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    浪漫海峡紀行
   
   関門海峡


  
      浪漫海峡紀行 目次

 
 ■
乃木神社  乃木希典  日露戦争と乃木希典  長府毛利邸  毛利氏

 長州藩の財政改革  ■幕末の長州藩  ■功山寺と高杉晋作  そうせい公

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 乃木神社

 久しぶりに友人達と小倉駅集合となった。
 我が夫婦は福岡に前泊したから、早めに9時35分に小倉駅に到着し、ともかくレンタカーに乗り込んで出発となった。
 北九州市内を走行し、やがて門司市内に入ると関門トンネルをくぐった。
 かつて九州にいたころ関門トンネルを利用したことがあるが、はて何十年ぶりだろうか。
 関門大橋ができてからは、関門トンネルを利用したことがなかった。

     関門トンネル
 
 全長3,461m(車道)のこのトンネルの貫通は、じつは1944年12月に一応は貫通している。が、太平洋戦争による相次ぐ戦災で工事を中断し、その後、1958年3月に正式に開通した。
 ともかく本州と九州を結ぶ国道として、物流の動脈としての役割を担ってきた。
 そのあと高速道路の普及で、関門海峡の最狭部である下関市壇之浦と、北九州市の門司の和布刈地区を結ぶ関門橋(関門自動車道)が1973年に開通し、物流機能としては関門橋が主役を担っている。
 トンネルをくぐって下関側にでると、車は迷わず乃木神社の駐車場に到着した。

   乃木神社

 当初は、(下関にも乃木神社があったのか)と驚いた。
 神社の奥には、乃木希典が10歳から16歳まで過ごした、旧家を復元したものが建てられていた。六畳と三畳の二間に押入れと、二坪の土間というまことに小さく質素な建物ながら、忠実に復元されたものらしい。
 それにしても、とても武士の住まいではない。
 父の乃木希(まれ)次(つぎ)は、長州藩の支藩である長府藩の藩士で馬廻(うままわり)役、八十石(こく)という上士であった。
 乃木希次は江戸藩邸詰めであったため、希典は長府藩上屋敷で生まれている。
 希典が10歳になったとき、父の希次は、藩主の跡目相続紛争に巻き込まれ、長府で謹慎閉門及び減俸を命じられた。
 この時の住まいが、六畳と三畳の二間の旧家である。

    旧乃木邸
       乃木旧邸

    旧乃木邸内部

 ところで乃木神社の本社は、都心の一等地、赤坂の三千坪の敷地に祀られている。通称「乃木坂」に面している。
 近くに有名人の葬儀に利用されている「青山葬儀所」があり、その近くに「乃木家墓所」もある。
 東京時代にこの青山通りを何度も通行しているから、乃木神社といえば赤坂にあるという思い込みがあった。
 調べてみると乃木神社は全国に複数ある。

 乃木希典の出身地の下関市、別邸のあった那須塩原市、明治天皇の陵がある京都伏見など、乃木ゆかりの地に多い。赤坂の乃木神社は、乃木希典の東京の邸宅があった隣接地である。
 ところで、明治期の軍人でこれほど国民的に有名になり、しかも神社にまで祀られているのは乃木希典しかいない。その理由は「殉(じゆん)死(し)」したからである。
 明治天皇崩(ほう)御(ぎよ)のとき、棺を乗せた車が午後八時過ぎ、宮城(きゆうじよう)を出発する号砲が打たれ、その号砲に合わせて、乃木希典と妻静子夫人は、天皇崩御に殉じて自刃を遂げている。


    乃木希典と夫人


 江戸時代には藩主が没すると、その側近の重臣たちは「追い腹を切る」という「殉死」が慣例としてあった。
 藩主が死して、その寵臣や重臣がそのまま藩の中枢に居すわれば、家督をついだ次の藩主と軋轢を生じさせ、ときにお家騒動にまで発展する。
 江戸期の「お家騒動」は、お家断絶につながった。このような背景で、藩主側近の重臣たちは「追い腹を切る」のが当然とされてきた。
 が、さすがに江戸時代末期には、野蛮な風習として「殉死」は禁じられた。
 それだけに、乃木希典と妻静子夫人の殉死は世間を驚かせた。
 日露戦争で旅順港を陥落させ、敵将ステッセルを降伏させた将軍として、世間に喧伝(けんでん)されたため、その殉死が美化され、乃木夫妻の忠誠心に感激した国民は、赤坂の乃木邸を訪れ、その数は日を追って増していった。

    乃木希典静子夫人
          乃木希典と妻静子夫人

 「乃木将軍は、自らを律することが厳しく、父母に対し、そして国に対しての忠誠心を貫かれた。長く学習院院長として、昭和天皇の御養育をはじめ、広く青少年の育成に尽力された。さらに、静子夫人も忠孝・質素・仁愛の志が厚く、内助の功を尽くされ、妻として乃木将軍に殉じられた」
ということで、当時の文部省の教育に方針に合致し、文武両道の神、夫人の淑徳清操と夫婦和合の神として、祀られるようになった。
 こうした背景で、時の東京市長、阪谷芳郎男爵が、広く同志を集め「中央乃木会」を組織し、乃木邸内の小社に御夫妻の御霊をお祀りしたのが始まりである。
 中央乃木会は、神道をもって乃木夫妻の祭儀を斎行するとともに、主として剣道を通して人間形成を行い、またボーイスカウトなどを通じて青少年への研修会を開催するなど、御夫妻の精神を永世に伝えようと活発に活動した。
 こうした経緯で大正8年に、乃木神社創立の許可がくだり、大正12年社殿が造営されて鎮座祭が斎行された。
 昭和20年の空襲で本殿以下社殿は焼失したが、昭和37年、御祭神50年祭に合わせて本殿・幣殿・拝殿が復興された。


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 ■乃木希典

 すでにふれたが、希典が10歳になったとき、父の希次は、藩主の跡目相続の紛争に巻き込まれ、長府で謹慎閉門を命じられた。
 こうして希典は15歳のとき長府で元服し、源三と名乗った。
 父の希次は、武士として厳しい教育を施したが、16歳になった源三は、学者となることを志し、父と対立した後、出奔して、萩まで徒歩で赴き、乃木家の親戚である玉木文之進への弟子入りを懇願した。
 玉木家は乃木家から分かれた家柄であり、両家の関係は深く、文之進は、武士がいやなら農民になれ、と源三の弟子入りをいったんは拒絶した。が結局、源三は玉木家に住むことを許され、文之進の農作業を手伝う傍ら、学問の手ほどきを受けた。
 萩に住む玉木文之進は、吉田松陰の伯父にあたり、「松(しよう)下(か)村(そん)塾(じゆく)」の創始者である。
 のち吉田松陰が教えた「松下村塾」の門下生たちが、明治維新の大回転を成し遂げてゆく。

     松下村塾
         松下村塾

 乃木希典が、長州藩士に生まれたこと、さらには「松下村塾」に高杉晋作らと共に学んだことが乃木希典の人生を数奇なものにした。
 明治維新は坂本龍馬の活躍と調停によって、犬猿の仲であった長州藩と薩摩藩が、奇跡的に秘密同盟を成立させ、のち薩長土肥連合を主軸として成立した。
 故に明治新政府は、薩摩閥と長州閥によってその主軸を構成した。
 乃木源三(希典)は、幕末の高杉晋作の騎兵隊に参加した経歴で、明治4年23歳の若さで、軍事知識もないまま、明治陸軍の陸軍少佐となり名前も希典((まれすけ)と改めた。

        少佐時代の乃木希典
         少佐時代の乃木希典

 一方同じ「松下村塾」出身で、長州藩上士出身の前原一誠は、長州閥によって明治新政府の参議までのし上がった。が、のち萩の不平士族に担がれて、何の戦術も持たず、熊本の神風連の乱に呼応する形で反乱を起こし、あっさり鎮圧されて斬首された。 
 このとき、乃木希典の実弟、正誼(まさよし)は、反乱側の前原一誠に属しており、小倉に駐屯していた陸軍少佐希典に、反乱側に加わるよう説得にきたが、これを断り政府側の立場で、実弟と対峙することになった。
 この「萩の乱」で、希典の実弟、正誼は戦死し、師匠である玉木文之進は、多くの松下村塾出身が反乱参加した責任を取って自刃した。

 この明治十年までの間に、明治政府の政策で、武士としての特権と身分を失った多くの旧武士階級は、各地で不平士族となって争乱をおこした。佐賀の乱、熊本の神風連の乱、福岡秋月の乱そして萩の乱などが起きた。
 いずれも、たんなる不平士族の暴発で、互いの連繋もなく、わずかな日数で政府側に鎮圧されている。
 最期で最大の反乱は、西郷隆盛を担いだ旧薩摩藩士の起こした「西南戦争」である。

 当初の兵力、一万二千人という大規模な反政府軍であったが、西郷隆盛という維新最大の功労者を担いでいるという自負から、やはり何の戦略もなく、戦術上、意味のない難攻不落の熊本城に拘泥して、いたずらに人員を損耗した。
 やがて各地の鎮台兵の政府軍の到着で、戦線が膠着し、何度も補充兵を募り、薩摩郷士の動員総数は四万にも達したが、無策のまま鹿児島に退却するという信じられない行動を取っている。
 この西南の戦争のとき、乃木希典は陸軍少佐として命令に従い、小倉連隊を率いて熊本城へ向かった。
 久留米から南関をとおって植木に向かうとき、予期せぬ薩摩兵との遭遇戦で、潰走するときに軍旗を奪われた。
 これは西南戦争のちに、大問題となって明治政府による鹿児島での大捜索が行われ取り戻されている。
   薩摩兵に奪われた小倉連隊旗
     小倉連隊旗

 更に、「木の葉村」の闘いで、またもや潰走するとき、陸軍少佐の正装まで奪われるという、信じられない大失態を起こしている。
 この時は、さすがに乃木希典は切腹しようとして、制止させられた。
 希典の立場として弁解すれば、この当時の鎮台兵というのは、全て百姓あがりの徴兵で訓練も浅く、薩摩兵は元々が武士で、しかも戊辰戦争での実戦経験があるから、白兵戦では闘いにならない。
 ともかく乃木希典は、当時はまだ軍人としての指揮能力が不足し、また不運としか言いようがない。
 ともかく長州閥に属していたから、その後、乃木希典は軍功とは関係なく大佐、少将と昇進した。明治19年、大佐のとき陸軍制度の研究視察の名目で、ドイツ留学を命ぜられた。
 

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 ■日露戦争と乃木希典

 ドイツで伝統を大切にする質実な国柄、騎士道精神に触れ、自分の武士道精神をもう一度開眼させ、軍旗喪失と軍服喪失後の自分の生き方に一つの区切をつけたらしい。
 明治27年日清戦争が勃発し、陸軍少将として歩兵第一旅団長として出征した。

       歩兵第一旅団長の乃木希典 右
        歩兵第一旅団長の乃木希典 右

 日清戦争終結後、中将に昇進し、台湾の総督に任命された。が台湾統治について政府の要人と意見の相違が生じ、台湾総督辞任し、しばらく軍籍を離れた。
 やがて、対ロシア戦略で、新設された第11師団の師団長に就任した。
 明治37年、ついに日露戦争が勃発し、乃木中将は旅順要塞の攻略のために編成された第3軍の司令官として出陣した。

 日露戦争の目的は、膨張して南下してくるロシア勢力を、なんとか満州以北で食い止め、アジア侵略を防止することにあった。
 もし、朝鮮半島を占領されてしまえば、日本もロシアに併(へい)呑(どん)されるのは時間の問題であった。

  日露戦争と関係国図     日露戦争と関係国図

 当時の李氏朝鮮には軍備といえるものはなく、清国は政治的には末期的症状で混乱していた。
 ロシアの南下を防ぐには、新興国の日本しかない。しかし、明治になってから急速に近代化を進めた日本では、元々世界最大の陸軍を要するロシアと戦争するというのは無謀であった。
 ただ、英国やアメリカなどは、ロシアのアジアでの覇権は望ましくないという立場であった。
 こうした事情で英国の支援を取つけた。

     日露戦争の風刺画
      日露戦争風刺画

 資金面や軍備面で英国の支援を受けて、日露戦争に踏み切った以上、短期決戦で勝負を決することだけが、日本の生命線であった。
 日本国力の総力をあげ、満州平野に陸軍を展開し、かろうじてロシア陸軍の南下を防いだ。問題は、中国北東部の遼東半島南端に位置する旅順港であった。
 満州に展開した日本陸軍は、当初この旅順港を無視して、内陸部へ展開した。遼東半島の旅順港だけがロシア勢力下でも、補給がなければ、立ち枯れるとみて無視したのである。
 この、旅順港にロシアは要塞を築き、旅順港には第一太平洋艦隊(旅順艦隊)がいた。
 このロシアの旅順艦隊は、日本海軍との黄海海戦で大半は損傷したが、生き延びたロシア艦船が旅順港に逃げ込んでいた。

     旅順艦隊
        ロシアの旅順艦隊

 日本海軍には一セットの連合艦隊しかなく、この旅順港を封鎖しなければ、日本本土からの物資の補給を妨害される恐れがある。
 一方、ロシア本国からは、アフリカを経由してバルチック艦隊が、日本海に派遣されつつあった。何としてもバルチック艦隊が日本海に出現する前に、旅順港を攻略し、旅順艦隊を殲滅しておく必要があった。

 こうした経緯で、旅順要塞攻略のために、特別に編成された第3軍の司令長官が、将軍としての人望は篤いが、近代戦の作戦に暗い乃木希典中将で、その参謀長がドイツに留学し砲兵科出身の伊地知幸介少将であった。
 近代戦に明るいはずの砲兵科出身の伊地知幸介少将は、現実にはプライドだけが高く、頑固で無能ぶりを発揮した。

    203高地攻撃
        203高地の攻撃

 決戦となった203高地の攻撃でも、海軍の要請や東京の大本営の要請も無視した。
 結果としてロシアの近代要塞に対し、無謀な正面総攻撃を三度も実行して、日本側の死傷者は六万人という、世界戦史にも例のない未曾有の流血の記録をつくっている。
 東京の大本営では、乃木司令長官と伊(い)地(じ)知(ち)参謀長の更迭まで検討されたが、戦闘中の現地司令官の更迭は、戦闘員の士気に影響するということで見送られた。
 こうした背景で、内務大臣であった陸軍大将の児玉源太郎は、自ら降格して満州軍総参謀次長に就任し、大山巌参謀総長とともに、満州軍高等司令部を作って赴任した。
 乃木希典と同じ長州藩の出身で、西南戦争のときは、乃木希典とともに熊本鎮台で薩摩軍と戦った旧知の仲であった。
 児玉源太郎は、乃木中将の面子を保ちながらも、一時的に第3軍の指揮権を暗黙の中で譲りうけた。
 こうして伊地知少将の反対を押し切り、日本から巨大な沿岸砲取り寄せ203高地の攻撃に成功するとともに、旅順港の旅順艦隊の殲滅にも成功した。

   巨大な沿岸砲
      巨大な沿岸砲で203高地の攻撃に成功

 こうして旅順要塞は陥落し、司令長官ステッセル将軍は、乃木将軍に降伏した。日露戦争の陸戦で敵将が降伏したのは、このステッセル将軍以外にない。
 有名な「日本海海戦」でバルチック艦隊は壊滅し、司令長官のロジェストヴェンスキー少将は旗艦が沈没して重症を負い、日本海軍に降伏した艦船に座乗していて捕虜となっている。
 ともかく、乃木中将と伊地知少将の頑迷で無能な指揮で、死傷者は六万人という世界戦史にもない未曾有の流血をだしながら、最期は旅順要塞のステッセル将軍の降伏を水師営の会見で受け入れるという立場になった。
 日本国民は、一時的に第3軍の指揮権を預かった児玉源太郎総参謀次長のことを全く知らされていないから、乃木大将を「英雄」「凱旋将軍」として迎えることになった。

    乃木将軍と降伏したステッセル将軍 
      司令長官ステッセル将軍は乃木将軍に降伏

 乃木希典は、明治天皇に復命書を奉読した後、
「臣(しん)・希典、不肖にして、陛下の忠良なる将校士卒を多く旅順に失い申す。この上はただ割腹して罪を陛下に謝し奉らん」
 と言上した。
 これに対し明治天皇は
「卿(けい)(乃木)が、割腹して朕(ちん)(自分)に謝せんとの衷情は、朕よくこれを知る。しかれども、今は、卿の死すべきときにあらず。卿、もし強(し)いて死せんとならば、朕が世を去りたる後にせよ」と言う意味の御沙汰があった らしい。

        乃木希典

 こうした経緯で明治天皇崩御のとき、殉死を決行したのである。乃木希典という人間は、本来は軍人には不向きであった。
 が、幕末の高杉晋作の騎兵隊に参加した経歴と長州閥によって、軍人として累進させられた。が、近代将官としての教育はなく、古武士的精神性と教養はあった。
 文人としての才能は豊で、本来は教育者に向いており、日露戦争後は殉死するまで、学習院院長として教育者として過ごしている。


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 ■長府毛利邸

 乃木神社から車ですぐ近くに、長府毛利邸があった。
 下関市の中心部から北東にある城下町長府は、国道9号線から山手にかけて、風雪に耐えた武家屋敷や練塀が並び、城下町の風情をいまに伝えている。
 長府は、江戸期に長府毛利藩がこの地に置かれたことから、城下町として繁栄した。
 が、実は長府の歴史は古く、この地が『古事記』や『日本書記』などの記録にもあり、大化の改新以降、長(なが)門(と)の国府が置かれたことから、つづまって「長府」と呼ばれるようになったという。
 
    長府毛利邸 
      長府毛利邸

 広大な敷地をもつ長府毛利邸と庭園は、明治36年に、長州藩の支藩、長府藩の最後の藩主であった毛利元敏(長府毛利家14代当主)が、東京から帰住して建てた邸宅である。

      長府毛利邸玄関
       長府毛利邸 玄関

 ついでながら、長州藩(萩藩)には三つの支藩があった。
 長府藩、徳山藩、そして岩国藩である。
 毛利輝元が関ヶ原の敗戦のあと、家康から減封され、防長二カ国36万石となったとき、輝元が東の守りとして岩国に吉川広家(きつかわ ひろいえ)を置き、西の守りとして長門国豊浦郡(現在の下関市)に毛利秀元が領地を与えられ長府藩とした。
 そのあと徳山藩は、毛利就隆が3万石を分与されて下(くだ)松(まつ)藩としたが、のちに徳山に藩庁をうつして徳山藩となった。
 かつて中国地方のほぼ全域を支配下に置いていた毛利家は、徳川時代の長州藩・毛利家の版図は、いまの山口県ひとつとなった。
 旧国名でいえば、長門国、周(す)防(おう)国であり、長州藩は防長二州ともいわれた。

     泉水回遊式庭園     
          池泉回遊式庭園

 明治維新のあと廃藩置県が実施され、全国の藩主は東京に住むよう強制された。
 すべての旧藩主は東京に邸宅を与えられ、原則として公爵、子爵などの爵位を授けられた。爵位によって、その地位と収入を保証された。
 明治政府は、旧藩主が国もとに留まれば、士族の身分を失った不平士族に担がれ、反乱の種にされることを恐れたからである。
 ただ明治時代の後半に入ると、東京在住の強制が解除された。

 長府毛利邸は約一万㎡の敷地で、石垣と白壁に囲まれ、表門から入った区画より、武家屋敷造の母屋がある区画が一段高く配されるなど、城郭的な構造をしている。

   毛利邸天皇宿泊の間

 完成直前の明治35年(1902年)に、熊本で行われる陸軍演習を視察する明治天皇の行在(あんざい)所(仮の御所)となり、往路と復路に宿泊されたらしい。
 この明治天皇御宿泊の間(ま)は、当時のまま保存されている。
 
 書院庭園・池泉(ちせん)回遊式庭園・枯山水庭園の三つの庭が作られている。
 紅葉の名所でもあり、秋などの観光シーズンの休日には、甲冑・官女衣装着付けられる体験などのイベントが催される。
 重厚な母屋と、白壁に囲まれた純和風の庭園が往時を偲ばせてくれる。

 

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 ■毛利氏 
  
 長府毛利邸にまだいるので、もう少し毛利氏についてふれておきたい。
 毛利氏の家系は、鎌倉幕府の重臣・大江氏の四男・大江季光を祖とする一族で、「毛利」の名は、受けついだ所領、相模国愛甲郡毛利(もりの)庄(現厚木市周辺)を本貫(ほんがん)とし、その毛利庄から毛利性を名乗った。
 中世を通して「毛利」は「もり」と読まれたが、江戸期になって「もうり」と読まれるようになったらしい。
 鎌倉時代末期ころに、越後国から安芸国(広島)高田郡へ移封され、後に国人領主として成長した。
 やがて山陰地方の守護大名の「山名氏」、そして周防・長門、石見(いわみ)、豊前、筑前各国の広域守護職の「大内氏」の家臣として栄えた。
 やがて戦国時代に入って、名将といわれた毛利元就の時代に勢力を拡大し、室町幕府の最大の守護職・大内氏を滅ぼして、一躍、戦国大名へ脱皮を遂げた。
 こうして大内氏の所領の大部分と、出雲の守護・尼子氏の所領を併せ、最盛期には中国地方十カ国と、北九州の一部を領国に置く、戦国期の最大級の大名に成長した。

      毛利元就
           毛利元就
         
 中国地方の覇者となったが、「中国者の律儀」ともいわれて、毛利家と同盟すれば、裏切られることがないというのが、戦国大名のあいだで評判であった。
 安(あ)芸(き)(広島県西部)の小規模な国人領主から、中国地方のほぼ全域を支配下に置くまでに勢力を拡大し、中国地方の覇者となり「戦国最高の知将」などと後世評されている。 
 これも毛利家の律儀によって、中国地方の国人領主の支持者がふえたからである。
 
 「三本の矢」の逸話で有名な元就の孫、毛利輝元の時代に豊臣秀吉に仕え、安芸・周防・長門・備中半国・備後・伯耆(ほうき)半国・出雲・石見・隠岐の百二十万五千石(実高は二百万石超)を安堵され、本拠を地の利のよい広島に移した。
 ところが秀吉の死後、家康の台頭で関ヶ原の戦が起き、毛利家は、圧倒的に有利とされた西軍の総大将に就いた。

 関ヶ原合戦布陣図   

 ところが、家康の調略外交による裏切りなどで東軍の勝利となった。
 その結果、毛利輝元は、周防国・長門国の二ヶ国に減封され、しかもその居城を 辺鄙な萩に指定された。
 徳川家康としては、成立早々の徳川幕府の安定のため、西軍に付いた薩摩の島津氏と、中国の毛利氏の領土を大幅に削減したが安堵した。
が、とくに中国地方の覇者であった毛利輝元を恐れ、辺鄙な萩に城を築くことを命じた。
 こうして毛利氏は二百五十年余りの間、辺鄙な萩を拠点とした。

     萩城
        明治初期、取り壊される前の萩城天守閣
 
 このことと関係があるのか、幕末の長州人のイメージは、戦国時代の「中国者の律儀」とは違い、「怜悧で油断がならない」「観念論者が多く、評論家で議論好き」、「理屈が多い」などの悪評も立つようになっていた。
 その証拠に、水戸ッポ、土佐ッポ、薩摩ッポといわれるが、ついに長州ッポとは言われなかった。ッポがつくのは、利害をとびこえ、なりふり構わず突き進むという性格の集団に冠せられる。その反面、幕末の争乱は、つよい思想人的性質と、観念論者の長州人が演じた猪突猛進の行動を中心に旋回し、倒幕維新を早めた。
 もし、長州人というこの複雑な性格をもった行動集団が日本に存在しなかったなら、明治国家の成立はずっと遅かったか、あるいは違ったかたちになったに違いない。
 ともかくも、明治維新では長州から多くのリーダー的人材を輩出した。そして現在も、中国や韓国と物議を醸している安倍首相も、典型的な観念論者の長州人である。 


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 ■長州藩の財政改革


 
唐突のようだが、長州藩の財政に少しふれておきたい。
 幕末の風雲は、長州藩と薩摩藩、そして土佐藩の脱藩志士などによって起こされて行くが、とくに長府、つまり下関が発火点ともいえる役割を果たしている。
 特に土佐の脱藩志士、坂本龍馬や中岡慎太郎、それに長州藩士の高杉晋作などは、下関の豪商、白石正一郎や伊藤助太夫という回船問屋の資金援助を受けている。
 また、多数の土佐脱藩志士などは、長府藩の資金によって保護されている。
 これらの革命活動資金を賄ったのが、長府藩の豊かな財政であり、下関を拠点にした豪商の資金であった。

    下関を拠点にした回船問屋
      下関を拠点にした回船問屋

 ところが、長州藩第13代藩主(安芸毛利家25代当主)毛利敬親(たかちか)が、天保9年(1838年)藩主を嗣いで、江戸藩邸から萩城に入った頃は、長州藩は最悪の財政状況で、藩は多くの商人から多額の借金を背負っていた。
 そこで村田清風を登用し、藩の財政を立て直すため藩の財政改革をおこなわせた。
 村田清風の財政改革で、下関の物産流通に目を付け、金融兼倉庫業の「越(こし)荷(に)方(かた)」を設け、実務を下関の豪商に依託した。
 古来、長府は馬関(ばかん)海峡(関門海峡)があるため、本州の玄関口にあたり、交通の要衝にあり、人と物が集積する交易の拠点として発展してきたため、馬関(下関)には、古くから回船問屋が成立していた。

    馬関海峡 
        馬関(ばかん)海峡

 こうした背景で長州藩の財政再建に、廻船問屋の物産流通に目を付け、藩の権威で一定の介入をして、口銭を得ようという目論見であった。
 これは廻船問屋に、長州藩の貸出金で、主に北陸沿岸の産物を購入させ、藩の「越(こし)荷(に)方(かた)」の下関倉庫に運び込ませる。そして大坂相場を見ながら、相場の高い産物だけを大坂に急ぎ廻送し、相場の低い産物は、馬関(下関)倉庫で一時的に保管する仕組みであった。こうした長州藩の金融兼倉庫業の「越(こし)荷(に)方(かた)」で、莫大な運上益を得て、さらに貸出金の利息と倉庫業の収入が得られた。
 また、「防長五白」といわれる、長州国産品の「米・紙・蝋・木綿・塩」の流通にも、「越(こし)荷(に)方(かた)」に関与させ、他国の北前船・菱(ひ)垣(がき)廻船などを利用して販路を広げ、藩営交易で利潤を増大させた。

     千石船

 こうした流通貿易業務を営んで、莫大な利益を上げ、幕末の長州藩の財政は再建されていった。こうした長州藩の財政基盤確立によって、その財政規模では幕末の雄藩となり、結果として、朝廷工作や勤王志士の活躍の資金となり、明治維新を成し遂げる原動力になっている。
 つまりは、下関という流通の要に長府藩があり、藩営の通商交易で得た莫大な資金が、幕末の志士たちの経済的支援となり、明治維新を成し遂げたといえる。
 一方、薩摩では琉球の砂糖と、海外交易によって莫大な財政基盤を確立させていた。
これらの財政が革命エネルギーとなった。
 徳川幕府と多くの譜代大名は、米だけに頼った財政で、多くの藩は、大商人から莫大な借金を背負っていた。



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 ■幕末の長州藩

 幕末のペリー来航に始まる諸外国の軍事的圧力で、幕府(大老井伊直弼(なおすけ))は、独断で開国した。
 諸外国との通航・貿易が開始された結果、治安の悪化・諸物価の高騰を招いた。
 一方で、朝廷の勅許(ちよつきよ)のないま、幕府独断で開港と不平等条約を締結したことで、感情的な攘夷運動が全国で盛んとなりつつあった。
 とくに長州藩では、公武合体論や尊皇攘夷を拠り所に、おもに京都で政局をリードする存在になっていた。
   
    神奈川条約

 文久元年(1861年)、長州藩の重臣、長井雅楽(うた)が藩主に「航海遠略策」の建白書を提出し、家老の周布(すふ)政之助もこれを了承し、藩として「航海遠略策」を朝廷へ提出した。
 これは朝廷と幕府との協調策を模索した案で、「むしろ積極的に広く世界に通商航海して国力を養成し、その上で諸外国と対抗する」という「大攘夷」思想に通じる考えであった。ただ実行手段の具体性に欠け、正式に朝廷へ航海遠略策を建白するが、公家への調停不足で工作は失敗に終わった。

 また藩内でも、「航海遠略策」は幕府の不平等条約と開国を是認するものとして、長州藩の過激攘夷派の桂小五郎・久坂玄瑞(くさかげんずい)らが公家工作をし、さらに藩重役の周布政之助を説得し、反長井派に転じさせることに成功した。
 藩主毛利敬親(たかちか)は、藩が分裂することを恐れ、長州の藩論を、航海遠略策から不平等条約破約の「過激攘夷」へ転換することに決定した。
 また藩士の吉田松陰の私塾、「松下村塾」で学んだ多くの藩士がさまざまな分野で活躍し、やがてこれが倒幕運動につながってゆく。
 「松下村塾」出身で活躍した志士としては、久坂玄瑞(げんずい)、桂小五郎、高杉晋作、伊藤俊介(博文)、山形狂助(きようすけ)(有朋)などが有名である。

        幕末の桂小五郎
           幕末の桂小五郎

 一方で攘夷倒幕運動に対抗し、幕閣の井伊直弼は「安政の大獄」で、吉田松陰を獄死させるなど、これら攘夷思想家を一方的に大弾圧した。     
          
 が翌年、「桜田門外の変」で水戸浪士に暗殺された。こうして幕府の権威は急速に低下し、相対的に雄藩の政治力が高まり、特に長州藩や薩摩藩などが京都で朝廷工作を開始した。
 薩摩藩では、攘夷を唱える長州藩や、各藩の攘夷志士に対抗して、公武合体派の薩摩藩主の父、島津久光が兵を引き連れて上京した。
 一方で、幕府は京の治安維持の目的で、会津藩を「京都守護職」に任じ、その配下に「新撰組」などか置かれた。
 
 毛利敬親(たかちか)は重臣・周布政之助を重用し、桂小五郎、高杉晋作らが主導する、過激攘夷へと大きく方針を転換した。
 朝廷からは幕府へ「攘夷」の勅命が降りたが実行することは不可能であった。
 長州藩で観念的攘夷論で、実際に攘夷を実行をすべく、文久3年(1863年)5月、馬関海峡(下関海峡)を通る米仏商船を次々と砲撃した。
これに対して、米仏軍艦が馬関砲台を逆襲し、砲台は壊滅させられた。
 それでも長州攘夷派は、再び砲台を築き、フランス、オランダ、アメリカの商船の砲撃を再開した。これに対抗して、翌、元治元年(1864)7月、フランス、オランダ、アメリカの三国は、連合艦隊17隻を編成し、馬関(現下関市中心部)と彦島砲台を、徹底的に砲撃した。 
     馬関戦争

 その後、陸戦隊が馬関に上陸占拠し、砲台を破壊した。僅か二日間で、長州藩は抵抗できる火力をすべて破壊された。
 この馬関戦争の敗戦で、長州藩は、外国の実力を肌身で知り、観念的攘夷論の愚かさを悟った。

     フランス・アメリカに占領された下関砲台
      ランス、オランダ、アメリカに占領された砲台

 以後、長州藩は積極的に欧米から新知識や技術を導入、軍備を近代化してゆく。
 高杉晋作は馬関の防衛を任せられ、馬関戦争で長州藩士の正規軍の弱さを痛感し、藩内の下級武士・百姓・町人の中から、尊王攘夷の志を持つ者を集めて「奇兵隊」を創ることを藩庁に申しでた。
 威信の低下していた藩庁は、高杉晋作の案を認めざるを得なかった。
 「奇兵」とは、藩士や足軽の正規兵に対応する呼称として使ったが、敵の不意を討つという意もある。
 また高杉晋作の「奇兵隊」は、既存階級の旧い秩序を破壊し、新しい世の中を創り出す「草莽崛起(そうもうくつき)」、いわば市民革命という、吉田松陰の教えが底辺にあったであろう。晋作の「奇兵隊」は、阿弥陀寺(現赤間神宮)を本拠とした。
 一方、京では、長州藩が朝廷工作の主導権を握ることを嫌い、公武合体派の薩摩藩が、密かに会津藩と同盟を結んで、朝廷工作に成功し「八月十八日の政変」によって、長州藩は「朝敵」とされて京を追われることになった。
 「八月十八日の政変」で、尊攘派公家や長州藩主毛利敬親・定広父子の処罰等を決議した。
  8月18日の政変  
      八月十八日の政変

 この政変で長州藩は堺町御門の警備を免ぜられ、京都を追われることとなった。
 翌日、長州藩兵千余人は、失脚した三条実(さねと)美(み)・三条西季知(すえとも)・四条隆謌(たかうた)・東久世通禧(みちとみ)・壬生(みぶ)基修(もとおさ)・錦小路(にしきのこうじ)頼徳(よりのり)・澤宣嘉( のぶよし)の公家七人とともに、妙法院から長州へと下った(七卿落ち)。
 さらに翌年の元治元年(1864年)6月、京都の「池田屋事件」で、多くの攘夷派の長州藩士が会津藩麾下の新選組によって殺害・捕縛される事件が発生した。
 これに憤慨した長州藩は、過激派の家老福原越後の意見でついに京に出兵し、7月には京都で「禁門の変」を引き起し、薩摩、会津兵によって撃退された。

   禁門の変  
        禁門の変

 この長州藩の京都での暴挙に対し、薩摩が背後にいる朝廷は、幕府に対し長州征討を命じ、8月には藩主・毛利敬親の官位を剥奪した。
 こうして第一次長州征伐が開始されると、長州藩は、国司親相、益田親施(ちかのぶ)、福原元僴ら三家老を切腹させて幕府に恭順し、藩主毛利敬親は萩に謹慎した。
 
 こうした背景で、長州藩では、椋梨(むくなし)ら幕府恭順派(俗論派)が実権を握り、周布政之助や家老・益田親施らの攘夷派の過激派は失脚して粛清された。



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 ■功山寺と高杉晋作

 長府毛利邸をでて、長府の城下町を少しあるくと功山寺があった。
 この長府の静かな城下町の一角に、歴史的観光名所が集まっている。
 古い山門をくぐり、鬱蒼とした樹木のある石段を登ると、鎌倉時代(1320年代)創建といわれる、典型的な唐(から)様(よう)の禅寺様式の仏殿があった。
 独特な曲線美の美しさをもつ仏殿は、日本最古の禅寺様式を残し、見事な曲線の屋根は入母屋造りの唐様建築特有の美しさで、寺院建築史上、重要な価値を持ち、国宝に指定されている。

  功山寺山門  
       功山寺

 一方、この古刹の功山寺は、数々の歴史の舞台となった。
 鎌倉時代から山口で勢力を維持していた大内氏は、室町幕府の遣明船派遣や朝鮮貿易などて財をなし、大内氏の隆盛時代は、周防・長門・豊前・筑前・安芸・石(いわ)見(み)・肥前の七ヶ国にまたがった。
 その栄華が極に達しとき、一門の将陶(すえ)晴賢の反逆により、大内主家が断絶した。
 陶晴賢は反逆ののち、後見役の豊後の大友晴英を山口に迎えた。
 当時、戦国の世相は、ますます下克上の時代であったが、大内義隆は時勢をわすれ、武事をきらい、京の雅(みやび)を愛し、ついに不覚の事態をひきおこすに至った。
 豊後の大友晴英は、大内家の血筋を引いているため、大内氏主家を嗣ぎ、大内義長と改名した。

  功山寺本堂 

 一方で、着実に勢力を伸張させた毛利元就が、機を見て山口を攻めた。
 大内義長は内部の反乱などで混乱し、毛利元就に追われて、この功山寺で自刃した。つまり、ここは大内家滅亡の地でもある。
 それから凡そ三百年のちの幕末、京都公家政変によって、攘夷派で親長州派の七人の公家が都落ちしたことは(七卿落ち)、既にふれた。その七人の公家の落ちのび先が、この長府功山寺であった。

    七卿落ちの図 
       七卿落ちの図 
  
 その後、長州藩は幕府恭順派(俗論派)の椋(むく)梨(なし)藤太が藩の実権を握って、攘夷派志士を粛正しはじめ、周布政之助を切腹させ、井上聞(もん)多(た)を襲撃し重傷を負わせた。
 さらに過激攘夷派の拠り所である「七卿」を九州の太宰府へ移すことになった。
 この情報を知った高杉晋作は、危険を察知して小倉へ一時避難していたが、密かに長府へ舞いもどって、自ら創設した騎兵隊の一部を率い、九州の太宰府へ移送される直前の五卿に対し
「是より、長州男児の腕前、お目に懸け申すべく」と挨拶をし、俗論派が実権を握る長州藩庁に対し、クーデターの旗揚げをした(「回天義挙」)ところである。
   
         吉田松陰
            吉田松陰  


 高杉晋作はその師、吉田松陰から、
「死ぬほどの価値のある場面と思ったら、いつでも死ぬべし」
と教えられていた。この教えが高杉に周囲の反対を押し切ってまで、無謀な挙兵(「回天義挙」)を決行させたと言われる。
 高杉晋作は、五卿移送の件を知り、下関へ戻って奇兵隊に決起を促すが、主力の隊を率いる山県狂介に、時期尚早と反対された。
 他の諸隊にも呼びかけたが、俗論派を討つとはいえ、藩主に弓ひくことをためらう者や、圧倒的兵力を有する長州藩正規軍と戦うことに、反対する者が多数であった。
 結局、慶応元年(1865年)、晋作の決起の呼びかけで、功山寺に集結したのは、伊藤俊輔率いる力士隊、石川小五郎率いる遊撃隊のわずか84人だけであった。

        功山寺挙兵の高杉晋作
         功山寺の高杉晋作の決起像

 このわずか84人で回天義挙の兵を挙げたが、かなりの暴挙であったといえる。
 とりあえず物資調達のため、下関新地会所を襲撃し占拠した。
 次に18名の決死隊で、三田尻の海軍局に攻め入り「丙辰(へいしん)丸」など軍艦三隻を奪った。
 高杉晋作は、奇襲・強襲を繰り返し僅かの軍勢で、短期間の内に軍事的成果を次々に上げた。
 晋作は「泰平の世で堕落した武士」よりも「志をもった農民や町民」が戦力になると信じていた。
 志をもって新しい世をつくるという草莽崛起(そうもうくつき)の隊士らは、西洋式の兵法をよく吸収し、当時最新の兵器を取り扱い、戦果を上げた。

    騎兵隊 
          奇兵隊

 百姓や町人から選抜された志の高い人材を鍛えれば、勇敢で強い兵士になった。
 この挙兵の報に、井上聞(もん)多(た)・品川弥二郎・山田顕義・河上彦斎ら松蔭門下の藩士たちが呼応し、付近の領民による義勇兵も集結した。
 こうして日々勢力を増すと、日和見をしていた奇兵隊の山県狂介や、藩の諸隊も立ち上がり高杉晋作に協力をはじめた。
 俗論派藩政府は、この報復として、野山獄に捕らえていた正義派(倒幕派)11名を斬首し、正義派の代表的家老・清水親知を切腹させた。
 しかしこれが諸隊の反発をいっそう強め、奇兵隊の赤根武人(たけと)の藩内の融和の調停策を妨げた。
 これは幕府の第二次長州征伐軍が編成されているなか、長州藩内部で二派に別れて抗争している場合ではない、と調停策を提案していた。
 さらに大田・絵堂の戦いで、俗論派の藩の正規軍と対峙し、晋作のクーデター軍がこれを破ったことで、俗論派の椋(むく)梨(なし)藤太は失脚し、藩論は再び倒幕に統一され、正義派(倒幕派)政権が成立した。
この後、潜伏先より帰って来た桂小五郎(木戸孝允)を加え、再び倒幕派が実権を握った長州藩は、晋作らが結成した奇兵隊を中心に、諸隊を正規軍に抜擢し、幕府の第二次長州征伐軍と戦った。
 高杉晋作と村田蔵六(大村益次郎)の軍略により、長州藩は四方から押し寄せる幕府軍を各地で打ち破り、第二次幕長戦争(四境戦争)にも勝利した。


         坂本龍馬
         坂本龍馬

 慶応2年(1866年)、坂本龍馬の仲介で下関で「薩長同盟」が成立し、第二次幕長戦争に敗北した幕府の力は急速に弱まった。
 慶応3年(1867年)、薩摩藩と長州藩は、イギリスとの関係を構築し、10月には討幕の密勅を受けた。
 これにより奇兵隊や民間の軍事組織である長州藩諸隊を整備し、大村益次郎を登用して西洋式軍制を採用し、ゲベール銃やミニエー銃など新式兵器を配備し、戦術の転換など大規模な軍事改革を行った。
 そして同年11月には薩摩藩と共に、官軍を組織して上京した。
 薩長による討幕運動の推進によって、15代将軍徳川慶喜が二条城で「大政奉還」を行い、江戸幕府は崩壊した。王政復古が行われると、薩摩藩と共に長州藩は明治政府の中核となっていく。
 
 ところで、長州藩の高杉家は、百五十石の「譜代の臣」で、いわば中級の藩士であったが、維新史に名を残している、桂小五郎九十石、吉田松陰五十七石、久坂玄瑞二十五石と比べると、かなりの格式の上士である。また高杉家にとって、「譜代の臣」は大きな自負であり、奔放な生涯を送った晋作にとっても終生主君への忠義の意識を強く持ち続けた。

        剣道着姿の高杉晋作
          剣道着姿の高杉晋作

 「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」
と称えられるように、高杉晋作の人間像は、とかく激烈な行動面に向けられ、無謀ともいえるその衝動性が強調されてきた。しかし晋作は、自分が登場すべき舞台をよく心得ていた。必ず決定的な解決を迫られる時期に、歴史の舞台に上ってきた。
つねに 「拙劣な死」を避け、おのれの死を、最も効果的な時期に見定めようとした。
 それが、馬関海峡の攘夷戦前後から、功山寺挙兵に至るまでの行動に凝縮されている。
晋作は、藩の討幕派が不利なときには、しばしば「不在の人」であったが、現れたときは、「動けば雷電の如く」効果的な仕事をして、その成しがたい歴史的役割を終えると、歴史の舞台から消えてしまった。
 高杉晋作。享年29歳。
 「面白きこともなき世を面白く 住みなすものは心なりけり」
 高杉晋作という稀代の激烈な行動家は、この時期にしか役に立たない人物で、回天義挙を成し遂げたあと、結核で短い生涯を終えている。

     >高杉晋作坂本龍馬
              高杉晋作と坂本龍馬

 日本歴史に、もし高杉晋作と坂本龍馬が存在しなかったら、明治維新はなかったかもしれない。場合によっては、列国の植民地になっていたかも知れない。
 ぎりぎりの歴史舞台に登場し、回天の業を成し遂げて、明治維新の成果をみることなく二人とも歴史から消え去っている。
 高杉晋作が、もし無謀とも言える、長府功山寺でクーデターの兵を挙げ、回天義挙に成功しなければ、坂本龍馬の下関での「薩長同盟」も成立はしなかった。
 坂本龍馬。享年33歳。
 この稀代の行動家で、壮大な構想力に富んだ男も、幕末の歴史が必要とするときに舞台に上がり、演ずべき歴史の回天をなし遂げると、晋作と同じく、歴史から消え去っている。(暗殺された)
 自分の二十代後半から三十代前半に、天下国家のことを考えた事はなかった。
 この二人の歴史上の若者のことを考えると、自分の事だけで生きてきた事が、恥ずかしいばかりである。


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 ■そうせい公


 毛利敬親(たかちか)は、幕末の藩政に関して一切を重臣に任せ、彼らが言上する政策に関して、一切口を挟むことなく全てについて
「そう、せい」と命じた。
 藩主を嗣いだとき、破綻寸前の長州藩の財政再建を家老の村田清風に全てを一任した。
 村田清風の大胆な財政改革に、すべて「そう、せい」と命じ、見事な財政再建に成功した。
 この財政改革で、幕末には資金面でも雄藩となり、倒幕歴史の舞台に登場する人物の資金を支えることが可能となっている。
 また幕末には長州藩では、公武合体の佐幕派と尊皇攘夷派に藩論が割れたとき、重臣、長井雅楽(うた)が藩主に「航海遠略策」の建白書を提出すると「そう、せい」と命じた。


        毛利敬親
          毛利敬親

 この「航海遠略策」が失敗すると、藩論は過激攘夷派が主導権を握り、馬関海峡での外国船砲撃にも、「そう、せい」と命じた。
 下関戦争で敗れたあと、藩内の下級武士・百姓・町人の中から、尊王攘夷の志を持つ者を集めて「奇兵隊」を創るという、高杉晋作の意見具申にも、「そう、せい」と命じた。
 京での政変ののち、藩の佐幕派が主導権を握って、過激攘夷派(正義派)の家老の切腹や攘夷派の弾圧にも、「そう、せい」と命じた。

 そして高杉晋作の回天義挙によって、藩論は再び討幕派に統一され、薩長同盟が結ばれたが、これに対しても「そう、せい」と命じた。
 元来が観念論の強い長州藩では、とくに幕末では藩論が大きく分かれ、藩の主導権が過激攘夷派(正義派・倒幕派)と佐幕派(俗論派)の間を行ったり来たりした。

         毛利輝元銅像

 鎌倉以来の古い家系を誇る毛利家では、藩主一族の係累が特に多く、毛利家血筋の家老や重役の数が多い。
 その数の多い毛利家血筋の重役たちが、現状維持の佐幕派と、過激攘夷派に分かれていた。中央の京都の状況で、藩庁の主導権が交代し、時に反対派を弾圧したり、粛正したりした。
 これらの藩庁の主導権争いで、何人もの家老、重役が切腹させられている。
 毛利元就直系の藩主でも、藩主自らの主導で藩政を運営するという立場にはなく、一方に加担すると、藩の政権を握った側から排斥される恐れがあった。それだけ、それぞれが強い観念論で動いているからであった。


     萩城
         萩城

 安芸毛利家25代当主で、長州藩の第13代藩主である毛利敬親(たかちか)は、長州藩主という立場を「機関の長」であると認識していたと思われる。ここでいう「機関」とは、何らかの目的を有する組織またはその部門をさしている。「機関の長」には、それぞれの役割が求められている。
 藩主の役割は「藩重役が意思決定」したことがらに裁可をするという立場でしかない。と理解していたはずである。
 明治維新の後、毛利敬親(たかちか)は
「あの時代は(そう、せい)というしか方法がなかった」
と述懐している。
「そうせねば、とても藩主なんぞは続けられなかったよ」
と述べている。

 藩主自らが、藩の方針を策定したり、実行を指示するなどということは、他の藩主でもあり得ないのである。これは徳川幕府でも同様で、徳川将軍といえども、幕府という機関の長に過ぎず、幕府の方針や行政は、大老、老中、若年寄りなどの幕府閣僚の合議によって決定されていた。
 その大老、老中などの幕府閣僚や行政官でさえ、つねに二人一組で交代制で実務を担当させられた。互いに相互監視するという制度であったから、独断で意思決定するなどは、江戸期を通じてない。

      井伊直弼像 彦根城
         井伊直弼像 彦根城
       
 唯一の例外が、彦根藩主で大老職についた井伊直弼だけである。
 彼だけが唯一独裁権を発揮して「安政の大獄」を実行したが二年弱で暗殺されている。

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 ■
唐戸市場

 幹事氏から頂いていた旅行案内には、昼食「唐戸市場」と簡潔に表記されていた。
 唐戸市場へ入ると、なるほど鮮魚を中心にした大きな地方卸売市場であった。
 卸売市場である以上、取引の基本は早朝であろうが、ここは一般客も相手にしているようで威勢の良い呼び込みの声も聞こえた。
 この市場を抜けて、新鮮な魚介類の料理屋にでも行くものと思い込んでいた。
 ところが、市場のほぼ中央辺りの通りに、人だかりがあった。
 のぞくと多くの屋台で、できたてのにぎり寿司や海戦丼、刺身そのほか天麩羅や味噌汁なども販売している。

     唐戸市場

 幹事氏は、さっそくその人だかりに紛れて、握り寿司と味噌汁を購入していた。これでようやく「唐戸市場で昼食」の企画を理解した。
 立派なネタを握った寿司をいくつかと、ふぐの味噌汁を買い求めた。借りたお盆にそれらを載せて、唐戸市場のまえに整備されているウッドデッキにでた。

    唐戸市場の握り寿司 

 唐戸市場のまえと言えば、関門海峡である。
 ウッドデッキの端は、ベンチのようになっていて、唐戸市場で買ってきた弁当を食べようという趣向であった。

     関門海峡大橋

 関門海峡を眺めながらの、屋外でのワイルドな昼食という趣向は、想像していなかっただけに、(よくぞ企画してくれた!)と快哉を叫びたかった。
 幸い、朝の天気とは違い、すばらしい快晴となり、しかも気温も上がって最高の日よりとなった。     

 さて、この唐戸市場は、ふぐの市場としてはもちろんのこと、タイやハマチの市場としても有名で、しかも地元漁師が直接販売するという、地方卸売市場としては全国的にも珍しい販売形態を行っており、また農産物の直売所もあった。
 また、あらゆる食材を取り揃えた「総合食料品センター」としての役割も果たしており季節ごとの食材で活況を呈している。
 またイベントも実施していて、毎週末と祝日には「活きいき馬関(ばかん)街」を開催しているとあった。

    唐戸市場全景

 馬関(ばかん)とは下関の旧称で、江戸期の下関は赤間関と呼ばれていて、シャレで赤馬関と読みかえ、それをつづめて馬関と略称で呼ぶのが普通だったらしい。
 多くの物語でも馬関海峡などと記されている。
 さて、この「馬関街」は、魚を楽しんで食べてもらうための飲食イベントとして人気があり、旬の魚を安く買うことができる他、多数の海鮮屋台が出店し出来立ての魚料理を、馬関海峡を眺めつつ食べられるという趣向である。

 交通の要として古代より栄えてきた唐戸周辺は、明治に入ると海外貿易の拠点として栄え、各国の領事館や外国商社の代理店、銀行などが軒を連ねる町並みが形づくられてきた。 

    唐戸市場
      「馬関街」

 現在の唐戸町は、港湾機能強化をめざして明治中期に行われた、唐戸湾(田中川河口)の埋立て工事によって生まれた。
 人が集まるところには物が集まる。
 明治42年、唐戸路上での野菜・果物販売が公許にされ、大正13年には、魚市場が阿弥陀寺町から移転して「唐戸魚市場」が発足した。
 昭和8年には、現在の唐戸市場の基となった「魚菜市場」が開場し、昭和51年には食料品小売センターが開業し昭和54年には地元の生産者を中心とした唐戸朝市がスタートした。
 この間、下関市による唐戸地区の整備事業が進み、カラトピア、カラトコア、平成6年には市営赤間駐車場が完成し、翌年には「唐戸市場朝市」が始まっている。
また平成13年には、新市場の建替えられて新築移転した。
 平成21年には、唐戸市場発祥百周年を迎え、海響館・カモンワーフと共に、下関市を代表する観光地として賑わいをみせている。


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 ■河豚(ふぐ)

 関門のふぐは、福を呼び寄せるということで「ふく」と呼ぶ。
 戦前戦後を通じ、門司区清滝に関門料理「岩井」という調理師紹介所があり、ここに全国から一流の調理師が集まり、腕をみがいたという。
 「ふぐ料理」は、この岩井から全国的に拡がったといわれている。また、門司でふぐを取扱う料理店が増え、オリジナル料理も格安で味わえる。

    河豚の袋競り像 
      河豚の袋競り像


 大きな絵皿に盛りつけられたフグの刺身。その透きとおるような白い身の間から、うっすらと皿の模様が浮き出るさまは、まさに「食べる芸術品」と言えるだろう。
 フグの旬は「彼岸から彼岸まで」といわれ、11月中旬から2月中旬の三ケ月、とくに寒い時期に食すのが最高とされている。

     河豚刺身の盛り付け

 また、フグの味は、フグだけで作られるのではないという。
 ポン酢に入れるダイダイと小ネギは、秋から冬にかけておいしくなり、熱いヒレ酒も、寒い冬にこそよく似合う。
 さらに、フグの刺身を食べるとき、皿の外側から身をとる人が多いが、板前としては、(盛りつけの美しさもフグ刺しの魅力の一つなので)形を崩さないためにも、本当は皿の内側から身をとって欲しいそうだ。

      河豚の刺身

 ともかく、ふぐといえば「ふぐ刺し」が 一番ながら、刺身以外のフグの食べ方として、まず「唐揚げ」がある。
 これは鶏の唐揚げが流行した昭和三十年代の初め、「淡泊な味のフグならもっとおいしいのでは」という声から広まったという。
 次が「フグチリ」。
 ダシ昆布を入れ、沸き立った直後に、ウグイスと呼ばれる口の部分と中骨、カマなどをサッっとくぐらせる。そこに塩を加えて味をととのえ、アラ、野菜、豆腐などを入れて煮こむ。
 さらには「フグ雑炊」。
 フグチリを食べた後、フグのダシがたっぷり出たスープに入れて煮こんだ雑炊の味は絶品である。


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 ■赤間神宮

 唐戸市場から車に乗って国道9号線を少し走ると、すぐに赤間神宮があった。
 赤間神宮は、下関を代表する観光地のひとつながら、この社(やしろ)は長い間、「阿弥陀寺」であった。 それも貞観元年(859)大安寺の僧行教が開山した古刹であった。
 阿弥陀寺には、安徳天(てん)皇(のう)社(しや)(御影堂)があり、また平家一門の墓などがあることで有名な寺院であった。

    赤間神宮
        赤間神宮

 寿永4年(1185)3月、源平「壇之浦の合戦」で、敗戦を覚悟した平家一門は、次々と海へ身を投げていった。
 このとき幼帝安徳(あんとく)天皇(数え年8歳(満6歳4ヶ月))は、祖母の二位尼(平時子)に抱かれて入水した。
安徳天皇は、母が平清盛の娘・徳子で、数え年3歳(満1歳4ヶ月)で即位という幼帝で、政治は平清盛が取り仕切った。
 ところが寿永2年(1183年)、平氏の大軍を破って上洛した源義仲に追われ、三種の神器とともに、平家一門は都落ちした。
 この年に、「三種の神器が無いまま」、後鳥羽天皇が践祚(せんそ)し、正史上初めて同時に二人の天皇が擁立されることになった。

 壇ノ浦の戦いの翌日、漁師たちが網にかかった安徳天皇の遺体を引き上げ、一時的に安置したという御旅所がある。
 幼帝安徳天皇の遺体を、紅石山のふもとに埋葬し、その後、建久2年(1191)、後鳥羽天皇が長門国に勅して、御陵上に御影堂を建立し、安徳帝の菩提を弔ったとされている。
 壇ノ浦の戦いの一年後、安徳天皇の怨霊を鎮めるため、源頼朝の命により、阿弥陀寺御影堂が建てられた。

    赤間神宮境内図 
         赤間神宮境内図

 御影堂(みえいどう)(天皇殿)が安徳天皇社であり、京都方面を向いた東向きで造立された。
 阿弥陀寺は天皇怨霊鎮慰のため、まず木彫の等身大尊像が刻まれ、本殿の中心に厨(ず)子(し)に収めて安置され、現在の本宮ご神体となっている。
 その尊像の周囲に、天皇を守護する平家一門十名の肖像が描かれ、その下段に位置する拝殿に、安徳天皇の8年の生涯を8枚の絵にした『安徳天皇縁起絵図』が飾られた。
 明治維新のあと、阿弥陀寺は廃(はい)仏(ぶつ)毀(き)釈(しやく)運動で「赤間神宮」になった。
 明治政府は、国家神道を拠り所としたため、「天皇社」が寺院にあるのは不都合ということで、明治3年、阿弥陀寺を廃し、御影堂を「天皇社」と改称し、さらに明治8年、赤間宮と改称、昭和15年、官幣大社となり、赤間神宮となった。
 ついでながら官幣大社とは、天皇・皇族を祀る神社など、朝廷に縁のある神社の社格で、国家資格をもつ神(じん)祇(ぎ)官(かん)(現在は廃止)が祭祀を務める。

  赤間神宮水天門   
     水天門

 隣接する地には、天皇陵「安徳天皇阿弥陀寺御陵(みささぎ)」がある。
 この故に、この赤間神宮のある町は、今でも住所は阿弥陀寺町である。
 赤間神宮は、安徳天皇や二位尼が竜宮城にいた、という建礼門院の見た夢(平家物語)にちなみ、竜宮城を再現した竜宮造りとなっている。
 その豪華な水天門は、入水された安徳帝を慰めるため、竜宮城に見立てて建てられており、毎年5月3日には、絢爛豪華な「先(せん)帝(てい)祭(さい)上臈(じようろう)参拝」の行事が行われている。
 安徳天皇の命日に、その遺徳を偲ぶ「先帝会」を修したのが起源とされている。
 また平家落人の子孫らで組織される、「全国平家会」の参列のもと、御陵前での神事をはじめ、平家一門追悼祭などがある。
      
    赤間神宮本殿
      赤間神宮本殿

 ところで「上臈(じようろう)参拝」という儀式は、入水したが助けられた建礼門院(平徳子)の侍女達が、先帝会のときに、容姿を整えて参拝したことに由来するという。
 これが江戸時代に、当時この地にあった稲荷町遊廓の遊女によって受け継がれて、現在の「上臈道中」となったという。
「上臈(じようろう)」というのは、本来は貴婦人、江戸時代の大奥の職名であったが、また遊女や女郎の最高位にも使用される。
 現在の下関祭りでの「上臈道中」とは、花魁(おいらん)道中に擬せられている。


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 ■耳なし芳一
 
 『怪談』は、小泉八雲の怪奇文学作品集で、1904年に出版された。
 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が、妻の節子から聞いた、日本各地に伝わる伝説、幽霊話などを、独自の解釈を加え、情緒豊かな文学作品としてよみがえらせたもので、十七編の怪談を収めている。

    壇ノ浦
         壇ノ浦

 その一つが、阿弥陀寺の僧、「耳なし芳一(ほういち)」の怪談話で、平家の怨霊にまつわる怪談であり、平家一門の墓もあることから、これに因んで阿弥陀寺に「芳一堂」を建て、耳なし芳一の木像がまつられている。
 また、阿弥陀寺に平家一門の墓が建てられたのは、阿弥陀寺の前の海峡で海難事故が絶えないのは、海峡で没した平家武(む)者(しや)の怨霊の祟(たた)りと信じられ、平家一門の墓を建て、怨霊を鎮めるためだっという説もある。

     耳なし芳一

 さて、その物語の粗筋である。
 琵琶法師「耳なし芳一」は、「阿弥陀寺」の盲目の僧侶であった。
 芳一は平家物語の弾き語りが得意で、特に壇ノ浦の段は「鬼神も涙を流す」と言われるほどの名手だったという。
 ある夜、住職の和尚が留守の時、突然一人の武士が現われ、その武士に請われて「高貴なお方」の屋敷に、琵琶を弾きに行くことになった。そこには多くの貴人が集っているような気配を芳一は感じとった。
「壇ノ浦の戦い」のくだりをと所望され、芳一が演奏を始めると皆熱心に聴き入り、芳一の芸の巧みさを誉めそやした。
 しかし、語りが佳境になるにしたがって、皆声を上げてすすり泣き、激しく感動しているようすで、芳一は自分の演奏への反響の大きさに内心驚いた。

        琵琶法師

 芳一は七日七晩の演奏を頼まれ、夜ごと出かけるようになった。
芳一が深夜、一人で外出を繰り返したため、不信に思った僧たちが、芳一の行先を探したところ、七盛塚(平家一門の墓)の前で平家物語を奏でていた。
 芳一の形相は、この世の人とも思えぬ凄惨な形相で、辺りには数知れぬ鬼火が、飛び交っていた。僧たちは慌てて芳一を連れ帰った。

      壇ノ浦

 和尚に問われて、芳一は経緯を打ち明けた。
 和尚は、このままでは芳一が、平家の怨霊に殺されてしまうと案じた。
 そこで和尚は、「経文を書いている身体は、怨霊には見えない」と、芳一の全身に般若心経を写した。
 また音声によって居ること知られることを防ぐため、芳一には怨霊武者に声をかけれられても、無視するように堅く言い含めた。
 その夜、芳一が一人で座っていると、いつものように平家の怨霊が、芳一を迎えにきたが、経文の書かれた芳一の体は、怨霊には見えない。芳一が無言でいるから怨霊は当惑した。

       赤間関

 ところが、怨霊には、耳のみが見えたから、耳をもぎ取ってそのまま去って行った。
 帰宅した和尚は、耳を盗られて意識のない芳一を発見した。
 身体に般若心経を写経した際、耳だけ書き漏らしてしまったことに気づいた。
 その後、怪我は手厚く治療され平癒した。
 この不思議な事件が世間に広り、やがて「耳なし芳一」と呼ばれるようになった。
 この不思議な事件以降、「耳なし芳一」の平家物語の弾き語りが有名となり、方々からお呼びが掛かるようになった。
 こうして「耳なし芳一」は有名になり、富を得たという。

 
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 ■坂本龍馬

 阿弥陀寺町のあたりは、古くから海峡で漁をする漁師町で、自然と魚屋が小料理屋を営み、幕末の飲み屋街を形成していた。
 坂本龍馬や中岡慎太郎などの攘夷志士も、この阿弥陀寺町の料理屋で、長州藩の金で飲んでいたらしい。

      坂本龍馬
         阿弥陀寺町の坂本龍馬

 この阿弥陀寺町一帯に、藩の御用をつとめた回漕問屋、伊藤助太夫という大商人がいて、坂本龍馬の恩人でもある。
 長府藩・赤間関の大年寄であり、大名の宿舎・休息を提供する東の「本陣」伊藤家の当主であった。下関を代表する豪商であり、幕末の攘夷志士らを、さまざまな側面から支援した。
 特に攘夷志士の代表とも言える、坂本龍馬との関係は深いものであった。

      千石船

 伊藤の屋敷は、慶応元年(1865年)の初対面以来、龍馬の止宿先となった。
 その邸は広く、高杉晋作らが結成した奇兵隊も一時、邸に隣接する阿弥陀寺に本陣を移したこともある。現存する龍馬が書いた手紙のうち、助太夫宛の手紙が二番目に多く、龍馬との関係が深かったことが覗える。また伊藤助太夫から、下関の国内貿易のおもしろさを教えられ、坂本龍馬の私設海軍兼貿易会社の「長崎海援隊」の支店を下関に置いた。

      坂本龍馬から伊藤助太夫への手紙
         伊藤助太夫への手紙

 当時は、大坂で諸式の市が立って、物産の値が決められていた。
 もし大坂の市の値段を知っていれば、それだけで大儲けができたのである。
 つまり下関には大坂からの回漕船が下ってくるから、時々の大坂の市の値段を知ることが出来る。
 北前船や九州の回漕船は、大坂の市(いち)の値段を知らない。下関で安い価格で全てを買い取り、船脚の早い汽船で大坂へ送れば、大儲けできたのである。
 龍馬が構想していた、土佐商会の馬関交易にも関与している。また名前を助太夫から伊藤九三に変えたのも龍馬の勧めからであった。

 龍馬は慶応3年(1867年)2月、妻のお龍とともに下関を訪れ、伊藤邸の一室である「自然堂」を借り受けた。龍馬が、号を自然堂と称したのは、ここから来ている。
 龍馬は、下関では伊藤家を拠点に活動し、のちに犬猿の仲であった長州藩と薩摩藩の間で、「薩長同盟」を結ばせ、明治維新の原動力となった。

      近江屋 刺客に襲撃の再現模型 
         霊山歴史館  近江屋 刺客に襲撃の再現模型

 慶応3年(1867年)、京都の近江屋で中岡慎太郎と共に、刺客に襲撃され暗殺された。(近江屋事件)


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 ■源平合戦

 寿永2年(1183年)7月、源義仲に攻められた平氏は、安徳天皇と三種の神器を奉じて一旦、都を落ちた。
 が、その後、鎌倉政権の源頼朝と、義仲との対立に乗じ、摂津国福原(神戸)まで復帰した。
 しかし、その翌年、義経による騎馬軍団の奇襲による一ノ谷の戦いで、大敗を喫して海に逃れ、讃岐国屋島(香川県)と長門国彦島(下関市)に拠点を置いた。

     一ノ谷の戦い(鵯越)
       一ノ谷の戦い(鵯越)

 鎌倉政権は、頼朝の弟範頼(のりより)に3万騎を率いさせ、山陽道を進軍して九州に渡り平家軍の背後を遮断する作戦であった。
 が、範頼軍は3万という大軍で、兵糧不足と、瀬戸内海を押さえている、優勢な平氏の水軍の抵抗によって、進軍が進まなくなった。
 この状況を見た義経は、後白河法皇に平氏追討を願い、許可を得て都の公家達の反対を押し切って屋島へ出撃した。

   屋島の戦い  
        四国 屋島の戦い
 
元暦2年(1185年)2月、義経はまたも奇襲によって、屋島を攻略(屋島の戦い)。
 平氏総大将の平宗盛は、安徳天皇を奉じて海上へ逃れ、志(し)度(ど)に立て籠もったが、そこも義経軍に追われ、瀬戸内海を転々としたのち、彦島(下関)に拠った。一方、範頼軍は、ようやく兵糧と兵船の調達に成功して豊後へ渡り、平氏軍の背後の遮断に成功した。こうして平氏軍は彦島に孤立してしまったのである。


 
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 ■壇ノ浦合戦

 『吾(あ)妻(づま)鏡(かがみ)』(鎌倉幕府の正史)には、壇ノ浦の戦いについて、元(げん)暦(りやく)二年三月二十四日の条で
「長門国、赤間関壇ノ浦の海上で、三町を隔て、船を向かわせて源平が相戦う。
 平家は五百艘を三手に分け、山鹿秀遠および松浦党らを将軍となして、源氏に戦いを挑んだ。午(うま)の刻(12時)に及んで、平氏は敗北に傾き終わった」と簡潔に書かれており、合戦の具体的な経過は分からない。

         壇ノ浦合戦図

    

 源氏の義経は、摂津国の渡辺水軍、伊予国の河野水軍、紀伊国の熊野水軍などを味方につけ、840艘の水軍を編成していた。
 平氏軍は500艘で、松浦党100余艘、山鹿秀遠300余艘、平氏一門100余艘の編成で、平宗盛(平清盛の三男)の弟の知盛が大将として指揮を取ることになった。     


     壇ノ浦合戦 初戦平家優勢の図

『平家物語』では、源氏の軍議で、軍監の梶原景(かげ)時(とき)は合戦の先陣になることを望むが、総大将の義経は、自らが先陣に立つとはねつけた。
 軍監の景時は「大将が先陣なぞ聞いた事がない。将の器ではない」と義経と対立し、これが後の、頼朝への讒(ざん)言(げん)となり、義経の没落につながるとされている。
 軍事的な天才であった義経だが、世間知らずと政治的には無知であったが故に、のちに頼朝から朝敵とされて、奥州平泉で頼朝軍に討たれることになる。
 午前に関門海峡壇ノ浦で、両軍は衝突して合戦が始まった。
 関門海峡は「早鞆の瀬戸」とも呼ばれ、潮の流れの変化が激しく、水軍の運用に長けた平氏軍は、早い潮の流れに乗って矢を射かけて、海戦に不慣れな坂東武者の義経軍を押した。

      壇ノ浦合戦 後半の源氏優勢の図

 義経軍は満珠島・干珠島のあたりにまで追いやられ、勢いに乗った平氏軍は義経を討ち取ろうと攻めかかる。
 平知盛は、安徳天皇や平氏本営が置かれる大型の唐船に兵を潜ませて、鎌倉方の総大将義経の兵船を引き寄せ、包囲する作戦を立てていた。
 一方、陸上からは3万の源範頼軍が、平家の水軍に岸から遠矢を射かけて、義経軍を支援した。
 『平家物語』では、阿波重能の水軍300艘が、寝返って平氏軍の唐船の計略を義経に告げ、知盛の作戦は失敗し、平氏の敗北は決定的になったとしている。
 やがて、潮の流れが変わって反転すると、義経軍はこれに乗じて平氏軍を押しまくる。
 無防備の水手(かこ)・梶(かじ)取(とり)たちから犠牲となっていった。
 この結果、平家方の船は身動きが取れなくなり、平家方不利と見た諸将は、鎌倉方に雪崩を打って寝返ってしまった。
 当時の各地の水軍や豪族は、源氏にも平家にも属さず、独自に見方する立場であった。
 勝敗の潮の流れで判断し、平気で寝返り、圧倒的な勝敗の結果をつくり、勝ち側の源氏から幾ばくかの報償を得るのである。

      安徳天皇の入水の図
        

 敗戦を覚悟した平家一門は、次々と赤間関の海へ身を投げていった。
 これは、範頼軍の九州制圧、義経軍の四国制圧、鎌倉方による瀬戸内海制海権の奪取という包囲・孤立化による結末であった。
 平知盛は「見るべき程の事は見つ」とつぶやくと、鎧二領を着て、平家長(いえなが)と共に入水した。
 『吾妻鏡』では午の刻(12時ごろ))平氏一門の多くが死ぬか捕らえられ、戦いは源氏の勝利に終わったと記している。

      壇ノ浦合戦 入水した女性たちを救う源氏方

 この戦で、平氏(伊勢平氏の平清盛一族)は、25年にわたる平氏政権の幕を閉じた。
「盛者必衰のことわりをあらはす。驕れる者久しからず。唯春の夜の夢のごとし・・」
勝利を収めた清和源氏の頭領・源頼朝は、鎌倉に幕府を開き武家政権を確立させた。


       安徳天皇の霊を弔う平家一門の女性


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 ■春帆楼

 赤間神宮の隣に、日清講和記念館があった。
 天気も良好で、のんびり歩いて少し坂道を上ると、正面に料亭「春帆楼(しゆんぱんろう)」があり、その右手前に日清講和記念館があった。
 この「春帆楼」で、日清講和会議が行われ、「下関条約」とよばれる日清の講和条約交渉が行われた。

     春帆楼

 日本が締結した条約で、地名が冠された条約は、「下田条約」と、この「下関条約」しか存在しない。この歴史的意義を後世に伝えるため、昭和12年、講和会議の舞台となった「春帆楼」の隣接地に開館された。
 講和会議に使用するため、浜離宮から下賜された椅子などの調度品や、全権大使の伊藤博文、李鴻章(りこうしよう)の遺墨などが展示されていた。
 館内中央には、講和会議の部屋を再現し、当時の様子を紹介している。

     春帆楼
        

 明治28年3月、日清講和条約の会場選びは、長崎、広島など幾つかの候補地があげられていたが、全権大使の伊藤博文によって「下関の春帆楼」と決定された。
 春帆楼は、もと阿弥陀寺の方丈(住職の住まい)のあった所で、同寺が廃寺となった後眼科医、藤野玄洋が買収して、医院を営んでいた。
 玄洋の死後、未亡人ミチが旅館兼料亭「月波楼」として経営していた。
 旅館兼料亭として繁昌し、順次、三棟建てられたが、向かって右から月波楼、春帆楼、風月楼と呼び分けていた。

 その中の春帆楼という名称は、何度か訪れた伊藤博文が気に入って名付けたらしい。
「春の海の帆船」を心に描いて「春帆楼」と名付けたらしい。
 高台にある春帆楼からは、関門海峡がよく見下ろせ、海峡を行き交う汽船や軍艦が見える。近代化の進んでいる下関港と、多くの軍艦や汽船を、清国側の代表団に見せて、日本の工業力で威圧するという目論見もあったようだ。
 さて、この「春帆楼」が、明治28年3月に開かれた、日清講和会議の会場に使用され、一躍全国にその名を知られるようになった。

     日清講和会議の会場に使用された部屋
      日清講和会議の会場に使用された部屋

 以後は、「春帆楼」が旅館兼料亭の総称となった。
 料亭「月波楼」が繁昌したのは、海鮮料理が看板で、とくに裏メニューの「ふぐ料理」が人気であった。
 明治に入っても「ふぐ食禁止令」がまだ続いていた時代で、密かにふぐ料理が人気であった。
 というより、下関ではいわば普通に「ふぐ料理」が食べられていたようである。
 そもそも「ふぐ食禁止令」は、九州征伐の秀吉の軍勢が、下関で「ふぐを食べて集団中毒死」をしたことから、豊臣秀吉が発令したものであった。
 以来、江戸期を通じても「ふぐの禁制」が続けられてきた。
 が、ふぐの調理技術の進歩で、フグ毒を取りのぞき、下関辺りではふぐ料理が、料亭での裏メニューとして人気があった。

     河豚会席

 なんども「月波楼」に宿泊し、「春帆楼」の名付け親ともなっていた伊藤博文に、この事実で説得し、実際に「ふぐ料理」を供し、あまりの旨さに納得したらしい。
 もともと長州藩の騎兵隊上がりの伊藤博文(俊介)は、かつて下関で何度も「ふぐ料理」を食していたはずである。
 合理的判断力に優れた伊藤博文は、フグ毒を取りのぞけば、安全で美味しい「ふぐ料理」が楽しめることを理解していた。三百年も前の「ふぐの禁制」を、そのまま明治政府が引きつぐのは条理に合わない。
 要は、「フグ毒を取りのぞく調理法」を習得さえすればよい。そのためには「ふく料理公許制度」を設けるのが合理的である。こうして、伊藤博文によって「ふぐの禁制」が解かれ「ふく料理公許制度」を実施し、春帆楼が「ふく料理公許第一号」の栄誉を担っている。
 昭和20年の戦災で全焼した春帆楼は、戦後まもなく復興、関門国道トンネル開通時と山口国体の際には、昭和天皇・皇后両陛下が宿泊され、海岸沿いの国道は夜を徹して、揺れる市民の提灯で埋めつくされたらしい。
 現在の建物は、昭和60年に全面改築されている。
 ついでながら、春帆楼は現在、下関が本店ながら、東京、名古屋、大阪、広島、小倉など10店舗を展開している。また、「ふぐ料理セット」は通販でも販売している。


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 ■日清講和記念館

 さて講和会議に話を戻す。
 日清戦争の講和会議は、明治28年3月20日から「春帆楼」で開催され、4月17日に講和条約が調印された。
 この会議には、日本全権の伊藤博文、陸奥宗光、清国全権の李鴻章をはじめ両国の代表11名が出席した。

    日清講和会議

 第三回目講和会議を終え、李鴻章が宿舎である引接寺への帰途、右翼の小山豊太郎という青年にピストルで狙撃された。
 李鴻章は、顔面の軽い負傷で済んだが、日本側はテロ事件の発生に、列強の批判や干渉を恐れ、清との3週間の休戦に応じた。

    李鴻章

 また、講和での対清要求も、若干譲歩している。
 この事件によって会議は一時休会し、負傷した李鴻章には、明治天皇をはじめ各方面からも多くの見舞いが寄せられた。

    日本全権の伊藤博文、陸奥宗光
       日本全権の伊藤博文、陸奥宗光

 その甲斐もあり、まもなく李鴻章は快復し会議は再開された。
 事件後、李鴻章は大通りを避け、山沿いの小(こ)径(みち)を往復した。
 この小径は、「春帆楼」の左手にあり、「李鴻章道」の表示があった。



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 ■日清戦争

 そもそも、なぜ日清戦争が勃発したのか。
 明治維新を成し遂げてから、わずか27年ほどしか経過していない時に、対外戦争を行っているのである。
 財政的にはまだ十分な国力もなく、軍備力の近代化を急いでいる段階であった。しかも相手は、衰えたとはいえ、大清帝国である。
 日清戦争の原因について、開戦を主導した外務大臣陸奥(むつ)宗(むね)光(みつ)は、
「本源にさかのぼれば、日清両国が、朝鮮における権力闘争」と回想している。

   日清両国の朝鮮における権力闘争の風刺画

 日本の戦争名目としての「朝鮮独立」は、
「清国の勢力圏から、朝鮮を切放し、かつ親日化」
を図ることであった。
 さらに最終的には「事実上の保護国化」を目指していた。
 この背景には、ロシアの南下政策があった。
 鎖国を国是としてきた李氏朝鮮は、軍備といえるものは持っていなかった。
 一方、清国は宗主国として朝鮮への利権を持っていたが、軍備の近代化が遅れている。
 ロシアが本気で南下を意図すれば、朝鮮半島はロシアに併呑される恐れがあった。つまり日本の安全保障上、朝鮮半島に日本の軍事拠点を置いておく必要性があった。
 このためには、「朝鮮国独立」を維持させ、その後ろ盾として日本がつく。
 ありようは、朝鮮国を「日本の保護国」にしておかねば、やがて日本がロシアや西欧列国に侵略されるという、恐怖のようなものがあった。
 こうした列強のアジア進出の中で、朝鮮国は閔(びん)氏政権のもと、ようやく開国政策をとりはじめた。

     日清戦争 日本軍の進路と各地の闘い
       日清戦争 日本軍の進路と各地の闘い

 が、朝鮮の内部改革はうまくいかず、重税政策や、両班(やんぱん)たちの賄(わい)賂(ろ)と、不正収奪の横行などで、民衆の不満は高まり、1883年から各地で農民の蜂起(民乱)が起きていた。
 これが「甲午農民戦争」に発展し、反乱軍は5月には全州一帯を支配下に置いた。
 朝鮮半島の混乱に対し、日本は日朝修好条にもとづき半島に出兵し、清国も天津条約にもとづき出兵した。

   日清戦争日本軍   

 日清両国の出兵で、朝鮮の農民の反乱は鎮圧された。
 農民の反乱が鎮圧されたのち、朝鮮国は、日清両軍の撤兵を申し入れたが、両国は受け入れずに対峙をつづけた。
 やがて、日清の間で宣戦布告がなされて、日清戦争が朝鮮半島で勃発した。
 装備が近代化された日本軍は、時代遅れの旧装備の清国軍に対し、終始優勢に戦局を進め、遼東半島などを占領した。

    朝鮮軍務大臣趙義淵一行の日本軍慰問  
         「朝鮮軍務大臣趙義淵一行の日本軍慰問」

 翌年、下関で「日清講和条約」が調印され、戦勝した日本は清から領土(遼東半島・台湾・澎湖(ほうこ)列島)と、多額の賠償金などを得ることになった。
 これに対し、ロシア・フランス・ドイツが、日本に対して、清への遼東半島返還を要求し、やむなく日本は三国の要求を受け入れた(三国干渉)。

      日清戦争風刺画

 ともかく日本は割譲された台湾に上陸し、台湾が軍政から再び民政に移行した。
 近代日本は、大規模な対外戦争をはじめて経験することで「国民国家」に脱皮し、この戦争を転機に経済が飛躍した。
 さらに、清の賠償金などを元に、拡張した軍備でやがて日露戦争を迎えることとなる。
 日清戦争に勝利はしたものの、ロシアの南下という恐怖はまだ取り除かれていなかったのである。
 

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 ■伊藤博文

 薩長連合を中心に、明治維新を達成したとき、倒幕後の「新国家構想」について、明確な国家構想を持っていたのは、薩摩の大久保利通と佐賀の江藤新平といわれる。
 長州の木戸孝允(桂小五郎)や薩摩の西郷隆盛などは、漠然とした理想の国家をイメージしただけで、具体性を持った国家構想を持たなかった。

        大久保利通
          大久保利通

 日本を近代国家として成立せしめるには、まず「内務省」という国内統治機構をつくり、全国の藩知事と、その管轄下にある警察機構を握って、江戸期の旧弊を打破して近代化を進める。しかるのちに民選による議会で、国家を運営すべし。というのが、大久保の描いた近代国家建設の青写真であった。

        江藤新平 
  
 初代の司法卿についた佐賀の江藤新平の新国家構想は、全ての人民は法律をもって平等となす。憲法をさだめて万機の根本とし、民法、刑法、商法などを定めて、旧弊の人民を覚醒させ、議会をもって近代国家をめざすという構想であった。

      左から木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通 
       左から木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通
 
 明治4年から明治6年にかけて、「岩倉使節団」が、アメリカと欧州へ、近代国家とはどういうものかを視察にでかけた。
 このとき、伊藤博文も木戸孝允とともに、英語に堪能な事を買われて使節団に加わっている。このとき、伊藤博文は、積極的に大久保利通に近づいている。
 これは大久保利通の合理的判断力と、実務者能力に惹かれたかららしい。
 伊藤の本来の親分は木戸ながら、かれは人の好き嫌いが激しく、つねに批評家的立場で観念論に終始するきらいがあった。

  伊藤俊輔高杉晋作と伊藤俊輔
           幕末の伊藤俊輔     高杉晋作と伊藤俊輔

 伊藤は身分が低いため、桂小五郎(木戸孝允)の手附として「松下村塾」で共に学んだ。手(て)附(つき)という立場は、私的な従僕であり、いわば秘書のようなものであった。
 その後、同門の久坂玄瑞・高杉晋作・桂小五郎・井上聞多らと倒幕運動に加った。
 討幕運動のなかで、伊藤俊輔その実務的な能力を発揮し、志士たちの中で厚い信頼を勝ち得た。

       伊藤俊輔と桂小五郎
              伊藤俊輔と井上聞多

 長州藩の上士の信頼を得、文久3年(1863年)、井上聞多らと共に、長州五傑の一人として、幕府に内緒で長州藩からイギリスに派遣されている。この時の経験が、のちの活躍の基盤となる。

        井上聞多と伊藤俊輔

 やがて長州藩が佐幕派である俗論派が実権を握り、倒幕派の攘夷志士の粛正を始めると、高杉晋作は、藩庁に対して軍事クーデーターを図った。
 このとき高杉晋作の挙兵に従い、伊藤俊輔は、騎兵隊の支隊である「力士隊」を率いて参加した。

 高杉晋作の元に、一番に駆けつけたのは伊藤俊輔だった。
 その後、奇兵隊本体も加わり、各所で勢力を増やして俗論派を倒し、正義派(倒幕派)が藩政を握った。伊藤博文は、のち述懐して、「私の人生において、唯一誇れることがあるとすれば、この時、一番に高杉さんの元に駆けつけたことだろう」と語っている。

     桂小五郎(中央)伊藤俊輔(後ろ右端)
     
木戸孝允(前列中央)と伊藤博文(後列右端)ら。明治3年(1870年)撮影

 伊藤博文は、その実務能力で木戸に引き立てられたが、岩倉使節団のアメリカと欧州視察に同行している途中、大久保の信奉者になってしまった。

 大久保の進める内務省構想に賛同し、調整役で奔走している。
 明治初期の政府は不安定で、征韓論に敗れた西郷隆盛は、参議(大臣)を辞して鹿児島に隠棲した。このとき江藤新平や、板垣退助などの参議も相次いで辞職している。
 こうした明治政府の不安定な時代に、木戸孝允までが、大久保利通と意見が合わずまた参議(大臣)を辞した。
  
         木戸孝允
           木戸孝允

 明治維新の元勲であり、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允は、「維新の三傑」と称された人物である。
 明治政府の中枢から西郷隆盛がさり、さらに木戸孝允までが去って、明治政府は崩壊の危機に陥った。このとき、伊藤博文は大久保の意を受けて、木戸孝允を説得し、参議に復職させるという調整能力を発揮している。
 明治11年(1878年)、大久保利通は石川県士族らによって暗殺された。
 その後、伊藤博文は明治15年(1882年)、憲法調査のための渡欧を命じられ、これが帰国後、近代的な内閣制度を創設し、大日本帝国憲法の起草・制定に、中心的役割を果たすことにつながる。

         伊藤博文
           伊藤博文

 さらに明治18年(1885年)、内閣制度移行に際し、初代内閣総理大臣に就任している。
 一介の足軽あがりの人物が、公家出身で太政大臣として名目上ながらも、政府トップの三条実美をさしおいて指名されたのである。
 そののち、第五代、第七代、第十代の「内閣総理大臣」を努めている。四代も内閣総理大臣をつとめた人物は、日本史で他に存在しない。いかに実務能力に長け、さらには人望があったかの証拠である。
 1909年、ハルビンで朝鮮独立運動家の安重根によって暗殺された。
 
      千円札の伊藤博文

 のちに千円札の肖像に採用されているが、一万円札の福沢諭吉にくらべて過小評価ではと思っている。


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 ■馬関海峡

 下関は古来から「赤間関」といった。
「赤馬関」としゃれて読みかえ、つづめて馬関と称した。従って関門海峡を、歴史的には「馬関海峡」と呼ぶ。
 この歴史遺跡が多く、とくに日本の夜明けと近代化に寄与してきた、浪漫のある海峡を門司、下関ともに「浪漫(ロマン)海峡」と称して観光資源として売出している。

  関門海峡 

 
ついでながら下関から萩までの街道を赤間街道といい、北浦道筋・中道筋・北道筋とあった。中でも中道筋は、萩と下関を結結ぶ最短ルートであり、最も重要な街道だった。
 吉田松陰や、高杉晋作など、幕末の時代に活躍した多くの志士達が通った街道であり、まさに歴史街道であった。
 今回の目的地「西長門リゾート」に行くには、日本海沿いの北浦道筋(北浦街道)にあたる国道191号線を北上した。

 下関は、山陽道と山陰道の結節点にあたり、さらには海峡を挟んで、九州と対峙する位置にあったこともあり、古来より陸と海の交通の要衝であり続けた。
 陸路では、山陽道(西国街道)の終点であり、現在の国道9号線の終点である。また国道191号線の起点でもある。
 海路では、明治までは北前船(西廻り航路)の経由地であった。
 また赤間関は、古くから国際港でもあった。つまり「朝鮮通信使」の本州最初の寄港地でもあった。江戸時代の朝鮮通信使は、対馬・壱岐(長崎県)、相島(福岡県)に立ち寄り、阿弥陀寺(現赤間神宮)前の桟橋に接岸し上陸した。
「朝鮮通信使」の随員が300~500人規模となった江戸時代は、阿弥陀寺と引接寺が宿泊場所に充てられた。

     朝鮮通信使

 朝鮮通信使は、「朝鮮王朝」が室町時代から江戸時代にかけて、日本に派遣した外交使節団のことである。両国は、「通信使」によって「信(よしみ)」を「通(かよ)」わし、外交課題を克服してきた重要な役割を持っていた。
 秀吉の時代には、朝鮮出兵などで関係は杜絶したが、徳川時代に入って、両国関係が安定すると、朝鮮通信使は、徳川将軍家の将軍襲職のたびに派遣され、両国の友好関係の象徴とされた。また、政治的な意義に加え、文化的な交流が深まった。
 現在の「下関市三大まつり」のひとつ、「馬関まつり」で、「朝鮮通信使行列」を再現している。参加者は、韓国釜山広域市の学生と市民で、これに公募の下関市民が加わって両国市民が通信使衣装で市内を行進するという。
 また現在の下関港が「特定重要港湾」、そして「中枢国際港湾」に、下関漁港が特定第三種漁港にそれぞれ指定されている。
 一方、交通の要衝であることは、国土防衛上重要な地点であることも意味する。
 明治期から終戦にいたるまで、関門海峡沿岸一帯が、西日本最大の下関要塞地帯に指定され、写真撮影や地図作成などが厳しく制限された。現在も市内各所に、当時の標柱や砲台跡など、要塞地帯の遺構が残っている。


    関門海峡沿岸一帯

 戦前は、「関釜(かんぷ)連絡船」によって、中国本土や朝鮮半島への玄関口として活況を呈した。終戦時には、下関港が在日韓国・朝鮮人送還の主要な出発港の一つになったこともある。 
 また日本で唯一、毎日運航されている貨客国際航路である「関釜フェリー」の存在により、現在では市内全域に多くの韓国・朝鮮系住民が居住し、とくに下関駅北側グリーンモール商店街一帯は、事実上コリア・タウンとなっている。

     関釜フェリー
       関釜フェリー

 現在、国際定期旅客航路としては、関釜フェリー(韓国・釜山行)のほか、中国へは青島(チンタオ)(週三便)・蘇州太倉(タイツァン )(週一便)が就航しており、計三航路という国内最多の「国際旅客航路」を有している。
 下関市は、関門海峡の対岸の北九州市とともに、本州と九州の接点として発達してきた。
 両市が中心となって形成される、「関門都市圏」は、人口約220万人を擁し、非県庁所在地の都市圏としては日本最大の規模を誇っている。
 両市の経済面、文化的なつながりは極めて深く、観光や行政サービスなどで、両市の交流が盛んなほか、買い物・娯楽・通勤通学・交通機関利用(小倉駅や北九州空港)等を目的とした両市間の人の流れが日常的にある。
 ゆえに北九州市小倉の商業・娯楽施設の動向が、下関市内の施設の経営戦略に大きな影響を与えているという。




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 ■響灘

 響(ひびき)灘(なだ) は関門海峡の北西に広がる海域であり、北東側は日本海につづき、西側には玄界灘が隣接している。
 「響灘」は、「ひぢきの灘」 が長い年月をへて「 ひびき(響)灘」 に転訛したと言われている。
「昨日(きのう)こそ 船出はせしか 鯨魚(いさな)取り 比治奇(ひぢき)の灘を 今日見つるかも」(万葉集 巻第十七 読人知らず)

   響灘

 古代では、このあ辺りは、ヒジキ (海藻)、ワカメなどの海産物が多く採れることで知られ、これらの海産物が、平城京(奈良の都)へ献上された記録が残っている。
「玄界灘」の初出は、江戸時代の辞書『書言字考節用集』にある。九州北限の海を、漠然と指していたらしい。
 日本海の一部で、韓国や日本の島根県、山口県、福岡県、佐賀県、長崎県に面しており、広さは不確かだが、約一万三千平方㎞である。
 韓国では「玄海灘」(ヒョンヘタン)と呼ぶ。
 何となく、九州側の小倉藩から見た海を玄海灘と呼び、中国側の長州藩から見た海を、響灘と言ったらしい。
 後に、行政区分上、名称に区切りをつけたため混同されるが、重なる領域があるのはこの理由からである。

   響灘の夕陽 

 さて、我々一行の車は、響灘を左に見ながら、国道191号線を北上している。
 下関市の西部の北浦海岸が響灘に面し、国道191号沿線に安岡、吉見、室津など良好な漁港が点在し、玄界灘と同じく日本有数の漁場である。
 響灘では、鯖、鯵、イワシ、フグ、ウニなどの魚が水揚げされる。
 その他に、浜田・仙崎・豊北・若松・芦屋・波津・鐘崎などの沿岸部には、釣りの名所と知られる場所も数多く存在する。
 また海水浴場も点在し、夏季の海水浴シーズンには周辺から海水浴客が訪れている。
 沿岸部の気候は温暖であり、冬は対馬海流の影響で霜柱が立つことは無いが、雲が発生しやすいため、曇天の日が多く、雨や雪を降らせることもある。日照時間も非常に短く、北西の季節風の影響で肌寒く、波は穏やかで荒れることは少ない瀬戸内海側とは違い、季節風の影響を強く受けるため、海が荒れることも少なくない。
   



 ■角島大橋

 道の駅「北浦街道」で一休みして、ほどなく角(つの)島(しま)大橋を渡った。観光用に架けられたものであろうが、立派で大きな橋であった。
 平成12年に開通した角島大橋は、延長1780mで、特有のエメラルドグリーンの海士ヶ瀬(あまがせ)をまたぎ、景観とマッチした大橋は、西長門海岸地域随一の景勝地とされている。

    角島大橋


 角島大橋の先には、角島灯台や夢崎波の公園、牧崎風の公園などの観光施設がある。
 
 島の最西端に立つ角島灯台(市の有形文化財指定)は、明治9年に初点灯し、日本海に面した灯台では最初の洋式灯台で、今なお現役で活躍している。
 この燈台は、イギリスの技師によって建てられたもので、総御(み)影(かげ)石(いし)の石造りの灯台としては、日本でも最も美しいとされている。
 灯台内部の105段のらせん階段を上ると、360度のパノラマが広がっている。
 灯台に隣接して夢崎波の公園がある。

    角島灯台

 波をテーマにした園内には、花で波をイメージした花壇が造られている。
 もうひとつの牧崎風の公園は、角島の中では最北端、日本海を望む岬に位置している。日本海の風を感じ、景色を一望できるよう、遊歩道が整備されている。
 この他にも、角島には博物館の「つのしま自然館」があり、北長門海岸国定公園の自然を、分かりやすく紹介しているという。
 また映画「四日間の奇蹟」のロケセットが残されている。大浜海水浴場に建つ礼拝堂は、その映画のロケセットとして建てられたものらしい。
 我々の車は、角島大橋を渡って、木造のしゃれた建物の「しおかぜの里角島」という特産品販売所でユーターンして、宿泊先の「西長戸リゾート」へ向かった。
 



 ■長戸リゾート

 案内されてホテルの客室に入ると、正面の大きなガラス超しに、白砂とエメラルドグリーンの浅海と、白い角島大橋が、目に飛び込んできて「ワォー」と驚きの声を上げた。
 一歩部屋に入ると、部屋全面に広がる視界に圧倒されて驚いたのである。
 普通なら窓際に行って外の景色を見るのだが、この部屋だけは、一歩部屋に入ると、天井から床に達する大きな一枚ガラスで、全面に広がる視界に圧倒されて驚いたのである。
 厳密にはガラスではなく、水族館などに使用されている厚いアクリル板なのであろう。
 サッシのような枠や框(かまち)など一切なく、あたかもベランダに出て、風景を眺めているような開放感があった。

   長戸リゾートからの眺め      

 このホテルは、全室がオーシャンビューの設計になっている。
 響灘の美しい海を、座敷に座って贅沢に堪能できる展望に、しばし我をわすれて海と向きあい、目と心のリラックスができた。
 いままでJOB会で幾つもの贅沢なホテルに宿泊してきたが、これほど部屋からの眺望に満足できたホテルは、他にない。
 早朝の天気とことなり、お昼前から絶好の好天に恵まれ、馬関海峡でワイルドな昼食を満喫した。いくらか雲が出てきたとはいえ、部屋のなかで、夕暮の海の景色が眼前に展開している。

    長戸リゾートからの眺め 

 もともとこの「西長門リゾート」ホテルは、夏場がメインで、プールやプライベートビーチを愉しめ、バナナボート(夏季)というイベントも開催されている。
 パンフレットには 
「海水浴&シュノーケリングなど、透明感抜群の海と、白い砂浜で夏の一日を過ごしてみてはいかがでしょうか。ダイビング(通年)で、神秘的な海の世界へ。手軽に楽しむことのできる体験ダイビングもございます。」
とあった。
 ただ、我々が訪れたのは11月半ばで、海のリゾートを愉しめる季節ではなかったが、意外に観光客が多かった。
 やはり、海が見える露天風呂と、広い視界が開けている室内からの眺めが、人気の秘密であろう。普段は街中で暮らしているから、海を見ることはない。
 改めて、広大な響灘を眺めていると、チマチマした日常から解放され、とても安らかな気持ちに浸されてくる。

 ところで、仲良しグループのこの旅は、長い間続けているから、お互いに歳を重ね、いつしか初老のグループとなってしまった。
 この歳では、夏場のリゾートに来ても、プライベートビーチで泳いだり、シュノーケリングなどを愉しむ体力に欠けるだろう。

  長戸リゾート    

 ともかくオーシャンビューで一息ついて、最大の愉しみである大浴場に向かった。
 このホテルは海岸沿いの傾斜地に建てられているから、フロントと客室が、道路からのエントランス同じ高さであったから、平屋の建物かと勘違いしていた。
 大浴場に行くのにエレベーターを使用したから、地下かと思いきや、浜辺からみると三階建であった。

 大浴場も一枚ものの厚いアクリル板で囲われているから、いわば露天風呂の雰囲気があって、じつにパノラマの眺望が愉しめた。
 ところが露天風呂にでてみると、湯船から眺める海と夕焼けはさらに格別であった。

  長戸リゾートからの眺め   

 雲の動きが速く、夕陽が見えたと思うと、雲間に隠れ、また顔をだした。
 脚を伸ばして寝そべって、動きの速い夕暮れの雲を眺めていると、大きな自然に包まれている安らぎと、身体が海に浮かんでいるような錯覚を感じた。
 久しぶりの温泉で、しかも夕陽を長めながらの露天風呂は、生きているという実感と、開放感に浸ることができる。
 ところで、このホテルは、浜辺のリゾートホテルだから、温泉ではないのではと勘違いしていたが、歴とした天然温泉であった。

 ・泉質単純温泉(無色透明、無味無臭)
 ・効能神経痛、筋肉痛、関節痛、五十肩、運動麻痺、関節のこわばり、打ち身、くじき慢性消化器病、痔疾、冷え症、病後回復期、疲労回復、健康増進などとあった。


 
 

 ■道の駅 北浦街道

 まるで沖縄の浜辺にいるような、エメラルドグリーンの海と白砂の散歩を終えて、9時45分頃、ホテル西長戸リゾートを出発した。


  長戸リゾート     

 山口県は海岸線の総延長で、全国でも有数な海洋県らしい。瀬戸内海と響灘や日本海の両方に接しているから、なるほど海洋県なのである。
 とくに響灘に面しては、北長門海岸国定公園に指定され多数の海水浴場と漁港があり、海産物にめぐまれており、特に仙崎かまぼこは全国にその名が知られている。
 昨日もトイレ休憩に立ち寄った道の駅「北浦街道豊北」に立ち寄った。
 目的はお土産品の購入である。
 「北浦街道豊北」は、道の駅として、情報コーナー、道路交通・気象・災害情報を情報端末で提供と、周辺観光の観光案内、パンフレット等も用意されている。
 また、この施設は広い駐車場と丈夫な鉄筋コンクリートの構造で、災害時の一次避難場所としても機能するよう配慮されている。

  道の駅 北浦街   

 さて、「北浦街道豊北」にはいくつかのコーナーがあった。メインは、地域物産品販売所「夢市場」で、隣接して「東北物産コーナー」、交流広場、そしてコンビニコーナーがあり、またレストラン「わくわく亭」やケーキや焼き菓子などのパティスリー「リュ・ド・ソレイユ」とカフェテリアまであった。
 山の中にある道の駅とは異なり、高速のサービスエリアの小型版という感じがあった。
 「東北物産コーナー」として、岩手、宮城、福島三県の物産コーナーがあるのは不思議な気がしたが、そのコーナーを担当する従業員は、下関市と本州四端協定で結ばれている岩手県宮古市で生まれ、東日本大震災で被災された両親と共に、豊北町に移住した女性だという。
 ともかく、ここでいろいろお土産品を物色した。
 土地柄か、仙崎かまぼこや、ふぐの煎餅やイカの煎餅、海苔など海産物の加工品や漬け物などが多かった。
 嵩張るものを買ってしまったので、宅配便で自宅まで送るというから、ついでに「ふぐのヒレ酒」まで買ってしまった。
 



 ■門司港レトロ

 響灘を右手に見つつ国道191号線を抜けて、下関から関門トンネルを抜けて門司港についた。
 昨日巡った下関は、近代日本の「夜明け前」の史跡が多いが、九州の門司港は、明治から昭和初期にかけて栄華を誇った街で、近代日本を支えた港町として、歴史にその名を刻んでいる。

  門司からの関門海峡
     門司港からの関門大橋

 今はかつての栄華はないが、逆に大正ロマン漂うレトロな街として、観光の街として復活を果たしている。「関門海峡観光推進協議会」という組織があり、関門海峡を挟んで門司エリアと、下関エリアを「統合した浪漫海峡の街」として活性化を図っている。
 浪漫海峡の観光の核として、下関唐戸エリア、下関長府エリア、そして門司港レトロエリアがある。
 それらが一体となった観光イベントが様々に準備されている。
門司も下関もかつて通過したことはあるが、観光として訪れるのは初めてであり、大変たのしい観光となった。   
     
 さて門司港は、明治22年に開港し、石炭などを扱う国の特別輸出港に指定され、貿易港としての地位を確立した。
 北九州の石炭や工業製品の大陸貿易の基地となり、最盛期には、一ヶ月に200隻近い外航客船が入港し、国内航路を含めて年間600万人近い乗降客があったという。
 その後、日清戦争、日露戦争の勃発と共に、中国大陸が近いこともあり、軍港としての役割が増大した。軍需品や兵士たちを送り出す重要な港となり、兵站基地として米などの食料、兵器、軍服などを扱う商工業が、門司に集積されていった。
 大正3年には門司駅新駅舎(現在の門司港駅)が完成している。
 この年の8月に日本は第一次世界大戦に参戦し、11月には中国の青島(チンタオ)を攻略し、門司は戦争の特需に湧きたったという。
 その後、欧州航路の寄港地にもなり、国際港としての門司港は、ますます繁栄していった。

    国際友好記念図書館 
      国際友好記念図書館

 大陸貿易も盛んで満州などへの貿易船、大陸航路の客船で大変にぎわった。
 この頃には、神戸港、横浜港、門司港が、日本三大港として、重要な国際貿易の拠点となっていた。
 大商社や銀行が先を争って門司に支店を出し、地価が暴騰したのもこの時期の事である。
 当時、門司の中心地の一坪の価格が八十円、今の四百万円以上まで騰がったという。
 如何に門司が栄えていたか、容易に想像できる。さらに大陸貿易の発展とともに、港町につきものの料亭と花街が大いに賑わった。
 門司には数多くの料亭ができ、清滝には10件以上もの料亭が林立し、旅館も多数あり、高松宮殿下が定宿としていた「三笠」もそのうちの一つである。
 また、芸伎衆もおよそ200人、置屋も20軒以上あったと言われており、当時の華やかさが想像出来る。
 このように、終戦前までは非常に栄えていた門司港だが、終戦とともに大陸貿易が縮小され、石炭も減り、港としては低迷し、次第に衰退していくことになった。
 現在では「門司港レトロエリア」として、観光の街に生まれ変わり、年間200万人以上の人が訪れる観光地として、新たな歴史を歩んでいる。
 門司港は、明治初期に開港してから120年。
門司港レトロエリアには、明治から大正にかけて作られた建物が今でも残っている。
  木造建築の門司港駅を初め、旧門司税関など、大正浪漫ただよう赤煉瓦の建物が、エキゾチックな雰囲気を醸し出している。
 夜になれば、華麗な照明と噴水のショー、「門司港レトロナイトファンタジー」が始まり、 幻想的な空間を演出するという。
 
 ところで門司港レトロの「レトロ(RETRO)」とは、英語の「RETROSPECTIVE(懐古的)」を略した言葉からきている。かつて国際貿易港として栄えた門司港には、当時の面影を偲ばせる古い街並みが残されている。
 潮騒やカモメの声は昔のまま、この古い街並みと、新しい都市機能をミックスさせた「都市型観光地」をめざしている。
 粋でモダンで、新しくて懐かしい港町、「門司港レトロ」と名付けられたという。
 懐かしさがあふれるレトロ街にくれば、若い恋人たちにとっては、懐かしい想い出を育むことができるだろう。まさに浪漫海峡である。


   門司港ホテル  
     門司港ホテル

 この門司港レトロ推進事業は、昭和63年に推進事業基本計画が策定されてから始まっている。1歴史的建造物保存活用事業、2レトロめぐり事業、3.海峡めぐり事業、4.観光施設整備事業 が、自治省「ふるさとづくり特別対策事業」に正式承認された。  
さらには「北九州市ルネッサンス構想」の「緑とウォーターフロントを活かした快適居住都市づくり」をめざす都市像としても位置付けられている。
 こうした構想で、歴史的建造物保存が行われ、近代的観光施設の展望施設や海峡プラザと商業施設も整備され、さらにミュージアムや美術館なども整備された。
 さらに、少し足を伸ばした和布刈(めかり)エリアには、絶好のビューポイントがたくさんあり、歴史の重要な転換期にたびたび登場してきた関門海峡を望むことができ、関門大橋も間近に見ることができる。

     旧大阪商船ビル
       旧大阪商船ビル

 門司港レトロ推進協議会には「レトロ憲章」というものがある。以下、抜粋。
 「門司港は古代から人やものの活発な交流がおこなわれ、明治以降の近代には日本有数の貿易港として、独自の経済、文化圏を形成してきました。又、関門海峡をはさむ雄大でかつ美しい水際線はかけがえのない財産です。
私たちは、このまちが受け継いできた素晴らしい景観と、長い歴史のメッセージを未来に伝えるためこの憲章を定めます。
 古き良き時代と現代が融合した街、門司港。レトロエリアには大正、昭和のモダンな建物が今でも残っており、当時の雰囲気が今でも感じられます。
 古い物と新しい物の織りなす景観調和は古くもあり、新しくもある。
 そんな不思議な魅力を持ち合わせている街が門司港レトロです。
 明治・大正期には中国大陸との貿易も盛んで、ヨーロッパの船も寄港していました。それ故いろいろな文化からの影響が見られ、それも門司港レトロ観光の見所の一つとなっています。」




 ■旧門司税関

 明治45年に建てられた旧門司税関は、門司港レトロを象徴する建物である。赤煉瓦で作られた外観は、情緒ある港街の風情を感じさせる。 焼失した門司税関の二代目の庁舎として建設され、昭和2年(1927年)、西海岸に三代目の庁舎となる、旧合同庁舎が完成するまで使用された。
 その後民間に払い下げられ、昭和20年の門司空襲によって屋根がなくなり、修復される直前は窓はモルタルで塞がれ、倉庫(松庫ビル)として使用されていた。
歴史的意義を踏まえ、門司港レトロ事業の一環として、修復されることとなったが、傷みがひどく、過去の写真などを元に、四年の歳月をかけて外観が復元された。
 内部は鉄骨により独立の架構が設置されている。
 平成7年に他の施設と共にオープンし、一階は税関常設展示コーナー、エントランスホール、休憩室、喫茶店「レトロカフェ」展示室、二階はギャラリーと展望室となっている。

   旧門司税関  
      旧門司税関

 現在の門司税関は、門司港湾合同庁舎にあり、その管轄は、山口県、福岡県(長崎税関の管轄に属する地域を除く)、佐賀県のうち唐津市、伊万里市、東松浦郡、西松浦郡、長崎県のうち対馬市、壱岐市、大分県、宮崎県となっている。
 柳生氏も中国からの輸入品の税率のことで、この門司税関に足を運んだことがあるとの話であった。
 ところで、税関というのは海外旅行のとき、必ず通る「入国審査」とともに必ず通るいわば関所のようなところである。
「税関審査」で旅行鞄を開けられると、少し緊張するが、ほとんどの場合フリーパスで通過してきた。
 人、物、金、文化、情報の流れが加速し、グローバル化する中で、税関が果たすべき役割も大きく変わってきている。  
    
    税関の仕事 

 税関での主な業務は、各国の税関や国際機関などと連携・協力しながら、適正な税関行政の運営にある。
 早い話が、適正かつ公平な関税等の徴収が、最大の業務といえる。
 税関で徴収する関税、消費税などは、日本の国税収入の約一割(約5兆円)を占めているという。
 関税などの適正な徴収を確保するため、「適正な申告」が可能な納税環境を整備し、積極的な諸施策を講じているという。
つぎに重要なのが、安全・安心な社会の実現という課題である。
 薬物、銃器をはじめ、テロ関連物品、知的財産侵害物品などの、社会の安全安心を脅かす物品などの密輸出入を阻止することにある。
 このため、効果的に水際で取締るため、内外関係機関との連携や、情報交換を積極的に行うなど、近年の密輸事犯の大口化や多様化に対応した取締体制の整備に取り組んでいる。
 そして貿易の円滑化という課題も重要である。
 貿易の秩序維持と、健全な発展を目指すにあたっては、適正な通関を確保しつつ、簡便な手続と、円滑な処理を実現する必要がある。
 税関では、手続やシステム運用等の改善を行うなど、利用者の利便性の向上等を通じた貿易の円滑化の取組みを進めている。
このような業務の円滑化の故に、我々無害な観光客を一目で識別して、税関をスムーズに通してくれているのである。





 ■海峡プラザの猿回し

 旧門司税関を出て、観光船乗り場を右手に見ながら散策すると、左側が海峡プラザで、いくつかのショッピングモールが連なっていた。
 奥方たちは気になるショップを覗いたり、店の中に入り込んだりしていた。
 海峡プラザと観光船の船着き場の間が、イベント広場となっていた。ここで偶然猿回しをやっていた。

    海峡プラザの猿回し 

 大道芸を見るのは、何十年振りか。
 つい、足をとめて、カメラを動画に切り替えて撮影をした。
 袴を穿いた猿がいて、博多弁で猿に話しかけながら、観客に挨拶をさせたり、輪をくぐらせたり、ドジョウすくいのような演芸を披露していた。
 大道芸では、やはり笑いが必要で、話術で観客をひきつけて笑わせながら猿に芸をさせる。

     海峡プラザの猿回し 

 親方が芸の指示を出すが、お猿がそっぽを向いて芸をしない。これもストーリーのようだ。
 そこで、おしゃべり芸で笑いをとりつつ、猿に芸をさせる。華麗に輪をくぐると、観客が「おーっ」と歓声をあげる。
 調べてみると、九州大道芸劇団というのが福岡にあった。劇団とはいっても、お猿さん2頭と親方、芸人二人の小さな所帯ながら、25年間も福岡県を拠点に全国で公演を行っているらしい。




 ■バナナのたたき売り

 この海峡プラザの少し先に「バナナの叩き売り発祥の地」の碑がある。
「バナナの叩き売り」は、子供のころ福岡の岩田屋デパートの近くで、街頭販売していたのに何度か遭遇した事がある。

      バナナのたたき売り

 夜店でカーバイトの灯りの下で、独特の口上が面白くてしばし眺めていた。以下は口上の抜粋。
「春よ三月 春雨に 弥生のお空に桜散る・・ バナちゃんの因縁を聞かそうか
生まれは台湾台中の 阿里山麓の片田舎  
土人の娘に見染められ ボーッと色気のさすうちに 一房二房もぎとられ 唐丸籠にとつめられて  ガタゴトお汽車にユスられて
着いた所が基隆港   基隆港を船出して  
金波銀波の波を越え 難関辛苦のあかつきに ようやく着いたが門司ミナト
門司は九州の大都会  仲仕の声も勇ましく エンヤラドッコイ掛声で 問屋の室に入れられて 夏は氷で冷やされて 冬はタドンでうむされて 黄色のお色気付いた頃 
一房なんぼのタタキ売り  サアサア買うたサア買うた こういうバナちゃん六〇円  買わなきゃ五九、五八か 五んぱちゃ昔の色男 それにほれたが小むらさき 五八高かけりゃ五五か  ゴンゴン鳴るのは鎌倉の 鎌倉名物鐘の音が かねが物言う浮世なら
も一つ負けとけ五一か  吾市馬関で腹を切る五〇負けて四九か お次を負けて四八か
四八ちゃ久留米の連隊で、いつも戦に勝ちどう私しのバナちゃん負けどうし
ハイハイありがとさん ハイハイ サアサア売れたサア売れた  今の兄ちゃん有難うさん・・・
サアサアコウタ サアコウータ ハイハイアリガトサン」
 名調子でお客を引きつけて、少しずつ値段を引き下げて行く。
「えーい。四五円。サアコウータ
何?まだ高い? それじゃやけくそだ。
四○円。持ってけドロボー」
こんな台詞が面白かった。

 バナナが日本に輸入されたのは明治36年頃で、当時、台湾の基隆(キールン)の商人が神戸に持ち込んだのが始まりらしい。
 それが大量輸入されるようになったのは、明治41年以降で、終戦の4、5年前までである。その当時は、台湾は日本の領土であり、門司港が産地台湾と地理的に近ことあって、大量荷揚げされ、市場が設けられた。


    旧大阪商船ビル  
       旧大阪商船ビル 

 このバナナ入荷は、青いままのバナナで、三、四十人の室(むろ)を持つ問屋の仲買人により競(せ)リ売りが行われた。引取られた青いバナナは、地下室で蒸されて、黄色のバナナとなって、青果市場に売り出された。
 ところが、輸送中に蒸れた「俗に籠熟(かごうれ)バナナ」や、加工中に生じた一部不良品などは、露天商等の手を経て、口上よろしく客を集め、売りさばかれた。これが「バナナの叩き売り」の始まりという。
 また、「バナナの叩き売り」は、「司港バナナの叩き売り連合会」によって継承されており、「門司港バナナ塾」も毎年開講されているらしい。
 この海峡プラザのイベントでも、「バナナの叩き売り」の実演販売があるらしい。
 ところで、私事ながらバナナとリンゴは毎日サラダにまぜて食べている。
 今のバナナは実に安い。小さな房ながら200円ほど買うことができる。


 

 ■門司港ホテル

 門司港レトロ地区の観光の拠点として平成9
年2月に建設された新しいホテルである。 
 イタリアの建築家でポストモダニストの象徴的な建築家でアルド・ロッシの作である。

       門司港ホテル玄関

 アルド・ロッシは、1990年には建築の世界的な賞、プリツカー賞を受賞している。 
 設計のテーマは門および鮫(さめ)で、時間の経過に耐えて残ってゆく都市の工作物を意識されている。インテリアデザインは内田繁氏である。
 内田繁氏は、日本を代表するデザイナーで、商業施設、住空間のデザインから、家具、工業デザイン、地域開発に至る幅広い活動を国内外で展開し、毎日デザイン賞、商環境デザイン賞、芸術選奨文部大臣賞等受賞。 
 2007年には紫綬褒章受章など多数。

 ホテルには港湾・船舶関連企業が入居するオフィスの、門司港レトロスクエアセンタービルが併設されている。
 ホテルの総客室数134室。
 メインダイニングは「ポルトーネ」(フレンチ)で、ここで名物の「焼きカレー」の予約があった。ホテルのレストランで、わざわざカレーを予約して食べるのは初めての経験である。




 ■焼きカレー

 門司港は国際貿易港として栄えたため、世界各地のさまざまな食文化からの影響を受けている。そのためハイカラな洋食も、いち早く門司に入ってきた。
 その中で独自の進化を遂げたのが「焼きカレー」で、今では門司港の30店舗以上のお店で食べることが出来るそうだ。
 幹事の廣瀬氏が、昼食は門司港ホテルで焼きカレーを予約しているとのことであった。
 珍しそうなので、どんなものかと聞くと
「俺もまだくった事がないんや」
との回答で、どんな物が出てくるか少しワクワクする感じであった。
 ドライカレーのようなものか、と想像していたが、出てきた料理は、まさにグラタンのような感じであった。
 チーズを載せてオーブンでカレーを焼くから、焼きカレーと言う名が付いたのかと得心した。
 味もカレーのような、グラタンのような不思議なものながら、とても香ばしく美味しかった。
 
    焼きカレー

 焼きカレーは、昭和30年ごろ門司にあった喫茶店が、余ったカレーをグラタン風にオーブンで焼いたところ、実に香ばしく、美味しく仕上がったので、のちに店のメニューとして出したことが発祥とされている。
 作り方は、ごはんの上にカレールゥとチーズを乗せて、卵やお好みの具材をトッピングする。
 オーブンで、チーズに焦げ目がつくまでこんがり焼き上げると、門司港名物「焼きカレー」が完成する。
 近年当地グルメブームで、「門司港レトロ焼きカレー」は、日本最大級のカレーフェス「復興支援・よこすかカレーフェスティバル2011」で、ご当地カレーNo.1コンテストで、総合グランプリを獲得している。
 総合グランプリは、カレーフェスティバルの二日間の人気投票で、最多投票を獲得したカレー料理に与えられるもので、いかに人気があったかの証拠になる。
 このコンテストで総合グランプリに輝いたのが、門司港ホテルのメインダイニング「ポルトーネ」のホテルメイドの焼きカレーであった。
 「ポルトーネ」の焼きカレーは、懐かしさと、一流のフレンチの技術が融合した、ホテルメイドで、数々のメディアでも絶賛された一品だとあった。
 また、大衆食堂などで人気があるのが、
「ちゃんラー」という、聞き慣れない食べ物で、和風ラーメン(うどんダシ)のスープに、ちゃんぽんの麺を使用する事から、この名前あるという。ここ門司港では、店の隠れメニューとして昔から親しまれているとか。
 もう一つ大衆に人気だったのが、「みそ豚バラ」がある。秘伝の赤みそを使った、こくのある味は、古くから焼き鳥屋で親しまれ、ここ門司港の定番になっているという。
 そして忘れてはならないのが関門海峡の海産物。代表的なものが関門のふぐ、関門海峡たこ、関門海峡いか、などがある。




 ■日本丸と海王丸

  門司ホテルの焼きカレーに満足し、ホテルから門司港に面した遊歩道を歩いていると、左前方の埠頭に、大型帆船が二隻係留されていた。
 しかも全ての帆をひろげるセイルドリルで、優美で美しいあでやかな姿であった。
 どうみても日本の航海練習船、日本丸と海王丸に違いないと思った。調べてみると正式には、帆船 日本丸Ⅱ世と海王丸Ⅱ世であった。

  日本丸と海王丸  

 その美しい姿から、「太平洋の白鳥」や「海の貴婦人」などと呼ばれている。係留中の日没~22時までは、イルミネーションを点灯するらしい。
 航海練習船であるため、全国の主要な港に姿を現し、一定期間は一般公開されている。
 日本丸Ⅱ世は、初代日本丸の後継として帆装艤装設計から製作まで、すべて日本国内で行われた初の大型帆船である。
 住友重機工業・浦賀工場で建造し、1984(昭和59)年に就航している。日本の航海練習帆船、日本丸Ⅱ世は、世界でも有数の高速帆船で、姉妹船としては海王丸Ⅱ世が同時に浸水している。
 初代の日本丸に比べ、帆走性能が大幅に向上し、世界でも有数の高速帆船として名をつらねている。
 その年で最速の帆船に贈られる「ボストン・ティーポット・トロフィー」を昭和61年、平成元年、平成5年と三回受賞している。
舳(へ)先(さき)には手を合わせて祈る女性の船首像、藍青(らんじよう)がある。
総トン数2570トン 全長110.09m 全幅13.80m メインマスト高43.5(船楼甲板からの高さ)船種(帆装型式)9四檣、バーク型帆船檣、喫水65.7m 総帆数36枚(横帆18枚) 最大搭乗人員190名 ディーゼル機関二基による機走可能である。

    日本丸 

 初代日本丸は、昭和5年に進水した日本の航海練習船で大型練習帆船であった。
 約半世紀にわたり活躍し、昭和59年に引退した。「日本丸」と同時に浸水した姉妹船に「海王丸」がある。
 日本丸は、昭和60(1985)年より、みなとみらい21地区の石造りドックに、現役当時のまま保存し、一般公開されている。海洋教室やすべての帆をひろげる総帆展帆などを行い、帆船のすばらしさ楽しさを伝えている。.

   海王丸  

 総帆展帆とは、全ての帆をひろげることで、普段は帆をたたんでいる。現在の日本丸の帆は、全部で29枚ある。帆をひろげたり、たたんだりする作業は、訓練を終えて登録されている、ボランティアの協力で行っているという。
 初代海王丸も昭和5年に進水、太平洋を中心に訓練航海に従事した。戦時中は帆を取り外し、輸送船として使用され、戦後は海外在留邦人の復員船として27,000人の引揚者を輸送した。
 1955年(昭和30年)には、帆装の再取り付けがなされ、「海の貴婦人」と呼ばれた元の姿を取り戻した。




 ■門司港駅

 門司港駅は、その前を車で通過したからよくは見えなかった。
 現在の駅舎は、国の重要文化財に指定されている。ネオ・ルネッサンス様式の駅舎で、九州では最も古い木造の駅舎である。

     門司港駅

 当初は、九州鉄道の起点の駅として「門司駅」として明治24年に開設された。
大正3年に、現存する二代目駅舎が完成し、移転開業した。
 その後も九州の鉄道の起点としての地位を保っていたが、関門トンネルの開通に伴って、「門司駅」の名は、関門トンネルが接続した旧大里駅に使うことになり、当駅は「門司港駅」へと改称した。

 門司港駅は、今でも鹿児島本線の駅で、鹿児島本線の起点駅である。
 JRの駅で国の重要文化財指定を受けているのは、東京駅「丸の内駅舎」とこの門司港駅舎のみである。  
 国の重要文化財の門司港駅を通り過ぎると、北九州市の雑踏の中を走行し、気がつくと小倉駅の新幹線口に到着し、二日間の楽しかった浪漫海峡の旅を終えた。




終わり

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