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        信州紀行   1   

 
  
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大津サービスエリア

 今年(平成21年)の盆休みは年休を申請して五連休となった。久しぶりに遠出をしようとの話になり、妻の希望で信州へ出かけることにした。 いつもは近畿周辺が多いから、思い切って遠くへ出かけたいと思ったのである。むろん高速道路の上限千円の割引制度があるから、車で行けば、格安のツアーとなるからである。
 唯一気がかりだったのは、車の渋滞であった。
 渋滞というのは、車中で無駄な時間を強要され、退屈な時間を過ごすことになるが、こういう時期にしか休みが取れないからやむを得ない。
 今日の目的地は長野だから、名神高速で名古屋の小牧から中央道を辿らねばならない。
 例によって出発が遅れ、九時過ぎころに出発した。
 昨日よりは幾分渋滞が少ないようにも感じ、現に道路標示板でも、京滋バイパス経由でも京都経由でも時間の差はなかったため、京滋バイパスを通らず、そのまま京都経由で大津サービスエリアに、十時五十分頃に到着した。『近江紀行』を書くために調べてみたら、京滋バイパスを経由した方が距離的には近い事が分かった。
 気楽な二人だけの旅だから、成り行きでいいとはいうものの、やはり目的地に早く到着できれば多くの観光地を訪れることができる。 

      大津サービスエリア

 ともかく、大津SAでトイレ休憩し、一息入れた。
 大津SAは、琵琶湖の南端の一番狭い琵琶湖を眼下に見下ろせる位置にある。琵琶湖に向かって左には 比良山の山並みが見え、右側には近江の低い山並みが見える。
 高台に位置しているから、一階のレストランへは階段を下る構造になっており、少し階段を上がると、カフェテリアや土産物店などがある。
 まだ昼食には早いから、イカ焼きを買って日陰のベンチで食べた。
 絶好の快晴で、気温はすでに三十度を超えていただろう。11時過ぎに大津SAを出発した。
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関ヶ原

 大津SAを出て、彦根まではかなりの渋滞であった。
 やがて米原ジャンクションを通過し、しばらく走ると関ヶ原の出口案内表示があった。
 このポイントまで約二時間を要しているから、やはり普段の倍くらいは時間がかかっている。
 ところで、この道路標識の撮影はすべて妻の撮影である。「紀行」を書くとき、道路表示板を撮影していると後でどのようなルートをどの時間に通過したか、記録に残り大変便利である。 『熊野紀行』の時に妻に依頼して以来、妻は要領よくポイントでカメラのシャッターを押してくれるようになった。

     関ヶ原

 さて関ヶ原は、天下分け目の合戦の関ヶ原の戦いで有名な処である。 
 日本人で関ヶ原の地名を知らない人はいまい。石田三成と毛利を主体とする西軍と、徳川家康率いる東軍の天下分け目の合戦が行われた場所として有名である。
 石田三成の西軍がこの関ヶ原を合戦場に選んだのには理由がある。
 古来から不破関(ふわのせき)が置かれていた地で、東海道の鈴鹿関、北陸道の愛発関(あらちのせき)(近江国と越前国の国境に置かれた)と共に、畿内を防御するために特に重視され、これを三関といった。
 不破関(ふわのせき)は、美濃国の西端に位置し、伊吹山の南東麓に位置する。
 南北を山岳に囲まれている交通の要衝であり、東海道と中山道の合流する地であり、さらに北国脇往還と伊勢街道への分岐点でもあった。

    関ヶ原の布陣
      関ヶ原の布陣

 先に関ヶ原に布陣した西軍は、関ヶ原の入り口に近い南宮山に総大将の毛利秀元を始め、吉川広家、超曽我部盛近、長束正家、安国寺恵瓊などの軍が布陣し、その左側の松尾山に小早川秀明が布陣し、その向かい側の笹尾山付近に石田三成の本陣が置かれ、その付近に、島津義弘、小西行長、宇喜多秀家、島左近、大谷吉継などが布陣した鶴翼の陣であった。これらの布陣の中を中山道や東海道が合流している。いずれの街道を東軍が進行してきても包み込むような形であり、完璧な布陣であった。『近江紀行』でも少しふれたが、明治になって日本陸軍の教育を担当したドイツのメッケル少佐が、その東西の兵力と布陣を聞いて、
「間違いなく西軍の勝利であったはずだ」
と断言した。歴史的な事実は、毛利軍主力と石田三成らの主力軍の中間に位置した松尾山に布陣していた小早川軍が裏切ることで、西軍の主力が分断され大混乱を期し、結果として東軍の勝利となった。
 つまり戦というのは、単に軍事的な要素だけで決するものではないという証でもある。
 現に、秀吉が天下統一を果たすについては、幾度も戦を重ねているが、秀吉はつねに調略(政略)を用いて、戦場に臨む時には勝つべくして勝つ体勢が出来上がっていた。見方に引き入れるべき相手の内実を調べ上げ、事前にさまざまな恩典を用意し交渉しているから、自然に見方が増えるのである。
 石田三成は秀吉の優秀な官僚であったに過ぎず、秀吉のような調略を用いる才覚や人望がなかった。官僚的な正義感だけでは世の中は動かないことの証である。

     関ケ原「広重画」
       木曽海道六拾九次之内 関ケ原「広重画」

 関ケ原宿は、交通の要衝の地にあることから、江戸期の天保十四年当時、旅篭屋が三十三軒もあり、しかも大旅篭が十二軒あり、美濃十六宿中で最も賑わった宿であった。
 現在では北陸道、名神高速道路、東海道新幹線、東海道本線が通っている。
 伊吹山と琵琶湖を挟んで比良山が屏風のように屹立しているため、日本海から大陸の寒気が吹き込みやすい地形にあり、日本海側気候で若狭湾からの季節風により、雪が降りやすく、豪雪地帯となっている。
 北陸で雪が降ると、必ず関ヶ原も雪となり新幹線が徐行運転し延着する。何度も東京からの帰りの新幹線が延着したことがある。むろん名神高速でも雪のためにチェーン規制が度々実施されていた。このため、冬場には一宮から車まで大阪へ戻る時は、原則として西名阪道を利用した。
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関所
 
 さて、関ヶ原にちなんで関所についても触れたい。
 関ヶ原の名はもちろん不破関(ふわのせき)からきている。不破関(ふわのせき)は、古代の東山道の関所で、東海道の鈴鹿関、北陸道の愛発関(あらちのせき)とともに、畿内を防御するために特に重視され、三関から東は東国または関東と呼ばれた。

     不破関(ふわのせき)
        不破関(ふわのせき)

 三関のほか、東海道の駿河・相模国境には足柄(あしがら)関、同じく東海道の常陸・陸奥国境には勿来関(なこのせき)、東山道の信濃・上野(こうずけ)国境には碓氷関(うすいのせき)、同じく東山道の下野・陸奥国境には白河関、北陸道の越後国・出羽国国境には念珠関がそれぞれ設置された。
 このうち、念珠関・白河関・勿来関を「奥羽三関」という。

     関所

 ついでながら、勿来(なこそ)とは、「来ル勿(なか)レ」、つまり「来るな」という意であり、蝦夷(えぞ)(アイヌ民族)の南下を防ぐ意味を持っていたという説がある。
 ところで関所とは、交通の要所に設置され、徴税や旅人検問のための施設である。陸路(街道)上に設置された関所は「道路関」、海路に設置された関所は「海路関」とも呼ばれる。
 陸路では、峠や河岸に設置されることが多かった。
 中世には、朝廷や武家政権、荘園領主・有力寺社などの権門勢家が、独自に関所を設置し、関銭(通行税)を徴収した。
 室町時代には京都七口関が設置され、京都に入るにはいずれかの関所を通行せざるを得ない状況が生まれた。関所は中世の交通における最大の障碍であったが、同時に関所を設置した勢力は関銭(せきせん)を納めた通行者に対し、通行の安全を保護する義務を負った。
 関銭は、渡賃・渡銭・関料・関手・関賃・勘過料・津料・津役など呼称が多様であり、そのこと自体関銭徴収の盛んなことを示している。
 徴収額は、船の場合は一艘何貫とか、あるいは積載量に応じてかけられた(米の場合は一石につき1升が多い)。陸上の場合は、人・馬ごとにかけられ、甲斐国の追分宿関所では室町時代に、人は三文、馬は五文であった。
 関銭は、設置した側にとっては金儲けの手段としての側面と、通行の安全保証に対する礼銭としての側面の両面があった。 これは水上における海賊衆の警固料と同様の意味を有していた。
 交通上の要衝に設けられた関は、商品流通の活発化で流通の障害となり、戦国時代には、各地の戦国大名が領国の一円支配を強めた結果、多様な主体が銘々に設置する関所は次第に減少していき、信長・秀吉の統一政権によって廃止された。
 
     関所内部の復元<br>
        関所内部の復元

 関所の話に戻す。
 江戸時代には、江戸幕府や諸藩が、軍事・警察上の必要から再び関所を設置した。
 主な関所には、東海道の箱根関や新居関、中山道の碓氷関や福島関、甲州街道の小仏関、日光街道の栗橋関などがある。
これら関所は幕府直営では無く、近隣の大名や旗本などに業務委託され、 関所の番人は陪臣(ばいしん)(家臣の家臣)身分ではあったが、幕府の役人であっても祝儀名目の通行料を支払わされるなど大変な権勢を誇った。 これらの関所を通行しようとする者は、通行手形を提示し、関所による確認を受けた。 特に江戸から上方への東海道沿いの関所では、女性と鉄砲の通行が厳しい制限を受けていた。これを「入鉄砲出女」と言うが、江戸在住の大名の妻が密かに領国へ帰国することと、江戸での軍事活動を可能にする江戸方面への鉄砲の流入の二つが、幕府によって厳重に規制されたのである。
 また、芸人や力士などは、通行手形の代わりに芸を披露することもあった。一方、関所破りは重罪とされ、磔刑(はりつけけい)に処せられた。しかし実際には、関所役人も関与した宿場ぐるみでの関所破りが常態化していたという。
 日本における関所は、1869年(明治二年)に完全に廃止された。
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通行手形

 通行手形は、江戸時代の人(一部例外を除き)が旅をしようとするときに、許可を得て旅行していることを証明する書類である。
 その許可の証として旅行中所持していることを義務付けられ、現代のパスポートや身分証明書に相当する。
 江戸時代には各地に関所や口留番所が設置され、人の移動は厳格に制限された。公用・商用の旅、参詣や湯治などの遊行、女性の場合には婚姻や奉公など様々な理由での旅があるが、一般に旅行は伊勢参りなど無条件に許される例外を除いて自由ではなかった。その他に日光東照宮参拝、善光寺参拝など、有名寺社の参詣旅も概ね許された。 もっとも、現代と違って整備された行楽地があるわけでなく、寺社への参拝が行楽旅行そのものであったということである。

        通行手形
            通行手形

 そもそも旅行自体が庶民にとっては一生に何回できるかどうかの時代である。
 また江戸時代の藩は、半独立国的存在であったことを考えれば、現代においてパスポートを取得して海外旅行に行くようなもので、事実上届出さえすれば自由に旅行は可能であったとの見方もある。ただ武家の女性は、移動について庶民よりも厳しく女通行手形が必須であった。
 通行手形の発行は、武士の場合は藩庁に依頼する。庶民の場合は居住する町・村役人または菩提寺に発行を依頼する。 現代のパスポートに記載されている文面とよく似ているとも言える。通行手形持参人の身元、旅行の目的(諸国寺社参拝等)、関所通過の要請、関係諸官への便宜・保護要請、発行者の身分所在地等、などが記載されている。
 現存する通行手形は、江戸時代の人的移動を示す資料にもなっている。
 関所の話をしたが、現在でも海外旅行をするとなると、通行手形としてのパスポートが必要となり、関所に相当する入国審査所で入国審査を受け、以前では韓国でも関銭に相当する出国税を徴収された。
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上高地
 
 ようやく一時過ぎに一宮PAに到着した。このパーキングエリアは、一宮インターを過ぎ、小牧インターとの中間にあり、今まで利用する機会がなかった。
 小牧ICは東明高速と中央道のジャンクションでもあり、また一宮ICは東海北陸道とも分岐しているから、いずれもこの尾張一宮PAを通過するため、利用者が多いらしい。
 このためか、パーキングエリアは広く、メイン施設の前には滝のある庭園のような憩いのスペースが設けられていた。 メインの売店やカフェテリア施設の横に、馴染みのお洒落なスターバックスがあり、此処でトイレ休憩のあと簡単な昼食を摂った。
 最近のSAでは、時代の流れなのかコンビニやスターバックスなどが併設されるようになった。

     上高地

 しばらく走ると上高地の出口表示があった。写真の時間は3時42分である。
 筆者は、日本屈指の景勝地とされている上高地そのものへは行ったことことがなく、その近くを車で通り過ぎた事はあるが、妻は、友人とのバス旅行で上高地を訪れたことがあるという。
 一人旅をして居た頃、新穂高へ登山を試みた事がある。その帰りに上高地をめざしたが、夏休み期間の交通規制があり、車の乗り入れが出来ず断念した記憶がある。
 長野の帰りに帰りに時間があればぜひ立ち寄りたいと思っている。

       河童橋と穂高連峰
         河童橋と穂高連峰

 上高地は、長野県西部の飛騨山脈南部の梓川(あずさがわ)上流の景勝地で、標高約1,500mある。
 松本市域に含まれ、中部山岳国立公園の一部ともなっており、国の特別名勝・特別天然記念物に指定されている。
 温泉があり、穂高連峰や槍ヶ岳の登山基地ともなっている。
「かみこうち」の名称は本来「神垣内」と表記されたが、後に現在の「上高地」の表記が一般的となった。
「神垣内」とは、穂高神社の祭神、穂高見命(ほたかみのみこと)が穂高岳に降臨し、この地(穂高神社奥宮と明神池)で祀られていることに由来する。
 上高地は、北アルプスの谷間にある大正池から、横尾までの前後約10㎞、幅最大約1㎞の堆積平野である。
 かつて岐阜県側に流れていた梓川が、焼岳(やけだけ)火山群の白谷山の噴火活動によってせき止められて池が生じ、そこに土砂が堆積して生まれたと考えられている。
  狭義にはこの平野のうち、観光名所として知られる河童橋の周辺だけを指す場合もある。
 この高度で、これほどの広さの平坦地は、日本では他に例が少ない。
 気候的に落葉広葉樹林帯と、亜高山帯針葉樹林の境界線付近の高度に位置しているため、ブナ・ミズナラ・シナノキ・ウラジロモミ・シラビソ・トウヒなど、両者の森林の要素が混在し、更にヤナギ類やカラマツを中心とする河川林や湿原が広がるなど、豊かな植生で知られている。

     田代池と六百山 
        田代池と六百山

 梓川や大正池には渡りをしないマガモが住んでおり、ほとんどの個体は人を恐れない。
 ニホンザルも通年住んでおり、冬季は下北半島のニホンザルよりも厳しい条件である当地で越冬する。
最終氷期(ウルム氷期)には、上高地の上部に位置する槍沢と涸沢には山岳氷河が発達し、もっとも拡大した時期には氷河の末端が上高地最深部の横尾にまで達していたと考えられている。
 現在は日本屈指の景勝地として、特に夏場は関東地区を中心に多くの観光客が押し寄せる場所ながら、元来は標高三千m級の穂高連峰、そして焼岳、霞沢岳などの名峰に囲まれた、日本有数の大自然に抱かれたまさに高地にある平野であるのため、長く人々に知られることがなかった。
 記録の上では、上高地周辺の山に最初に登ったのは、槍ヶ岳に登った越中富山の僧侶の播隆(ばんりゆう)とされている。

     明神池
       明神池

 当時は山岳信仰の登山であって、いわゆる近代登山とは性格を異にする。
 播隆は信者を引き連れ、何度も槍ヶ岳に登ったらしい。
 明治になって近代化を進めるため、明治政府は多くの外国人技師を雇った。
 その中で、英国冶金(やきん)技師ウィリアム・ガウランドは明治十年に槍ヶ岳に登り、その記録を雑誌で紹介した。 その中で「Japan alps」という表現を用いたのが、今日の「日本アルプス」の語源といわれている。
 その後英国人宣教師ウォルター・ウェストンも槍ヶ岳に登り、その著書『日本アルプスの登山と探検』で詳しく上高地周辺の山々を紹介している。
 ウェストンは、上高地から山に登る時は、地元安曇村(あづみむら)生まれの猟師上條嘉門次を、山案内人として一緒に同行させ、その本の中で「ミスター・カモンジ」と紹介したので、嘉門次は有名な山案内人として、今日まで語られている。
 日本人登山家としては、鵜殿正雄が初めて前穂高岳に嘉門次と一緒に登ったのが始まりとされている。
 戦後の首相になった東久邇(ひがしくに)宮殿下が、大正五年に槍ヶ岳に登ることになり、急遽、島々~徳本峠~明神~槍ヶ岳の登山道が整備され、少しずつ、大衆登山へと変化していった。
 
     上高地からの槍ヶ岳
       上高地からの槍ヶ岳

 明治以前は、上高地に出入りしていたのは、樹木の伐採のための木こりがほとんどで、明治になり、地元島々の上條百次良は、許可を得て夏の間だけ、松本周辺で集めた牛や馬を、徳本峠を超えて、上高地で放牧を始めた。
 いわゆる上高地牧場の始まりである。 場所は、小梨平、明神、徳沢の三箇所で、特に徳沢は徳沢牧場とも呼ばれ、残雪の山々を背景にした牛や馬の放牧は、古きよき時代の牧歌的な光景の一部として、訪れる登山者に親しまれた。
 
 大正四年六月に焼岳が大爆発を起こし、流れ出た土石流が梓川をせき止め、そこにできた池は大正池と命名され、上高地の風景のひとつに加わった。 
 高地ホテル(現在の上高地帝国ホテル)の建築にあたり、釜トンネルを通り大正池まで資材を運び、そこから建築現場まではまだ道路が開通していなかったために、大正池を小船で運んでホテルを建てたという。
 昭和二年は上高地にとって重要な年で、文豪芥川龍之介が三月に彼の代表作の一つである小説『河童』発表し、上高地と河童橋を登場させている。
 七月には鉄道省が後援し、東京と大阪の新聞社が主催した「日本八景」の渓谷の部で、上高地が第一に推された。
 この月に芥川龍之介は自殺し、八月になると、昭和天皇の実弟の秩父宮殿下が、上高地から奥穂高岳に登り槍ヶ岳への縦走が行われ、連日新聞の話題となった。
 さらに理学博士の中井猛之進は、国立公園選定の準備調査の中で、上高地の河原で日本で初めてケショウヤナギを発見した年でもあった。この年を境に、観光客は大幅に増加するようになったという。
 
 その後、上高地一帯が国立公園に指定されたのを機に、上高地の牧場は閉鎖され、河童橋までバスが運行されるようになり、誰もが気軽に行くことが出来る観光地として、またマイカーの普及も拍車をかけ、年々観光客の数が増えてきた。
 上高地の駐車場は常に一杯のため、道路は駐車禁止にも拘わらずどこでも駐車をしてしまうような事態に陥り、昭和五十年ついにマイカー規制が実施されるようになった。 その後、徐々に強化し、現在はマイカーの通行が全面禁止となった。
 安房トンネルの開通と共に、益々国道158号線の交通量と上高地への観光客が多くなってきたため、上高地への新たな交通手段として沢渡から上高地まで、トンネルによる登山鉄道計画が進められている。
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乗鞍高原

 上高地から穂高連峰が見える。
 いわゆるアルプス連峰で、北側から順に槍ヶ岳、奥穂高、新穂高と三千m級の高峰が並び、この南側に焼岳がある。 ちょうどその焼岳の裏側に位置して有名な乗鞍高原と乗鞍岳がある。一人旅と登山をしていた頃、乗鞍スカイラインを通って新穂高のロープウェイまで車で移動し、新穂高ロープウェイで新穂高中腹まで登り、一人登山をしたことがある。
 当時はまだ高速が無かったから、名古屋から一般国道を走行し、高山市を経由し乗鞍スカイラインに乗り、乗鞍岳へ行った。乗鞍岳へは、その頂上付近まで車まで行けた。
 売店などの設備のある駐車場から、乗鞍岳の山頂の魔王岳までは、歩いて二十分くらいであった。
 最近この乗鞍岳の駐車場に熊が現れ、売店に閉じ込められて捕らえられたというニュースがあった。その映像を見ていて、確かに此処へ行ったことがあると、懐かしく思い出した。

      前穂高の独標から眺めた上高地
        前穂高の独標から眺めた上高地

 その後、乗鞍スカイラインをまた利用して平湯で降り、いわば焼岳の裾を迂回する道で新穂高のロープウェイ口まで行った。ここへ行く途中上高地への入り口付近を通過している。ただ、前にも触れたが夏場のマイー規制のため上高地へは入れず、そのまま新穂高のロープウェイまで行った。
 ロープウェイを降り、半袖姿でリュックと腰に水筒をひとつぶら下げた軽装で標高2701mの「独標」まで登頂している。
 古い懐かしいアルバムにその時の写真があった。改めて写真を眺めると、当時はまだ四十代半ばであり、まだ腹が出ていず、以外にスマートである。
 それはともかく、標高は高いが、新穂高ロープウェイがあるから、ここまでは容易に登山できた。というより、観光客が多く閉口したともいえる。
 あまりに軽装の登山者が多く、帰りのロープウェイの時間もあり、露営する装備も持っていなかったから、新穂高の山頂までは行かず、その手前の「独標」から引き返した記憶がある。
 ただ、ここからの眺望もすばらしく、焼岳や乗鞍岳を眼下に見下ろし、遠く奥穂高や、白山その他多くの山塊を眺め、しばし大自然の景観に見とれたものである。
 また、行けなかったが、上高地を眼下に見下ろすこともできた。

      独標から眺めた新穂高
        独標から眺めた新穂高

 一人旅だったので、山並みの写真は豊富にあるが、自身の写真は、乗鞍岳で三脚を立て自動シャッターで撮影した二枚と、新穂高の「独標」の近くで登山者に頼んで撮影して貰った写真の三枚しかない。
 当時は悩みが多かった時代ながら、こうして大自然に触れることで、自己の置かれた状況を達観することで癒しとしたのであろう。 この当時は、会社も軌道に乗り始め、経済的にも精神的にも落ち着きが出て、旅行を楽しむ余裕が生まれていた。また、長年都会で生活をしてきたから、時間的な余裕が生まれると、無性に大自然に対する憧憬がうまれ、カメラをぶら下げ初めて登山をしたいという気持ちが強くなった。
 簡単な登山装備を調え、手始めに岩湧山や金剛山などの近畿の日帰り登山を日曜日に試み、やがて露営するための一人用テントやシュラフと飯ごう炊飯などの装備を調え、近畿の最高峰の弥山と釈迦岳縦走を試みた事もあった。 

       奥の山頂が独標
         奥の山頂が独標


 この時は五月の連休を利用したもので、露営二泊と宿坊一泊の予定で登山したが、二日目の途中で予想外の披露に見舞われ、次の目的地の釈迦岳を過ぎた所にあるキャンプ場まで行く事を断念し、日暮れ前に予定外にビバーグ(緊急避難)で山の背で露営した記憶がある。
 水筒の水も枯渇し途方に暮れたが、幸い残雪が山の北側斜面にあったから、これをガスバーナーで溶かし、水を得てラーメンなどを作って事なきを得た。
 山の背だから、両側はまさに千仞の谷という感じで、夜半には下からすごい風が吹き上げとても心細かった事を記憶している。携帯ラジオを聞くと、東京の放送が途切れ途切れに聞こえた。
 世間から隔絶されているという恐怖から眠れず、ウィスキーを飲みつつ夜半にまたラジオの短波放送を聞くと、なんとBBC放送が聞こえてきたのには驚いた。
 ようやく空が白み始めたら、なんと谷間から濃霧が立ちこめ、辺り一面視界が遮られ、改めてまた別の恐怖が湧き上がってきた。
 一方、腹具合が急におかしくなり、便意を催す催してきた。昨夜の残雪を利用した水を利用したが、その影響であろう。幸い誰もいない濃霧の中であり、近くで排便した。 しばらく動かずに霧が晴れるのを待っていると、突然人影が現れ驚いた。
 筆者を発見した二人の中年女性達は、おはようございますと、元気な声で挨拶をして通り過ぎていった。
 前日テントを張った弥山(みせん)の宿坊を早朝出発したものと思われる。
 たぶん弥山では濃霧がなく、この山の背周辺だけ谷底から上がってきた霧に覆われていたのかもしれない。
 やがて霧も薄くなってきたので、テントを畳んで出発した。
 やがて快晴のなかで釈迦岳の山頂にたどり着き、そこからの三百六十度のパノラマに息をするのも忘れるほどの感動を得た。やはり山登りというのは、その目差す山頂で得られる言語に尽くしがたい感動なくしてはあり得ないであろう。

       釈迦岳の山頂
         釈迦岳の山頂
 
 ただ、釈迦岳から宿坊の鬼前(きぜん)までは下りに過ぎないが、その下山で大変な苦痛を味わった。登山というのは、険しい山道を登る時より、むしろその下山の方が技術と体力が必要というのを実感したのである。
 過剰沿装備ともいえる重装備のリュックを背負って下山すると、その重量をすべて二本の膝で受け止める。このため、ついに膝に過剰な負荷がかかりつづけた。
 膝にすべての重心を受け止め、途中から一歩一歩、まさに足を引きずるようにして降りた。途中、何人もの登山者に追い越されつつ、必死の思いでやっと夕方になって宿坊へたどり着いたのを記憶している。
 鬼前の宿坊では、カレーが名物で他に何もないが、おかわり自由というシステムであった。疲れ切っていたが、大変空腹でもあり大盛りのカレーを食べると、疲れからか急に眠くなった。雑魚寝(ざこね)の宿坊であり、勝手に布団を敷いて、勝手に寝るという状況であったから、日没ととともに、一番に部屋の隅に布団を敷いて寝てしまった。
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野麦峠

 3時42分松本ICに到着した。
 当初の一日目の目的地、長野市の善光寺へ行っても五時を回る可能性があり、急遽予定を変更してホテルの予約がある松本で降りることにした。大阪から長野まで五時間くらいと予想していたが、渋滞で大幅に時間が落ちた。今日は松本城の見学だけで終わざるを得ない。松本ICで降りると、ETC料金は二千百円で、京都以降は千円の高速料金であった。
 松本ICを降りて、松本市街へは国道143号線が通じている。松本市街と逆方向へは、158号線であり野麦峠へ通じている。

       松本IC
          松本IC

 地図には野麦街道と表示されている。
 野麦峠は、飛騨(岐阜県)と信州(長野県)の国境にある標高1672mの峠である。 
 この街道は古代は鎌倉街道と呼ばれ、後には江戸街道と呼ばれ、飛騨と信州、江戸を結ぶ古くからの重要な街道であった。 近代の野麦峠の名は、「女工哀史の峠」として数多くの小説や映画となり、人々の記憶に忘れがたい感動的な情景を残している。

       野麦峠


 『女工哀史』は、大正十四年(1925)に、改造社より刊行された細井和喜蔵著のルポルタージュである。
 野麦峠は、明治~大正時代、信州へ糸ひき(製糸)稼ぎに行かされた、飛騨の若い娘達が吹雪の中を命がけで通った野麦街道の難所であった。
 かつて十三歳前後の娘達が、列をなしてこの峠を越え、岡谷、諏訪の製糸工場へと向かった。
 故郷へ帰る年の暮れには、雪の降り積もる険しい道中で、疲れ果てて郷里の親に会うことも出来ず死んでいった娘たちも数多いという。 この峠には「お助け茶屋」と呼ばれる茶屋があり、旅人は疲れた体を休め、クマザサの生い茂る峠を信州へ、飛騨へと下っていった。ノンフィクション「ああ野麦峠」でも知られ、女工哀史を語るうえで悲しい物語を秘めた所である。

       映画「ああ野麦峠」
         映画「ああ野麦峠」

 昭五十四年(1979)、映画「ああ野麦峠」の題名で、大竹しのぶ主演の映画が製作され、日本中を沸かせ、筆者もこの映画で涙を流した。
 明治から大正時代の、貧しかった日本を知る悲しい映画であった。
 明治時代の生糸の生産は、当時の輸出総額の三分の一を支えていた。
 現金収入の少い飛騨の農家では、十二歳そこそこの娘達が、野麦峠を越え信州の製糸工場へ「糸ひき」として働きに行かされていた。
 大晦日かに持ち帰る工賃のお金は、飛騨の人々には、大切な現金収入であった。年の暮れから正月にかけて、飛騨の人々の借金返済に当てにされた貴重なお金だったと言われている。

        冬の野麦峠超え<br>
          冬の野麦峠超え

 二月の半ばを過ぎると、信州へ働きに行く古川周辺の娘達は、古川の八ツ三旅館に一泊し、次の日高山で、各村々から集まってきた人達と一緒になった。
 宿屋の前には、山一・山二・片倉組・小松組などの、岡谷の製糸工場の社名を書いた看板や高張り提灯が立ち、娘を送ってきた親と子の別れがいつまでも続いた。

「ええか、しんぼうするんやぞ。ためらっていってこいよ。(気をつけて行きなさい)」
「ツォッツァマ(お父さん)も病気しなれんなよ。(病気にかからないように)」
 娘たちは泣き、見送る親たちも涙をこらえて別れを惜しんだという。
 こうして、何百、何千という女工達が列をつくり、お互いに励まし合いながら、雪深い野麦峠を越えて信州へ旅立っていった。
 信州の工場では、わずかの賃金で、しかも一日に十三~十四時間という長時間働かされ、病気になっても休養を与えられず、厳しい生活だったという。
 さらに女工の寄宿舎の出入り口には、逃げ帰りを防止する鉄の桟の戸があったという。
 当時の信州へ、出稼ぎに行かされた明治生まれの女工達の聞き書きがある。

      富岡製糸場
        富岡製糸場

「雪が降ってくりゃ、野麦峠には銭が降ると思って行け。と親にいわれたんやぜな」
「おりだち(私たち)は、こんで(これで)飛騨とも別れるんやな、ツォッツァマ(お父さん)、カカサマ(お母さん)、まめでおってくれよ(元気でいて下さい)。といって、飛騨と信州の境で、皆なでしがみついて泣いたんやぜな」
「十三のとき、岡谷の山共製糸という所へ七年契約で入ってな。姉四人と一緒で、姉は皆な百円工女やったもんで、オリ(私)も負けんように働いたもんやさ。みんなで稼いだ銭で、ツォッツァマ(お父さん)は毎年田んぼを買いなさったと思うんやさ。たしか、あの頃一反(十アール)で百円か 百五十円くらいやと思うけどな」
「岡谷の大和製糸へ、十四のときから八年の間、野麦峠を越えて通ったんやぜな。入ったときゃ十円、二年目は二十五円、三年目には四十五円、八年目には確か九十五円貰ったと思うけどな。その他に、賞与として一円、二円、三円、五円などを毎年ちょっとずつ貰ったんやさ」
 明治・大正時代には、実は女工哀史と同じような話は全国に数多い。

     富岡製糸場前景図
       富岡製糸場前景図

 筆者は『和紙と日本の伝統文化』を本にまとめているが、この中に「美濃紙漉(かみすき)哀歌」という項目を設けている。
 美濃和紙の紙漉は、根気と繊細な感性を持った女性の仕事で、女工哀史のように十三歳の頃より、飛騨の郡上(ぐじよう)から美濃の蕨(わらび)などの紙漉家に養女に出され、夜明け前の四時頃から夜の十時頃まで働かされる事が多かった。あまりに過酷な労働で、一時は養女奴隷などと称された時代があった。
 山深い飛騨の国は気候条件が厳しく、農産物が少なく多くの人は貧乏であった。
 そして貧乏子だくさんという状況が多く、口減らしを兼ねた出稼ぎが当たり前で、野麦峠を越えて信州の紡績工場や美濃の紙漉家に養女に出されたり、奉公に出されたのであろう。  
 飛騨の郡上八幡と高山へは、二年前の2007年四月に旅をしたから、その厳しい自然環境が理解できる。
 東北地方の農村でも出稼ぎは当たり前で、時に冷害で不作の時には、娘達が女衒(ぜげん)に売られて遊郭で働かされた。この話は、昭和の戦後の売春禁止法の成立まであった。
 また、『肥前長崎紀行』でもふれたが、天草地方でも、唐行きさんがいた。
 貧しかった時代には、娘達が過酷な環境に置かれたことを思うと、胸が痛む。
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信濃国

 さて松本市街をナビのルートに従い走行したが、松本城へ入城するまえに、信濃について触れておきたい。
 現在でも長野県のことを信州と称するが、信州とは、日本の令制国の一つであった信濃国の別称で、現在の長野県にほぼ相当し、現在は「信州そば」や「信州味噌」などの名産品で有名である。
 ここで例によって信濃の名の由来についてふれる。
信濃の名は、元は「シナヌ」であったとされ、後に「科野」の字が当てられた。
 『古事記』中巻には、「神八井耳命(かみはちいみみのみこと)者(は) 科野国造(しなののくにのみやつこ)等之祖也」と記され、大国主命の子、健御名方命が諏訪に入国する際にも、「科野国(しなののくに)之洲羽海(すはのうみ)」に至ると記されている。

      科野の里歴史公園
         科野の里歴史公園

 「科野」の語源についても諸説あるが、江戸時代の国学者である谷川士清は『日本書紀通證』に「科の木この国に出ず」と記し、賀茂真淵の『冠辞考』にも「ここ科野という国の名も、この木より出たるなり」と記している。
「科の木」に由来する説が古くから有力とされている。
 また賀茂真淵は「名義は山国にて級坂(しなさか)のある故の名なり」とも記しており、山国の地形から「段差」を意味する古語の「科」や「級」に由来するとしている。

          科の木
             科の木
 
 「科野」は和銅六年(713年)の『風土記』を境に、「信野」を経て「信濃」へと移り変わっていく。
 長野県で最も古い「信濃国」の文字表記は、平成六年(1994年)に千曲市屋代遺跡群から発見され、現在は「長野県立歴史館」に所蔵されている八世紀前半(715~740年)の木簡である。

 信濃国の成立は、七世紀の大化の改新の律令制制度が施行され、佐久、伊那、高井、埴科(はにしな)、小県(おがた)、水内、筑摩、更級(さらしな)、諏訪、安曇(あずみ)の十郡を以って成立している。
 現在の長野県のうち木曽地方を欠く大部分を領域にした。ただ当時の国名は、科野国である。
 養老五年(721年)に南部を諏訪国として分国したが、天平三年(731年)に合併して元に復しているが、この頃に信濃国と表記が変わっている。

             江戸時代の信濃国全図
                江戸時代の信濃国全図

 平安時代から鎌倉時代に、美濃国から木曽地方を編入し、筑摩郡の一部としたが、その正確な時期はわかっていない。 また戦国時代には、南信州を支配下に治めた武田信玄によって、三河国加茂郡から根羽村の地域を編入し伊那郡の一部としている。
 歴史的文献に現れる国府の所在地として、『和名類聚抄(わめいるいじゆうしよう)』、『拾芥抄(じゆうあくたしよう)』、『易林本』の節用集のいずれにも全て筑摩郡と記述されている。
 現在の松本市にあたる。

             現在の長野県
                 現在の長野県

 ただし諸説として、国分寺及び総社のひとつである科野大宮社が上田市にあること、東山道のルートや宿駅の配置(小県郡亘理(曰理)駅)などから推測して、『和名抄』編纂以前には小県郡に国府があったとする学説もある。 また一時的に信濃国から分立した諏訪国の国府も未詳である。
 平安中期の944年、天災により国衙(こくが)が倒壊し、国司が圧死した記録が残っている。
 鎌倉初期には、善光寺近傍に「御庁」(長野市後町)が建てられ、国司の目代が置かれた。
 1335年には、建武の新政に反旗を翻した諏訪頼重が、国衙を襲撃し戦火で消失し、以後再建されることがないまま、守護を務める武家にその権能が委譲され、次第に形骸化していった。守護所の位置は、守護の交代によって移り変わるが、水内郡善光寺後庁、小県郡塩田、埴科郡船山、水内郡平芝、筑摩郡井川などに置かれたという。
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中世・近世の信濃

 鎌倉時代初期には、関東御分国の一つとして鎌倉幕府の知行国であった。
 その後の信濃の知行権は、公卿や興福寺・東大寺などの手に移るが、在庁官人や国人(こくじん)の関東御家人化が進み、在京の遙任国司(ようにんこくし)や知行国主の影響力は薄れ、「国司その用あてざる国」と揶揄(やゆ)された。
 戦国時代まで存在した守護には、比企(ひき)氏や執権北条氏、小笠原氏、斯波(しば)氏、武田氏らがいた。つまり美濃国の守護大名は、初代は比企能員(よしかず)で、末代は武田勝頼となっている。

             北条時宗
                  北条時宗

 鎌倉時代末期、後醍醐天皇が鎌倉幕府追討の宣旨を下し、鎌倉幕府の足利尊氏、新田義貞らの有力御家人が寝返って、北条高時を討ち幕府を滅ぼした。
 ところが、北条氏の御内人であった諏訪頼重らが、高時の遺児北条時行を奉じて鎌倉を奪還するなど、信濃においては朝廷方と北条方による抗争が繰り広げられた。
 後醍醐天皇の建武の新政により、公家中心の政治に武士の不満が高まった。
 足利尊氏の新帝擁立で、朝廷が二つに分かれて南北朝時代に入ると、南朝方の諏訪氏や仁科氏・香坂氏らと北朝方の小笠原氏や村上氏との間で抗争が繰り広げられた。
 南北朝の二極対立とは別に、守護対在地豪族の争いから、複雑な対立関係が続き、足利幕府と鎌倉公方、鎌倉公方と関東管領との対立が、その動きに拍車をかける形となり、信濃においては強力な支配権を持つ守護大名は登場することはなかった。
 こうした事情で、室町末期まで在地豪族の諸勢力が拮抗を続けた。
 
             武田信玄
                武田信玄

 ところが戦国時代に入ると、甲斐武田氏が信濃へ侵攻した。
 武田信虎の代に、諏訪氏や村上氏と結んで海野氏を滅ぼしたのを皮切りに、武田信玄の代には諏訪氏を滅ぼし、小笠原氏や村上氏を追い、木曾氏を傘下に下すなど、信濃の大半を手中に収めた。
 それに対して、高梨氏や井上氏など北部の豪族達と繋がる越後の上杉謙信(長尾景虎)が武田氏と対峙、川中島の戦いが起こるなど攻防が繰り広げられた。

          武田信玄と上杉謙信像 (川中島の戦)
              武田信玄と上杉謙信像 (川中島の戦)

 信玄の死後、その後を継いだ武田勝頼が引き続き支配したが、織田信長との抗争に敗れ滅亡した。
 その後は、織田家の版図に加えられ、毛利長秀や森長可らに与えられた。しかし本能寺の変後、織田家の勢力は瓦解し、徳川氏・北条氏・上杉氏の勢力が進出した。
 北条氏は徳川氏と和解・同盟し、領地交換により撤退して徳川と上杉の対立は徳川家康と豊臣秀吉の対立に転じ、家康が秀吉と和睦し後に臣従して関東に移封されると、信濃は豊臣氏方の武将の支配下に収まった。

 関ヶ原の戦いの直前、徳川秀忠の軍勢は、かつて徳川氏に仕えながら豊臣氏の配下に転じ、関ヶ原において西軍方についた真田昌幸、信繁父子の居城上田城を攻めたが敗れた。

          上田城 
              上田城

 信濃は関ヶ原の戦いにおける第二の舞台となつたが、関ヶ原が家康側の東軍の勝利となったため、真田昌幸は関ヶ原以後、高野山に流され、その後、東軍に荷担していた真田信幸が松代城に入った。
 西軍に荷担した真田信繁(幸村)は、豊臣方について後年の大坂の役で武名を挙げたことで有名である。

          真田信繁(幸村)
             真田信繁(幸村)

 江戸時代は、途中廃絶も含めて松代藩等大小計十九の藩が置かれた。
 廃藩置県時点では、松本藩、上田藩、飯山藩、小諸藩、岩村田藩、龍岡藩、高島藩、高遠藩、飯田藩、須坂藩、松代藩となっている。

 また木曽地方は、全域が尾張国名古屋藩領であり、伊那郡内には美濃国高須藩及び陸奥国白河藩、高井郡内には越後国椎谷藩、佐久郡内には三河国奥殿藩の飛び地があった。
 その他善光寺、戸隠神社、諏訪大社等の寺社領、天領支配のための中野・中之条・御影・飯島の四つの代官所、交代寄合旗本(伊豆木陣屋の小笠原氏等)の知行所などが置かれた。
 この時代には、多くの出稼ぎ労働者を江戸に送り出し、彼らは「信濃者(しなのじや)」、「おシナ」あるいは、暗喩で「椋鳥(むくどり)」と呼ばれた。ついでながら椋鳥(むくどり)は、都市部などでも群れを成して生活するため、その鳴き声を騒音と感じる人もいる。転じて椋鳥は街に出てきた田舎者を指す言葉にもなっている。
 また、どういう事情からか、「大飯喰らい」「でくのぼう」の象徴として江戸狂言に多く詠まれている。
 これは、都会に出てきた信濃人が、一般的には社交性に欠け、一方で勤勉であり、また一家言主が多かったから、変わり者とする批評があったのである。
 幕末になると、外様の松代藩・須坂藩はいち早く倒幕を表明し、その他の譜代諸藩は、当初は日和見(ひよりみ)の態度をとる藩が多かったが、次第に官軍に恭順した。

     官軍衝鋒隊が飯山城下を占領
         官軍衝鋒隊が飯山城下を占領

 衝鋒隊が飯山城下を占領すると、信濃各藩は、東山道先鋒総督府の岩村精一郎の軍監に入り、連合してこれを撃退し、そのまま北越戦争、会津戦争に転戦した。
 賞典禄は松代藩三万石、須坂藩五千石、松本藩三千石、上田藩三千石、金禄は奥殿藩五千両、高遠藩二千両等であった。
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信州人

 信州に縁のある偉大な画家の東山魁夷の絵を鑑賞しつつ、信州人の気質(かたぎ)についてふれたい。
 信州人の気質について『近世信濃文化史(土屋弼太郎著)』 には次のように要約している。
 一つは、理知に長じ感激性に富むが、同時に批評に対して厳しく雅量を欠く。
 二つには、質実剛健で、進取の気性に富むが、しかし社交性を欠く。
 三つには、自主独立の精神強し。しかし協調性を欠く。
とある。

       東山魁夷の信州の風景画
          東山魁夷の信州の風景画

 県境に連なる山脈、山々で分断されたわずかな平地の盆地と、谷あいに生きてきた人々にとって、まことに厳しい自然である。 このような厳しい風土で生き抜くには、妥協を許さぬ強い精神力と、自然と共生するする知恵が必要であろう。 こういう厳しい自然環境で生きるには、理知に長じなければ生きてゆけず、従って自主独立の精神が涵養されたことは当然であろう。
 自主独立の精神は、進取の気性に富むことに連なる。
 この故か、戦国時代には、信州は群雄割拠し、それに天領が入り混じっていた。
 それに加え、周辺国には、美濃の斎藤、尾張の織田、三河の徳川、遠江の今川、甲斐の武田、越後の上杉という列強に囲まれ、これらの強国の盛衰に常に翻弄されてきたのである。
 その信濃への戦国大名の侵略の歴史については、既にふれた。
 その結果、今日の勝者は、明日の敗者という悲哀を幾度も体験し、迂闊に為政者の命と言えども従えない事情があったのである。

       東山魁夷の信州の風景画
          東山魁夷の信州の風景画

 従って、たとえ敗れたとしても、一族の安全を確保する手立てを考えねばならなかったのである。
 だから、常に為政者に対し、一定の距離を置く必要があった。
 そのためには、強者に対しては決して争わず、欺かず、一定の距離を置いて生きてきた。
 こうした歴史的な経緯、で信州人は、体制に無定見に従うことを嫌う気風がある。

         東山魁夷の信州の風景画
           東山魁夷の信州の風景画

 信州が常に革新県と言われるのはこの辺りであり、時の政権に一定の距離をおくのが特性である。
 だから、無闇に反対はせず、「一言申し述べる」権利を保留するのが信州人的良識でもある。
 このため、一家言主が多く、容易に周囲と妥協せず、従って社交性的ではない。自然と対峙して生き抜くには、社交性などは無用な存在でであろう。
 このため、論客は数知れず、極めて真面目であり、清濁合わせ呑むなどということはおよそ不得手な敬愛すべき人々が多い。

          東山魁夷の信州の風景画
             東山魁夷の信州の風景画

 信州人気質、それはこの蒼き山々と周囲の勢力の興亡が育んだ気風ともいえる。信州地方の方言では、夕方の挨拶で
 「お疲れ(い)でやす」
 というのがあるという。夕闇の迫った村道で、丁寧に頭を下げ合って挨拶を交わす姿は、その日の労働の厳しさを忘れさせる人々のぬくもりがある。

 ところで、信州人は理屈っぽいという事を象徴する、滑稽エピソードがある。
 美味しそうなキノコを見つけた人が、地元の人に食べられますか?と聞いたら
「うーん。どんな物でも一度だけは、喰えるな」

 旅行者が車を停めて、この道、何処へ行きますか?と聞くと
 「この道は、日本中につながってます」

 旅行者が、長野駅近くで道を聞き、善光寺まで歩いて何分ですかと聞くと
 「わかんねえな」
 仕方なく歩き出した旅行者の、その背中に向かって言う
 「その歩き方なら三十分くらいだな」
 誠に論理的であるが、なんとも非社交的な態度である。
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松本市街

 松本市は、地図で見ると長野県のほぼ中央に位置していることが分かる。
 松本市のHPには
「日本列島のほぼ中央に位置する松本市は、恵まれた自然に囲まれた山の都であり、西に日本の屋根北アルプス、東に美ヶ原高原を望むことができます。
 国宝松本城を中心に発展してきた城下町には、歴史を感じさせる建物や街並みが残っており、また市全体が上高地や乗鞍高原、美ヶ原高原などの恵まれた自然環境に包まれており、松本には、そういった歴史や自然によって育まれてきた独特の文化が息づいております。
 さらに周辺一帯には、湯量豊かな大小の温泉郷も数多くあり、訪れてみたい町として、毎年ランキングの上位に挙げられています」とある。

     長野県地図

 
 松本市は、本州及び長野県のほぼ中央に位置している。 平安時代には、信濃国府がこの地に置かれ、中世には信濃守護の館の所在地として、また、江戸時代には、松本藩の城下町として栄えた。
 明治四十年五月に市制を施行し、その後、近隣の村との合併を経て、現在の市域が形成され、平成十九年には市制施行百周年を迎えている。
 明治から、製糸業を中心とした近代産業が勃興し、大正三年には日本銀行松本支店が開業されるなど、長野県下における経済金融の中心地となった。
 近代工業化は、第二次世界大戦中の工場疎開に端を発し、さらに昭和三十九年の内陸唯一の「新産業都市」の指定を受け、これがが契機となって電気・機械・食料品等の業種を中心に発展し、最近ではソフトウェア産業の振興が図られている。
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市役所駐車場

 車のナビのルートに従い、松本城付近に到着したが、駐車場が見つからず、松本城の周囲を一巡することとなった。 松本城周辺に観光客用の駐車場が有ったが、いずれも満車状態であった。諦めて遠くの場所を探すことにしたら、偶然松本城の地図右手横側に松本市役所があった。
 中に入ると駐車場の空きを発見した。さっそくそこへ駐車したが、妻は不機嫌な顔をし
「此処に止めて良いの?」
「市役所は、公共の場所だから構やしないさ。他に止める所が無いしね」
と、車を降りた。それでも、生真面目な裕江は、躊躇して車をすぐには降りなかった。妻は市役所の駐車場は、市役所に来る人だけが駐車出来るという固定概念が強い。

     松本城マップ

 だから、松本城へ行くのに、勝手に市役所駐車場へ駐車するのは道徳に反するという気持ちであったろう。 それに、時間が来たら鎖などで施錠されるのではないかとの不安も有ったらしい。
 松本市役所の出入り口には、閉庁時間に鎖などで車の出入りを規制するような、無粋な仕掛けが無い事を確認し、歩き出した。 妻もやむを得ず付いてきたが、不法行為に付き合いさせられているような気分になったようで、急に機嫌が悪くなって、しばらく口を聞かなかった。
 幸い、市役所の前には外壕があり、すぐ近くに松本城の太鼓門があり、そこから入城した。写真を見ると4時20であったが、妻は機嫌が悪く、硬い表情で写真に収まっている。

       松本城の太鼓門と外壕<br>
          松本城の太鼓門と外壕

 この駐車問題には、後日談がある。
 毎年夫婦で旅を続けている友人のY氏が、同窓会で京都へ来た時、全日空ホテルでの食事に招待をしてくれた。 この時の雑談で、妻は松本市役所駐車問題を取り上げ、Y氏夫人に
「どう思います?」
と話題に出してしまったのである。すかさず、Y氏夫人は
「主人も、きっと止めると思います」
 むろん柳生氏も頷いていた。
 妻は、生真面目な性格から、まだ納得が行かないという顔つきであった。
 しかし、Y氏夫妻は筆者の行動に賛同してくれたのである。

 また信濃人の気質を調べていると、
長野人は、交通マナーが悪く何処でも平気で車を停める。また長野県警は、それ故か殆ど駐車違反を摘発しない、とあった。
 それは兎も角、そも何処の市役所にも、観光課や観光案内の窓口を有し、市内の見所などの案内もしてくれる。市外から一人でも多くの観光客が訪れるよう、様々な努力をしているのである。市外から観光客が訪れるのは、町全体の活性化につながるからである。
 現に高知市では、公共の建物の駐車場は、土日や祭日には、すべて無料駐車場として解放していた。観光客のために無料駐車場を提供するのは、観光客誘致の一つの方法でもある。だから、松本市役所の駐車場に堺ナンバーの車が駐車していたら、市役所の人は寧ろ喜ぶべきではないかと、不遜にも思うのである。
 旅の話にもどる。
 外濠から太鼓門を潜ると、右手は史跡公園となっていた。左手に進むと、城内に松本市立博物館があり、その前を過ぎると、内濠に橋が架かっており、黒門があった。
 内濠を渡って黒門を潜ると、天守閣の見える丸の内であった。
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松本城

 松本城は、天守群などの建物が現存し、城跡は国の史跡に指定されている。松本城と呼ばれる以前は深志城(ふかしじよう)といった。松本市民からは、親しみをこめて黒塗の下見板の姿から別名烏城(からすじよう)とも呼ばれている。
 日本国内に十二基現存している、安土桃山時代後期から江戸時代にかけて建造された天守を有する城郭の一つである。なお天守群は国宝に指定されている。

      松本城天守群は国宝
         松本城天守群は国宝

 城地は低湿地で地盤が弱いため、天守台の石垣は緩やかな野面積(のづらづみ)で、内部は十六本の土台支持柱と、貫(ぬき)を櫓に組んで土台を支え、土で埋めている。また堀側の根石は筏地形(いかだぢぎよう)を施し、地盤沈下を防ぐ工夫がなされている。
 天守閣は、各階母屋(おもや)柱(入側柱)と、庇(ひさし)柱(側柱)を立て、一・二階と三・四階は母屋柱・庇柱を通し柱とし、五・六階は隅の柱を通し柱としている。
 一階から四階は母屋内に柱があるが、五・六階にはなく、全て間仕切のない一室で、外壁の内側は真壁となり、柱や構造材は全て露出している。

     唐破風の出窓<br>
       唐破風の出窓

 屋根は本瓦葺で、五重は入母屋(いりもや)造、四重は南と北に唐破風(からはふ)を、三重は東と西に大きな千鳥破風と、南北面に向け唐破風の出窓を付けている。
 二重は南に大きな千鳥破風を設けている。初重には袴形の石落しを付けている。各重の下見板部分には、矢狭間(はざま)、鉄砲狭間が、一間に一つずつ設けている。
 窓は初重は南、西面に塗籠(ぬりごめ)縦格子の窓、二重以上は各重のほぼ中央に突上げ、または引戸の窓を配している。特に二重南面の五連の竪格子窓は、無骨さの中にも美を演出している。
 天守閣の構造は、五重六階の天守を中心に、大天守北面に乾(いぬい)小天守を渡櫓(わたしやぐら)で連結し、東面に辰巳附櫓(たつみつけやぐら)・月見櫓を複合した複合連結式天守である。
 大天守は、構造的には望楼型天守から層塔型天守への過渡期的な性格が見られ、二重の屋根は、天守台の歪みを入母屋(大屋根)で調整する望楼型の内部構造を持ちながら、外見は入母屋を設けず強引に寄棟を形成している。

     天守台天井の内部構造
       天守台天井の内部構造
        

 ただ、外見的には層塔型の形状を成立させているため、各重の屋根の隅は様々な方向を向いており、松本城天守の特徴のひとつとなっている。
 三階の、低い天井に窓のない特殊な空間が生まれたのはこのためで、パンフレットなどでは「秘密の階」と説明されているが、構造上は二重の上に生じた大屋根構造の名残りともいえる屋根裏的な空間を階として用いたことによるものである。

      天守台の内部構造
          天守閣の居住部分

 内部は最上階(六階)の他に、四階を白壁造りにするなど、ある程度の居住性が考慮されている。
 外壁は、初重から最上重まで黒塗の下見板が張られており、この黒の原料は1950年の修理工事着工までは墨によるものであったが、解体修理の際に漆塗りの痕跡が見つかったことから、修理工事が竣工した1955年以降は、黒漆塗りとなっている。
 乾小天守も構造的特徴は、大天守と同様で、最上階に華頭窓が開けられている。

         傾いた松本城天守閣
           傾いた松本城天守閣

 この天守閣が、明治三十年代頃より傾いた。
 これを憂た松本中学校長小林有也らにより、天主保存会が設立され、明治三十六年(1903)から大正二年(1913)まで「明治の大修理」がおこなわれた。
 天守の傾きの原因は、元々軟弱な地盤の上に天守の基礎として天守台の中に埋めこまれた十六本の支持柱の老朽化で、建物の自重で沈み込んだと見られている。
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深志城

 松本の地は、古くは深志(ふかし)とよばれていた。
 平安時代初期に、上田から国府が移され、以後府中ともよばれていた。
 深志城の造営は、鎌倉幕府滅亡後、小笠原貞宗が室町幕府から信濃守護として任ぜられ、信濃府中に着任し、井川に林城を構え、支城として深志城を築いたのが始まりという。
 その後、永正元年(1504)に小笠原氏の一族島立右近貞永が、平城として深志城を本格造営した。
 天文十九年(1550)、甲斐の武田晴信(信玄)が信濃へ侵攻し、小笠原長時を破って府中に進出した。 小笠原長時の本城である林大城をはじめ周辺の山城を落し、深志城を残して他の城はすべて破壊し、深志城を拠点とした。
 深志城は、平地に位置し交通の要衝地でもあり、東信・北信、さらには上杉への策源地として格好の位置にあったからで、以後三十年余にわたって武田氏の信濃支配の拠点となっている。

      武田晴信(信玄)の銅造  <br>
           武田晴信(信玄)の銅造  

 武田氏滅亡後の天正十年(1582)、徳川家康の配下となった小笠原貞慶が旧領を回復し、松本城に改名し、その施設を充実させ、城下町の整備を行った。のち新町三町とよばれた、本町・中町・東町の町筋ができたのもこの頃だという。 天正十八年(1590)の豊臣秀吉による小田原征伐の結果、徳川家の関東移封が行われ、当時の松本城主小笠原秀政も下総(しもうさ)古河へと移封された。
 代わりに石川数正が入城し、石川数正とその子の康長が、天守を始め、城郭の整備に着手し、その子の康長が天守三棟(天守・乾(いぬい)小天守・渡櫓(わたりやぐら)を築造し、本丸御殿・二の丸御殿も造られて城郭は充実した。
 また町人町も家並みが整えら、その後も歴代城主は城下町の整備を行い、水野氏の治世に完成した。
 松本城は、東西、南北約六百m、南がやや狭くなった台形状をなし、外周を総堀がめぐり、二の丸には外堀が、本丸の東・南・西には内堀があり、城郭を固めていた。
 それぞれの郭(くるわ)には、三の丸に大手桝形(ますがた)門、二の丸には太鼓門桝形、本丸には黒門桝形がそれぞれ正門としておかれた。

     江戸時代の松本城の鳥瞰図
        江戸時代の松本城の鳥瞰図

 その後、大久保長安事件により石川康長が改易となり、小笠原秀政が松本城に返り咲いた。
 その後、関ヶ原の合戦で徳川家康が天下を掌握し、大坂の陣以後は、松平康長や水野家などが、松本藩主として入城している。
 水野家の後は、松平康長を祖とする戸田松平家(戸田氏の嫡流)が代々居城とした。
 享保十二年(1727)に本丸御殿が焼失したが、再建される事は無かった。以後の藩政は二の丸で執務がとられた。二の丸御殿は、明治になって当時の筑摩県庁として使用されていたが焼失し、跡地に松本地方裁判所(のち長野地方裁判所松本支部)庁舎が置かれた。

      松本城上空写真
         松本城上空写真

 ところで天守群の築造は、二期に分かれ、建築・構造に違いがある。
 中央の天守閣と北端の乾小天守閣、それを渡櫓で連結した三棟が文禄二~三年(1593~94)にかけて石川数正、康長父子により築造された。
 一方天守の南東に付設されている、辰巳附櫓(たつみつけやぐら)と月見櫓は、松平直政により寛永十~十五年(1633~1638)に築造されたものという。
 この松本城は昭和五年(1930)に、 旧史蹟名勝天然記念物保存法により史跡に指定されている。
 その後、昭和十一年(1936)四月に、天守・乾小天守・渡櫓・辰巳附櫓(つけやぐら)・月見櫓の五棟が、国宝保存法により当時の国宝に指定され、昭和二十五年(1950)から五年かけて解体復元工事された。(「昭和の大修理」)
 その間の昭和二十七年(1952)に、これら五棟が文化財保護法により、改めて国宝に指定されている。

       松本城
          松本城

 わが国の重要文化財に指定を受けている城郭建築の中で、国宝に指定されているのは、松本城、犬山城、彦根城、姫路城の四城だけである。
 また現存する最古の天守閣は、福井県の丸岡城ながら、五重の天守閣としては松本城が最古である。国宝の四つの城は、共に裕江と訪れたことになる。  
 昭和五十三年(1978)に裁判所が移転し、昭和五十五年年~五十九年年(1980~1984)に、二の丸御殿跡の発掘を中心とする総合調査が行われ、史跡公園として平面標示による復元がなされている。  平成十二年(2000年)には、松本城周辺市街化区域が、都市景観百選に選ばれている。また、埋立てにより住宅地とされている外堀の復元が検討されている。
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見学渋滞

 さて天守閣のある広場で写真撮影をして、いざ天守閣を見学するべく入城しようとしたら、何と入場制限があって行列に並ぶことになった。
 木造建築の城内に入るには当然靴を脱ぎ、ビニール袋に入れ各自携帯する仕組みであった。これはどこでも同じである。ところが、ようやく城内に入ったと思ったら、すぐに行列が止まった。まだ幾らも歩いていない。 また少し行列が進むと、また行列が止まる。 ロープが張られ、見学順路が定められており、二列になってその順路を進むのである。
 立ち止まると、後ろの人が迷惑するから、興味のある展示で立ち止まる訳にもいかない。
 狭い階段は、一列で上ったり降りたりする。

     松本城内部

 火縄銃の企画展示もあったが、デジカメで写真を撮影するのがやっとという状態であった。
 結局、最後までこの繰り返し状態で、自由に見学することが出来ずに驚いた。
 これでは、まるで博覧会の有名パビリオンを見学しているのと同じではないかと思った。
 四階か五階の天守閣では順路のロープが無くなり、少し写真を撮る余裕ができた。
松本城の天守閣は、今まで見学した天守閣のような望楼式の天守ではなく、天守閣の外を一巡して市街を一望する事は出来なかった。
 安土桃山時代後期から江戸時代にかけて、建造された天守のため、構造的には望楼型天守から層塔型天守への移行時期に当たるという。   

      火縄銃の展示品

 松本城は層塔型天守であったため、格子から外を眺めることしか出来なかったのが残念であった。
 それにしても、何故こうも多くの人が松本城見学に押し寄せたのか、未だに理解できていない。
 確かに夏休みの連休には違いない。が、それにしても五時前の時間なのである。
 それに団体旅行の見学に出会ったわけでも無かったようである。

       松本城内部


 結局天守閣の見学を終えて、順路に従って外へ出たのは六時前の時間であった。六時前のため、併設されていた市立博物館に立ち寄る事もできず、ホテルへ向かうことにした。
 無事に松本市役所の駐車場から、何の咎めも受けずに出ることが出来た。
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小笠原氏と松本
 
 小笠原氏は、甲斐源氏の加賀見遠光の次子の長清が、甲斐国中巨摩郡小笠原村に拠り、小笠原を称したのに始まる。歴とした清和源氏の家系の流れを汲む名家である。
 後世、信濃国を本拠とし、全国に一族を分出した小笠原氏は、甲斐国から史上に現れたのである。
 小笠原長清は文治元年(1185)、源頼朝の推挙で信濃守に補任されている。
 頼朝による信濃国支配は、源氏一門の有力御家人を送り込むことで推進され、小笠原氏も源氏一門として甲斐から信濃へ勢力を浸透させていったようだ。
 ところが、正治元年(1199)源頼朝が没すると、二代将軍に就いた頼家の義父にあたる比企(ひき)能員(よしかず)と、源頼朝の妻政子とその実家の北条氏との対立が表面化した。
 当時、比企氏は信濃国守護であり、加賀見長清の嫡男の小笠原長経は、頼家の側近であったことから、小笠原氏は比企氏の軍事指揮下に属した。
 ところが、北条氏と比企氏の対立は、比企氏の敗北に終わり、加賀見長経ら信濃御家人は捕らえられ、所領没収のうえ配流に処された。
 その後、赦され「承久の乱」には甲斐源氏の武田氏とならんで、鎌倉幕府軍の中山道の大将となり、京に攻め上り、戦後の論功行賞で阿波国守護職を与えられ小笠原長経が相続している。
 比企氏の乱の後、信濃国守護職は北条氏に受け継がれ、元弘三年(1333)まで北条氏が継承した。
 この間小笠原氏は、北条氏との関係を強め信濃に勢力を拡大していった。
 やがて後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒し、後醍醐天皇が専制君主として君臨し治めた政権の「建武の新政」が行われ、北条氏が滅びると、小笠原氏が信濃国の守護となった。
小笠原氏は、はじめ井川の館(市特別史跡井川城跡)を本拠地として信濃国を治めた。
 ただ、信濃国守護でありながら、小笠原氏の支配地は主に松本から南信地方に限られていた。
 それ以外の地域は、在地の有力武士(国人)の勢力が強かつたのである。また、相続を巡る争いから、小笠原氏は内部で分裂し、府中(松本のこと。国府が以前置かれていた)と、伊那をそれぞれ本拠地として争った。
 後醍醐天皇が専制君主として君臨した「建武の新政」は、恩賞など平等を欠くことが多く、また時代錯誤ともいえる政治姿勢に、武士らの不満が高まり、かれらは足利尊氏を頭領と仰ぐようになった。
 こうした背景で、足利尊氏によって僅かに三年で「建武の新政」は終り、南北朝の時代に入った。
南北朝の争乱が激しくなる中で、府中の小笠原氏の本拠地も、十五世紀の後半には、平地の井川の館から山城である林城に移されている。

     小笠原氏系図
           小笠原氏系図
 
 紆余曲折を経て、足利氏の北朝方が優位を得、尊氏は足利幕府を開いた。この間、小笠原氏は足利氏に属して活躍し地歩を固めていった。
 ところが、室町幕府の管理下にあった信濃国が、鎌倉公方の足利持氏の支配下に置かれるようになり、関東管領上杉朝房が信濃守護に任命された。
 小笠原氏にとって、不本意な体制の変換であった。しかし、軍事指揮権は、ある程度小笠原氏が掌握していたようだ。 その後、信濃国はまた幕府管理下に戻ったが、守護職は斯波(しば)氏が応永五年(1398)まで踏襲した。
 応永六年(1399)、小笠原長基(九代)の子の長秀(十代)が、信濃守護に任命され、小笠原氏のもとに再び守護職が戻ってきた。 が、守護小笠原氏に対する国人領主たちの反感が高まり、やがて大塔合戦が行われたが、小笠原氏勢力は相次いで破れ、京へ逃げ帰り、信濃守護職は罷免されてしまった。
 大塔合戦のとき、小笠原長秀の父や弟も信濃にいたが、双方の間で齟齬があったのか合戦には参加していない。 信濃国守護職を失った小笠原氏に転機が訪れるのは、応永二十三年に起きた「上杉禅秀の乱」にあった。このとき、小笠原氏の惣領職は長基(九代)の三男政康で、禅秀の乱には一族・国人衆を率いて信濃の防備に努めた。
 この乱を契機として、次第に軍事指揮権を掌握した小笠原氏は、幕府にとって無視できぬ存在となり、同年十二月、小笠原政康は信濃守護職に補任され、以後、嘉吉二年(1442)に卒するまでその職にあった。
 この時代、小笠原家は三家に分かれて鼎立していた。
 すなわち当時守護職で鈴岡城主の小笠原政秀、政康の孫で家長の伊那小笠原家、そして本来惣領家にあたる持長(十二代)の孫で林城に拠る府中小笠原家というように、小笠原一族は、本家・支流が三つ巴となって抗争を続けていたのである。
 こうした背景で、戦国時代には、市域東部・北部などに埴原(はいばら)城、山家(やまべ)城(いずれも県史跡)などの山城が築かれている。
 戦国時代に入り、小笠原長時(十七代)の時代に、甲斐の武田氏が信濃国に攻め入った。
 天文十七年(1548)、小笠原長時は武田晴信(信玄)と、塩尻峠で戦ったが敗れた。
 天文十九年(1550)、武田氏が松本に攻め込んでくると、小笠原勢は戦わずして敗走し、本拠地の林城は落城している。
 武田信玄は府中(松本)に入ると、それまで島立氏が守っていた深志城(現在の松本城)を本拠地とした。
 その後、武田氏は、織田信長との戦いに敗れて滅び、そのあと織田信長の武将が信濃に入ったが、間もなく織田信長も本能寺の変で倒れた。
 小笠原長時の子の貞慶(さだよし)(十八代)は、このとき信濃国に攻め入り、かつての領地を取り返し、深志城を本拠地とした。小笠原貞慶は、このとき深志城の名を松本城とし、これ以降、松本の地名が用いられるようになっている。
やがて豊臣秀吉が天下を統一すると、小笠原氏は関東へ移封され、代わって石川和正が松本に入った。
 石川和正は松本城天守(国宝)の建築を計画し、その子石川康長が松本城天守を文禄二~三年(1593~1594)にかけて築造し、乾(いぬい)小天守・渡櫓(わたりやぐら)、本丸、二の丸御殿を造営している。
小笠原氏は、筑摩神社を厚く信仰し、筑摩神社本殿(国重要文化財)を造営したほか、筑摩神社銅鐘も小笠原氏によるものとされている。
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小笠原流礼法

 すでに述べたが、小笠原家は、甲斐の小笠原村に拠点を置いた初代小笠原長清に始まる清和源氏の家系である。 前の稿では、小笠原氏一族の興亡を主体に述べたが、ここでは異なる視点で、小笠原氏について触れる。
 小笠原氏初代の長清(ながきよ)は、応保二年(1162)甲州に生まれ、父は加賀見美二郎遠光である。
 小笠原姓は、本拠を置いた小笠原郡に因んでいるが、高倉天皇より賜ったと伝承され、今日、小笠原姓を名乗る家は全てこの長清に発しているという。
 余談ながら、最近まで甲府郊外に小笠原家の出自の小笠原村があったが、現在は南アルプス市となっている。
 小笠原長清は、武道に長じ、二十六歳の時、源頼朝の『糾方』(弓馬術礼法)師範となり、その後小笠原弓馬術礼法は、長男の長経に伝えられた。のち小笠原長経は、源実朝の師範ともなっている。小笠原流として有名な弓馬術礼法は、長男の長忠が伝承し、小笠原一族の惣領家となっている。

     小笠原弓馬術礼法
         小笠原弓馬術礼法

 小笠原流の弓馬術は、鎌倉時代には武家にとって最も現実的に必要とされた弓馬術を主にしていた。
 この弓馬術は単なる技術論から、「弓馬術礼法」として集大成された。
 武道として単に的を射るだけでなく、典雅な所作と礼法に基づく儀礼的な所作を重視し、武家の神社への流鏑馬(やぶさめ)神事の奉納などに用いられるようになっている。
 室町時代になり世の中が安定してくると、宮中や城中での起居進退などが重視されるようになり、第七代小笠原貞宗によって武家の礼儀作法としての小笠原流礼法が確立されていった。
 その後、小笠原流は「弓道・馬術・礼法」の三部門から構成されることになった。
「礼法」の範疇には、立居振舞いの作法だけでなく、冠婚葬祭、贈答などの礼法と、水引や包み紙の紙の折り方、紐の結び方などの所作まで細かい決めごとを定め、また年中行事など、日常生活の中で必要とされるすべてが礼法が網羅されている。
 さらに後世、「小笠原といえば礼法」といわれる基盤を作り上げたのは、足利三代将軍義満の命により、今川・伊勢両氏と共に、小笠原長秀(十一代1294~1347)が、供奉、食事、宮仕えや応対の仕方から、書状の様式、蹴鞠のやり方など、武士の一般教養を目指したといわれる、「三議一統」の編纂にあたっている。また、同時に『修身論』と『体用論』をまとめている。
 その後、貞慶(十八代)(1546~1595)からその子秀政(十九代)(1569~1615)に伝えた「小笠原礼書七冊」といわれる伝書がある。 前述の「三議一統」以来加えられた今川・伊勢両家に伝わる故実をくみ入れた、小笠原流礼法の整序につとめ、それが大成したもので、武家の質朴な礼の本義というべき性格を示している。

     幕府公式の礼法としての装束 小笠原流礼法 幕府公式の礼法としての装束 小笠原流礼法 幕府公式の礼法としての装束 小笠原流礼法
       幕府公式の礼法としての装束 小笠原流礼法

 ところで、小笠原惣領家は、戦国の争乱に紛れ、弓馬の伝統が絶えたとも伝えられ、現在の小笠原宗家の小笠原氏来歴書には、
「小笠原長時及貞慶の時に至り、家伝弓馬的伝礼法一切を、小笠原経直に譲る。経直、弓馬礼法に精進せるを以つて徳川家康召して武家の礼法を司どらしむ」とある。
 小笠原経直は、長忠(三代)の弟の清経が、伊豆国の赤沢山城守となり、代々伊豆で赤沢姓を名乗っていたが、その子孫である。
 こうした経緯で、小笠原経直は、 徳川家康に招かれ、徳川秀忠の弓馬術礼法師範となり、御維新まで高家として幕府の弓馬術礼法の師範を務めている。
 江戸時代は、幕府の公式の礼法として小笠原流礼法が採用され、殿中や宮中の礼法所作として受け継がれていった。
 ついでながら、徳川時代の惣領家小笠原氏は、豊前小倉の城主、肥前唐津の城主、越前勝山の城主として明治まで徳川幕府の藩主として生き残っている。
 
 小笠原忠統(ただむね)は、最後の小倉藩主小笠原忠忱(ただのぶ)の子長幹(ながよし)の三男として生まれ、東京帝国大学を卒業したが、兄の小笠原忠春が分家したため、小笠原総領家第三十二代当主となったいる。長野県松本市立図書館長、相模女子大学教授などを歴任した。
 この小笠原忠統(ただむね)は、それまでの間、代々当主だが伝承してきた礼法の封印を解き、広く一般に普及するよう、門弟の育成、講演、執筆などに熱心に取り組んだ。
 また、小倉藩の茶道小笠原古流の家元にも就任した。

 さらに付け加えると、小笠原惣領家第三十二代 小笠原忠統(ただむね)の実姉(村雲御所瑞龍寺十二世門跡、小笠原日英尼公)が、父忠統の死後、小笠原家茶道古流家元を継承した。
 その真孫にあたる小笠原敬承斎が、平成六年 小笠原流礼法副宗家に就任し、平成八年「小笠原流礼法」初の女性宗家に就任している。
 小笠原敬承斎は、聖心女子専門学校卒業後、英国留学している。
 当流に代々伝わる古文書に基づき、直門をはじめとする多くの門弟や教育現場において指導にあたっている。そのひとつとして、小笠原氏発祥の地である、山梨県南アルプス市(旧小笠原村)で礼法講座を受け持つなど、小笠原氏と縁のある地域人々に対しても、その志を広める活動を行っているという。
 また、「時代によりかたちは変わっていくものだが、その根底にある相手を思うこころはいつの時代も同じである」という先代の教えを守り、伝統ある礼法を現代に活かしながら、学校・企業等における講演活動、執筆活動など、様々な分野に活動の場を広げ、 自らの留学経験を活かし、海外における日本の伝統文化の普及にも努めている、とあった。
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松本市
 
 松本市は、長野県のほぼ中央に位置している。
 平安時代に信濃国府がこの地に置かれ、中世には信濃守護の館の所在地として、また江戸時代には、松本藩六万石の城下町として信濃の中心として栄えた。
 松本地方は『信府統記(しんぷとうき)』に、
「此地ハ信州ノ府中ニテ、所ノ名ヲ庄内ト言フ、古クハ此辺ヲ深志トモ又深瀬トモ称ヘ来リシ」
とある。
 松本市は、かつては府中や庄内、また深志などと呼ばれていた。
 松本と呼ばれるようになったのは、天正十年(1582)、小笠原貞慶(さだよし)がこの地に入封し、前にもふれたが、深志城を改め「松本城」と命名した事とによるとされている。
 貞慶がこの松本という名を取り入れた理由について、諸説ある。
 貞慶が、父祖の旧領を回復するという本懐(願い)を待つ(松)こと、三十余年でか叶えられたため「松本」と称したという。 また、小笠原家は三つに分かれたが、伊那小笠原家の本拠地「松尾」に対し、深志の小笠原家は宗家すなわち本家、つまり松尾の本で 「松本」と称したともいわれている。

      天守閣から松本市街を望む
        天守閣から松本市街を望む

 明治四十年に市制を施行し、その後、近隣の村との合併を経て現在の市域が形成され、平成十九年には市制施行百周年を迎えている。
 明治から、製糸業を中心とした近代産業が勃興し、大正三年には日本銀行松本支店が開業されるなど、長野県下における経済金融の中心地であった。
 近代工業化は、第二次世界大戦中の工場疎開に端を発し、さらに昭和三十九年の内陸唯一の新産業都市の指定を受け、電気・機械・食料品等の業種を中心に発展し、最近ではソフトウェア産業の振興が図られている。  また松本は「商都松本」とも称され、中南信濃の商圏の中心として、大きな商業集積を形成しており、平成十四年に竣工した中央西土地区画整理事業、蔵のまち中町の街なみ環境整備事業、縄手通り整備など、個性ある商店街が出現している。
 一方、高速交通網は、平成五年に長野自動車道が全線開通し、飛騨地方と通年で結ぶトンネルは平成九年に開通している。
 また、平成六年の信州まつもと空港のジェット化整備により、交流拠点都市としての機能も充実している。

      天守閣から松本市街を望む
        天守閣から松本市街を望む

 市役所駐車場を出て、松本城の正面の黒門で左折し、松本市の中心部を抜け、程なく松本駅前に出た。
 松本市街は、旧城下町というだけあって、大変落ち着いた町並みであった。
 町の中心部を走行したが、大阪の町並みのような猥雑(わいざつ)さがなく、上品な佇(たたず)まいで、ひっそりとしている。
 松本城のあの混雑振りが嘘のような落ち着いた町であった。
 上の写真がJR松本駅ながら、一見すると雑居ビルかと思った。
 信濃毎日新聞その他の看板が目に付き、肝心の「JR松本駅」の表示を見落とす程であった。
 駅構内のコンコースは、絶好の広告媒体として使われているが、駅舎の外観にこれ程企業看板が有るのは珍しい。もっともJR岐阜駅も、このように民間企業の看板が有った事を思い出した。
 兎も角、駅の斜め前にバスターミナルがあり、その横に目差す東急インのホテルを発見した。
 地方の中核都市の駅前の一等地ながら、それなりに城下町としての威厳を保っているように思えた。
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信州そば処

 我々が宿泊したホテルは、松本駅前のバスターミナルが隣接していた。 
 食事をするために、バスターミナルの横を右折し、次の辻で左に曲がると駅前通りの国府町に出た。
 まだ日没前の、ほの明るい時間帯で、写真の時間では6時30分頃であった。目的は「信州そば」を食べる目的であった。

      松本駅前
         松本駅前

 駅前通の広い道を歩いたが、それほど飲食店が見あたらない。それに人通りも多くないのである。
 事前に信州そばの名店をネットで調べてみたが、プリントアウトするのを無精(ぶしよう)した。本場の信州松本だから、適当な店がすぐに見つかると高をくくったからである。
 やむなく、次の交差点をまた左折すると松本城の正面に向かっていた。
 松本城の周囲には、裁判所や税務署、そして市役所などの官公庁があったから、この辺りは市内の中心部で、ビジネス街のような町の佇まいであった。
 四車線の広い道路で、両側にはビルが多く、広い歩道も整備されており、車の通りも多くなかった。
 どうやら、歩く方角には、目差す蕎麦屋なぞ無いかもしれないと後悔し始めた。
 何故、ホテルのフロントで、近くの有名な「信州そば屋」を聞いてこなかったかと、後悔し始めた。
 ところが、少し歩いたすぐ近くに商業ビルがあり、飲食店が何軒か入居していた。
 帰ってたから調べてみると、松本市中央2-1-24 五幸本町ビルであった。

       そばきり みよ田
         そばきり みよ田

 そのビル一階の角に、「そばきり みよ田」という洒落た看板が有った。
 他に「信州そば」を見つけるのは困難と判断しビルに入ると、右側の入り口正面は、白煉瓦を貼り付けたお洒落なデザイン壁であり、屋号を染め抜いたシンプルな暖簾(のれん)と、高張提灯が掲げられていて、とても粋な雰囲気であった。
 入ってみると、入り口近くと、 左奥にはテーブル席もあったが、一番奥に板張り座敷があり、そこへ案内された。 落ち着いた照明と、洒落た和風のインテリアで大変気に入った。
 観光客を相手にしている店ではなく、地元の人々に昼間は昼食を提供し、夜には落ち着いて飲め、〆に蕎麦を食べるという店であった。

        そばきり みよ田店内
          そばきり みよ田店内

 営業時間は、昼食時の十一時半から三時までと、夜は五時から十時半までとあり、夜には、まさに「酒々由々」なのであろう。
 昼はランチメニューながら、夜は自慢の「蕎麦懐石」五千円というコースもある。
 他に、天ぷらセイロ、合鴨セイロ、馬刺し、お好みお晩菜三種盛り、蜂の子甘露煮、串天ぷら五種盛り、築地直送旬鮮魚 各種600円前後、変わったものでは「焼き味噌」などもある。
 我々は、蕎麦と天麩羅のセットメニューの「みよ田御膳」と、生ビールを注文した。
 内容は、蕎麦、ミニ丼(かき揚げ他ねぎとろうなぎ等)と天盛五種、小鉢、漬物、デザートが付いて千六百円であった。

         みよ田御膳
            みよ田御膳

 食してみると、この天麩羅がサクサクとしてとても旨く、また蒸籠(せいろう)に盛られてきた、挽きたての香り高い蕎麦が、実に旨かった。
 帰ってから調べてみると、蕎麦は果たせるかな十割蕎麦であった。
 店の宣伝文句には、
「昼はそば屋、夜は築地より毎日仕入れの旬な魚、お晩菜(ばんさい)、天ぷら等、豊富なおつまみをご用意しております。お酒は地のものを中心に取り揃え。手打ちならではの、強いコシのある蕎麦と、少し甘めのつゆとの相性はバツグンです。料理長渾身の力作「蕎麦懐石コース」も大好評です。」
とあった。偶然見つけた店ながら、店内の雰囲気も良く、さらに価格も安く、本物の信州蕎麦の十割蕎麦を食べられ、とても満足できた店であった。生ビールを二杯飲み、ほろ酔い気分で、心地よく店を出た。
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 蕎麦の話

 蕎麦は、素朴な食べ物だけに、全国にその地の名物蕎麦が多く、裕江と二人で出石の皿ソバを食べに旅した事もあり、また出雲ソバも食べに行った。
 さらには、社員旅行で福井の有名なおろし蕎麦を食べたこともあり、日常でも手軽に食べている大変馴染みのある食べ物でもある。
 また年末には、欠かさず「年越しのソバ」を食べている。だから、我が「紀行」でも何度か「蕎麦」については触れているが、今回は少し詳しくふれる。

       蕎麦
          蕎麦

 古代日本語でソバのことを「そばむぎ(曾波牟岐)」、「くろむぎ(久呂無木)}と呼んだ。この事から漢字では今日は蕎麦と書く。
 蕎麦の二字で「そば」と読むようになった初出は、南北朝時代に書かれた『拾芥抄(しゆうがいしよう)』
(十四世紀初頭の成立と推定される百科全書)で、蕎麦と猪・羊の肉との合食禁(食い合わせを禁ずる例)を解説しているが、今日における科学的根拠は無いらしい。
 ソバはタデ科の一年草で、日本のみならず、アジア内陸地帯、東欧、中欧、北欧、南欧山岳地帯、南北アメリカその他で、栽培され食用とされている。
 
        蕎麦の花
           タデ科の一年草のソバの花

 ソバの日本への伝来は、奈良時代以前であることは確実である。ただこの時代の蕎麦は、あくまで農民が飢饉などに備え、僅かに栽培する程度の雑穀だったと考えられている。
 このように気候条件の悪い荒地の作物として五世紀頃から栽培されていた植物で、原産地は諸説あったが、現在では中国南部が原産地として特定されている。
 蕎麦の語源の「そばむぎ」は、稜角(物のかど)を意味する古語の「そば」と、「むぎ(麦)」が複合した語で、角のある麦という意味である。
 後世に「そばむぎ」が略されて「ソバ」と呼ばれるようになった。

         蕎麦粉
            蕎麦粉

 ちなみに、「ブナ(橅)」の古名を「そばのき」、ブナの実を「そばぐり」というのは、その実の形状が、一般のドングリと異なり、稜角を持っていることに由来する。
 蕎麦の実は、殻を除き(丸抜き)、種子の胚乳の部分を粉(蕎麦粉)にし、さらに加工、加熱して食用にする。
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蕎麦の食べ方

 現在食べられている麺状のそば(そば切り)は、江戸時代に中山道(なかせんどう)「本山宿」から始まったと言われている。
 現在の地名では、塩尻市宗賀本山が「そば切り発祥の地」とされている。
 それ以前は、そば粉を使用した団子状の蕎麦がきや、煎餅(せんべい)状等にして食べられていたという。
 蕎麦搔きとは、蕎麦粉に熱湯を加えるか、水を加えて加熱し、箸などですぐかき混ぜて粘りを出して団子状とし、箸で少しずつ、ちぎりながら、そばつゆや醤油をつけて食べたという。子供でも簡単に作れるため、蕎麦産地では昔からおやつとして定番だったらしい。

         蕎麦がき
            蕎麦がき

 蕎麦粉に熱湯をかけて混ぜ、粘りがでた状態のものを食べる方法を「椀がき」といい、小鍋に蕎麦粉と水を合せ加熱しながら練るのを「鍋がき」という。
  イタリア料理のポレンタや、東アフリカでのトウモロコシの粉など穀物粉に、湯を加えて練り上げた主食のウガリなどに似た調理法である。
 水を加えて加熱することで、蕎麦粉のでんぷんを糊化(アルファ化)させることにより、消化吸収がよく、蕎麦の栄養を効率よく摂ることが出来るため、健康食としても見直されている。一方、煎餅(せんべい)状の蕎麦は、加熱し団子状にしたものに、醤油などを付けて焼いたもので、保存食として用いられた。

         蕎麦の椀がき
            蕎麦の 椀がき


 江戸の落語では、粋な「ざる蕎麦」の食べ方の話が多い。特に、そば粉本来の香りと、喉越しを味わう為、古くから盛りや、ざるで食べられることが多かったという。茹でた蕎麦を、水で締め、木製か竹製の四角形の器の底にすのこを敷いた蒸篭(せいろう)や笊(ざる)に盛り付け、蕎麦つゆに浸けながら食べる。
 この時、蕎麦のごく一部にだけ、つゆに付け、一気に喉ごしで食べるのが粋とされた。今日でも、ざる蕎麦は喉ごしで食べるものとされている。
 この食べ方が、かけ蕎麦より古くからの食べ方で、薬味として、摺り下ろしたワサビや大根がよく用いられる。ワサビはつゆに溶く場合と、ワサビの味を損なわないために、つゆに溶かず、そばに乗せて食べるのが食通とされた。 大根は、辛味大根、ねずみ大根とよばれる刺激の強いものを用いる。

           ざる蕎麦<br>
            ざる蕎麦

 ただ、関西では、鶉(うずら)の生卵をつゆに溶いて食べる。現在では切り海苔のかかったものを「ざる蕎麦」、かかっていないものを「盛り蕎麦」と呼んで区別しているが、元来は、ざる蕎麦と盛り蕎麦の区別は、蕎麦の器の違い(ざる蕎麦は竹ざるに乗せ、盛り蕎麦は皿に乗せる)と、蕎麦つゆの違いであった。
 つまり、ざる蕎麦は、盛りそばよりコクのあるつゆを使うものであったらしい。
 このため、江戸のざる蕎麦は、少しだけつゆに浸けて一気に喉ごしで食べるとされたのである。
 ざる蕎麦の発祥は、江戸深川の州崎弁財天前にあった伊勢屋が、蕎麦を竹ざるに乗せて出したところ評判が良く、大いに売れたことによるとも言う。ほかの蕎麦屋がこの手法を真似ることで「ざる蕎麦」が江戸で流行し広まったという。
 また、盛り蕎麦の「盛り」の語は、現在の掛け蕎麦である「ぶっかけ」の対義語で、元禄時代に流行した「ぶっかけそば」と区別するため、汁に浸けて食べるそばを「もり」と呼ぶようになった。
 
          天麩羅そば
             天麩羅蕎麦

 また、かけ蕎麦は、茹でたそばを丼に盛り、温かいそばつゆをかけたもので、薬味として小口切りにした長ネギと七味唐辛子がよく用いられる。細かく刻んだ柑橘類の皮を入れると、風味が立つ。付け麺のざる蕎麦よりも新しい食べ方である。
  さまざまな具を入れるが、特に天麩羅蕎麦は、種物としては最も古くからあり、江戸中期に、貝柱のかき揚げなどを載せたのがはじまりという。
 現在の蕎麦屋では、通常は海老の天ぷらを載せたものが多く、天丼のような形で天ぷらを載せるものなどもある。 たぬき蕎麦は、関東などでは、天かす(揚げ玉)を載せたものを指している。天ぷらの代わりに載せ「タネ」がない、つまり「タネ抜き」がなまって「たぬき」、あるいは天ぷらの代わりとして「騙す」意味からきた呼び名とされている。
 京都では、くずあんを掛け、細切りの油揚げを載せたものを指し、大阪では油揚を載せたきつね蕎麦を指している。
 関東でいう「たぬき蕎麦」は、関西では「ハイカラ蕎麦」と呼ばれることもあるが、天かすは薬味同様に自由に入れられるようにした店が一般的であるため、特に名称がない場合も多い。他にも、様々な種を載せたかけ蕎麦がある。

         鴨南蛮
            鴨南蛮

 鴨南蛮、鳥南蛮、肉南蛮は、肉と葱(ねぎ)を具とするもので、南蛮とは、本来葱を意味し、大阪の難波の転訛という説もある。他にも、鰊そば、なめこ蕎麦、 山菜蕎麦、おかめ蕎麦、しっぽく蕎麦、けんちん蕎麦、わかめ蕎麦、おぼろ蕎麦、カレー南蛮など実に多彩である。
 おかめ蕎麦は、傍目八目(岡目八目とも言う)から、五目より具が多い意味で、また、おかめの顔を模した具材の配置をするからとも言われている。しっぽく蕎麦は、数種類の煮込んだ野菜が入っている。現在では京都・香川県などで、「しっぽくうどん」の麺を、蕎麦に代えたものを指している。元々は寛延年間の江戸で、しっぽくうどんの影響を受けて成立した種もの蕎麦で、おかめ蕎麦の原型とも言われる。古典落語『時そば』の中にも「しっぽく」が出てくるが、現在の関東地方の蕎麦屋には無いことが多い。
 信州では、珍しい蕎麦の食べ方がある。

         はやそば(早蕎麦)   
           はやそば(早蕎麦) 
  
 その一つに、はやそば(早蕎麦)がある。信州山ノ内町・栄村では、大根を細切りした物に、蕎麦粉と熱湯を加えてかき混ぜ、そばつゆを付けて食べる。近隣市町村では、せんぞ蕎麦ともいわれる。
 他に、そばがき汁粉がある。これは、餅の代わりに蕎麦がきを入れた汁粉である。
 松本市周辺の店で食べられるという。
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信州蕎麦

 ところで、古くから江戸蕎麦のルーツは信州とされており、信州本山宿を発祥とするそば切りは、中山道を通して江戸の庶民文化の中に浸透し、十七世紀中期以降、蕎麦切りは江戸を中心に急速に普及し、庶民の嗜好品として花開いていった。
 同時に、参勤交代などで江戸に参府した下級武士達によって「信州蕎麦」の名が全国に知られれるようになった。 蕎麦は高冷地の土地を好み、また痩せ地でも育ち、生育に適した信州では、古くから貴重な食料として栽培されて来た。 今でも、 信州では夏の季節には白い花を付けたそば畑が見られる。(夏蕎麦)

        信州の夏蕎麦
           信州の夏蕎麦

 更級(さらしな)・埴科(はにしな)・戸隠(とがくし)・開田(かいだ)などが、信州蕎麦の産地として知られ、今日でも比較的多く栽培され、各地域で自家製料理として多様な蕎麦うちが存在している。
 これらの産地では、古くから良質のそばの産地として有名で、中でも浅間山麓に産する蕎麦は、霧が降る高原地帯で、ここで栽培される蕎麦は「霧下そば」と呼ばれ、平安の昔から都に運ばれていたというから、歴史は古い。 また、寒冷で弱酸性の火山灰の土壌が、蕎麦の生育に適していることから、麺で食べる蕎麦切りの普及も早く(塩尻市宗賀本山が「そば切り発祥の地」)、本山宿のある初代小諸藩主が自ら蕎麦を打ち、領民に広めたともいう。
 そして信州蕎麦は、現在でも日本の生産量第一位を占めている。ただ、「信州そば」は現在、「長野県信州そば協同組合」の登録商標となっている。

         信州蕎麦の産地
            信州蕎麦の産地

 厳密には、そば粉を40%以上配合し、信州そば協同組合の認定を受けた乾燥蕎麦をさすが、一般的には長野県で作られる蕎麦の総称でもある。
 蕎麦の栽培形態として、播種期の違いにより、春播(はるまき)の夏蕎麦と、夏播(なつまき)の秋蕎麦がある。しかし、現在の主産地の北海道では年一作で、夏蕎麦、秋蕎麦の区別はない。
 ただ、今日の蕎麦業界の現況では、八割が輸入物で、国産は合わせて二割を欠く状況だという。
 長野県では、農業先進県であり農産物の耕地面積が多いが、先進性ゆえに他の優良作物の栽培が多く、蕎麦の消費量を賄えるだけの作付けがなく、輸入も含めた県外産のソバを使用しているのが実情だという。
 このため、「そば切り発祥の地」の小諸市にある信州蕎麦屋の「草笛」では、正真正銘の信州蕎麦(地粉)だけで蕎麦を提供する、地産地消に取り組んでいる。

                 信州蕎麦屋の「草笛」
                  信州蕎麦屋の「草笛」

 平成20年には認定農業法人として「信州蕎麦ルネサンス株式会社」が認定され、地元農家の協力を得て、目標の50ヘクタールに農地を広げる計画だという。
 このように「信州そば」と言っても、今日では純粋の国産や信州産のそば粉を使っている店は僅少だという。
 本当の「信州そば」を食べようと思えば、自家用のそば畑を持ち、とれた蕎麦を石臼で挽いて、手打ちにした蕎麦が出される店を探す以外に無いようだ。価格は高いが、鮮度の高い蕎麦粉(地粉)を使い、その日に石臼で挽いた蕎麦粉を手打ちにする技と、「挽きたて・打ちたて・茹でたて」だけを提供する店でしか、本物の信州蕎麦を食べることは出来ない。
 その本物の蕎麦となると、実はその定義が難しいく、次の稿に譲る。
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蕎麦の種類

 蕎麦は「蕎麦粉」と「つなぎ」を「水」で捏ねて作る。
 このため、一口にそば切りと言っても、蕎麦粉と、つなぎとして使用する小麦粉などの配合割合に応じて、十割蕎麦(生粉打ち蕎麦)、九割蕎麦(外一(そといち)蕎麦)、八割蕎麦(二八蕎麦)、七割蕎麦、六割蕎麦などと名称が変わる。

          十割蕎麦
              十割蕎麦

 小麦粉の他につなぎとして使用されるものは、山芋、こんにゃく、布海苔、オヤマボクチなどがあり、それらを加えることで、独特の食感やコシが発生する。布海苔を加えた蕎麦はへぎそばと称されることもある。
 このように、蕎麦は一般的に「つなぎ」を入れた方が旨いとされている。
 それでいて、十割蕎麦(生粉打ち蕎麦)が自慢という信州蕎麦屋がある。十割蕎麦は別名田舎蕎麦ともいい色が黒い蕎麦で、曰く
「信州産(戸隠産・八ヶ岳産)の良質なそば実を仕入れ、そばの実を丸ごと石臼で自家挽きしているので味が変化せず、蕎麦そのものを味わうことができます。つなぎを一切使わず、そば粉と水だけで打つそばは、十割そばの常識を変えた、喉ごし滑かで、風味豊かなそばです」とある。

           蕎麦打ち
               蕎麦打ち


 九割蕎麦(外一(そといち)蕎麦)について曰く
「おいしい安曇野産蕎麦粉をやや粗めに挽き、蕎麦粉十に対し、つなぎ一の外一(そといち)蕎麦。
 十割りでも、二八でもない、外一、蕎麦のしっかりとした風味と、甘みが特徴です」とある。
 八割蕎麦(二八蕎麦)は、大方の蕎麦屋で千円以内で食べられる、もっとも店の数が多い蕎麦である。「信州そば百選」に選ばれている店が多く、値段の安さとボリュームに驚かされ、さらに味の旨さに定評がある評判の店が多い。
 元々そば粉に粘度があるわけではなく、つなぎに入れる小麦粉の量と、練り方で、その食感が変わってくる。各店では、粉の選定と練り、そして二八そばに拘り、喉ごしがの良い、いつも変わらぬ食感が楽しめる配慮が人気の由縁という。

            お土産店などで売られている七割蕎麦
                お土産店などで売られている七割蕎麦

 一方、お土産店などで売られている「信州そば」には、以外に七割蕎麦が多い。
 曰く、「風味豊かな黒目のそば粉を七割使した、昔からそばを常食としていた山村の味を今に再現しました。コシが強く、歯ごたえのある太切田舎そばです。長い間、皆様に御支持いただいている当社の一番人気商品で、第38回 信州そば品評会で、食糧庁長官賞受賞品 です」とある。
 また有名な信州蕎麦屋では、自信を持って曰く
「7割り蕎麦へのこだわり。草笛は何故十割蕎麦としてでなく、七割蕎麦としてお出ししているのでしょう。この七割蕎麦は仙石秀久公が伝えたものを、草笛が伝承する形で守り、こだわり続けているものですが、実は胃にやさしく、健康に最も良い割合であることが、近年蕎麦シンポジウムにおいても発表されました。国内のある製薬会社が、不老長寿の薬を研究し18年かけて辿り着りついたのも、七割蕎麦だったという事実がその効用を証明しています」
 「信州蕎麦では七割そばが最高です。

          七割蕎麦
               七割蕎麦

 さまざまな配合を試みた結果、七割蕎麦が最高においしく、喉ごしがよい。また消化吸収が早く、さらに栄養のバランスがもっと良く、蕎麦の醍醐味を味わう事が出来る」とある。
 つまりは、食する人の感性によって、その旨さが異なるのかもしれず、どれが本当の蕎麦かを断定するのは難しくなった。

 さらに、蕎麦粉の種類による分類もある。
 更科(さらしな)蕎麦は、ソバの実を挽くと時、中心から挽かれて出てくることから、後から出てくる粉に比べて、最初に出てくる一番粉が白く上品な香りを持つ。この一番粉を使用した蕎麦が「更科蕎麦」である。東京などでよく食べられ、粘りがなく従ってつなぎをよく使う。
 田舎蕎麦は、蕎麦殻(から)を挽き込んだ、黒っぽい蕎麦粉により製造された蕎麦のこと。蕎麦の香りが強く、あまり汁(つゆ)をつけずに食べる。長野県や愛知県、近畿、山村でよく食べられる。つなぎに山芋などを使う。
 藪(やぶ)蕎麦は、抜き実の挽きぐるみ、つまり緑色の甘皮部分を挽き込んだ鶯色の蕎麦のこと。種皮の緑色が鮮やかな藪蕎麦はその香りが高い。

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