて踊られているという。
 かっての先人たちは、入植した先の荒れ地を、農家総出で鎌を持って草を苅り、ヘラを持ち、鍬を持ち、荒れ地を耕して畑にした。

    
       マミドーマ

 本来は、本土の『田植え歌』のように、辛い労働を集団で歌いながら作業した労働歌であったであろう。
 マミドーマは、元々八重山「竹富島」の代表的な民謡の一つであった。
 これに、農民の働くしぐさを振りつけた労働賛歌の踊りであるらしい。
 沖縄全体に広く伝播し、学校行事でも踊られるという。 さまざまなバリエーションが作られ、竹富島の「種子取り祭り」のマミドーマ、舞台芸能としての「天人(アマンチ)」
で踊られるマミドーマなど、各地でさまざまな形に変えて、賑やかに踊られているらしい。 「戊の目(つちのえ 土の祝い)の種蒔きのお願い」で歌い出し、
「大畑に、長畑に出かけ、銀の種子、黄金の種を蒔く、春の季節、若夏の季節に蒔いた種子は生え揃 い、生い茂り、大きな穂、長い穂が出ると-」
 このように歌ってゆくが、それは種子蒔き・苗の成長・結実・収穫までの理想的な過程を歌っている。
 素朴な農民の願いの歌でもある。

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エイサー

 最後に、勇壮な太鼓を打ち鳴らすエイサーの入場であった。
 チョンダラーは口笛を吹きながら、太鼓を叩くエイサーと一緒に踊っていた。
 沖縄各地の旧盆に行われる「盆踊り」を発祥とし、祖霊の供養を目的とした、青年による躍動的な踊りで、旧暦盆の送り(ウークイ)の夜に行なわれた。

 近年は、盆の迎え(ウンケー)から、数夜連続で行なわれることが多い。
 旗頭を先頭とした一団は、地域の各戸を回り、それぞれの家の祖先の霊が無事に後生(あの世)に戻れることを祈願することを述べ、エイサーを踊る。

    
       エイサー

 この勇壮な踊りは三弦や太鼓、踊り子が列をつくり練り歩く。
 琉球の民族舞踏の巾で最も躍動感があり、若者達の熱気と、はじけるような情熱が感じられる。
 踊りが一段落すると、一団は酒や金を受け取り、次の家へ向かい、祈願と踊りを繰り返す。このように家々を回り歩くことを道ジュネーと呼ぶ。
 エイサーは、町内単位で結成されることが多いが、その境界では複数のエイサーがかち合うことがあるという。 これを「エイサー オーラセー」または「エイサー ガーエー」と呼ぶ。
 他の団体と激突競演することをいい、相手のエイサーを帰れとばかりに、三線、太鼓をより一層かき鳴らし演技を競う。
 最近では、これを見に観光客が集まるほど人気が高まっているという。
 エイサーの由来は、浄土宗系の念仏歌に挟まれる囃子のひとつに「エイサー、エイサー、ヒャルがエイサー」があり、このかけ声から来ているとされている。





エイサーの歴史

 エイサーは、念仏踊りが起源であることはすでにふれた。
 東北福島出身の浄十宗の僧侶の袋中上人が、明国を経て1603年に硫球に辿りついた。
 首里に3年ほど滞在し「浄土宗」を布教したのを契機に、琉球国王の尚寧の帰依を得て、王家や貴族の間に念仏踊りが広まった。
 念仏とは、「南無阿弥陀仏」を唱名すことで、「極楽往生」することが出来るとする「浄土宗」の教えである。

     
        念仏踊の絵馬

  法然上人を宗祖とする、浄土宗は「専修念仏」ともいう。
 平安中期に、専修念仏の「空也上人」が始めたと伝えられるのが「念仏踊」である。
 「念仏踊」とは、念仏の功徳により、極楽往生が決定した喜びを表し、瓢箪・鉢・鉦などを叩きながら、節をつけ、念仏や和讃(七五調で仏を称え詠じる)を唱えて踊り歩くものである。
 本土の各地でも、さまざまな「念仏踊」が踊られるようになった。

 なかでも福島県いわき市に伝わる郷土芸能「じやんがら念仏踊り」が有名である。
 全国各地の「盆踊り」も起源は同じで、元々は仏教行事である。
 念仏踊りが、盂蘭盆の行事と結びつき、精霊を迎え、死者を供養するための行事という意識になっていったようである。
 盆踊りを起源とした「阿波踊り」が、戦後に観光イベント化し。夏祭りとして全国的に有名となっているのと同じであろう。

     
        沖縄の盂蘭盆の踊念仏

 琉球の首里では、門徒衆(浄土宗の信者)が、鉦、太鼓を打ち鳴らしながら、新盆を迎えた家々を供養して回ったから、踊念仏とも言われた。
 18世紀中頃には、「念仏にや-」(念仏者)を、お盆に招き、先祖の供養を行なう風習が、首里の屋敷町などで存在していたという。
 ただ、当時は、現代のエイサーと形式が異なり、門付歌と念仏歌だけで踊っていたという。明治以降に、お盆の「念仏にや-」(念仏者)の詠唱を、村の若人が代行する形で、エイサーを踊り始め、庶民の間にエイサーが普及していった。
 沖縄本島中北部から、県内全域へ伝播し行き、大衆化する中で、民謡などが取り込まれたという。
 なお、戦前は、太鼓を使う例は少なく、浴衣などの普段着姿で、手ぬぐいを頭に巻くというスタイルが主流であった。

     
          エイサー

 戦後、エイサーは、本島中部を中心に大きくスタイルを変えた。
 本来の「念仏にや-」(念仏者)から、観光客を意識した夏祭りのイベントとして発展して行く。この地域は 青年層の人口か多く、旧コザ市(現在の沖縄市)で1956年に始まった「全島エイサー祭り」の影響もあり、観客を意識した派手な衣装や、太鼓のパフォーマンスなどが取り入れられたという。全国的には1990年代 以降に多くのエイサー団体が設立されている。
 今日では、沖縄最大の観光イベントとして、夏場以外にも各地でエイサーを実演している。一方で、名護  市以北の本島北部では、手踊りの伝統エイサーも続けられている。





道の駅かでな

 道ジュネー(絵巻行列)で琉球の芸能を楽しみ、ようやく琉球村を出て、次の目的地「道の駅かでな」に17時頃に到着した。
 この道の駅は、米軍の嘉手納基地に隣接している。
 あえて「道の駅かでな」を訪れたのは、基地の町沖縄の実情を肌身で感じるためであった。
 長い期間、基地問題とは無縁の生活をつづけ、沖縄の基地問題は他人ごととしてしか認識してこなかった。

    
        道の駅かでな

 しかし、まだ子供の頃は福岡の板付飛行場に米軍基地があり、GIスタイルの米兵を街中でよく見かけた。
 当然、米兵が起こす事件も多かったが、裁判権は日本の警察にはなく歯がゆい想いをした。
 当時は、まだ米軍相手の街娼も多く、子供ながら反発を覚えた記憶が残像としてある。
 しかし朝鮮戦争時代は、この板付飛行場は重要な空軍基地であり、戦闘機や爆撃機が離着陸していた。
 この米軍の板付飛行場が、現在の「福岡国際空港」となっている。
 米軍基地が無くなり、歳月が経ち、福岡国際空港が、かつて米軍基地であったことを、知らない人々が多くなっている。

     
        嘉手納空軍基地

 日本の復興と共に時代が変わり、冷戦時代を迎えると、ソ連や中国が仮想敵国となり、重要な軍事拠点はすべて沖縄に移転した。
 以後、今日まで沖縄は基地の町として存続している。    
 しかし、近年の北朝鮮や、中国の強大な軍事力を背景とした横暴な行動を考えると、沖縄の基地の重要性は減少していない。

     
        嘉手納空軍基地

 最近起きた中国漁船の尖閣諸島での事件などもある。
 「道の駅かでな」には、隣接する「米軍嘉手納飛行場」が一望できる展望フロアを設け、展示パネル等で構成された学習展示室を供えている。
 嘉手納町の現実を象徴しているのが 「道の駅かでな」であろう。
 嘉手納町は、第二次大戦前、北谷村(現北谷町)の一部であったが、米軍嘉手納基地が作られたため、村域が分断された。
 このため、昭和23年、人口3,879人をもって分村し、昭和51年1月に町制に移行している。町総面積の約83%が米軍基地となっている。このため残されたわずかな地域に13,700人余の町民がひしめきあった生活を余儀なくされている。





嘉手納基地

 嘉手納空軍基地は、米軍の正式呼称では「Kadena Air Base」である。
 一般には嘉手納基地と呼ばれるが、日本の公的資料では「嘉手納飛行場」と呼称されている。嘉手納飛行場の面積は1,997ヘクタールで、日本最大の空港である羽田空港の約二倍で、嘉手納町、沖縄市、北谷町の一市二町にまたがっている。
 この飛行場は、昭和19年9月に旧日本陸軍航空隊の飛行場として開設されている。

    
        嘉手納基地の全景

 その後、昭和20年4月、沖縄本島に上陸した米軍は、この飛行場を占領し、本土攻略の前進基地として整備拡張を行い、同年6月には大型爆撃機が離発着できる全長2,250mの滑走路を完成させた。
 この飛行場から、本土爆撃のB29等の大型爆撃機が飛び立っていったという。

 昭和25年6月の朝鮮戦争勃発以降、基地機能が拡大強化され、昭和42年頃には4,000m級の二本の滑走路が完成し、極東における米軍の最重要基地となっている。
 基地司令部、兵舎、通信施設、家族住宅、病院等があるほか、幼稚園、図書館、野球場、ゴルフ楊、映画館、カミサリー(スーパー)、ボーリング暘等の教養奴楽加設も完備されている。基地には現在9,000人以上の家族が生活しているという。

     
        嘉手納基地  アメリカ空軍(第五空軍)

 在日アメリカ空軍(第五空軍)の管轄下にあり、嘉手納空軍基地の主要な部隊に、第18航空団がある。この部隊は、アメリカ空軍として、最大の戦闘航空団である。
 補助航空団と合わせて、[チームーカデナ]とも呼ばれる部隊は、世界第一級の戦闘航空団である。
 18,000人近いアメリカ人と4,000人以上の日本人からなる要員で構成されている。航空団は五つのグループに分かれ、それぞれ作戦、メインテナンス、任務補助、土木、医療を担当している。
 一機百50億円と言われるF‐15戦闘機飛行隊の24機や、KC-135(空中給油機)・
E-3AWACS機などを保有している。アメリカの西太平洋、及び東南アジアでの、抑止力の中心を担う在日米空軍の主力部隊である。救難飛行隊もあり、救難ヘリコプター、
HH-60を使用している。

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駐留軍等労働者労務管理機構

「道の駅かでな」の裏にあったが、なんとも長い役所の名前である。
 調べてみると、日米安全保障体制の維持に貢欸するため、米軍基地で働く駐留軍等労働者の雇入れ、提供、労務管理、給与及び福利厚生に関する業務を実施し、在日米軍の活動に必要な労働力の確保を図ることを目的とし、設立されましたごとある。

     
       駐留軍等労働者労務管理機構 那覇支部

 日米安全保障条約に基づき、在日米軍が駐留しており、在日米軍の任務遂行のため、国(防衛大臣)に雇用され、在日米軍基地で勤務する従業員が「駐留軍等労働者」であり、現在、約25,000人の駐留軍等労働者が、全国各地の米軍基地で勤務している。
 仕事は、事務・技術・消防・警備等のほか、基地内の売店・食堂の業務など多岐にわたっており、在日米軍の活動を支えている。

 「駐留軍等労働者」の統計を調べてみると、年間給与総額が1,300億円で、労働者数で割ると、一人当り年間給与額は約520万円となる。給与には各手当を含む総額である。
 従業員500人未満の中小企業の、年間給与総額の平均は約429万円であり、5,000人超の大企業平均の約542万円と遜色がない。

    

 つまりは、公務員の給与を受けていることになる。現在の若い人々ですら就職難である事を考慮すると、恵まれた就職先ともいえる。年間約3,000人が採用され、ほぼ同数の退職者がある。万一、沖縄の米軍基地が国外に退去すれば、多くの人が失業することになる。
 基地問題は、大きな矛盾も含んでいる。





野國總管

 「道の駅かでな」の敷地に野國總管の銅像があった。
 誰なのか全く知らない名前であったが、説明板で知ることが出来た。
 野國總管は、琉球国那覇久米村の人で、沖縄に初めて甘藷(サッイモ)をもたらした人物として、儀間真常、蔡温とともに「琉球産業の三大恩人」の一人とされている。

     
       野國總管の銅造

 1605 年に中国福建省から甘藷(サツマイモ)の苗を持ち帰り、この野國村で栽川を始
めたという。これを伝え聞いた田地奉行の儀間真常が、琉球各地に広めたという。
 こうして五穀を補う食糧として、飢饉の時に大きな役割を果たすことになる。
 琉球で広く栽培されていた甘藷を、1615年、ウイリアムーアダムス(後の三浦按針)が、長崎平戸に持ち帰り栽培を始め、更に1705年、前田利右衛門が薩摩に持帰り、薩摩に広がり、やがて全国へと普及する。

 『芋神さま』ともよばれた「青木昆陽」が、薩摩から甘藷を持ち帰り、江戸の小石川養生所に植え、これを諸国に広げたのは、野固結管が中国から甘藷を持ち帰ってから130年後のことである。
 ところで甘藷は、「青木昆陽」が、薩摩から甘藷を持ち帰って、日本全国へと広がっていったため、「サツマイモ」としてよく知られている。         

 「サツマイモ」と言えば「青木昆陽」の名が有名ながら、それが琉球から伝わったことや、その端緒を開いた野國總管や儀間真常の名はあまり知られていない。
 なお野國総管の名は、「進貢船の総管」であったという役職名であり、その本名は伝わっていない。
 野國村では、琉球王府の高官であったために、その名でなく役職名で呼ばれ、「野國村 で甘藷を栽培した總管」としてしか伝わっていない。
 [進貢船の総管]であったから、外交官か交易を司る高官であったであろう。
 後に、琉球産業の恩人として顕彰するにあたり、やむを得ず野國總管という名で碑を建てたらしい。
 
          
             儀間真常の銅造

 ついでに儀間真常にもふれたい。
野國結管から甘藷栽培方法を習った田地奉行の儀間真常は、琉球の五偉人の一人とされ、琉球王朝の産業の基礎を築いた人物とされている。
 その業績は、まず野國總管がもたらしたサツマイモを、琉球各地に広めたほか、薩摩から木綿種を持ち帰り、その栽培と木綿織りを始めたこと。更に砂糖(当時の砂糖は黒砂糖を意味する)の製法を伝播せしめたこと、などが上げられている。

 特に砂糖は、その後の琉球経済を支える重要産物となった。
 産業の恩人を祀った世持神社(那覇市奥武山町)では、具志頭親方文若(ぐしかみ ウエーカタ )とともに、儀間親方真常と野国総管の三人が祀られている。
 具志頭親方文若は、後に三司官(宰相、実質的な行政の最高責任者)に任ぜられた。
 貢進貿易の配慮から、蔡温と中国風に名を改め、外交とともに、河川工事や山林の保護に尽力し、また琉球農業の発展に貢献した人物である。
 前にふれたか、親方(ウェーカタ)とは、琉球王府の王族に次ぐ位階で、士族の最高位であり、かつての地方豪族の長である「按司」の系譜を引いている。





琉球絣

 儀間真常が木綿織りを始めたと記したが、木綿織については、実際は儀間真常より早く、「日本機業史」には、日本で初めて木綿が織り出されたのは、天文年間( 1532年から1555年)とあり、薩摩の職工が琉球に習って織り出されたものとされている。
 このことから、儀間真常が広めたのは、木綿織そのものではなく、絣ではないかと思われる。

 絣とは、あらかじめ染め分けた絣糸を、文様にしたがい織り上げた模様のある織物のことである。
 機織りの技術そのものは単純な平織ながら、経糸に絣糸を用いた「経絣(たていとかすり)」、あるいは緯糸に絣糸を用いた「緯絣(よこいとかすり)」、 また経・緯両方に絣糸を用いた「経緯絣」等によって、多様な文様を織り出すことができる。

       
           琉球絣

 このため古くから世界の各地で織られている。
 日本での絣(かすり)という名称は、織出された文様の輪郭が、絣糸の乱れによって、かすれたように見えることから名づけられたとされている。

 インドで絣織りが生まれ、タイやカンボジアの絹絣が、インドネシア、ベトナムなど東南アジアを経て、琉球王朝の大交易時代に、琉球に伝わっている。
 この絣の文様を、琉球独特の文様として儀間真常が広めたのが[琉球絣]と呼ばれるものらしい。

 のち、1609年(慶長14年)に、薩摩の島津義久が、琉球を統治下に置いたとき、琉球王府の島津家への貢物(みつぎもの)の中に琉球絣があったとされている。
 その後、薩摩でも絣が織られるようになり、これを当時江戸では「薩摩絣」と呼んだ事が知られている。
本土の諸藩では、1800年頃から殖産振興と共に、その藩の専売制が行われた。
 久留米藩でも、独特の絣を創り出し、のち「久留米絣」として殖産奨励した。また伊予でも、「伊予絣」を独自に開発するなど、江戸時代後期には各地で様々な絣が織られ量産された。
 日本では「琉球絣」が発祥ながら、本土では流通の利点があり、[久留米絣]や「伊予絣」の方が有名と成っている。





嘉数(かかず)高台公園

 嘉手納基地を見学するため「道の駅かでな」に立ち寄ったが、次の目的地こそが、基地移転問題で大揺れし、日米間の大きな政治課題となっている「普天間基地」を、肌で感じるための嘉数高台公園の見学である。 事前に「普天間基地」を調べていると、嘉数高台公園の展望台が、「普天間基地」を眺める絶好の場所だとあった。18 時頃、ナビに従い嘉数高台公園に到着した。

     
       嘉数(かかず)高台公園の展望台

 嘉数高台公園のある宜野湾市は沖縄本島中部にあり、那覇市の北約10㎞にある。
 「普天間」の名は、宜野湾市にある普天間からきている。普天満宮の門前町として古くから栄えた地域である。嘉数高台公園は、沖縄戦時の一大激戦地であった。
  今でも日本軍が使用したトーチカの一部があり、戦争につい「て学べる場所となっている。今は高台そのものが、自然を利用した公園として整備されている。
 公園の最高部には、世界平和を願う地球儀をイメージした展望台が設けられている。元々高台であり、問題の普天間基地がよく見えた。

      
         嘉数(かかず)高台公園から普天間飛行場を望む

 公園には人影が少なく、展望台には誰も居なかった。
 展望台から見ると、まさしく住宅地に隣接して飛行場かある。すでに夕方であり、この時間では飛行機の雕発着はないかと思ったが、輸送機と大型ヘリコプターが相次いで着陸した。やはり相当な騒音である。

 何故、このような住宅地に隣接した場所に基地かおるのか、不思議に思った。
 調べてみると、普天間基地の周りに住宅地が密集しているのは、二つの理由があるという。
 ひとつには、戦後すぐに交通の要衝であった普天間周辺に、民間人の収容所施設が置かれたという事実がある。 もうひとつは、戦後に普天間に米軍基地が作られ、周辺住民が基地に依存する、基地経済社会を形成したことによる。

 特に本土復帰以降に、日本政府の「思いやり予算」が計上され、手厚い「基地行政」が実施されてきた。この結果、現在のような住宅密集地域となったという事実である。
 つまり、町の中に基地が出来た訳ではなく、基地の周りに生活の場を求め、今日の密集した住宅街ができたことになる。

     
        普天間飛行場

 結果として、「那覇都市圈」の中で、もっとも人口が過密な地帯の一部となっている。
 これは、極東の主要基地である東京多摩地区の「横田基地」周辺の人口密度に概ね相当するという。

 普天間飛行場は、2,700mの滑走路を持ち、航空基地として総合的に整備されてきた。
 米軍航空部隊の諸施設として、格納庫、通信施設、整備・修理施設、部品倉庫、部隊事務所、消防署、叉PX(基地内の売店)、クラブ、バー、診療所などか存在するという。
 この普天間飛行場が占める土地のおよそ92%は現在でも私有地である。
 このため、賃借料が地主に支払われており、2000年代は60億円台で推移している。
 地主数は1976年の1888人から、1992年の2164人、2007年の3031人と増加傾向にある。これは、地主の遺産相続によって、権利者の人数が分散されためであろう。
 また米軍基地を維持するため、多くの「駐留軍等労働者」が存在し、国家公務員並の給与の支払いと身分か保障されている。

     
        普天間飛行場への着陸機

 さらには、基地の維持に関わる、様々な資材調達や営繕工事、そして軍属家族の生活用品などは、当然地元業者に優先発注される。
また、地元住民の仕宅への騒ぼ対策にも多くの費用か国費で投入されている。
 最大の基地問題は、この住宅地に隣接した普天間飛行場で発生した、墜落事故は数が多いという事実である。
 本土復帰後の事故発生件数は、2002年末時点で、固定翼機8件、ヘリ69件、計77件である。この時点での、沖縄県内の米軍航空機事故217件の内、35%を占めている。

 今までの航空機事故の死亡者は、全て米兵ながら、民間人の死亡者を伴う、「重大事故の危険性」が常に指摘されてきた。これが普天間基地の原点である。
 一方、日本国土を守っているはずの、米軍人の死亡者については、あまり問題にされていない。
 米軍は、かつては占領軍であったが、今は日本の最重要な同盟国であり、米軍の軍事力の後ろ盾で、日本か平和に暮らせているのも事実である。





嘉数の激戦

 嘉数高台は、戦時中は日本軍部によって第七〇高地と命名されていた。
 日本軍守備陣地があったこの高台の攻防が、沖縄戦最大級の戦闘として知られ、激戦であったという。
 米軍が宜野湾に上陸したのち、1945年4月8日から激戦が開始され、16日間も続けられた[嘉数戦]は、日米双方の詳細な戦闘記録が残されている。

     
        激戦後の第七〇高地

 この記録の概要を読んだが、双方ともまさに死闘を繰り広げた、すさまじい激戦であった。
 日本車の第62師団の独立混成旅団は、「反射陣地」を構築し、米軍に劣る火力を補い、頑強に抵抗し、甚大な被害を攻撃してきた米軍に与えた。
 このため、嘉数高台は米軍からは、「死の罠」「忌々しい丘」などと呼ばれたという。

 反斜面陣地とは、敵側に面した斜面に、障害物や塹壕を設けて前哨陣地とする。
 この陣地に攻撃をする敵側の反対側の斜面や平地に、地下壕を掘り、砲兵陣地を隠した戦法である。台上の前哨陣地には戦力が少なく、敵の猛攻撃でも損害が小さい。
 米軍が台上に攻め登って来ると、反対斜面に隠されている主力軍が、猛砲撃で逆襲し、撃退するという戦法である。
 地形を巧みに活かした、嘉数高台の守備戦術は戦後に高く評価され、後の自衛隊の教科書にも採用されたらしい。

     
        宜野湾に上陸するアメリカ軍

 アメリカ軍は、歩兵383連隊第1大隊、第3大隊を投入し、攻撃開始翌日の9日には、嘉数を占領することを目標としていた。
 ところが予想外の日本軍の反斜面陣地によって敗退を繰り返すことになった。
 このため続々と部隊を投入し、30輌もの戦車部隊を投入した。

 しかし、対戦車地雷、巧妙に隠されていた速射砲、高射砲、迫撃砲、臼砲、爆雷を背負った特攻兵の体当たりなど防戦した。米軍は、投入した戦車30輌のうち実に22輌を破壊され撤退した。
 結果として、16日間もの死闘が繰り返されることになった。

     
         嘉数の激戦

 嘉数の激戦では、日本軍は10倍以上もの米軍に対して、大きな損害を与えたが、日本軍も致命的な犠牲を支払った。
 米軍は、嘉数戦闘の後、苦しんだ塹壕、及び地下壕陣地からの反撃に懲りて、以後は「火炎放射器」を多数投入し、徹底して地下壕陣地を焼き払うという戦法を採用した。
 のち、戦争末期に、民間人が避難した防空壕にも容赦なく「火炎放射器」が投入され、悲惨な民間人の被害が数知れず起きている。

    
        嘉数の激戦

 嘉数戦では、日本軍の戦死傷者は、64,000人に上った。
 このことから嘉数戦を事実上の日米決戦の地とする意見がある。
 つまり嘉数戦に負けたことで、日本軍の「沖縄戦」の敗北が決定的になったという。
 沖縄戦に投入された日本軍の総兵力は約100,000人であり、その半数あまりが嘉数戦で損害を受けたことになる。 ただ、軽傷者も含まれていて、実際に戦闘不能となったものは20,000人程ではないか、という意見もある。

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おもろまち

 翌日、予定通り9時頃にホテルを出発した。最初の目的地は県立博物館で、那覇市『おもろまち』3丁目にある。那覇市中心街の国際通りからそれほど離れていない。
 ところで、地名の由来についてふれたい。

 那覇市の那覇の由来は、漁場を表す「なふあ」からきている。
 また「おもろまち」という変わった町名は、米軍基地返還後に、その用地を再開発する「新商業地区」構想があり、面白くユニークな町造りの意味が込められたと思った。

    
       副都心おもろまち

  しかし、沖縄で関西風の「おもろい」が使われるのは不自然である。
  調べてみると[おもろ]の名の由来は、
 首里王府によって編纂された歌集「おもろそうし」であると気がついた。

 尚清王代の1531年から、尚豊王代の1623年にかけて、首里王府によって編纂された、歌集が
「おもろそうし」である。
 「おもろ」とは、琉球語で歌の意で、沖縄方言の「思い」から来た語である。
 歌というものは、さまざまな思いを唄うものである。琉球の古い歌謡が「おもろ」であり、14世紀末、中国大陸から三弦(三味線の別称)が伝来する以前に行なわれた、歌曲の中心をなすものらしい。

 「おもろ」では、王、高級神女、勇者、詩人、航海者をたたえ、風景、天象、戦争、神話にいて歌われている。主にひらがなで書かれているが、わずかだが漢字も混じっている。
 短いものは二行から、長いものは四十行に及ぶ韻文で、盛んに対句を用い、これら祝詞
(うむい、祝い称える言葉)は、「おもろ」の源流と考えられている。
 また、今では使われない琉球古語が多く含まれているという。

     
        歌集「おもろそうし」写本

 元々神職によって歌われたものが、後、男子が王城で、節句の時などに歌うようになり、これが「王府のおもろ」と呼ばれたという。
 改めて考えると[おもろまち]という町の名は、本来の琉球の心を取りもどすために名付けられたのではないかと思える。
 この新しく作られた「新商業地区」周辺は、米軍の牧港住宅地区として使われていたが、1987年に返還され開発整備された地域である。

     
         副都心おもろまち

 このため、この地域は、「那覇新都心」「天久(あめく)新都心」とも呼ばれている。
 この地域には、立地の良さから、バスセンターやレンタカーの中央ブース、大型の商業店舗が相次いで進出し、シネマコンプレックス、レストラン、ホテルなども進出し、「那覇新都心」を形成している。
 不思議な事に、本土の観光客のための[DFS](免税店)がある。

 2002年の「沖縄振興特別措置法」の改正で、「特定免税店制度」に基づく免税店である。
 免税店を利用するには、那覇空港発の本土行(奄美地方を含む)、または国際線の航空券所持者が対象である。受取カウンターが、「那覇空港」にしかなく、船便による本土渡航者は対象外とされている。
 ところで、皮肉なことに「おもろまち」は、その命名の意図とは逆に、最も沖縄らしくない町とも言われる。つまり、何処にでも在る特色のない「都会的」な街となってしまったという事である。





琉球政府立博物館

 沖縄県立博物館に入る前に、沖縄の歴史を汕るため、あえて博物館の歴史にふれたい。
 沖縄県立博物館は、首里の中城(ナカグスク)御殿跡地に開館した「琉球政府立博物館」が前身である。
 [琉球政府立博物館]の前身は、1936年に首里城内北殿内に作られた「沖縄郷土博物館]であった。しかし、「沖縄郷土博物館」は、1945年5月に、沖縄戦で全焼している。
 アメリカ軍が沖縄を占領すると、その統治機構として、1945年4月に「琉球列島米国民政府」が設立され、その下に「琉球政府」が設置された。
 まだ日本本土が、降伏する前の時点である。

     
           琉球政府ビル

 当時のアメリカ政府は、元々独立した「琉球国」があり、日本が占領していたという認識があったらしい。
 「琉球列島米国民政府」が設置されたが、無論、沖縄駐留メリカ軍の統治機構であり、略称USCAR(ユースカー)と称された。
 正式名称は「United States Civil Administation of the Ryukyu Islands 」である。
 略称ごUSCAR(ユースカー)は、琉球政府の上部組織であり、「琉球政府」に米軍の意向に沿った民政を行わせるための統治機関であった。

 このため、一部の民政を除くと、たとえば「琉球電力公社(現在の沖縄電力)は、米国民政府の所管であり、「琉球大学」も、米国民政府か管轄していた。
 しかも、直接司法権を行使するため「米国民政府裁判所」という独自の裁判所も設けていた。
 米国民政府庁舎は、当初琉球政府と同じ建物にあり、1~2階に「琉球政府」、3~4階に「ユースカー」が入っていたが、1968年に浦添村(1970年に浦添市)に移転した。

          
            アメリカによる沖縄統治機構

 1972年5月、沖縄の「本土復帰」の前日に閉庁している。
 さて、「博物館」の話しに戻る。

 「琉球政府立博物館」は、[琉球列島米国軍政府]のハンナ少佐が、残存した文化財を収集し、公開展示したのか始まりである。
 翌1946年(昭和21年)に、琉球政府に移管し、「東恩納博物館」となった。
 一方、首里市(現在の那覇市)でも、1946年(昭和21年)に市立の「郷土博物館」が設置されていたが、翌年に琉球政府に移管し、「首里博物館」になった。
 その後、1953年(昭和28年)に「首里博物館」が、「東恩納博物館」を吸収合併し、1955年(昭和30年)に、「琉球政府立博物館」と改称した。

  
     旧沖縄県立博物館

 琉球政府立博物館は、「琉球列島米国民政府」の補助金によって建てられたため、入口にその旨を記した石製のプレートが嵌め込まれている。日本復帰後は、「沖縄県立博物館」となり、増築するなど整備が進められた。
 しかし、那覇新都心に「沖縄県立博物館・美術館」を建設するため、休館を経て、所蔵品は新都心に建設された新館に移送された。





沖縄県立博物館・美術館

 前記のように、[琉球政府立博物館]が、沖縄の本土復帰後に、[沖縄県立博物館]と改称された。
 那覇市首里にあった県立博物館は、1996年に建設されており老朽化が進んでいた。
 そのため、1994年に沖縄県立博物館新館建設基本計画が作成されていた。

      
          前沖縄県立博物館 

 一方、沖縄で美術館建設の具体的な建設計画が検討され、1995年に名称を「沖縄県立現代美術館」とする基本構想報告書が作成されていた。
 その後1996年に、「博物館新館」と「美術館」を併設する形で決着したが、バブル崩壊後の沖縄県の財政難から計画は凍結された。

 2002年に入り、ようやく事業費を225億円に圧縮することで「本土復帰30年記念事業」として再開されることになった。
 米軍基地の一部返還にともなう「那覇新都心」構想に基づき、「おもろまち」が建設されることになり、その中核施設として、2007年11月、[沖縄県立博物館・美術館]として開館した。
「博物館」と「美術館」をあわせ持つ、県内初の複合文化施設となっている。

      
         沖縄博物館・美術館

 「博物館」施設としては、前身である沖縄県立博物館の二倍の広さを持ち、美術館施設は、県立としては初めての設置である。
 建築設計は、石本建築事務所と二基建築設計室との設計共同企業体で行われている。
 博物館に入り、その建築のすばらしさに感嘆し、石本建築事務所を調べてみると、本土の様々なホールや会場や公共施設、大学などに実績がある。関西だけでも、大阪府立大学先端科学イノベーションセンター、大阪市立中央図書館、京都府民ホール「アルテイ」などユニークな建築が多い。





博物館について

 いままで博物館を訪れることは少なかった。
 せいぜい「エジプト展」など有名な特別展示を見に行ったくらいであろう。 改めて「博物館とは何か」について考えたい。
 「沖縄県立博物館」で写真を撮影していると、「写真撮影はご遠慮ください」と注意されたからである。
 「どうして駄目なの?」と反問したが、明確な回答は得られなかった。

 せっかく沖縄の歴史や文化を知るべく勇んで訪れたのに、という残念な気持ちがあった。
 そこで、また監視の目を盗み、幾枚かの撮影はした。
 しかし、いまだに撮影禁止の理由が分からず、その原点を探ることにしたのである。

 博物館は、英語ではミュージアム(museum)という。
 ミュージアムは、古代エジプトの首都アレクサンドリアにあった、「ムーセイオン」に由来するという。ギリシア語で「ムーサの殿堂」を意味する。
 ムーサ(muse)は、英語ではミューズと発音し、芸術や学問の女神を意味する。
この名のとおり、欧州語の museum は、博物だけでなく、美術も含む概念である。
 ヨーロッパの博物館・美術館は、ルネサンス期のヴンダーカンマー(驚異の部屋)を発祥としている。

     
          ルネサンス期のヴンダーカンマー(驚異の部屋)

 ヴンダーカンマーとは、世界中の珍しい事物を、分野を問わず一箇所に集めたものである。ルネサンス期から、王侯や富裕な市民は「珍しい物」の収集に熱を入れた。
 当然この「珍しい」収集の中には、貴重な絵画彫刻も含まれた。
 例えば、メディチ家のコレクションが、メディチ家邸内の回廊(ガレリア)で行われた。メディチ家は、フィレンツェの実質的な支配者として君臨し、後にトスカーナ大公国(イタリア)の君主となった欧州の名門の家系である。

      
          ヴンダーカンマー(驚異の部屋)

  つまり博物館の原点は、「珍しい」物を見ることである。ただ、ヴンダーカンマー(驚異の部屋)を見学できたのは、学者を含め富裕層に限定されてきた。
 その後のフランス革命を契機として、一般に[珍しい物]が公開され、常設の単博物館として国立自然史博物館がパリに 設置された。
 ところで、「博物館」という名は、江尸時代に名付けられている。
  文久元年(1861年)、幕府の遣欧使節の市川清流が、その日録に「British Museum」
に対し「博物館」という訳語を初めて与 えている。

    
       大英博物館内部

 現在の日本には、博物館に関する法令として「博物館法」がある。
 その定義では、博物館とは、「歴史、芸術、民俗、産業、自然科学等に関する資料を収集し、保管し展示して、教育的配慮の下に一般公衆の利用に供し、その教養、調査研究、レクリエーション等に資するために、必要な事業を行い、あわせて、これらの資料に関する調査研究をすることを目的とする機関」とされている。ただし公民館・図書館を除く、とある。
 博物館という名称を付さない、記念館、資料館、文学館、歴史館、科学館などの施設も、世界標準では、博物館の概念に含まれるという。

 結論として言えば、博物館で撮影禁止というのは、
 博物館法にある「教育的配慮の下に、一般公衆の利用に供する」という趣旨に反する、はずである。


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骨の科学

 博物館へ入る前に、修学旅行生の団体が先に入場した。
 二階で企画展『骨の科学』展示があるから、そちらから先にいかがですかと勧められ、図らずも「骨の科学」という特別展示を見学することになった。
 他に見学者はいず、写真を撮影しつつ見学していると、 「人骨の撮影はご遠慮ください」と、また注意された。 人骨に対しては、人間は特別の感情がある。

     
          人骨

 現在の日本では、人は死ぬと火葬にされ、遺骨だけか殘される。その遺骨の一部を骨壷に収めて持ち帰り、暫く仏壇に安置し、のちに納骨堂に治められる。
 肉体は滅びるが、その人が生きた証のように、火葬してもその骨は残る。
 異国で事故や戦争などで死んでも、遺骨は故郷に持ち帰り、菩提寺に納骨され弔われる。

  弔とは、人の死を悲しむと共に、死者の霊を慰めることである。人が死ぬと、生者は、その霊を慰めてやらねばならない、という感情かある。
 しかし仏教では、本来、死して「極楽浄土へ行く」ことが、本願のはずだが、しかし、死ぬと可愛そうという事になる。
 ともかく人は、人が死しても骨が残されるから、その遺骨に特別の感情を抱く。

 特に仏教では、遺骨は神聖な物とされ、大きな寺院では舎利殿がある。
 本来、仏舎利(釈迦の遺骨)を安置した建物を舎利殿という。 釈迦の遺骨を分骨したという建前である。
 キリスト教では、キリストの遺品、或いは「聖人」の遺骸や遺品を、聖遺物という。

      
        聖フランシスコと共にアッシジに生きた聖女クララの遺体

 さらに、聖人の遺体のことを「不朽体」と呼び、崇敬の対象となっている。
 ミイラの場合もあるが、遺骸の場合もある。遺骸とは当然遺骨のことである。
ただ、不思議な事に肉体は朽ちるが、骨だけが朽ちずに何万年も、何千年も土中に埋もれていたから.様々な人類の進化や、古代人の生活を想像することも可能となっている。
 こうして、人類の進化を知るため、古代人の骨の研究か行われている。
 写真の下左から二番目の頭蓋骨は、南アフリカの洞穴で化石が見つかった、新種の猿人アウストラロピテクス・セディバ(セディバ猿人)で、200万年前ごろ、森林と草原の混生地帯で生活を営んでいたらしい。





永遠の愛

 以下は、骨にまつわる余談である。
 2007年2月9日、イタリア北部のマントバで発掘作業中、抱き合った男女の遺体が発掘されている。
 約6000年前のものと推定されている。
 抱擁するような形で埋葬された、若い男女の人骨が発見され、「時を超えた愛」として話題になっている。
 向き合って腕を絡み合わせており、保存状態も良好だったという。
愛し合う若い男女が、何らかの事情で同時に亡くなり、それを哀れんだ人たちが、このような形で埋葬したのかも知れない。

      
          抱き合った男女の遺体         

  有史以前の6000年も前の新石器時代でも、「男女の愛」は尊いものとされていた事が驚きである。
  この新石器時代は、狩猟と共に、野生の穀物を採取し、またウシや山羊、イノシシの家畜化などで、定住生活を始めていたらしい。定住生活だから、部族社会を形成していたであろう。
 部族社会は、基本的に血縁関係が濃くなる。
 このため、部族の娘たちは、同部族の男とは結婚が許されない掟があったであろう。

 以下は想像である。
 そんな社会で、不幸にも同一部族の男女に恋が芽生えた。
 こともあろうに、部族長の娘と、ある男が恋に落ちた。男は、集落の外れで、イノシシや山羊などを飼育しつつ、野草の採集をし、食用や薬草になるかを丹念に調べていた。
 当時としては、変わり者と見られていた。

 部族長の娘は、少女の頃から、集落外れの山羊やイノシシなどを見に行った。男は、可憐な花飾りを作り少女に贈り、一緒に山野の花を求めてを歩いた。
 やがて、少女は成長し、この男と娘は恋いに落ちた。
 が、部族の掟がある。
 部族長は、他の部族の馬術が得意で、狩猟に長けた逞しい男を、娘の婿にと考えていた。こうした背景で、二人は悩んだ。娘は、母親に悩みを打ち明けたが、部族長の娘である以上、掟を守らねばならない。
 母は、「掟じゃ。決して契ってはならない」と言い渡したであろう。

 男は、薬草の知識かあり、「生きているから契れない。あの世で夫婦になろう」と約束を交わし、二人で毒草を食べた。
 集落の外れで、二人の死を発見した母は、二人の愛を不憫に思い、せめて天界で夫婦になれるよう、集落の埋葬地に葬るとき、抱擁させて埋葬した。
 こんな物語を想像してみた。





骨の正体

 さて、ここで改めて「骨の科学」について考えてみたい。
 骨とは、脊椎動物に見られる、骨格系を構成する組織である。
 骨の機能として、一つは体を支えることで、大腿骨で300kg'腰椎は700kgの重さに耐えるという。
 また、骨は腱によって相互に連結しており、支点・力点・作用点を形成して体を運動させている。 二つは、内臓を保護することである。衝撃に弱い内蔵器官を保護している。頭蓋骨は脳を守り、肋骨は心臓や肺を守っている。
 三つは、意外にもカルシウムを蓄えることである。

    
       ほ乳類の骨格標本

 骨質には無機物のカルシウム、骨髄腔には脂肪か貯蔵される。骨は、細胞成分(骨芽細胞・破骨細胞など)、骨ミネラル(主にカルシウムとリンからなる結晶)、ミネラルが沈着する基質(コラーゲンなどのたんぱく質)の三つの成分から成り立っている。
 食生活で体のカルシウムが不足すると、その不足分を骨から供給する。そのため、骨形成にはカルシウム、リン、ビタミンロの摂取が不可欠である。
 人体には、基本的には、206個の骨が存在する。この骨格を形成し、さまざまな機能を有している骨は、生理を持っており、常に変化している。つまり常に新陳代謝を行い、破骨細胞と骨芽細胞の働きによって、活発に破壊と再構築が行われ、一定の量が保たれている。
 骨折が治癒するのも、骨の再生によるものである。骨の再生産、カルシウムの保持、または放出は、副甲状腺ホルモン等によって制御されている。
 骨は、不思議な事に、他の臓器と異なり年齢を重ねても、新陳代謝のバランスが良ければ骨自体は老化しないという。 骨の有機成分の主体は、タイプⅠ型コラーゲンである。タイプⅡ型は、軟骨に主に分布する有機成分である。  

      
       骨のメカニズム
           
 骨の形成には、主として骨芽細胞と破骨細胞が関与しており、これらの細胞による代謝のバランスで、骨量が維持されている。 これを骨のリモデリング(再構築)という。ただ、骨の新陳代謝が滞ると、カルシウムが減少し、もろくなり骨折しやすくなる。つまり「骨粗鬆症」になるという。
「骨粗鬆症」を予防するには、カルシウム、ビタミンD、そして運動、適度の日光浴、そして女性ホルモン等が必要であるという。

          
               骨の新陳代謝

 新陳代謝のバランスが悪くなると、カルシウムが減少する。このため、骨をつくる細胞を活発に働かすことで予防できるという。
 このように生きているときは、新陳代謝を繰り返しているが、死ぬと新陳代謝が停止し、骨ミネラル(リン酸カルシュウム)だけが残される。
 人は宗教的な骨に対する崇敬心は根強いが、生体が死ねば新陳代謝が止まり、骨も死ぬのである。
 残されるのは、単なるリン酸カルシュウムに過ぎない。
 リン酸カルシュウムは、自然界にいくらでも存在し、肥料の製造に用いられている。
 遺骨とは、身近であった人を偲ぶ、唯一のよすがであろうか。しかし遺骨よりも、その人の想い出の方を大切にしたいと思う。





曲がる背中

 年齢とともに人間の背中は曲がってくる傾向にある。
 これは骨粗鬆症などで、脊椎の「圧迫骨折」が生じ、「椎間板」が へこむために生じる。脊椎の中心には、「脊柱管」という空間が頚椎から胸椎、腰椎、仙椎まである。
 この「脊柱管」の中に、脊髄神経が骨に守られて通っている。
 そこから、腕神経、肋間神経、大腿神経、坐骨神経などの枝が出ている。
 加齢とともに骨の新陳代謝が滞り、脊柱管を囲む椎体の骨や靭帯、椎間板などが変形し、肥厚して脊柱管が狭くなる。

         
               曲がる骨

 ところが、脊柱管や、神経の分岐の部分は、脊柱を前方へ曲げた(前屈)ほうが広くなる。このため、背中が曲がる現象は。体の防御反応といえる。
 しかし、背中が曲がると、上半身を後ろから支える、「脊柱起立筋」などが疲労しやすくなる。また、肺や胃などを圧迫して、肺活量が低下し、『逆流性食道炎』などを生じることかおきる。
 すぐに息切れしたり、食事をすると胸焼けがする、胃もたれなどの症状か出ることがある。若年時代に比べ骨の新陳代謝が低下し、男性で約30%、女性は約40%も骨量が減少
するといわれている。
 こうして、背中は、気付かないうちに、徐々に曲がってくる。
 防止するには、毎日軽く背筋を伸ばす体操をすることが必要だという。

      
              正常な骨と骨粗鬆症の骨

 最も重要なのは、骨粗鬆症にならないよう、カルシウム、ビタミンD、そして運動、適度の日光浴、女性ホルモン等が必要である。 骨粗鬆症になりやすい閉経後の女性では、一日800mg以上のカルシウムをとることが望ましいとされている。
 このためカルシウムの豊富な食事をとることが必須である。カルシウムか豊富に含まれている食品には、乳製品、大豆製品、小魚・海藻類、小松菜などの野菜がある。
 また吸収率の悪いカルシウムを効率よく吸収するためには、ビタミンDの補充が重要である。ビタミンDの豊富な食品のレバー、椎茸、鶏卵、各種の魚を積極的にとる必要かある。日光浴でビタミンしは体内で活性化されるため、晴れた日の散歩などが良い、とあった。夫婦二人で、散歩を心がけたいと思う。

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