■絹と紙
紙が発明される前から「紙(zhi)」という文字は、もともと中国にあった。
紙以前の「紙」は、もともと絹の一種を指していたようだ。 紙の「糸」偏は「生(き)糸を併(あわ)せて一本に撚(よ)った形」、旁(つくり)の「氏」は砥(しれい)で砥石(といし)のように平らなことを意味している。
紙が発明される以前の書写材として、主として竹簡(ちつかん)や木簡(もつかん)に筆墨で記録され、また紀元前7~6世紀以降には、「紙」という絹帛(けんぱく)(細かく織った絹)などに記された。
「紙」は貴(たか)く(貴重品の意)、役所の記録には竹簡や木簡が使用されたが、重く嵩張(かさば)るため不便であった。
「紙」と呼ばれた絹帛(けんぱく) は、一匹(いつぴき)(約50㎝×9m)の値段が米6石(こく)に相当したというほど、貴重なものであった。
石(こく)は、米穀などを量るのに用いる単位で、一石は一〇斗(と)であり、一斗は一〇升(しよう)、一升は約1・8リットル相当である。仮に6石(こく)を現在の重量に換算すれば、おおむね1082㎏余で、米1トン余に相当する。
ちなみに現在の米の末端価格に換算すると、なんと14万4千円余となる。今日からみると信じられないほど、高価で貴重なものであったかがわかるであろう。
古代中国では、絹を作るときに派生する質の悪い繭(まゆ)から、絮(じょ)という真綿(まわた)をとり、防寒用に利用した。真綿(まわた)とは、生糸にできない屑繭(くずまゆ)を引き伸ばし乾燥した綿のことで、軽くて強く、暖かい。引き綿・布団綿としたり、紬糸(つむぎいと)の原料とした。
この絮(じよ)を作るには、絹の繊維くずを竹筐(かご)の中で水につけながら、竹竿(たけざお)で叩いて晒(さら)して作った。この時に、簀(す)の上に微細な繊維が薄い膜状に残り、それを乾燥させると、薄いシートになる。これを漢代には、「紙」と呼んで書写材料として利用していた。
まさに紙の一歩手前のものであったが、原料がクズ繭(まゆ)とはいえ高価なもので、大量に作ることは不可能であった。
ここで、日本語の「紙」の語源についてふれたい。
日本語では、紙を「カミ」と読むが、その語源には諸説ある。
日本での、紙の伝来以前の書写材には、さまざまな樹皮や獣皮を利用していたが、おもにカバノキ(樺)の樹皮に書いた。このため、カバがカミに転じたという説と、竹簡(ちつかん)・木簡(もつかん)の簡は「カヌ」で音の変化でカミとなったとの説がある。
いずれにしても、人類は、ものを書き記すために、さまざまなものを書写材として利用してきたのである。
狩猟採集社会から農業社会へ移行し、多くの人々が定住し村落を形成して暮らすようになると、それなりの組織を必要とした。
その組織維持のため、さまざまな記録が必要となってゆく。その記録のための文字の発明と同時に、さまざまな書写材料が、試行錯誤で利用されていった。
特に国家の成立後は、組織的な記録の保存が重要な命題となった。
国家としての記録と保存のための書写材の開発には、多くの時間と研究投資が必要で、試行錯誤が繰り返され開発されたのである。
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■パピルスとパーチメント
古代の西方世界での書写材は、初めは粘土板であった。
湿った粘土板に、葦(あし)の茎(くき)で楔形(くさびがた)の文字を刻みつけた。乾燥すると極めて固くなり、保存性に優れていたが、やはり重く嵩張(かさば)るために保管に苦労したであろう。
楔形文字の粘土板
やがて、古代エジプトで、パピルスという優れた書写材料が発明され、広く用いられるようになった。 パピルスは、紀元前2千500年頃のエジプトで、文字の使用と共に使用され始め、古代エジプトの重要な輸出品であり、貿易の通貨の役割も担っていた。
パピルス
パピルスは多年生の草本で、食料、船の構造材、縄、書写材などさまざまに利用された。
書写材としての「パピルス」は、水草のパピルスの根に近い部分の髄(ずい)を取り出し、薄い片にして水に漬けて叩き、長さをそろえ、縦と横に並べ圧搾脱水し、乾燥させた後、表面を動物の牙(きば)などで擦(こす)って滑らかにして使用した。
今日的な感覚では、紙というより原始的な布のようなもので、欠点としては文字が書きにくく、脆(もろ)いことであった。また片面しか記入できず、曲げに弱いため30㎝四方のものを20枚くらいつないで5mほどの巻物として利用した。
「volume(巻物)」は、「パピルスの巻物」のラテン語表現を語源とする。
パピルスの書物
また 「bible(聖書)」は、ギリシャ語でパピルスに文字を書いたものを、biblo と表現した事を語源とする。さらに、紙を意味する paper
がパピルスを語源としていることは周知のことである。
これらのことは、古代世界でいかにパピルスが広く利用されたかの証左である。
このようなパピルスの製造と流通は、エジプト王朝の管理下に置かれ、書写材のパピルスの製法は秘密にされていた。
エジプトでは、まさに国家の戦略物資としての地位を占め、それはサマルカンドで盛んに製紙が行われるようになるまで続いた。
パピルスに文字を書いた「bible(聖書)」
古代における優れた書写材を開発したエジプトは、プトレマイオス一世(BC283没)の時に文明の象徴として、古代最大のアレクサンドリア図書館を作った。
パピルスの書物は、天文、科学、文学、歴史、信仰、慣習などあらゆる分野に及んでいる。息子の二世フィラデルフォスがその充実に努め、蔵書は数十万巻といわれている。
エジプト文明を彷彿(ほうふつ)とさせる壮挙であった。
アレクサンドリア図書館の想像図
ところが、アナトリアのペルガモン(現トルコ共和国ベルガマ)におこった王朝のエメネウス二世(在位BC197~159)は、アレクサンドリア図書館の司書長を引き抜き、エジプトに対抗して20万巻の書物を蔵する大図書館を作った。 つまり新興国のペルガモン王朝は、世界に文明国家としての存在を誇示したのであろう。
これに対して、エジプトはアレクサンドリアを越える図書館の出現を喜ばず、パピルスの輸出を停止した。
このために、エメネウス二世は、パピルスよりも優れた書写材料の開発を命じ、生まれたのがパーチメント(Permennter 羊皮紙)である。
パーチメントの製造
羊の他に牛や鹿等の獣皮を、水に漬け石灰乳に浸して不要な毛や肉を取り除き、木枠に張り付け乾燥させて水洗いの後、軽石で表面を磨いて平らにし、最後に白色の鉱物の粉をすり込み不透明化した。
羊皮紙(ようひし)は、パピルスに比べてはるかに書きやすく、また強靱で冊子本を作るのに適しており、さらに保存性にも優れていた。
このため、紙が普及するまでは、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教などの聖書に使用され続けている。
問題は、とにかく高価なのが欠点で、バイブル一冊を書くのに羊500頭分の皮が必要であったという。
ところでパーチメント(Permennter)の名称は、ペルガモン王朝(Pergamon in Anatoria )の名に由来している。
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■貝多羅(ばいたら)
インドでは古くから、ターラという樹の葉を書写材料に用いていた。
ターラは棕櫚(しゅろ)の葉に似たパルミランヤシ、コリハヤシの若い扇子状の葉を、幅7~8㎝、長さ60㎝ほどの長方形に整え、束(たば)ねて乾燥させる。
乾燥したターラに、墨壺と糸を用いて5本の線を付け、先のとがった筆で葉の両面に文字を彫りつける。そこに油にすすを混ぜたインキを流し込み、熱した砂でふき取ると、文字の部分だけが黒く染まる。
その各片をパットラといい、サンスクリットでは葉を意味し、漢訳では「貝多羅(ばいたら)」「貝葉(ばいよう)」とした。貝(ばい)葉(よう)は、一つの穴を開けて、紐を通してまとめられる。二つの穴を設けて、ノートのようにめくれるようになっているものもあった。
貝多羅(ばいたら)
玄奘三蔵(げんしようさんぞう)(602~664)が、はるかな天竺(てんじく)へ行ったのは、中国で紙が発明されてから、およそ500年以上もたってからであったが、インドから持ち帰った経文(きようもん)は、貝多羅 を重ね、両端を版木で挟み縄で結んだものであった。
玄奘三蔵がもたらした経典(きようてん)(仏の教え、信仰の規範を記した典籍)は520夾(きょう) であったと記されているが、「夾」とは、はさむという意で、貝(ばい)葉(よう)の束を意味する。
むろんその頃には、インドにも、紙は商品として渡っていたはずだが、まだ製紙法は伝えられておらず、高価で一般的ではなかったようだ。
或いは、聖なる仏典は、昔ながらのターラに書くべきだという、宗教的な考え方が強かったのかも知れない。
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■中国古代の紙
中国では、紙の発明以前に、「紙らしきもの」は作られていた。
最初の紙らしき物の発見は、1933年にウイグル自治区新彊(しんきょう)(中華人民共和国の西端にある自治区)のロプノール近くの前漢時代の烽火台(のろしだい)跡から発見されている。
同時に出土した木簡に記年があり、紀元前49年の表記がある。このロプノール紙は、1937年の戦火で焼かれ現存しない。
ロプノール紙
この紙は「麻紙(まし)」で、紙質がきわめて荒く、紙面にまだ麻の筋が残っていたという。
その後、紀元前140~87年頃の前漢時代のものと推定される麻紙(まし)が1957年に西安市(古くは中国古代の諸王朝の都となった長安)で発掘された。四川(しせん)大学(中国国家教育部直属の重点大学)で化学検査をしたところ、大麻と少量の苧麻(ちょま)が含まれていることが判明した。
さらにこれより古いとされる麻紙が、1986年天水市(中国甘粛省南東部に位置)の古墳で出土している。これは「放馬灘(ほうばたん)紙」と呼ばれており、埋葬者の胸部に置かれていた長さ5・6㎝、幅2・6㎝の小さな紙片で、前漢時代の紀元前179~141年頃のものと推定されている。これは、現在知られている中国で出土した最古の紙で、地図らしき物が描かれている。
放馬灘(ほうばたん)紙
中国であいついで発見されているこれらの古代の紙は、むろん世界最古の紙である。
ただ、これらの紙は、麻の繊維から出来ているが織物に近く、銅鏡などを包むのに使用された包装紙で、この上に文字や絵を書くにはあまり適さないものであったようだ。
しかし、もともと紙の用途は多用途で、物を書き記し、絵を描いたりするだけでなく、ものを包む、汚れや水分を拭き取る、水やその他の溶液を濾過(ろか)する、ものに張るなどさまざまな用途があるのである。
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■紙祖蔡倫伝
紙が発明されたのは、後漢時代の105年に蔡倫(さいりん)が、汎用性が高く従来品に比較して廉価(れんか)な「書写材料に適した紙」の製法を発明して、時の皇帝であった和帝に献上したことに始まるとされている。(『後漢書』 卷七十八、宦者列伝 第六十八 蔡倫伝)
当初は、蔡倫(さいりん)が発明した紙を、特に蔡侯紙(さいこうし)といった。
復元された 蔡侯紙(さいこうし)
それまでの「紙」は、絹の一種を指していたために、区別する必要があった。
中国では、大麻、苧麻(ちょま)は古代から利用されている。
麻の繊維は固いために、水にさらして叩いて、繊維をほぐす必要があった。また絹も、繭(まゆ)からとった繊維を水につけてさらして作る。
クズ繭から絮(じよ)という真綿をつくる時に、簀(す)の上に残る薄いシート状のものを紙と呼ばれた事は前にふれた。
真 綿
蔡倫は、これらの事から紙の製法を思いついたのであろうと推測されている。
それまでの紙は、絹の生産過程で派生するもので、原料が限定された高価なもので、多用することができなかった。そこで、大麻、苧麻(ちょま)や麻のボロ、漁網などの繊維を木灰汁(あく)(灰を水に溶かして、うわ澄みをすくった汁で、炭酸・アルカリなどを含み、媒染剤・絹の精練・漂白などに用いる)で煮て、水でさらして細かくくだき、簀(す)で漉くという方法で、紙の製法を考案したと思われる。
書写材に適した紙を漉くには、繊維を細かく砕くのが最大のポイントで、西方から伝来していた石臼を利用したであろう。
蔡侯紙以前の「紙らしきもの」は、表面が粗く、麻の繊維が筋状に残っており、書写材としてはやや不適な織物に近い状態であった。
近年の中国で相次ぐ古代紙の出土が、蔡倫を紙の発明者(『後漢書蔡倫伝』)の地位から、紙の改良者、製紙法の確立者へ変更させた。
後漢書の一部 蔡倫の紙漉切手 中国郵政
しかし、古代の「紙らしきもの」から書写材に適した、安価で量産できる今日的な紙の製法を確立したという偉大な業績と始祖の名は決して揺らぐことはない。
現に、中国郵政の切手にも採用されている。
蔡侯紙の製造方法は、以下のように推測されている。
①原料の、麻布のボロなどを切り刻み、水で洗う。
②草や木を燃やして、灰を採り、桶の水に入れ、笊(ざる)で濾過して灰汁(あく)を作る。
③水洗いした麻ボロ切れを灰汁で煮る。
④石臼で搗(つ)く。(突くと同意。米などをつくこと)
⑤繊維を水洗いする。
⑥繊維を紙槽に入れ、かき混ぜて紙料液を作る。
⑦木の枠に網をはった漉き簀(す)を、両手で持ち紙料液の中に入れ、紙料を漉(す)きあげる。
⑧漉き簀ごと立て掛けて、脱水乾燥させる。
⑨乾燥したら、紙漉き簀(す)から紙を剥がして出来上る。
この抄造(しようぞう)法は、原理的には今日の抄紙法の、
①皮を剥(は)ぐ(剥皮(はくひ))
②煮る(蒸解(じようかい))、
③叩く(叩解(こうかい))、
④抄(す)く(抄紙)、
⑤乾かす(乾燥)と工程が同じである。
このように、植物繊維を原料とし、それを細かくくだき、漉いて紙を造った。
蔡倫が抄紙の始祖と言われる所以(ゆえん)である。
次の図が、蔡侯紙の製造方法の想像図である。
紙漉きの図 中国
蔡倫の紙の発明当時は、後漢の都の洛陽(河南省西部)で尚方令(しょうほうれい)という、天子の御物(ぎょぶつ)を作ることを主な任務とした官職に就いていた。
天子とは、中国では天命をうけて地上を治める者、すなわち帝王のことをいう。
役職柄、宮廷の物づくりが仕事であり、費用を惜しまず原料の調達ができ、試作を繰り返すに都合の良いポストにあった。さらに仕事に忠 実で研究心旺盛な蔡倫の性格が、世界に先駆 けた偉大な製紙法の発明につながっていった と思われる。
蔡倫は、宮廷関係の役職者であるため宦官(かんがん)で あったが、宦官のなかでも幹部級の官職であ った。俸禄は600石で、ほぼ県の長官と同 格であったという。
紙の発明は、文明や文化の情報伝播と交流に、果たした役割は計り知れないほど大きな世界的な発明であった。
ただし、発明当初は当然ながら国家的な戦略物資として、製法は秘密にされ、商品としてのみ輸出された。 世界の三大宗教といわれる、仏教、イスラム教、そしてキリスト教も、紙なくしては世界宗教にはなり得なかった。
また逆に、宗教によって、紙と製紙法が広く世界に伝えられたともいえるのである。
玄奘三蔵が天竺(てんじく)(インド)から持ち帰った経典はすべて貝(ばい)葉(よう)に記されていた。これを唐で紙に写経することで、広く仏典が紹介され、我が国にも伝えられた。
司馬遷の中国郵政切手
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■蔡倫の悲劇
紙の発明者として名高い蔡倫(さいりん)は、宦官(かんがん)であったが故に、後宮(こうきゅう)(后妃(こうひ)や女官たちが住む宮中の奥御殿)の政治抗争事件に引き込まれ哀れな最期(さいご)を終えている。
長い中国の歴史で、多くの人々が去勢(きよせい)(生殖腺を除去)されて宦官に仕立てられた。
世界史でも中国にしか無かった宦官の制度は、去勢されて後宮に仕える官職で、当初は主に宮廷で罪を犯して宮刑(腐刑ともいう)に処せられた者だけが用いられた。
のち、貧しい人々が貧困から抜け出すために、みづから去勢をうけて宦官になった。そのため、宦官には暗いイメージがある。
去勢(きよせい)された宦官(かんがん)
事実、宮廷という密室の中で政治的な暗躍を図り、私腹を肥やし、事実上の政治権力を壟断(ろうだん)した宦官も多い。 しかし、数多い宦官には歴史に名を残した優秀な人材も多い。優れた宦官の双璧とされているのは、蔡倫と明の鄭和(ていわ)とされている。
鄭和(ていわ)の像( 鄭和公園)
明軍が元軍を撃破し各地を制覇したとき、将軍たちは明の皇帝に献上する美少年を物色し、十二歳の眉目秀麗(びもくしゆうれい)の鄭和を献上品に選んだという。
鄭和の家系は、雲南(中国西南部の省。のイスラム教徒の有力者で、チンギスハーンに従って功績があったという。
元が亡ばされ敗戦国の奴隷のような立場で、皇帝への献上品にされてしまったのである。
鄭和は、去勢されて明の永楽帝に仕え、後にその才能を認められ、7回に渡るアラビヤ・アフリカまでの大航海の総司令官を勤めた。
さらに『史記』(中国の歴史書)の編纂で名高い司馬遷(しばせん)は、匈奴(きようど)との戦いで敗北し、投降した李陵を良心から弁護し、武帝の怒りにふれて屈辱的な宮刑を受けている。
司馬遷
さて、蔡倫(さいりん)のことである。
字(あざ)名(実名のほかにつけた名)は敬仲、現在の広東省に近い湖南省南部の桂陽の出身である。
去勢の経緯は記録に残っていないが、やはり少年の頃に去勢されたと推測されている。
後漢は幼帝が相次ぎ、皇太后の摂政(せつしよう)(君主に代わって政務を執り行うこと)が多かった。宦官となった蔡倫が仕えたのが和帝であった。その和帝には、異母兄がいた。
和帝の父である章帝の正妻の皇太后には実子がなく、和帝を実母から引き取って育てた。
皇太后は、自ら育てた和帝を天子に即位させるために、すでに皇太子であった和帝の異母兄あるである劉慶(りゅうけい)の実母の宋貴人(そうきじん)を陥れ、劉慶(りゅうけい)を皇太子の座から追放した。
この宮廷内部での政権争いの事件に、章帝の寵臣であったた蔡倫が利用されたのである。
権力者の皇太后から事件の事実調査を命じられた蔡倫は、立場上宋貴人(そうきじん)に不利な結論を出さざるを得なかった。
ところが、章帝が死んで和帝が10歳で即位すると、和帝育ての親で権力欲のつよい皇太后が摂政となり、皇太后の天下となった。
一方、蔡倫(さいりん)は和帝即位後、宦官(かんがん)の幹部級の中常侍に昇進し、後にさらに昇進し尚方令(しょうほうれい) に任命され、その忠実な職務のなかで紙の発明を行うことになるのである。
省略するが話は複雑に展開してゆき、蔡倫はその出世の契機ともなった宮廷内部での政権争いの事件の因果で、時代が代わったときに、自刃(じじん)(自らの生命を絶つこと)に追い込まれるという哀れな最期を迎えることとなる。
蔡倫(さいりん)の5元 記念硬貨
権力欲の強い皇太后の摂政(せつしよう)の下に、皇太后の兄達が実権を握り、政治を私物化していった。
ところが、皇太后の兄達のあまりの乱脈ぶりに、やがて成人した和帝が危機感を抱き、逆クーデターを起こし、皇太后の一族を粛正するに至った。このクーデターに力を貸したのが、皮肉にも皇太后により皇太子を廃された異母兄の劉慶(りゅうけい) の清河王であった。
蔡倫が紙を発明して和帝に献上するのは、和帝が実権を取り戻したこのクーデターの13年後の事であった。しかし蔡倫の偉大な紙の発明のあとすぐに、和帝が27歳の若さで薨去(こうきよ)した。
和帝の子は、みな幼児期に死亡しており、やむなく和帝の異母兄の清河王であった劉慶(りゅうけい) の子で13歳の劉祐 が即位した。これが安帝である。安帝はまれにみる暗君(愚かな君主)で、後漢の衰亡は彼に始まるといわれている。
安 帝
暗君の安帝が即位したことによって、蔡倫にとって不幸な結末を招くことになった。
先帝の皇后が亡くなり、安帝の親政(みずから政治を行うこと)となると、まず手がけたのが40年以上も前の、祖母であった宋貴人(そうきじん)の怨みを晴らすことであった。
かくして、安帝の祖母を陥れた本人はすでに亡く、宋貴人(そうきじん)に不利な調査報告書を作成させられた蔡倫が、自刃に追い込まれたのである。宦官であったがゆえに、宮廷内部での政権争いの犠牲になったのである。
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■サマルカンドの製紙
西方で最初に紙漉き場が作られたのは、751年中央アジアのサマルカンド(ウズベキスタンの古都)であった。
唐の玄宗の天宝10年(751)、唐の安西節度使(せつどし)(唐の軍職で、国内各地に置かれ、軍政のほか民政・財政の両権をも掌握し、強大な地方勢力であった)高仙芝と、イスラム勢力のアッバース朝のジャード・ビン・カリフ が、タラス((Talas,キルギス共和国)で戦って、唐軍は敗れ多くは捕虜となった。アッバース朝では、戦時捕虜の中でも技術者を特に大切にした。
このような状況のなかで、唐軍の捕虜に紙漉きの職人がいてサマルカンドに紙漉を伝えたという。
西方への製紙法の初伝は、戦時捕虜という予期せぬ出来事で、しかも日本への伝来から140年以上も経過している。 まだこの時代の唐では、製紙法が秘密にされていたのである。
サマルカンドの遺跡
サマルカンドでは、当初は桑、苧麻(ちょま)などを製紙原料に使用して紙が漉かれた。
しかしサマルカンドでは、製紙原料の桑科の植物が少なかった。そこで、麻布のボロの繊維を混入して紙を漉いた。しかし製紙原料調達難で、しだいにそのボロの繊維量を増加させ、ついには、麻ボロのみで紙を漉く技術を確立した。
繊維を混入して紙を漉く
製紙原料の調達難から、 サマルカンドの製紙では、必然的に製紙技術の改良がおこなわれたのである。サマルカンドで漉かれた紙は、当然コーランに使われ、イスラム教徒を拡大させることに大きな力を発揮した。
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■国際商人のソグド人
ペルシャ語で、紙のことを「カーガス」という。アラビア語でもインド語でも、紙のことをカーガスといった。カーガスは、中国語の穀紙(こくし)(Gu-zhi)が訛ったものとされている。
紙を西方に商品として伝えた国際商人のソグド人が、紙をカーガスと呼んだことによるとされている。
中央アジアで、シルクロードを経由した東西交易に重要な役割を演じたのが、国際都市サマルカンドであり、サマルカンドを中心に、世界を股にかけて活躍したのがソグド人であった。
ソグド人の人形
イスラム帝国のアッバース王朝は、アラブ人の政権であったが、中央アジアでの住民は、イラン系、トルコ系が多かった。
ソグド人は、もともと中央アジア北部のソグディアナ地方にいたが、アレキサンダー大王の遠征によって、各地に四散させられることになった。
四散したソグド人は、国境を越えて連携しつつ、自らの才覚で国際商人として活躍したのである。
ソグド人はペルシャ系民族で、北周から唐初期にかけて、中央アジアから西域(新疆(しんきよう)ウイグル自治区)に大勢力を築いた西突厥(とつけつ)と組んで、シルクロード交易で活躍した。
彼らは東ローマと唐との間を往復したが、西突厥が交易の安全を保証し、ソグド人は交易の利益をもたらすだけでなく、西突厥の外交官の役割を果たしたとみられている。
唐の初期に三蔵法師・玄奘(げんしよう)がインドに行った時、その旅を庇護したのも西突厥(とつけつ)である。
サマルカンドは、イスラム文化によって育まれ、ソグド人の東西交易の活躍によって、当時の世界でもたぐいまれな文化都市を形成していた。
ソグド人の兵士図
シルクロード交易を担った彼らが、3~8世紀ごろの中国でも広範囲に活動していた。
中国では90年代末から、ソグド人関連の遺跡発掘が相次ぎ、古墓が発見されている。このことは、シルクロードを往来していたソグド人達が、遥か中国の果てまで来て暮らしていたことを示す。
唐中期、ときの玄宗皇帝は息子の妃となっていた楊貴妃を寵愛したことで政治がみだれ、安祿山(あんろくさん)ら軍人のクーデター事件が起こった。
その安祿山は、父がソグド人で、母は突厥族出身である。つまりソグド人は、唐王朝の内側にもいたのである。
当然、古代から遣隋使・遣唐使たちが行き来していた中国と日本の親密な関係から、商人であるソグド人たちが来日していたと推測されている。
しかも渤海(ぼつかい)使節として日本を訪れた人々の中にも、ソグドの名前を持つものが多く存在したことは史料からも明らかである。
「安」はブハラ(ウズベキスタン)出身者の名で、「史」はキッシュ、「康」はサマルカンド、「石」はタシケント出身者の名である。
ソグド人は中国ではこのように、出身地の地名に応じて漢字の姓を名乗ったとされる。
法隆寺に伝わる香木に刻まれた文字が、ソグド文字だったことも分かっている。また、當麻寺(たいまじ)の四天王立像の「増長天」は、あご髭を生やし、西域的な顔、姿をしている
。それらは妙に具象的であり、ソグド人をモデルとして製作したと推測されている。
當麻寺の四天王立像の「増長天」
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■コーランと紙
イスラム世界はイスラム教によって統一されている。
イスラム教の聖典は『コーラン』であり、アッラーの啓示を受けたマホメットの時代には、「天上に書板ありき」で地上には存在せず、マホメットによって語られた。
マホメットの死後、神の啓示としての地上の『コーラン』の編纂がカリフ(マホメットの代理者という意味)によって行われた。
『コーラン』
ただ、さまざまな書写材に書かれた『コーラン』も、イスラム圏の拡大により、まちまちの方言で表記された。
当時は、パーチメントに書かれた『コーラン』が多かったようだが、音吐朗々(おんとろうろう)と読唱(どくしよう)されねばならない『コーラン』が、方言ではまことに都合が悪く、何度かの結集と統一が行われ、結集統一された聖典『コーラン』の配布が必要であった。
パーチメントの『コーラン』
このような時期に、サマルカンドで紙漉きの技術が伝わったのであった。
サマルカンドでは、最盛期には一つの川筋に300もの水車があり、そのうち140は製紙用のものであったといわれている。水車の動力で臼を回転させ、製紙用のボロ繊維の叩解(こうかい)を行ったのである。
サマルカンドで製紙が盛んになるにつれて紙が普及し、その後は紙に書かれた聖典『コーラン』は誰もが手元におくべきものとされた。
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■ダマスカス紙
サマルカンドで改良されたボロだけで紙を漉く技術が、ソグド人によって、イスラム圏の世界最大の文化都市のバクダッドへも794年に伝えられた。
さらに西進して、ダマスカス(シリア)でも製紙が始められた。
シリアの地図
ダマスカスは、もともとバクダッドが建設されるまでは、アッバース朝の首都であった文化都市であった。
ヨルダンの隣国シリアでは、9世紀に首都ダマスカスを流れるバラダ川(BaradaRiver)支流のダマスカス城壁外の地域でいくつもの製紙工場があったという。
ダマスカスの紙は、シリアンペーパー(ダマスカス紙Charta Damascena)とも言われ、大量に生産され、11世紀にはエジプトに大量に輸出されていたという。
9世紀当初の紙は、黄茶色で平滑な表面だが繊維塊があり、柔らかく曲がりやすく、厚くて品質的にはあまりよくないとも記されている。
ダマスカスでの製紙の図
このダマスカスで漉かれた紙は、その後品質が改善され、地理的条件からもヨーロッパへ輸出された。
ヨーロッパでは、紙の代名詞としての「ダマスカス紙」の名で流通していた。
製紙法は、国際商人ソグド人によってイスラム圏の各地に伝えられ、エジプトでも900年代には、パピルスがすべて紙にとって変わられた。 さらにアフリカの地中海沿岸を西進して、1100年にモロッコのフェズで製紙が開始されている。
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■ヨーロッパへの伝播
地中海を渡ってヨーロッパで最初に紙が漉かれるのは、スペインのサティバで1150年頃とされている。この頃のヨーロッパでは、ギリシャ・ローマ教会が完全に分裂し、ローマ教皇(きようこう)が絶頂期を迎えた時期であった。
このころ十字軍の遠征が始まり、都市の勃興期でもあり、それにつれて商工業が活発となり、貨幣経済が進展した時代であった。
この時代のフランスで南部のエローでは1189年、製紙工場が建設され、イタリアのファブリーノでも製紙工場が造られたのは1264年である。
西欧で最初に使用された漉き桁は、細い針金を水平に並べ、垂直の細い針金でつないだものであった。この漉き桁で漉いたた紙は、光に透かすと、簀の目のあとが見える。これをヒントに透かし模様の技術が開発され、当時、紙を漉かせた有力者の印として、また製紙工場がその名と品質を証明する印として、透かし文字をいれた。
1264年創業のイタリアの老舗文具メーカーに「FABRIANO」がある。
その創業はファブリーノでの製紙業で、その品質は何世紀にも渡って画家や著名人に愛されきた。
今日でもイタリアの紙のブランドの代表である。例えば、ローマ法王、オーストリアの皇帝フランツ・ヨーゼフ、画家のターナーやミケランジェロたちも、
「FABRIANO」の紙を使用していたという。
ヨーロッパ全土に製紙が広まるには、およそ300年の歳月を必要とした。
その後フランスは、中世における最大の製紙国となってゆく。 中世のヨーロッパでは、カトリック教会が支配していた。
フランスの製紙工場
キリスト教の聖典『新約聖書』は、キリスト教団の成立後、その布教の長い歴史の課程で、多くの人々によって書きつがれたものである。ただ、中世カトリックでは、『聖書』は教会が管理するものされていた。
後のプロテスタントと違い、カトリック教徒は、すべてを教 会にゆだねている。神の教えは教会を通じて伝えられ、神への祈りも教会を通じて行われる。個人として、神と直接対話を行うことは許されず、神の代理の司祭を通じなければならなかったのである。
このような中世ヨーロッパでは、キリスト教徒は個としての確立が遅れ、必然的に紙の需要も神職者に限られたのであろう。ついでながら、西方世界に紙を伝えたサマルカンドは、1258年モンゴル軍によって完全に都市を破壊されている。
FABRIANO の手漉き ラテン語の『新約聖書』
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■紙漉の伝来
製紙の日本への伝来は、地理的条件からヨーロッパへの伝来に比較して500年以上も早く、飛鳥時代の推古(すいこ)18年(610)に高麗僧「曇徴(どんちょう)」によって、紙漉と墨の製法が伝えられた。
『日本書紀』には
「高麗の王、僧曇徴(どんちょう)、法定(ほうじょう)を貢上(こうじよう)す 曇徴は五経を知れり 且(ま)た能く彩色及び紙墨を作り 併(あわ)せてみず臼(水車を利用した臼)を造る」
と、ある。高麗王が、先進技術者の二人の僧を日本に派遣したのである。
貢上(こうじよう)とは、貢ぎ物を差し上げるという意とともに、人を推薦する意味があり、この場合は後者で使用されている。
『日本書紀』
水車を利用した石臼は、紙漉原料の麻のボロや麻クズの繊維を細かく砕く(叩解(こうかい))の為のものであろう。石臼とは碾(ひ)き臼のことである。
二枚の円形の石を重ねて擦りながら回す、いわゆる「ロータリーカーン」のことで、西南アジアで小麦の栽培が普及し、小麦を粉にするために発明され、長い時間をかけて改良された。
米食圏では碾(ひ)き臼は必要でなかった。稲は脱穀し、木臼と杵(きね)でつくだけでよかった。
小麦圏では、粉にするために石臼が発明され、さまざまの試行錯誤がなされた。
古代の臼とロータリーカーン
当初はむろん人力で小型の石臼を動かし、次第に牛や馬の力で大きな石臼を回した。やがて中央アジアで、河の流れを利用する水車で石臼を回す水臼が開発された。
その後、小麦圏では一気に広まったと考えられる。 さらに、シルクロード経由で中国にも伝えられ、紙の発明とともに、原料である麻の繊維の叩解(こうかい)に利用されるようになったと考えられている。
歯車を使った水車
余談ながら、この水の流れを動力とし歯車を使った水車の発明は、紙の発明にも劣らない偉大な発明であった。
歯車を使った水車は、人類が手にした最初の自然の力を動力として使った機械といえる。
マルクスは『資本論』のなかで、
「すべての機械の基本形は、ローマ帝国が水車において伝えた。機械の発達史は、小麦製粉工場の歴史によって追求できる」
と、述べている。
■書物の初伝
日本への製紙技術伝来以前に、むろん紙そのものは書物としてもたらされている。
太安万侶(おおのやすまろ)の『古事記』では、応仁天皇(おうにんてんのう)16年(285)に百済(くだら)の王仁が『論語』十巻と『千文字』一巻を伝えたのが、日本における書物の初伝としている。
論語(清家文庫)
ところが、『千字文』の作者は応神天皇(おうじんてんのう)よりも100年も後の人で、『古事記』の内容には誤りがあり、書物の初伝ははっきりしないが、4世紀から5世紀には書物として、紙が伝来していたと推測されている。
「千字文(せんじぶん)」とは、梁の武帝が王義之書から千字を集めて作らせた書の手本であり、日本で言う「いろは歌」に相当するものである。
「天地玄黄(げんこう) 宇宙洪荒(こうこう)・・」に始まる四字一句・250句からなり、一つとして文字の重なりがなく美文であるため、中国および東アジア全般における最も重要な題材として、古くは智永(随代)をはじめ数多の名筆家が書き残している。
中国古代の千字文
ところで 西方への製紙法の初伝は、戦時捕虜という予期せぬ出来事で、しかも日本への伝来から140年以上も経過していることは、すでにふれた。
この事実から、高麗王が製紙技術者を日本へ派遣したのは、希有(けう)の幸運であったと言わざるをえない。高句麗王朝は成立以来、後漢の王朝を宗主国と仰ぎ朝貢国として親交があった。このために、例外的に国家機密の製紙法が特別に伝えられたと考えられる。
飛鳥時代の大和朝廷は、この高句麗(こうくり)王朝への朝貢国であった。
このため朝鮮半島から仏教やさまざまの技術や文物などがもたらされ、人の交流も盛んな時代であった。
このような状況から、高句麗王朝から日本へも、例外的に製紙技術者を派遣されるという、幸運を得、西方世界よりいち早く、世界の大発明に接することができたのである。
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■図書寮
我が国へ紙漉の技術が伝来してから100年ほどして、本格的な紙の国産化が始まった。
大宝律令(たいほうりつりよう)(701)によって国史としての『古事記』『日本書紀』や、各地の『風土記(ふどき)』の編纂のために図書寮(ずしょりょう)が置かれた。直に紙漉をするとともに、各地からの紙の調達もその職務に定められた。
国宝『古事記』(大須観音)
『風土記』は、元明天皇(げんめいてんのう)(713)の詔(みことのり)で、諸国で編纂した官撰の地誌で、郡(こおり)名の由来・伝承・産物・土地の状態などを、各国庁が解説文として編纂したものである。
739年頃成立の『豊後風土記』 最古の写本7文禄3年(1594)
律令制で図書寮は、八省のひとつの中務省(なかつかさしよう)に属し、図書の保管・書写、官用の紙や筆墨の供給と、国史の作成や、宮中の仏事などを任務とした役所であり、「ふみのつかさ」ともいわれた。
その図書寮(ずしょりょう)では、34人の人員の内、4人が紙漉の造紙(ぞうし)手で、写書手が20人いたと記録されている。さらに図書寮(ずしょりょう)の下に、山背国(やましろこく)(山城国・京都)に「紙戸(かみこ)」と呼ばれる平民の紙抄き専業家を置き、租税を免除して官用の紙を漉かせた。
日本最古の紙漉図
このほかにも各地で紙を漉かせて、これを付加税として徴収していた。
天平(てんぴよう)9年(737)には、美作(みまさか)、出雲、播磨、美濃、越などで紙が漉かれるようになっていることが、『正倉院文書(もんじよ)』に記されている。
618年に随を滅ぼして唐が建国され、その10年後には唐は全中国を統一している。
第一回目の遣唐使は、はやくも630年に派遣されている。そして、唐の影響で初めて年号を定めて、大化(たいか)元年としたのが645年であった。いわゆる「大化改新(たいかのかいしん)」である。
遣唐使は多量の漢籍や仏典の輸入を伴い、これらを写経して諸国に配布して、仏教の流布を行うため国分寺や国分尼寺が建立された。
天平11年(739)頃には、写経司という役所が設けられ、写経事業の推進のために紙の需要がさらに拡大していった。
『正倉院文書(もんじよ)』の「図書寮(ずしょりょう)解(げ)」宝亀(ほうき)5年(774)の記録によると、紙の産地として、美作(みまさか)(岡山北部)、播磨、出雲、筑紫、伊賀、上総(かずさ)(千葉)、武蔵(東京,埼玉)、美濃、信濃、上野(こうつ゛け)(群馬)、下野(しもつけ)(栃木)、越前、越中、越後、佐渡、丹後、長門(ながと)、紀伊、近江の19カ国に及んでいる。
奈良 平城京旧跡
昭和36年に、平城京や長岡京跡の発掘調査が行われ、40点の木簡が出土して話題を集めたが、その後の発掘の進展で数万点の木簡(もつかん)が出土している。
平城京遷都(せんと)が710年で、長岡京への遷都が784年であり、紙はかなり普及していたはずなのに、この時代の遺跡から夥(おびただ)しい木簡が出土している。
ただ出土している木簡は、一簡に書かれたもので、それを紐でしばる册の形のものはないようである。
平城京跡で発掘された「若狭の荷札」の木簡の写真には、
「三方郡弥美郷中村里 別君大人三斗」
と記されている。同文の二点の木簡(おそらく同じ荷に付けられていた)のように、税目・品目が記されていないものも、三斗という量から、塩であろうと推定されている。
なお当時の枡は現在の四割程度の大きさで、三斗は今の一斗二升(二一・六リットル)程度にあたる
木簡が紙より優れている点は、雨に濡れても破れる事がなく、紙より丈夫で価格が安かった。 従って商品の流通に伴う荷札などの用途には、木簡の方が機能的に優れている。
また心覚え書き程度の記録なら、手身近な木簡の方が、安くて便利であったのであろう。
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■国産化初期の紙
最も古くから漉かれた紙は、麻紙(まし)で、原料は大麻(Hemp)や苧麻(ちょま)(Ramie)の繊維や、麻布のボロや古漁網などから漉かれた。
麻は繊維が強靱なので、多くは麻布を細かくきざみ、煮熟(しやじゆく)するか織布を臼で擦りつぶしてから漉いた。
漉きあがった麻紙(まし)は、表面が粗いので紙を槌で打ったり(紙(かみ)砧(きぬた))、石塊、巻貝、動物の牙などで磨いたりして表面を平滑にした。
つぎに空隙を埋めるために、石膏、石灰、陶土などの鉱物性白色粉末を塗布する。
さらに墨のにじみ(遊水現象)を防ぐため、澱粉の粉を塗布するなどの加工を行う。
日本最古の紙(702年) 筑前(福岡県)の戸籍の楮紙
しかし麻紙(まし)は、取り扱いが難しく、次第に楮(こうぞ)に取って代られ、一時期は消滅してしまった。
麻と同様に繊維が強靱で、しかも取り扱いが易(やさ)しい、増産に適した穀紙(こくし)と呼ばれる楮(こうぞ)を原料とした紙が次第に普及していった。
穀は梶の木のことで、楮(こうぞ)の木とも書き、楮と同属の桑科の落葉喬木(きようぼく)で、若い枝の樹皮繊維を利用する。抄造(しょうぞう)は麻紙(まし)と同様に煮熟して漉いた。
繊維が長くて丈夫な紙となり、写経用紙や官庁の記録用紙として、染色されずにそのまま用いられた。
紙のきめや肌がやや荒いが、丈夫で破れにくく、衣食住のさまざまな分野に応用されて使用されてゆくことになる。
『正倉院文書』の一部
『正倉院文書(もんじよ)』の神亀4年(727年 奈良時代)の「写経料紙帳」に、麻紙(まし)、穀紙(こくし)、染紙が使用されたとある。
同じく天平19年(747)の条には、斐紙(ひし)の名がある。
斐紙は雁皮紙(がんぴし)のことで雁皮(がんび)を原料とした紙で、繊維が短く光沢があり、きめの細かいつやのある紙になる。
雁皮紙(がんぴし)
さらに天平(てんぴよう)20年(748)の条には、檀紙(だんし)の名がある。
檀は真弓とも書き、主に弓を作る材料に利用されたニシキギ科の落葉亜喬木で、若い枝の樹皮繊維を利用した。檀紙(だんし)は陸奥(むつ)紙とも書き、みちのくのまゆみ紙といわれ、厚手で白色の美しい紙であったという。
美濃・筑前・豊前の紙は、現存する日本最古の楮紙である。大宝律令(たいほうりつりよう)(701)のもとに作成された戸籍用紙で、現在も奈良の正倉院に保管されている。
■彩色加工紙
『正倉院文書(もんじよ)』天平勝宝(てんぴようしようほう)4年(753)の条には、植物で染色された五色紙・彩色紙・浅黄(あさぎ)紙などの十数種類の色紙と、金銀をさまざまにあしらった、金薄(きんうす)紫紙・金薄敷緑(しきみどり)紙・銀薄(ぎんうす)敷紅(しきあか)紙などの十数種類もの加工紙の名がある。
敷緑(しきみどり)や敷紅(しきあか)は紙の染め色のことである。
植物で染色された彩色紙
この他に『正倉院文書』には多くの紙の名がある。
原料名を示す麻紙(まし)・斐紙(ひし)・穀紙(こくし)などの他に、紙屋(かんや)紙・上野(こうずけ)紙・美濃紙などの産地名や固有名詞を冠するものがある。
また加工法を表す打紙(うちがみ)・継紙(つぎがみ)(端継紙)、形と質を表す長紙・短紙・半紙・上紙・中紙、ほかに用途を示す料紙(りょうし)・写紙・表紙・障子料紙(りょうし)、染料の名を示すもの、色相を示すものなど実に多くの紙の名がある。
ここでいう障子料紙(りょうし)とは、明かり障子のことではなく、間仕切りの総称としての障子にはるものをいう。
彩色紙の継紙(つぎがみ)
図書寮(ずしょりょう)が置かれ、官庁の紙の需要増大に対応して、年間の造紙(ぞうし)量を二万張(幅二尺二寸長さ一尺二寸)と規定し、さまざまの造紙(ぞうし)の工夫がなされるようになった。
図書寮(ずしょりょう)とその付属の山城国50戸の紙戸(かみこ)が指導的立場で、写経用紙をはじめ夥(おびただ)しい色紙、染紙、手の込んだ加工紙などが抄造(しょうぞう)され、華麗な天平文化の一翼を担ったのである。
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■世界最古の印刷物
この時代の特筆すべき事項として『続日本紀(しよくにほんぎ)』(平安初期の勅撰の史書。697~791年の95年間を編年体で記している)によれば、宝亀(ほうき)元年(770)に、百万塔陀羅尼経(だらにきょう)が完成されている。
この百万塔陀羅尼経(だらにきょう)が、現存する世界最古の印刷物とされている。
印刷の方法は、陽刻(ようこく)(凸状の版)に彫った版木に墨を塗り、その上に紙を乗せて摺(す)ったと考えられている。逆に、紙を下にして捺印(なついん)したという説もある。
陀羅尼経(だらにきょう)
捺印の歴史は古く、古代オリエント、ギリシャ、ローマ、中国でも印章として使用されていた。
紙以前の印章の版は、すべて陰刻(いんこく)(凹状に溝を彫ったもの)であった。
紙が使用されるようになってから、400~500年後に陽刻が登場したといわれている。 木版が初めて歴史に登場するのは、随の文帝13年(593)で、天下の書物を集めて、木版で刷るように命令したという。
やがて畢竟(ひっきょう) が北宋の頃(1041-48)、陶製の活字を発明したとされている。その後、後代の明になって鉛や銅などの金属活字が作られるようになっている。
陀羅尼(だらに)は、サンスクリット(Sanskrit インドの古典言語)の写音で、仏前で唱える呪文(じゆもん)のことである。
書籍の出版が盛んになるのは宋の時代(960~1127)で、その末期(1045年頃)に、中国で陀羅尼経(だらにきょう)が摺(す)られた。紙は、穀紙(こくし)または黄麻(おうま)紙などさまざまで、虫喰いを防ぐために黄檗汁(おうばくじゆう)で染められている。日本で百万塔陀羅尼経(だらにきょう)を摺(す)るため、図書寮(ずしょりょう)やその付属の山城国の紙戸(かみこ)だけでの抄紙能力では不十分で、各地の紙漉場が動員された。
百万塔陀羅尼経(だらにきょう)は一行が5文字で統一されており、紙幅が4・5㎝で長さは陀羅尼の 種類により一定していないが、15㎝~50㎝ほどである。
百万基の小さな三重の塔は、中国渡来のロクロを使用した木製の塔で、陀羅尼の摺(す)り本が納められている。
百万塔と陀羅尼経(だらにきょう)
この百万塔は、法隆寺・東大寺・興福寺・薬師寺・四天王寺など、名だたる十大寺にそれぞれ十万基づつ分けて納められている。
完成するのに、じつに6年の歳月を費やして完成している。
十大寺に分置された百万基の内、現存しているのは法隆寺の4万数千基と、他に博物館や個人所蔵のものが若干残っているだけである。
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■最初の女帝
百万塔の一大事業は、称徳天皇が、藤原仲麻呂の乱を平定したあと、乱に倒れた多くの人々の鎮魂と、国内平和を祈願して発願されたという。
称徳天皇の名は、再即位したときの名で、最初の即位は孝謙天皇で、女性の天皇として有名である。
また彼女が征伐した藤原仲麻呂は、藤原不比等(ふひと)の孫であり、彼女の母方の祖父も同じく藤原不比等である。つまり血のつながったいとこを粛正したのである。
孝謙天皇・称徳天皇陵
このような複雑な政治的な背景の下に、百万塔の一大事業が発願されたのであった。
なぜこのような血縁者の粛正をしたのか?挿話をはさむ。
藤原不比等(ふひと)は、中臣(なかとみ)鎌足(かまたり)(藤原鎌足(かまたり)は死後の名)の子で、不比等の子孫のみが文武天皇から藤原姓を名のる事を許され、太(だ)政(じよう)官(かん)の官職に就くことができた。
不比等が実質的な藤原氏の祖といえる。ついでながら、不比等という名は、「他に比すものがいない」ほど優れている、という意である。
不比等とその息子の藤原四兄弟によって、藤原氏の繁栄の基礎が固められ、最初の藤原氏の黄金時代が作り上げられた。
が、天然痘の流行により、藤原仲麻呂の父を含む藤原四兄弟が相次いで死去し、藤原氏の勢力は大きく後退し、代わって橘(たちばな)諸兄(もろえ)が台頭し、国政を担なった。
一方、藤原仲麻呂は、叔母にあたる光明皇后の信任が厚く、また阿倍内親王(天皇の姉妹・皇女)とも深い間柄であったとされる。
藤原不比等(菊池容斎画、明治時代)
やがて阿倍内親王が即位して「孝謙天皇」となると、藤原仲麻呂は、光明皇后と孝謙天皇の信任を背景に、政権と軍事の両方を掌握するようになった。
のち孝謙天皇は、淳仁天皇を建て上皇となった。こののち孝謙上皇(じようこう)の病を、祈祷で治した禅師の弓削道鏡(ゆげのどうきよう)が、上皇に寵愛され政治を壟断しはじめた。
上皇(じようこう)とは、天皇が譲位後に受ける尊称で、太上(だいじよう)天皇、太上皇ともいう。攘夷の経緯により、譲位後も天皇を凌ぐ権力を有した。
弓削道鏡(ゆげのどうきよう)は、孝謙上皇によって太政大臣禅師となり、翌年には法王となって、仏教の理念に基づいた政策を推進した。このため、藤原仲麻呂は淳仁天皇を通じて、孝謙上皇に道鏡との関係を諌めさせようとした。
これが孝謙上皇を激怒させ、仲麻呂を推す淳仁天皇から実質的に政権を奪い、弓削道鏡を重用した。危機感を抱いた藤原仲麻呂は、反乱を計画したが密告により発覚し、孝謙上皇に先手を打たれて、藤原仲麻呂は敗北し、仲麻呂の一族は、二人を除きことごとく殺された。 粛正の後、史上最初の女帝の孝謙上皇は、淳仁天皇を廃して再即位し、称徳天皇となったのである。
(左)称徳天皇の御筆跡 (右)道鏡の筆跡
かつて皇女の時代には、藤原仲麻呂と親密な関係であったが、のちに史上最初の女帝として孝謙天皇に即位してから弓削道鏡(ゆげのどうきよう)と深い関係をむすんだ。これが藤原仲麻呂の内乱に原因であった。
このような複雑な政治的な背景の下に、世界最古の印刷物とされる「百万塔陀羅尼経」の一大事業が発願(ほつがん)されたのであった。
ついでながら、百万塔は、極楽往生を祈願し、七日間に百万回念仏を唱える百万遍に由来している。百万とは、きわめて大きな数の意でもある。
よほど悔いるところがあったのであろう。
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