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シーガイアと  旭洋倒産物語
    


 旭洋勧業もその親会社の旭洋も、フェザー商事と同様、倒産するとは、考えることもしなかった優良企業の取引先であった。最初に倒産したと聞いたときは、耳を疑ったほどであった。

 旭洋は、紙の専門商社としては大手に属し、佐藤棟良が一代で築いた会社で、年商1300億円の規模を誇っていた。
 この佐藤棟良は急成長の影で、政治家とのつながりをビジネスで発揮し、吸収合併を繰り返して紙の専門商社として、一代で全国ベスト6位という堂々たる商社に育て上げている。
 そして東京日本橋と大阪日本橋に旭洋ビルを所有していた。またガソリンスタンドも経営し、その不動産管理とガソリンスタンド運営のため、旭洋勧業を設立していた。

       

 さらに佐藤棟良は事業欲が旺盛で、出身の宮崎にフェニックス観光という会社を設立し、フェニックス・ホテルとフェニックス・カントリークラブというゴルフ場の経営にも乗り出していた。フェニックス・カントリークラブは、ダンロップのトーナメントなども行われる有名ゴルフ場であった。

 バブル期に日本中が不動産投資で沸き立っていた頃、佐藤棟良の先輩で地元の宮崎交通社長の岩切章太郎社長と、松形宮崎県知事と三人で、宮崎を一大観光都市へ生まれ変わらせる構想を話合った。この構想が、のちに宮崎県の第三セクターとして立ち上げた「シーガイア」という海浜総合リゾート施設であった。

 そして華々しく、高層ホテルフェニックスと隣接する「シーガイア」はオープンし、新しいスタイルのリゾート施設として全国にその名が知られた。
 しかしやがてバブル崩壊が起き、平成13年2月のシーガイアの破綻と、それに連鎖して巨額な借入金の債務保証会社であった旭洋と旭洋勧業も連鎖倒産してしまった。

       

 
 以下は、「宮崎日日新聞」のシーガイア倒産の経緯を追った連載記事からの引用である。
 宮崎市の大型リゾート施設「シーガイア」を運営する第三セクターのリゾートなど、グループ三社が、宮崎地裁に会社更生法を申請した。

 経営が破綻してから19日で1月となる。観光業界にとどまらず、本県全体を揺るがした一時の衝撃は沈静化した。懸念された旅行客の激減、県内取引業者の連鎖倒産という最悪の事態には至っていない。
 会社更生法に基づく再建を勧めているフェニックス・リゾート(宮崎市)に出資する、旭洋・旭洋勧業(大阪市)が特別精算することになった。フェニックス・リゾート社の同法申請後、初の連鎖倒産となった。

 旭洋は、フェニックス・リゾート社の主取引銀行である第一勧業銀行の、フェニックス・リゾート社向けの融資の一部を債務保証していた。会社清算で資産を売却し、債務返済に充てるとみられる。
 金融関係者によると、大阪地裁に申立てが受理されたのは、平成13年3月7日である。旭洋の負債額は1千878億円で、このうちフェニックス・リゾート社を含むシーガイアグループ関連は、1千711億円に上るという。さらに子会社の旭洋勧業の負債総額は、1千760億円にも上っている。フェニックス・リゾートへの債務保証を含んでいる。
 
 旭洋は、紙の専門商社として1950年(昭和25年)に創業している。
 フェニックス・リゾート社の佐藤棟良前会長が経営していた。紙卸業界の再編成が活発化し、フェニックス・リゾート社の融資返済が本格化するなかで、経営に行き詰まった。
 旭洋は99年12月に、本業の紙卸と紙パルプ・化成品事業を営業譲渡し、残った不動産を管理する専門会社となっていた。

 紙専門の商社時代は、年商1300億円前後を売り上げる優良企業で、フェニックス・リゾート社に、第一勧業銀行などが2千億円融資したとき、債務保証をしていたとみられる。関連子会社の旭洋勧業(大阪市)も7日特別精算が決まった。佐藤棟良前会長は「何もコメント出来ない」としている。
 
 「シーガイア計画が決まったときは、サファリーパーク以来の観光施設になると歓迎した」
と、シーガイア構想が持ち上がった1987年(昭和62年)夏のことを、市ホテル旅館組合長の関屋勝興はそう振り返った。
 80年代に入り、海外や沖縄への旅行がブームとなり、宮崎県への新婚旅行ブームは終焉していた。低迷する観光産業の復興をめざしていた松形宮崎県知事。

 一ツ葉地区の、一大観光拠点化へ向けて、ホテルやゴルフ場を建設していた佐藤棟良。二人の利害は一致した。海(シー)と大地(ガイア)の言葉が、貝合わせするかのように、意見が一致した。佐藤棟良は
「松形知事は、『僕たちが死んだ後でも、宮崎の為になる物を作ろうじゃないか』と言ってきた。この話からシーガイアの構想が始まった」と述懐する。
 民活ブームを背景に、国の総合保養地域整備法(リゾート法)が追い風になった。県は日南海岸亜熱帯ベルトパーク構想を基に、官民あげての活動で、リゾート法指定第一号を88年に勝ち取った。当時の県の担当者は、指定を受けるため「とにかく上からは、急げいそげの連呼だった。設計には一部に見直しや縮小論もあったが、計画を練り直す余裕なんてなかった」と話す。

 このころ佐藤棟良は「資金は5千億円ある」と自信にみちていた。
 戦後、佐藤棟良は大阪を舞台に、一代で国内有数の紙専門の商社の旭洋などのグループ企業を築いた。商社で成功すると、故郷の宮崎の観光にのりだした。
 宮崎県大淀河畔のホテルにとどまらず、一ツ葉地区の松林内に白亜のホテルを二つ築き、さらに世界一流のプロゴルファーが集う、フェニックス・カントリークラブを創り「宮崎県内観光中興の祖」と自他共に認めていた。
 宮崎県の第三セクターのシーガイア投資計画が、当初予定を超えて、900億円を超えたころ、松形知事が、「ここで打ち切って、この範囲で行きましょうや」と忠告したが、佐藤棟良の耳には届くことはなかった。逆に、地価高騰で含み資産は増え続け、投資額が2千億円に達したころ、佐藤棟良は、松形知事にこう言った。

      

「知事、あの含み資産の5千億円が、一兆円になりそうです。2千億円くらい、どうってことない」
 都市部では、地価が倍々に膨らむバブルが始まり、佐藤棟良の成功への確信を強固なものにした。
 松形知事も、四選をめざす知事選が91年夏に迫っていた。だから政治的失態を意味する計画変更の話は、すぐに消えた。
 ホテルオーシャン45、オーシャンドーム、白砂青松のなかに聳える近代的な建物群は、元日本建築学会会長、文化功労者で日本芸術院会員の芦原義信(82)が設計した。
 設計を担当した芦原義信は、

 「ホテルの階数や建築の金額制限はなく、自由に設計できてやりやすかった」
とふりかえる。しかしシーガイア破綻は、芦原の耳にも届いた。駒沢オリンピック体育館、ソニービルなど、日本の現代建築の第一人者は、電話口の向こうで「私の設計が悪かったのか・・」と声を震わせていた。

 当初の開発計画は、佐藤棟良がオーナー社長を務めるフェニックス国際観光など、財界12社が、国際会議場や多目的スポーツ施設を中心に整備する、中核構想を策定したのは87年であった。
 まだオーシャンドームや高層ホテルなどの構想はなく、自然を活かした比較的質素な内容で、総投資額800億円であった。
 
 「私の集大成の仕事だ。故郷をよくするため、損得を抜きの事業をしたい」
佐藤棟良は、開発計画に強烈な執念を見せた。
「大地に足跡を残せ」を、観光開発哲学とする佐藤棟良の計画は、県や業者の期待を背負って次第に膨張する。県内の観光業者や県の幹部も、
 「大規模なリゾート施設が出来れば、通過型から滞在型の観光地に変わる。フェニックス国際観光を成功に導いた佐藤棟良さんなら間違いが無い」
 周囲の期待は、佐藤棟良の信念に変わる。

 88年のリゾート法第一号指定の一週間後に発表した計画は、投資総額こそ680億円に減ったが、初めてオーシャンドームと38階建ての高層ホテル構想が登場する。
 同年暮れの、フェニックス・リゾート社設立には、宮崎県や宮崎市も資本参加した、第三セクターとなり、官民の両輪は回りはじめた。90年の臨時総会では、高層ホテルが43階建てに上積みされ、投資総額も320億円増しの1千億円に変更された。

 さらに一年後には、一気に2千億円と、初期計画の3倍に跳ね上がった。
 投資額が増加した背景には、バブル経済による資材や人件費の上昇もある。
 また88年の調査で、地盤の弱さが判明し、施設再配備も迫られた。

 佐藤棟良は、芦原の設計に満足した笑みを浮かべることはあっても、首を横に振ることはなかった。
 高額な部屋、高額な料理から売れるというバブル期の真っ最中にあったからだ。最大5千人収容の国際会議場には、主要国首脳会議を意識した、サミットの名も冠され、質素な施設は、国際級施設に変貌していった。

 オーシャンドームに至っては、フェニックス・リゾート社の幹部がカナダ視察後、間もなく決まった。
 県幹部からも「海の横に、人工の海浜をつくるなんて」と疑問の声もだされたが、巨大化する計画に実現性への疑問も芽ばえ始めた。当時、県議であった宮崎市長の津村重光は

 「年間550万人の観光客を想定しているなら、もう一つ宮崎空港が必要だと感じた」
という。松形知事は
 「止めようとは言ったが・・。おそらくもう佐藤さんにも停められなかった」
と、当時の雰囲気を振り返る。国の許可をクリアーし、当初より1年8ケ月遅れで着工したのは、91年3月。しかし、既にリゾートブームに陰りがでていた。

 一ツ葉地区の松林に、建設の槌音が響きはじめ、オーシャンドーム、ゴルフ場、コンドミニアムなど、一期工事が着工して、白く巨大な施設群が徐々に、松林の中に姿を現してきた。当時、現場を視察した元県議は、案内した佐藤棟良社長が配った一枚の用紙に不安を覚えた。第一勧業銀行頭取名で、佐藤棟良に出された「1千億円の融資証明書」のコピーであった。

 「第一勧業銀行がバックに付いているから大丈夫だ」
と強調する佐藤棟良の意図に反し、元県議は
 「実は、金策に不安を抱えているのではないか」
 と真意を読み取った、という。さらに佐藤棟良、松形知事の 連名で、第一勧業銀行頭取にあてた「お礼とお願い」の書面も存在した。今後も融資継続を切望する内容で、佐藤棟良の自らの健康診断書まで添えた。
 1年後の92年3月には、ホテルオーシャン45、国際会議センター「サミット」などの二期工事もスタートした。当初、同時着工する計画もあったという。景気後退の影が忍び寄り、「急がなければ」という危機感が関係者にあった。元県幹部の述懐。

 「まず部分着工、部分開業で営業の様子を見て(二期分は、縮小を含め再検討すべき)という意見が、県庁内にあった。が、知事は(もうバックはできん)という考え方だった」
 結果的に一期と二期の間隔はわずか1年しかなかった。
 計画は見直されず、見切り発車された。また料金設定でも、フェニックス・リゾート社と県は意見が対立した。オーシャンドームの入場料は、大人4千200円で、東京ディズニーランドの3千400円より高い設定であった。ある県幹部は
「知事は繰返し(県民が利用しやすいよう、低料金でやってほしい)と要望したが、フェニックス・リゾート社は譲らなかった」と話す。

     

 フェニックス・リゾート社は、ドームの年間入場者を250万人、将来は施設全体で550万人を見込んでいた。この数字に明確な根拠はなく、2千億円を超す甚大な借入金を前に、「希望的予測」を示すしか方法が無かった。
 
 当時の内部資料で、13年度の稼働率を予測している。
 ドームは一日1万2千人の収容を目標にたいして、稼働率98%となっていた。つまり、連日1万2千人ちかい人が訪れると考えていたわけだ。いささか無責任な甘い目標であった。甘い見通しはフェニックス・リゾート社に限ったことではない。
 
 オープン直前、大手航空会社の宮崎支店長は
 「将来、ジャンボ機も見当しなければならないだろう」
と見通しを語り、地元自治会役員は、渋滞が心配と漏らしていた。

 一期工事は、93年7月に完了し、翌年10月には全面開業を迎えた。記念イベントで、世界的なミュージシャンのスティングがコンサートを開き、シーガイアは最高潮を迎えた。
 マスコミも「宮崎新時代」などと熱気を煽った。

 しかし、すでに地価や株など、バブルは崩壊を始めていた。が、シーガイア周辺には、妄想に近い期待を孕(はら)んだ、バブルがまだ膨らんでいた。その甘い計画と、甘い経営感覚を内包した、不安の混ざった小さな泡を、やがて吹き飛ばしてしまう。
 「私がした仕事です。シーガイアは誰の物でもない。佐藤棟良。この私が創ったのです」
と、熱っぽく、語っていた。99年の決算発表に、当時社長の佐藤棟良は、累積赤字がデッドラインの1千億円を超え、1千15億円に達したことを公表した。
 それでも尚、経営に強い執念をにじませていた。93年の開業から、一度も黒字をだすこともなく、雪だるま式に赤字は膨らんでいった。
 
     
   

 カリスマ経営者と言われた佐藤棟良の手法は、絶対的なトップダウンだった。元社員は
「幹部は、完全に佐藤イズムに洗脳されていた」
とまで、言い切る。社員バッチの井桁にSの字は、シーガイアではなく、佐藤の頭文字であった。

 佐藤棟良が築いたフェニックス国際観光は、名門ゴルフコースを抱え、県内では飛びぬけた価格設定にもかかわらず、全国から客を集めた。「県外客がターゲット」と佐藤棟良は公言してはばからなかった。シーガイアの元社員は、会社には変なプライドがあって、安売りすることは絶対になかった。黙っていても客が来るという驕りがあったという。シーガイアの経営悪化に、いらだつ松形知事は、佐藤に直談判で「県民向けの格安料金」の設定を申し入れたという。「県民が見向きもしない施設に、県外から人が来てくれるはずがない」と言い、平日の稼働率アップのためにも、やるべきと主張した。
 が、県外客にこだわるフェニックス・リゾート社が、重い腰をあげるまで一年を要した。
 経営の問題は、料金だけではない。

 「国際レベルの高級リゾートながら、運営ノウハウは素人だった」と元社員は言う。
ホテル開業直後、クロークが小さすぎて役に立たず、急遽事務所の改造を余儀なくされた。
 また、第一期入社で、現在も勤務する社員は「会社の社員教育が不十分で、オープン直後は客からのクレームが多かった」と声を潜める。
 
 あるとき、客が精算するとき、旅行会社の名をかたり、「支払いを後日に」と依頼された。対応した社員は、身元を確認せず、未払いのまま逃げられた事もあるという。
 赤字は右肩上がりで増える一方で、「社員の士気は、ジェットコースター的に下がった」と社員はいう。
 一方、担当部署を除く県庁全体では、「経営はよく分からないが、何とか成るだろう」という程度の認識であった。
 開業まで、最前線で計画に携わった県の職員は、県の立場を代弁する。「民間主導の第三セクで、県には経営の決定権はない。仮に県が口を挟んで失敗したとき、責められても、県は責任のとりようがないからだ。
 県民の立場で、要望するのがせいぜいだった」

 観光客を宮崎へ引っ張ってきた、とい自負心を捨てきれないフェニックス・リゾート社。
 同社への不信感をぬぐえず、第三セクターという名の、半官半民という宙に浮いた羅針盤で揺れ続けた宮崎県庁。アンバランスな力学で、経営は迷走した。
 主力銀行の第一勧業銀行は、99年9月、新規融資を打ち切りをシーガイアに一方的に伝えた。佐藤棟良がすがり、県が頼みとした第三セクターへの融資を、メガバンクが見捨てた。富士銀行、日本興業銀行との合併を翌年秋に控えていたから、不良債権を少しでも減らしたい正念場であった。が、協調融資団の18行には、第一勧業銀行の背信行為と映った。
 
 破綻し会社更生法の適用申請後、宮崎銀行の飛松健二頭取は、「第一勧業銀行が全額債権放棄するのは当たり前だ」と不信感をにじませた。 
「客をじつと待っているのが、これまでの観光業界だった。だが時代が変わってしまった。バブル崩壊を知っていたのに、実は、一番分かっていなかった」
 翌年10月、フェニックス・リゾートは、リストラと経営強化策を発表した。
 佐藤棟良に代わって会見に臨んだ副社長の中村浩は、ここに及んで時代認識を見誤ったことを認めた。リストラは、社員全員が血を流す激しいものだった。

 基本給の一律20%カット、冬期賞与支給ゼロ、肩書きに応じた販売ノルマの設定などであった。翌年1月末までの4ヶ月で、フェニックス・リゾートで145人、フェニックス国際観光で50人が会社を去った。二期生として入社した元社員は、当時の様子を「営業で外廻りをしながら、次の就職先を探す社員もいた」と話す。
再就職先が見つかると、職場仲間が「良かったね」と励まし、引き留めることはなかったという。幹部はこの頃から、「第一勧銀ではなく、債務を保証している旭洋がバックにいるから大丈夫だ」となだめ、また「第三セクだから、なんとかなる」と自らに言い聞かせたという。
 経営破綻は「責任の所在を曖昧にした第三セクだったことが原因だ」と指摘された。
 知事の松形は、最近こう語っている。
「第三セクの信用?あったんでしょうね。県は7千500万円しか出資していないのに、それが2千600億円の借り入れに膨らんだのだから。それ自体が異常ですよ」
 
 佐藤棟良は、いよいよこれまで築いてきたすべてを、投げ出さなければならなくなった。
9月融資を打ち切りを伝えた第一勧銀だが、事実上は4月からストップしていた。このため、シーガイアの経営は、瀕死の状態だった。
 戦後、佐藤棟良が一代で築いた、国内有数の紙の商社旭洋は、自ら調達した50億円を、フェニックス・リゾートへ回ざるを得なかった。
 フェニックス・リゾートのリストラ発表後、旭洋は取引関係にある王子製紙と新会社を設立し、事実上資産を譲渡した。フェニックス・リゾートとの共倒れを防ぐ目的だった。佐藤棟良が調達した資金で、シーガイアは、僅かながらも命をつないだ。県幹部は、「あれが佐藤さんの最後の血の一滴だった」と感慨深げに語る。
 旭洋は、平成13年3月7日、大阪地裁に特別精算が受理され、会社の歴史に幕を閉じた。支え続けたシーガイアの連鎖倒産という皮肉な結果となった。
「大(おお)法(ほ)螺(ら)を吹くわけではないが、シーガイアはかならず世界遺産になる」
と佐藤棟良はかつて豪語していた。
 裸一貫で事業を興し、波瀾万丈の人生は、82歳にして、また裸一貫にもどった。


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