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フェザー商事倒産物語




  フェザー商事とは星野東装時代から通算して、30年もの付き合いとなった。
 そして百年もつづいた老舗の、あまりにもあっけない終焉を看取ることになった。
 フェザー商事倒産事件は、フェザー商事の社員にとっても、取引先企業にとっても、まさに青天の霹靂(へきれき)であった。
 フェザー商事は、元々三社の合併で誕生しているが、その中核会社の服部商店の創業は、江戸時代末期に創業した刃物問屋という老舗であった。

 戦後直ぐの流通革新の時代に、三社が合併し、東京、名古屋、大阪、福岡に支店をもつ、フェザー商事としてグローバルな問屋として変身していた。
 その後に、北海道、仙台、広島などにも営業所を展開し、いちはやく全国規模の問屋として、大手量販店などへ対応を図っていった。

        

 フェザーの名の由来は、自社ブランドとして製造販売していた安全カミソリの主力商品に由来している。
 刃物の産地として有名な関市に刃物工場をもち、「フェザー安全剃刀」として販売していた。
 昭和28年に、製造部門を分離独立させて「フェザー安全剃刀(株)」がスタートしていた。

 その後、フェザー安全剃刀はメーカーとして大きく成長し、剃刀メーカーとして有名ブランドになり、海外のメーカー「シック」などと対等に競争していた。
 「フェザー安全剃刀(株)」は、成長に伴って何度も増資を繰り返し、元々の親会社であったフェザー商事の持ち株比率は年々低下し、最後は有力代理店ていどの関係となった。

 このフェザー安全剃刀は、現在も躍している企業で、創業70周年(2002年現在)を迎えている。
 ところで、フェザー商事が倒産したとき、倒産と直接関係の無いフェザー安全剃刀が窮地に立たされた。

 それは「フェザー」の商標登録を、フェザー商事が持っていたからである。この「フェザー」の商標登録を巡って、フェザー商事倒産事件に絡んでいた債権屋が、フェザー安全剃刀に高額で「フェザー」の商標登録の買い取りを要求したらしい。
 フェザー商事が倒産した時点では、色々な事件があってヤクザが代表取締役の印を握っていて、フェザー安全剃刀に、「フェザー」の商標の使用差し止めをすると、フェザー安全剃刀に迫ったらしい。テレビ宣伝などもしており、「フェザー」としては、窮地に追い込まれたようだ。
 元々は、フェザー商事の製造部門であったが、別会社として分離独立した後、独自の商品開発と、独自の営業戦略により急成長をとげた。その過程でさまざまなイメージ戦略と広告媒体を駆使して「フェザー」ブランドを有名ブランドに育ててきた。

 が、肝心の商標登録は、かつての親会社のフェザー商事が握っていた。
 フェザー商事倒産事件に絡んで、進駐軍のごとく乗り込んできたヤクザの債権屋は、この「フェザー」の商標登録に目を付け、1億円という法外な価格で買い取りを要求したらしい。しかし有力な弁護士が付いていたフェザー安全剃刀では、自社で育成してきた商標を法外な価格で買うとは言わなかった。すでに十分な企業体力を持っていたから、万一の時には新しいブランドを作って、大々的に宣伝して行く覚悟もしたらしい。

 この結果、この商標権を巡るヤクザとフェザー安全剃刀との攻防は、フェザー安全剃刀が新たにブランドを作ることを覚悟したことで、債権屋はあわてて、1億円という言い値をあっさり2千万円まで引き下げてきた。
この結果、フェザー印は今でも広告でみることができる。
 
 さてフェザー商事の倒産に至る事件のことである。
 なぜ百年もの歴史を有し、企業業績も順調だったフェザー商事が、なぜ突然に倒産に追い込まれるようなことになったのか。

 事の起こりは、フェザー商事の社長だった星野公二が、名古屋支店長をしていた息子から持ち込まれた「儲け話」にある。いわば社長の息子というだけで、実力の伴わない名古屋支店長であった。
 その星野公太郎支店長に、衛生用品の製造工場を、有利な条件で買わないかという話が持ち込まれた。土地と設備も整っていて、単なる不動産投資としても有利な物件であった。この資金繰りに行き詰まった衛生用品の製造工場を買い取って運営すれば、メーカーとしても大きなメリットがあると売込まれたらしい。

 この衛生用品の製造工場は、元々大手の下請け工場としての実績があったが、本業意外の不動産投資に失敗して資金繰りが行詰まった。だから、資金的なてこ入れさえすれば再建は容易だと売込まれたらしい。
 この当時のフェザー商事は、星野公二のワンマン体制が確立していた。
 このため、まだ実績の無い息子の名古屋支店長を、社内的に存在感を示すことができるように、この舞台装置を使うことを考えたらしい。
 元々衛生用品の製造業は順調だったのなら、フェザー商事が買取って運営すれば、その業績は引き継がれるであろうと判断し、息子を社長に送り込むことを考えた。
 
 話が前後するが、フェザー商事は、戦後に服部商店、木村商店と福岡の金物問屋の三社の合弁でスタートしている。対等合併であったから、当初は社長は各社の持ち回りで経営されたらしい。その後、各問屋の社長が亡くなり、二社には二世にも恵まれず、服部家にだけ優秀な跡継ぎがいたため、服部社長時代がながくつづいた。
 
 ところが時代の変化でしだいに経営が悪化し、銀行の紹介で三宝商事の支援をうけることになった。このため、三宝商事からの出向者が、フェザー商事の社長を務めるようになった。が、社長は概ね3~4年で三宝商事に戻っていた。実質的な運営は、フェザー商事の生え抜きの取締役で運営されていた。

 ところが、星野公二だけは出向ではなく、三宝商事を退職して正式に移籍してきた。
 多分、三宝商事での出世コースから外れ、子会社のフェザー商事に骨を埋める覚悟で転籍してきた。しかし、あくまでも三宝商事をバックに背負っているから、その発言権は大きかった。だから、代々の服部家や木村家などの縁者を外して、次第にワンマン体制を作っていったらしい。こうして、自分の息子の星野公太郎までフェザー商事に入社させ、いきなり名古屋支店長に据えた。

 当然、古参社員の不満はあったであろう。それを押さえ込むには、息子に何か新しい事業で実績を付けさせたかったのであろう。何か新しい事業を担当させ、それを成功させることで社内の存在感を高め、やがては自分の跡継ぎにしたいとでも考えたであろう。
 そんな状況のなかで、格好の新規事業買収の話が舞い込んできた。

 星野公太郎の大学時代の知合いであった武藤某から、その儲け話が持ち込まれたのである。世間知らずの星野公太郎は、条件の良すぎる甘い話を鵜呑みにして飛びついた。
 社長の星野公二は、前向きに検討しようと内諾を与えた。が、ただ物件の調査を興信所に依頼した。話を持ち込んできた武藤某は、条件が良いから競争になっている。
 こんな条件の物件は他に無いから、はやく仮契約をしてほしいと迫った。

 星野公太郎は上手に煽られて、独断で武藤のいうままに、仮契約にサインをした。
 問題の物件も見ず、契約相手のことも調べず、安易に仮契約をした。このことが、フェザー商事の致命傷になるとは考えもしなかった。
 やがて社長が手配した興信所の報告では、該当物件は企業が既に倒産して、暴力団の債権屋が占拠している。しかも、話を持ち込んできた武藤自身が、暴力団住吉会系所属の事務所に関係していることなどが判明した。
 社長の星野公二は慌てて、息子に仮契約を破棄するよう指示をだした。星野公太郎が、武藤へ仮契約の破棄を申し入れると、武藤は暴力団の素顔に変身した。

 「先方とすべての手続きを済ませ、手付け金も支払っているから。今更、契約破棄はできない」
 しかも「契約相手はカタギではない」と暗に暴力団が契約相手だと脅し、なおさら契約破棄はできないとすごまれた。フェザー商事としては、あくまで仮契約だから、違約金を支払って、契約を破棄したいと申し入れた。
 が、極道の世界では、仮契約も、本契約もなく、すべて約束事だから、契約不履行はとんでもないことになる。と、種々脅しの文言をならべて凄まれたらしい。

 さらに後日、社長の星野公二のもとに、桐箱に入った小指が郵便で届けられた。手紙には武藤の小指だと書かれていたという。そして星野公太郎も責任を取れ。と書かれていたらしい。星野公二は血の気が失せ、青ざめ震え上がった。
 そして武藤自身が、社長の星野公二もとに現れ、切り落とした小指の包帯をみせながら、責任をとれと脅迫してきた。しかも、「この場で誠意を見せろ」と、匕首をちらつかせて脅し、小指を落とすのが嫌なら「白紙手形」を出せと脅した。
 星野親子は、震える手で、白紙手形を渡した。
 一方で、武藤は白紙手形は預かるだけで使うことはしない。本当の誠意をみせれば、手形は返却するとも言ったらしい。こうして「白紙手形」を握った武藤は、フェザー商事の生命線を握ってしまった。この手形を背景に、武藤自身をフェザー商事の役員として登記させた。このような経緯で、住吉会系の暴力団の武藤が、フェザー商事の実質の代表権を握った。

 そうして短期間に、フェザー商事の手形を乱発して、武藤は大金を手にして倒産させた。
 倒産前のフェザー商事の信用度はたかく、フェザー商事の手形なら高い価格で換金できたであろう。こうして、突然、百年の歴史を持ったフェザー商事が、何の前兆もなく、なにも知らされていない中で、突然に不渡りをだして倒産した。
 まさに青天の霹靂であった。星野公二はなぜ、警察に相談しなかったのであろうか。小指一本で、フェザー商事を倒産させた。

 第一回の債権者集会が、フェザー大阪本社で開かれた。債権者集会に参加したフェザーの役員は、武藤某と一部の部長クラスの三、四人であった。そしてとても債権者集会とは思われないような、脅しをまじえた説明会で驚ろかされた。
 初めて見る武藤常務と称した男は、総髪をうしろで髷のように結んだ異様な風体で、大きな身体で鋭い大きな目で、集まった債権者をにらみ据えるようにして、ドスの利いた声で、
 「経理責任者の武藤です。経理担当常務です。この度は大変ご心配をおかけしました。しかし、不渡りをだしましたが、まだ再建の見込みはあります。これからも宜しくお願いします。私は日大で武道をやって来た男です。武力も体力も十分です。何かご不満の会社があれば、私に申し出て下さい。いちいち、私がお伺いします」

 まさに暴力団の挨拶であり、参加者はみな唖然とした。また、どの債権者も武藤常務を知っているものは無かった。債権者集会に参加していた加藤部長や百合本経理部長は、星野時代からの付き合いがあって懇意であったから、事情を聞いた。
「済みません。私達も何が何やら分からんのです。社長は行方不明で、連絡が付きません。武藤常務はごく最近、取締役に就任したばかりで、彼が経理をかき回して、不渡りがでた」
 そのような説明であった。後日、仕入れの加藤部長から連絡があり、物流センターや各支店にある在庫は、各メーカーが返品で引取って欲しいと要望があった。
 メーカーとしては返品引取りの分だけでも、債権額が減るから、みな返品処理を受けた。これは現場の担当者のせめてもの誠意であった。

 フェザー商事の幹部と債権者が話し合い、「社長の星野公二と連絡がつかない以上、暴力団と対決するためには、破産申請をするしか方法が無い」ということで合意した。
 こうして大阪地方裁判所に破産申請手続きがなされ、訳の分からない事情で倒産してしまった。正式に破産手続きが行われ、正式の債権者集会が中之島公会堂で行われ、破産管財人の弁護士から、倒産に至る経緯について説明が行われた。
 福岡支店の柴田賢一とともに出席した。
「星野公二親子は、名古屋支店での新規事業の契約トラブルで恐喝され、武藤某を経理担当の役員に迎えることになった。役員となった武藤は、星野公二から代表印を預かり、数億円もの手形乱発で使途不明金をつくり、会社を倒産させた。倒産後もフェザーの登録商標を、フェザー安全剃刀に2千万円で売却しているが、会社にその金も入金されていない。 また武藤某と、星野公二親子に対しては、特別背任で刑事告訴の準備をすすめている」
そのような内容であった。

 問題の武藤某と、星野公二親子は行方不明のままで、残された幹部達で倒産後の残務整理を黙々と処理していた。この中之島公会堂に、かつて懇意にしていた富永康常務とばったりであった。この時は、すでに定年退職していたが
「腹が立って、腹が立ってしょうが無いんです。なんでこんな事になったのか、確かめに来たのです」まるで債権者のような言い方であった。
 かつては名古屋支店長を長くつとめ、やかで大阪本社で経理担当の常務として定年を迎えている。その一生をフェザー商事とともに歩んできたが、三宝商事の進駐軍の星野親子に、非常識な儲け話に踊らされ、あっけなく潰されたことに対する怒りと、自分たちの部下が五十代なかばで路頭に迷うことになったことにも、大いに腹を立てている。
 富永康は名古屋支店長のころ、星野東装時代に懇意にして頂いた。このころの名古屋支店には、当時の百合本課長と加藤課長がいて、同行販売したことがある。
 百合本課長とは、静岡の沼津市に本部のあった「マキヤ」の本部へ、何度も商談に訪れたことがある。星野東装が倒産し大阪サンコーに着任したころは、加藤は大阪本社の営業部長で、百合本名古屋支店長となっていた。富永康は本社の経理担当の常務であった。

 富永常務は、経理の自分の後継には、一番信頼の置ける人物として百合本を推奨して、大阪本社に転任させ、財務システムの室長に就任させていた。
 富永常務は65歳で定年退職したが、定年後もフェザー商事恒例の見本市には、何度か顔を見せていた。見本市は、春と秋の二回、淀屋橋のOMMビルで開催された。

 退職後に見本市会場で富永康にであい
 「悠々自適の生活で、羨ましいですね」
 「いやー定年というのはね、妻の顔と一日中つき合うことに、如何に絶えるかという事ですわ」と笑っていた。

 なるほど、何か外出する用事をみつけ、見本市に顔を出しているのか。と、妙に得心した。
 さて大阪サンコーとしては、予期しないフェザー商事の倒産で、4千万を超える売掛金が未回収となった。
 とくに福岡支店の主力販売先のユニード、オサダ、熊本サンコーその他の窓口であったから、福岡支店の最大の販売先であった。
 突然、4千万を超える未回収金が発生したが、サンコー工業では「倒産保険」に加入していたから、連鎖倒産は免れた。 
 専務の柴田賢一と常務の筆者は、取締役の責任として、役員報酬の二割カットを退職するまで続けた。破産手続きから二年ほどして、弁護士から配当金が支払われ約一割の400万円ほどが振り込まれた。大阪サンコー最大の事件であった。
 



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