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        日本の医学史   

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                  解体新書   


   
         日本の医学史  目 次
 第一章 古代の医学   神話時代の医療  
 ・仏教伝来と医療   
 ・律令制度と医療  
 ・律令制度の疾三等
 第二章 奈良時代の医学  古代からの薬物  
 ・天然痘と藤原氏   
 ・光明皇后と医療  
 ・鑑真と医療 
 ・弓削道鏡
 第三章 平安時代の医学   平安時代の医療制度  
 ・平安時代の疫病  
 ・医療と験者と陰陽師  
 ・日本最古の医学書   
 ・藤原道長の糖尿病    
 ・病草紙
 
 第四章 鎌倉時代の医学

  ・鎌倉時代と仏教   
 ・仏教と学問と医学  
 ・鎌倉時代の医療   
 ・療病と往生の問題   
 ・五運六気   
 ・栄西禅師の喫茶養生

 第五章 日本の中世の医学
 
  ・日本の中世   
 ・李朱医学   
 ・田代三喜(さんき)   
 ・曲直瀬道三   
 ・永田徳本    
 ・宣教師ルイス・デ・アルメイダ   
 ・南蛮医学  
 ・日本の外科  
 ・傷寒論  
 ・六経弁証

 第六章 江戸時代の医学
 
 ・江戸時代の医師  
 ・本草学  
 ・江戸期の李朱医学  
 ・名古屋玄医  
 ・後藤艮山   
 ・山脇東洋  
 ・吉益東洞  
 ・蘭学事始め  
 ・解体新書  
 ・華岡青州  
 ・乳がん摘出手術  
 ・江戸幕府の医師制度  
 ・シーボルト 
 ・シーボルト江戸参府紀行  
 ・江戸の蘭方医
 ・多紀元堅ー楽真院  
 ・漢方医と蘭方医の相克    

 第七章 近世の医学
 
 ・伊東玄朴  
 ・佐藤泰然  
 ・関寛斎  
 ・緒方洪庵   
 ・適塾と塾生たち  
 ・洪庵と種痘   
 ・天然痘と牛痘種痘  
 ・洪庵とコレラ  
  ・長與俊達   
 ・ポンペと松本良順  
 ・長與専齋と長崎養生所 
 ・精得館から長崎医学校へ

 第八章 近世の医療行政
 
 ・ドイツ医学導入と相良知安  
 ・欧米使節団派遣に随行  
 ・「医制」公布と公衆衛生の概念 
 ・種痘対策  
 ・検梅制度(検黴法)  
 ・日本薬局方の制定  
 ・医学教育制度の確立   
 ・医師の開業免許  
 ・医薬分業  
 ・コレラ流行と隔離政策  
 ・大日本私立衛生会の設立
 ・衛生知識の啓蒙  
 ・公衆衛生の内容確定   
 ・衛生事業の公私の対立  
 ・健康と国民経済的価値 
 ・衛生事業と資本  
 ・衛生自治について  
 ・社会的医学と国家医学 

 第九章 日本の伝染病研究
 
 ・緒方正規  
 ・北里柴三郎の血清療法 
 ・脚気菌騒動 
 ・伝染病研究所  
 ・北里研究所設立
 
 ・志賀潔   
 ・秦佐八郎
 ・野口英世  
 ・二木謙三  
 ・梅澤濱夫  
 ・医師会


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 第一章 古代の医学
 




  ■神話時代の医療


 
日本列島の広域に人々が棲みついたのは、大陸に比べてかなり遅い。
 紀元前300年頃 ~ 250年頃の弥生時代になって、ようやく東北地域まで人々が住みはじめ、稲作農業を始めている。
 大和に中央政権が確立され、一応国家が成立したのは、飛鳥時代である。聖徳太子は、冠位十二階や十七条憲法を定め、中央集権国家体制を確立し、律令制度のを導入をはじめた。
 日本における最古の疫病にかかわる記録は、『古事記』『日本書紀』にまで遡るが、まだ神話の時代でもある。古代国家の首長は、宗教的儀礼、つまり祭り事で呪術的な能力示し、国を治めていたと思われる。
 本居宣長の『古事記伝』(古事記の註釈書)には、
 この神(じん)祇(ぎ)時代にあっては「人は更なり、天も地も、みな神の霊によりて成れるものなれば、天地の間なる吉事も、凶事も、すべて神の意なり。人の顕わに行う事の外に、幽(かみ)事(こと)(神事)あり。顕わに目にも見えず、誰が為すともなく、神の為し給う業なり。・・疾病もまた、神の意による。何神にても、こなたより侵すことあれば、祟りて病まするなり・・」と記し、「疾病は神の祟りの他に、人の身に穢(え)気(げ)(けがれ)悪毒あるによりても、病のこれに乗じて起こることあり」と記している。
 このような神話の時代の治療は、まず祈祷と呪(まじな)いであった。
 歌舞して祈祷し、もって神霊を調合し、薬物を内用することをもって治病の方法とした。薬物の内服も、神の霊によるもので、呪いの意によるものとされた。その薬物の内服は、酒をもってその始めとされている。
    
  
 少彦名命(すくなひこなのみこと)は、神話の中で大(おお)国(くに)主(ぬしの)命(みこと)ともに全国をめぐって、国土を開拓した神とされている。『古事記』では神皇産霊神(かみむすびのかみ)の子とされ、『日本書紀』では高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の子とされている。
 大(おお)国(くに)主(ぬしの)命(みこと)は少彦名命(すくなひこなのみこと)ともに、天下を経営し、禁厭(まじない)、医薬などの道を教え、「葦原中国(あしはらのなかつくに)の国造り」を完成させたとされている。(あしはらの・なかつくに)とは、日本神話では、高天原と黄泉(よみ)の国の間にある世界、すなわち日本の国土のことである。
 しかし、大(おお)国(くに)主(ぬしの)命(みこと)は高天原からの使者に、国譲りを要請され、国譲りの際に「富足る天の御巣の如き」大きな宮殿(出雲大社)を建てて欲しいと条件を出し、高天原にいる天津神が約束した。このことにより、出雲大社の主神として祭られている。
 
         少彦名命
              少彦名命

 さて、日本の医薬の祖とされているのが、少彦名命(すくなひこなのみこと)(須久那、スクナビコナ・少名毘古那とも)である。
 この神は身体が小さく、その後の御伽草子の「一寸法師」のルーツとされている。
『古事記』によれば、大国主の国土造成に際し、天乃羅摩船(アメノカガミノフネ)に乗って出雲にやって来た。
 出雲のオホナムチ(大己貴・大国主)大神は、少彦名命と兄弟の契りを結び、全国を巡り国造りをおこなったとされている。
 多くの山や丘の造物者であり、命名神でもある。

         大国主
             大国主

 また、全国を巡り、肥料を用いる稲作農業技術指導をし、薬草を使った医療を伝え、薬の一つとして、酒造りの技術を普及させ、温泉療法をおこなったとされ、多様な性質を持っている神さまで、医療神としても祀られている。
 少彦名命(すくなひこなのみこと)の名の由来は、『古事記伝』によれば「御名の(スクナ)は、ただオホナムチ(大国主)の、オホナと対であるとされている。

 日本神話で、天孫降臨以前からこの国土を治めていた、土着の神とされている国(くに)津(つ)神(み)、すなわちは大(おお)国(くに)主(ぬしの)命(みこと)は、波の彼方から出雲にやって来た少彦名命(すくなひこなのみこと)ともに、全国を巡り、稲作農業技術指導をし、薬草を使った医療を伝え、酒造りの技術を普及させたというのは、大陸からやって来た弥生時代の渡来人の活躍を彷彿させ、史実を原型としているようである。
 『古事記』の神代巻にある薬物は、その種類が以外に多い。
 葛(くず)、蕉青(カブラ)、蒲黄(ガマの花)、薄(ススキ)、葦(ヨシ)、比々羅木(ヒイラギ)、樺(カバ)、桃、赤酸醤(ホウヅキ)、柏、樫、真堅木(マサヤキ)、楓(カエデ)、挙樹(クヌギ)、羅(ラ)、檜(ヒノキ)、茜(アカネ)、葡萄(ブドウ)、海布(メ・ワカメなどの海藻)、蜀椒(ナルハシカミ・山椒)、胡桃(クルミ)、竹などがある。


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 ■仏教伝来と医療

 飛鳥時代は、まさに大和朝廷の成立時代で、朝鮮半島との交流が盛んな時代であった。大陸から多くの渡来人がやってきて、さまざまな技術を伝えた。『日本書紀』には、允(いん)恭(ぎよう)天(てん)皇(のう)3年(413年)8月に、新羅(しらぎ)王の大使であり医師であった金波鎮漢紀武(こんぱちんかんきむ)(金武)が、允恭天皇の病を治し、雄略天皇3年(459年)には、天皇の要請により百済(くだら)国王が、高(こう)麗(らい)の良医・徳(とく)来(らい)を来朝させた。徳来の子孫は難波に住み、代々医をもって業となし、難波薬師と称した。
 欽(きん)明(めい)天(てん)皇(のう)14年(553)6月に勅使を百済に派遣し、医博士、暦博士、易博士と、薬物の招来を請い、これに応じて百済より医博士王有陵陀、採薬師潘量豊・丁有陀を派遣した。これらによって、韓医方がますます盛んになった。

         大和朝廷の成立
             大和朝廷の成立

 大和朝廷は、やがて国家制度を大陸の律令制度を導入して作っていくことになる。
 さらに農業用潅漑用水などの土木や、寺院建築や、冶(や)金(きん)や仏像彫像など、あらゆる大陸の技術が、仏教と共にもたらされた時代である。この時代の538年、仏教が百済から伝えられ、経典と仏像(釈迦仏金銅像)を献上している。

 当然ながら、仏典とともに、多くの僧侶が渡来してきた。その僧侶たちが知識階級であり、技術者でもあった。特に朝鮮半島の百済からの帰化人は、古代日本の医療に多大な影響を与えた。大和朝廷へ、百済から派遣された「医(い)博士(はかせ)」は、律令制の典(てん)薬(やく)寮に属し、医術・調剤術を教えた教官である。医(い)博士(はかせ)の医学教育は、古代日本の医療技術を底上げし、朝廷内での医療官(かん)司(し)(役所)を確立していった。
 
 古来、日本の民族信仰は神道であり、医療行為は呪術が主体であったが、新たな仏教思想は、新たな医療技術をもたらした。
「生老病死」という根源的苦しみを癒やす力への期待感から、仏教は日本の知識階級に広く受け入れされていった。
その象徴が奈良の薬師寺である。天武天皇9年(680年)、天武天皇の発願により、藤原京の地に造営が開始され、平城遷都後の8世紀初めに、現在の西ノ京に移転している。薬師寺の本尊は、である。
 薬師如来は、その名の通り、衆生の疾病を治癒して寿命を延べ、災禍を消去し、衣食などを満足せしめ、かつ仏行を行じて、無上菩提の妙果を証らしめんと誓い、仏(ほとけ)と成ったと説かれている。薬師如来は、衆生の病苦を救うとされていて、無明の病を直す医薬の仏として、如来には珍しく現世利益信仰を集めている。
 こうして大陸からもたらされた仏教は、多くの技術、土木建築や機(はた)織り、紙漉きなどともに、医療技術や薬草調合の知識をもたらした。
 こうして近世の西洋医学がもたらされる迄は、僧医が医療の主流を占めるようになった。
      
      薬師寺の薬師如来3像
         
           薬師寺の薬師如来3像

 仏教が伝来したとされる538年、国内に疫病が大流行した。
 仏教の伝来とともに、僧侶や技術者が大挙して大和に渡来し、人ともに疫病も一緒にやってきた。その主な疫病のひとつが、痘(かさ)の大流行であった。各地で多くの人が痘のために亡くなったが、今日の天然痘であつたと推測されている。痘を病んだ人は、全身に発疹が現れ、身を焼かれ砕かれるように苦しみながら死んでいった。
 当時は、蘇(そ)我(が)氏(し)と物(ものの)部(べ)氏(し)の二大豪族が、大和朝廷内で勢力争いを繰り返し、仏教信仰でも強く対立していた。
 物部尾(お)輿(こし)は、これらの疫病の大流行は、仏教を受け入れがため、国神の怒りにふれ、疫病の大流行がおこったとして、寺を焼き払い、仏像を明日香の難波池に投げ捨ててしまった。
 しかし疫病の大流行はさらに拡大し、ついには天皇や、尾輿の子である物部守(もり)屋(や)が痘を病み、亡くなっていった。
 こうした事から、これは仏教を弾圧したためであるとして、仏教崇拝は再び広がりをみせることになった。蘇我氏と物部氏の争いは、物部氏の没落という結果に終わった。
 聖徳太子は、蘇我氏と協調して仏教を深く信仰し、593年、四天王寺を建立した。伝説によると四天王寺には、敬田院(きようでんいん)、施(せ)薬(やく)院(いん)、療(りよう)病(びよう)院(いん)、悲(ひ)田(でん)院(いん)の四箇院を設置し、高齢者や病者の救済にあたったとされている。
 敬田院は戒律の道場、施薬院は薬草を栽培し、病人に薬を施す施設、療病院は身寄りのない人を療養させる施設、そして悲田院は困窮した人の飢えを救う施設であったとされている。
 施療は「あまねく人々を救えば、未来永劫に、疫病の苦しみにあうことがない」という仏典を拠り所としている。

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 ■律令制度と医療

 蘇我氏は蘇我稲目(いなめ)、馬子(うまこ)、蝦夷(えみし)、入鹿(いるか)の4代にわたって、その勢力は天皇を上回り、大和政権を実力で掌握していた。
 この蘇我氏一族の栄華は、中大兄皇子(後の天智天皇)や、中臣鎌足による蘇我入鹿暗殺という政変によって、政権を天皇家に取りもどした大化の改新が行われた。大化の改新によって、701年(大宝元年)に大(たい)宝(ほう)律(りつ)令(りよう)が編纂されはじめ、これにより法治国家としての形を次第に整えて行った。

    中大兄皇子
       
           中大兄皇子

 この後、天智天皇の後継について、弟の大海人皇子を皇太子に立てていた。ところが、気が変わって、天智天皇自身の皇子の大友皇子を、太政大臣につけ後継とする意思を示した。このため、弟の大海人皇子は吉野の山に下った。ところが、天智天皇は病に臥せ、崩御すると、弟の大海人皇子は叛旗を翻して、日本古代最大の内乱戦争が起こし、地方豪族を味方に付け、反乱者の大海人皇子が勝利した。
 これを壬申の乱といい、大海人皇子は政権を確立し、天武天皇に即位した。

     天武天皇
            天武天皇

 天武天皇は、天智天皇が宮を定めた近江大津宮から、再び飛鳥に都を移し飛鳥浄御原宮を建て、大化の改新を前進させるべく、律令とよばれる成文法の制定に着手した。これらは二代後の文武天皇のとき、「大宝律令」として交付された。これによって、名実ともに古代の天皇制国家が完成した。

 「大宝律令」によって、国政は天皇を中心として、太(だ)政(じよう)官(かん)と神(じん)祇(ぎ)官(かん)の二官と、中(なか)務(つかさ)省、式(しき)部(ぶ)省(しよう)、治(じ)部(ぶ)省、民部省、大蔵省、刑(ぎよう)部(ぶ)省(しよう)、宮内省、兵(ひよう)部(ぶ)省(しよう)の八省からなる中央官僚機構が形成され、私有地の国有化、戸籍、租税に関することなど、事細かな規定がなされていった。

  律令制度

 この大宝律令に、日本初の医療制度である「医疾令(いしつれい)」が定められ、医療に携わる医師を政府が養成し、諸国に配置して医療に従事させようとした。中(なか)務(つかさ)省に内薬司を設置し、正・佑・令史の官位の下に、侍医と薬生を置いて、御薬を司どった。
 医師を中(なか)務(つかさ)省の官吏とすることで、医療の国有化をめざしたものである。つまり13~16歳の医師の子弟40名を、医学生として選抜し、厳しい試験を課し、中央政府や地方行政機関に配属していった。
 部門ごとの修学年限や定員は、内科および鍼(しん)灸(きゆう)が7年で12名、外科・小児科が5年で3名、耳鼻科・眼科・歯科にあたるものが4年、按(あん)摩(ま)や呪術にあたるものが3年などである。
 9年間かけても修了できない者は、退学処分とするなど、大変厳しい学制だったようである。卒業生は医官として、従八位の官位や禄が付与されることが定められていた。ただこの制度は、どれだけ実行されたかは明らかではない。
 実際に医療者養成機関として設置されたのが、宮内省に属する典(てん)薬(やく)寮(りよう)(くすりのつかさ)である。典薬寮では、医療関係者の育成や、薬草園の管理が行われ、その医療行為は、朝廷における医療を全て管掌する機関として、宮廷官人に対するものであった。

      典薬寮

 典薬頭(かみ)が統率し、実際の医療は医師(10人)、針師(5人)、按摩師(2人)、呪禁師(2人)で構成されていた。針師とは今日の鍼(はり)師であり、草根木皮の生薬の湯液を用いた内服療法のみならず、針灸療法も含まれ、広く唐医方を導入したことを示している。
 さらに医博士、針博士、按摩博士、呪禁博士が任命された。博士とは、医学(がく)生(しよう)を指導する教授としての官位であった。
 これらの教員から医術を学ぶ医生(40人)、針生(20人)などの学生がいた。また薬園の管理をする薬園師(20人)と、それを学ぶ薬園生(6人)、さらに実際に薬草を調合する薬戸などがいた。
 医師に任ぜられる者は、典(てん)薬(やく)寮(りよう)および国学の教習を終え、一定の考試を経たる者にして、博士は医師の内の法術の優秀なる者をこれに任じたとある。
 学校には大学と国学があり、大学は京に置かれ、大学寮がこれを管轄し、国学は、国毎(ごと)に置いて、国司がこれを管掌した。
 こうした「唐」の制度を真似た制度の確立で、体療(内科)、創腫(外科)、少小(小児科)、耳科・目科・口科・歯科どの専門科目が誕生している。
 典薬寮の役職に呪術師が指定されているように、古代の医療はやはり呪術的な色彩が強く、最高官の典薬頭には、732年には修(しゆ)験(げん)道(どう)の開祖とされる役小角(えんのおずぬ)の弟子の韓国広足(からくにのひろたり)が就任している。

     
       和気清麻呂
            和気清麻呂

 その後、典薬頭は、和(わ)気(け)清麻呂を開祖とする和気氏、そして現存する日本最古の医学書『医心方』を編纂した、丹波康頼に始まる渡来系の氏族らが世襲することになっていった。
 仏僧が医師を兼ねることが多く、唐から帰化した鑑眞和尚は、後に鑑眞方といわれる薬方を日本にもたらしている。



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律令制度の疾三等

 さて、国家権力の基本は租税であり、さらに賦(ふ)役(えき)や兵役の義務も課せられた。これらを実行するには、人民の状況を把握せねばならない。
 このため人民の戸籍を管理する戸令(こりよう)が定められた。
 戸主や戸口は計帳・戸籍に登録され、それぞれの家の家長を戸主として、戸口(こうこう)(家族構成)を統率させた。
 戸口は、男女3歳以下を黄、16歳以下を小、20歳以下を中、男子61歳以上を老丁、66歳以上を耆とし、21歳から60歳までの心身健全な男子を、正丁とした。更に80歳以上もしくは、篤疾(とくしつ)の者には、侍(じ)が付けられた。
「侍(じ)」とは、律令制で、篤疾者や高齢者に仕えるために、庸(よう)(律令制の現物納租税の一種)・雑(ぞう)徭(よう)(雑役)を免じられた家族や近親者などをさす。

     「戸籍」木簡の表と裏
        「戸籍」木簡の表と裏(毎日新聞)

 さて、律令制度には、病弱や疾病で役務に付けない人を区別するため、疾病の基準を定めている。つまり疾病をその重症度によって、残疾、廃疾、篤疾の三等級に区分し、これを「疾三等」と称した。
 これらは医学的な区別ではなく、租税や兵役の必要から区別したに過ぎないが、一応、この時代の疾病の概要を知ることができる。
 まず、軽症とされる「残疾」には、「片手に二指なく、片足に三指なき場合は残疾」としているが、「左右の足を合わせて三指ない場合などは、臨機応変に扱い、一手に四指なければ廃疾にすべし」などの記載がある。こうした障害は、外傷もあるが、癩病による場合も多かったらしい。『令義解』(大宝令・養老令の解釈書)には、悪疾の「白癩」について、極めて具体的な症状が詳しく記されていて、現在の癩病だと解釈されている。
 また、「禿(とく)瘡(そう)髪無シ」は、「頭上に瘡(かさ)を生じ、白虫あるを痂(かさぶた)といい、髪禿げ落ちて生ぜず」とある。これは当時蔓延していた白癬、横癬などの悪性皮膚病か、癩病によるものとされている。
 「久漏」は、「身に孔穴あり。膿汁潰漏し、久しく止まらず、漏は瘻(ろ)につくる」とあり、化膿性の皮膚病で、痔瘻や癩性潰瘍も含まれるであろうと推測されている。
 「下重」は、「陰核脹腫、その大なること升の如し、沈重行き難し」とあり、陰嚢ヘルニア・陰嚢水腫、あるいはフィラリアによる象皮病ではないかと推測されている。他に、風土病性甲状腺腫などの病の記述がある。
 第二等の「廃疾」には、「痼疾(こしつ)なり。人事を廃する故にいう」とある。
 痼疾(こしつ)とは、本来治らない病気や持病のことをいうが、「令義解」では白痴や唖のことをさしている。さらに小人や脊椎カリエスやクル病などの症状も挙げている。
 第三等で最も重傷とされているのが「篤疾(とくしつ)」である。
「白癩(らい)をいう。この病は、虫ありて五臓を食む。或いは眉睫(びしよう)(まゆとまつげ)堕落し、或いは鼻柱堕落し、或いは鼻柱崩壊す。・・よく傍人に注染す。故に人と床を同じうすべからず・・。遍身爛灼し、体上に皮なく、毛髪は涸零し、指節は自壊す」とあり、明らかに癩病のことである。

        『令義解』
           『令義解』

 癩病の感染力は弱く、進行も遅いが、皮膚と末梢神経が冒される。
 顔面が変形したり、指が欠損するといった症状を引き起こすために、人びとに恐怖感をもってとらえられてきた。
「癲狂」は、「癲は、発するときに地に倒れ、涎沫(せんまつ)(よだれ・あわ)を吐き、覚ゆる所なきをいう。狂は、或いは妄(みだ)りに触れ走らんと欲し、或いは自らを高賢とし聖神というがごときをいう」とある。
 癲はテンカン、狂は、狭義の精神分裂病をさしていると考えられている。他に、「二支廃」は両手両足のうち二支を欠く者をいい、「両盲目」は盲人のことをさしている。
 この「疾三等」に認定された障害者は、兵役や課役を免ぜられたが、一人前の人間として扱われず、社会的な制約も受けた。たとえば、白癩すなわち癩病と認定されれば、離婚の原因とされた。
 また廃疾者長男でも廃嫡されて相続権を失った。
 この時代の疾病は、『令義解』に挙げられている以外に、例えば、痘瘡、赤痢、傷寒(脹チフス)、霍乱(急性胃腸炎)、瘧(おこり)(マラリア)などの急性伝染病、さらに中風、脚気などか、日常敵に発生していたと推測されている。

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  第二章 奈良時代の医学
  

 
 
  

  ■古代からの薬物

 酒は、稲作の普及とともに、全国で醸造され、神事や祭り事に欠かせない重要なものであった。一方で、「酒は百薬の長」といわれ、古代から病気治療の一環としても酒が用いられていた。
 すでに触れたが、医薬の祖とされる少彦名命は、病気を治す薬の一つとして酒造りの技術を普及させた。

    平城宮跡の造酒司跡
       平城宮跡の造酒司跡

 酒の薬効としては、適度の飲用により、食欲を亢進させ、精神的ストレスを緩和すること、また血管を拡張させて血液循環を良くするなどの効用がある。しかし古代から「酒は万病を除く」とされてきたのは、酒によって、一時的に苦痛が緩和されたり、痛みを忘れることが出来ることで用いられたのかも知れない。
 一方、生薬を原料の一部とした薬酒は、日本での歴史は古く、奈良の正倉院文書の739年頃の文書に「写経生の足のしびれに、薬の酒を飲ましむ」と記述されている。薬酒は、後漢時代の中国から、漢方薬とともに日本に伝えられた。
 酒のモロミに薬材を添加し、発酵させる発酵薬酒と、酒のなかに薬材を浸して作る浸薬酒の二種類ある。
 古代からの浸薬酒として代表的なものが「屠(と)蘇(そ)酒」である5~6種類の生薬を、酒やみりんに漬け込んで作るもので、正式には屠蘇延命散という。元旦に屠蘇を飲み一年の無病息災を願う正月の風習は、811年に宮中で行われたのが始まりとされている。

     古代の酒造り想像図
          古代の酒造り想像図

 また牛乳は、古来からその栄養価が高いことが知られ、病気療養の薬用に用いられたが、保存性のあるチーズのような「蘇(そ)」や「酪(らく)」といった乳製品も作られ、主として薬用として用いられていた。
『日本書紀』に、安閑2年(525年)、「牛を難波大隅島、媛島松原に放つ」という記述がある。現在の大阪市東淀川区あたりは、古来から乳牛の放牧に適した土地であったようである。
 天武天皇の孫で、藤原氏との勢力争いに敗れ、自害した長(なが)屋(や)王(おう)の邸宅跡(奈良県二条市)から、出土した木簡の中に、牛乳の代価として、米を渡したことが記されている。このことから、ごく一部の上流階級では、虚弱体質の貴族が、牛乳を日常的に飲んでいた可能性がある。
 律令制度の典薬寮には、乳牛院が設置され、やはり難波大隅島、媛島松原の辺りの地に、乳牛牧(ちちうしまき)が設けられ、牛乳や乳製品を献上することが義務付けられていた。

     飛鳥の蘇

 さて、古来から呪術とともに、薬草として用いられたものは、草木の皮、根、果実や葉など薬用植物といわれている。
 薬用植物として代表的なものは、葛(くず)、蕉青(カブラ)、蒲黄(ガマの花)、薄(ススキ)、葦(ヨシ)、比々羅木(ヒイラギ)、樺(カバ)、桃、赤酸醤(ホウヅキ)、柏、樫、真堅木(マサヤキ)、楓(カエデ)、挙樹(クヌギ)、羅(ラ)、檜(ヒノキ)、茜(アカネ)、葡萄(ブドウ)、海布(メ・ワカメなどの海藻)、蜀椒(ナルハシカミ・山椒)、胡桃(クルミ)、竹などがあり、中でも蒲黄や桃は治療に用いた記録がある。

         正倉院御物の種々薬帳の冶葛
         正倉院御物の種々薬帳の冶葛

 一方、江戸時代(1558年)に佐藤方定が著した『備急八薬新論』には、人参、附子(ブシ)、原朴(ホウノキ)、甘(かん)草(ぞう)、胡(こ)椒(しよう)、丹砂(たんしや)(辰砂・水銀製造や赤色絵具の主要鉱石。朱砂とも)、巴豆(ハズ)、大(だい)(タデ科の多年草)黄(おう)などがある。丹砂のように鉱物も含まれているが、これら八薬は、神代から治療に用いられたとしている。
 典薬寮の付属の薬園では、薬園師の統率でこれらの薬用植物が、薬戸により栽培、管理されていたが、薬園は朝廷の支配が及ぶ各地に存在したようである。

     唐代の人参根茎部

 奈良東大寺を建立した聖武天皇が崩御されたとき、遺詔(いしよう)(天皇の遺言)により、生前の愛用の品々600点が、光明皇后によって東大寺に奉納された。これを収めているのが「正倉院」である。この「正倉院」には60種の薬物が保存されているが、その目録である「種々薬帳」が残されている。桂心、甘草、人参、大黄など今日でも漢方薬としてよく用いられる薬物を含め60種の薬品名と、その下にそれぞれの分量が記載されている。
 薬帳の最後に、「献納した薬物は盧舎那仏(るしやなぶつ)を供養するためのものであり、これを使った者は、万病がことごとく治り、寿命を全うすることを願う」という意味のことが記されている。つまり奉納された薬物は、他の御物とは異なり、施薬を目的として、大仏の供養のためのものであったという。
  
    種々薬帳

 またこれら薬物の一部は、光明皇后の施薬院で使用するために随時、出庫されたことが記録に残されている。
 しかし60種の薬物のうち、実際に施薬院へ出庫されたものは、桂心、甘草、人参、大黄の4種類に限られていた。
 この4種類の薬物は、当時から一般に最もよく使用されていたらしい。
 近年、二回にわたって御物の調査が行われたが、その結果、種々薬帳に記載される60種の薬物のうち、39種は現存していることが分かっている。さらに科学的検証により、これらの薬物のほとんどが、外国産であることが明らかとなっている。これらの薬物からも、飛鳥時代でも、予想以上に世界的交流があった事が分かる。


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 ■天然痘と藤原氏

 藤原氏は、平安時代中期に絶大な権力を奮うことになるが、最初に藤原氏を名乗ったのは、天智天皇から藤原姓を賜った中(なか)臣(とみ)鎌足(藤原鎌足)である。
 中臣鎌足は、中(なかの)大(おお)兄(えの)皇(おう)子(じ)(後の天智天皇)とともに、蘇(そ)我(がの)入(いる)鹿(か)を殺害し、天皇中心の政権を作った「大化の改新」で有名である。

       藤原不比等
         藤原不比等

 鎌足の次男が、藤原不比等で、708年に右大臣となって政権の中枢を占め、死後に正一位太政大臣を贈られている。こうしたことから、のちの藤原氏の栄華の開祖は、藤原不比等であるといえる。
 また不比等は、天智天皇から大変な寵愛を受けたことから、平安時代後期の歴史書『大鏡』には、不比等は天智天皇の落胤である可能性が記されている。
 また720年の不比等の死因については、毒物による中毒死説もあるが、当時の疫病流行から、痘瘡(天然痘)ではないかと考えられている。
 天然痘は、天然痘ウイルスが病原体で、飛沫感染や患者の膿などの接触感染が原因で発症する。発症すると高熱がつづき、豆粒状・丘状の皮疹が頭部・顔面から全身に拡がり、内蔵障害を伴って重症になると、呼吸困難で死亡する。

       天然痘の発症
         天然痘の発症

 天然痘の歴史は古く、紀元前エジプトのミイラにも、天然痘感染の跡が残っている。天然痘の発源地はインドとされていて、古代民族の交流と移動によつて拡散した。日本へは、仏教が各地を通って伝播した同じルートを辿ってやってきたと考えられている。
 中国の医書『肘後方』に、建武年間に痘瘡を「虜瘡(りよそう)」と記録している。
この流行の年は、研究で建武二年(495年)とされている。
「頭や顔に発疹が出て、体中にひろがり、致死率が高く、治っても痘痕を残す病が流行した」とあり、北魏と交戦中に伝染したとしている。
 日本では仏教伝来と同時に、つまり6世紀の初めに大流行があり、物部守屋が瘡を発症したとされている。
 奈良時代では、714年頃から、朝鮮半島の新羅で、天然痘の大流行があり、遣新羅使が派遣されたとき、多くの人が天然痘に感染し、大使は病死、百人の随員も大半が病死し、40人に減ったと記録されている。
 こうして735年頃から、日本でも大流行が起こり、当時の朝廷内にも感染が広がっているから、720年に没している不比等の死因は、この天然痘によるのではないかと考えられている。
 不比等には4人の子がいた。

     藤原房前、藤原麻呂、藤原武智麻呂

 長兄から順に藤原武(たけ)智(ち)麻呂(藤原南家)、藤原房前(ふささき)(藤原北家)、藤原宇合(うまかい)(藤原式家)、藤原麻呂(藤原京家)で、藤原四兄弟といわれている。それぞれが若い頃から政権の要職に就いていた。
 右大臣であった藤原不比等が亡くなって、「長屋王」は皇族として政権の事実上の首班となった。長屋王の権勢は、藤原四兄弟にとっては不都合なことがあり、策謀によって自殺させ、藤原氏中心の政権を作り上げた。しかしこの四兄弟も、737年、次々と天然痘を発症し若くして亡くなってしまった。また多くの官人も、この疫病で亡くなり、六月一日はついに廃朝、つまり休廷に追い込まれた。       
          
『続日本紀』には、「この年の春、疫瘡おおいに起こる。始め筑紫より来たれり。夏を経て秋に渉り、公卿以下、天下の百(ひやく)姓(せい)あいつぎて没死する者あげて計(かぞ)うべからず」と記されている。
 政権の中枢にいた藤原四兄弟が、相次いで世を去り、朝廷や中央政界はその形態を維持できないほどになっていた。
 地方でも疫病の流行や、飢餓により国全体が荒廃し、政情は全く不安定状態となった。さらに追い討ちをかけたのが、740年に勃発した藤原広(ひろ)嗣(つぐ)の乱である。
 藤原広嗣は、藤原四兄弟の三男で、四兄弟のうち最後まで生存していた参議の藤原宇合(うまかい)の長子で、政権中枢にいた藤原四兄弟が相次いで亡くなり、朝廷内で反藤原氏勢力が台頭し、広嗣は大宰少弐に左遷されていた。広嗣はこの左遷に不服であり、、九州地方の惨状から、飢饉や疫病による民心の動揺は、中央政府の失策にあると批判する上奏文を朝廷に送った。が、橘諸兄はこれを謀反と受け取った。

        聖武天皇像
          聖武天皇像

 聖武天皇はこれに対し、広嗣の召喚の詔勅を出したが、従わず天平12年(740年)弟・綱手とともに、大宰府の手勢や隼人など1万余の兵力を率いて反乱を起こした。藤原広嗣の乱は、やがて鎮圧されたが、政府の動揺はおさまらず、聖武天皇は、都を平城京から恭仁京(くにきよう)(京都府木津川市)、難波京(大阪市)、さらに紫香楽宮(しがらきぐう)(滋賀県甲賀市)へと、次々と遷都した。また疫病の流行地に医師を派遣したり、病人に医薬を与えるなどの措置を実施し、何とかこの危機を解消しようとした。元来が信仰心の厚い聖武天皇は、鎮護国家の思想で安定を図ろうとし、741年、「国分寺」建立の詔(みことのり)を出し、国ごとに国分寺、国分尼寺を設けさせることにした。
 ついで743年、紫香楽宮で大仏建立の詔が出された。
 745年に奈良平城京にもどった聖武天皇は、娘の孝謙天皇に譲位した。 
    大仏開眼法要の図
        大仏開眼法要の図
 752年、奈良東大寺大仏が、約9年間の歳月をかけて完成し、大仏開眼の壮大な儀式が執り行なわれた。
 この儀式には大勢の僧侶と官僚の他、インドや中国から渡来した僧を含め約1万人の僧が参列した。
 当時の医療者の中心が僧医であり、朝廷や政府高官の病の診療に携わったことから、朝廷から厚い信任を得る場合が多かったことと関連があったと考えられる。


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 ■光明皇后と医療

 藤原氏の実質的な開祖、藤原不比等は、長女の宮(みや)子(こ)を文武天皇の夫人に入れ、生まれた首(おびと)皇子(後の聖武天皇)の即位を図った。
 さらに不比等は、県犬養(あがたいぬかい)橘三千代(たちばなのみちよ)との間にできた娘、光明を聖武天皇の皇后(光明皇后)とするなど、天皇家と藤原氏の密接な結びつきを築ていった。
 光明皇后は、仏教を深く信仰していた母の影響もあり、仏教へ帰依して厚い信仰心を持っていた。

         光明皇后
          光明皇后

 このことが疫病流行に対して、国分寺や大仏建立を決断した、聖武天皇に大きな影響を与えたと考えられている。ともかく聖武天皇が、何度も都を遷都したり、全国に国分寺を建立させたり、大仏鋳造と大仏殿建立という途方もない、一大事業を発起したのは、仏教による「鎮護国家」の悲願であったが、その最大の原因である疫病、すなわち、天然痘がいかに猛威を奮ったかの証左である。
 ちなみに大仏を鋳造する技術は、まだ大和には存在せず、朝鮮半島の技術者を招聘している。

    光明皇后の施療

 光明皇后の施療は「あまねく人々を救えば、未来永劫、疫病の苦しみから逃れられる」という、仏典をよりどころにしている。
 聖徳太子が四天王寺に施薬院、療病院、悲田院、敬田院の四院を建てたというのは、伝説であるかも知れないが、「施薬院」や「悲田院」は光明皇后によって、本格的なものが設置されたらしい。

      悲田院跡

 この二院は723年、興福寺に置かれたが、興福寺はもともと藤原鎌足の病気治癒を祈って、京都の山科に建てられ、山階寺として藤原氏の氏寺であった。藤原不比等が、これを藤原京に移し、さらに都が平城京に戻ったとき、興福寺として現在の奈良の春日野に移されたものである。
 光明皇后が立后した翌年、興福寺に施薬院と悲田院が設けられた。
 施薬院は、皇后宮職の管理下で、役人が置かれ、医師・鍼師らの医療に必要な薬草を、諸国から買い集めた。
 医疾令では、医師が病人の家を巡って、治療することが定められていたが、典薬寮の医師は、施薬院から入手した薬をもって都中を廻り、病家に薬を与えたという。さらに孤児たちを悲田院に収容した。
 また光明皇后でよく知られる話は、浴室での施療である。
 奈良市の平城京跡に隣接して、光明皇后が病人の治療のために建てたとされる法華寺があるが、このなかに浴室が残されている。
 これは古くから「からふろ」と呼ばれており、サウナ風呂のような蒸し風呂だったらしい。

     光明皇后の「からふろ」蒸し風呂
       光明皇后の「からふろ」蒸し風呂
 
 光明皇后は「からふろ」で、千人の民の汚れを拭うという願を立てたという。ところが、千人目の人は、全身の皮膚から膿を出すハンセン病者で、皇后に膿を口で吸い出すよう求めたところ、皇后が病人の膿を口で吸い出すと、たちまち病人は、光り輝く如来の姿に変わったという伝説が残されている。


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 ■鑑真と医療

 奈良時代の医療は、仏教伝来と共に僧侶が、韓医方や随・唐医方の医学知識をもたらしたことで、僧侶が医師を兼ねている場合が多かった。
 中(なか)務(つかさ)省の内薬司や、宮内省に属する典(てん)薬(やく)寮(りよう)の指導的な地位は、殆どが渡来系の僧侶が占め、医師の養成も行った。
 公卿の医療にたずさわったのは僧侶で、宮廷に看病僧として仕えていた。この時代の看病とは、病の診断と治療のことで、医師として薬石による治療とともに、病気平癒の祈祷なども医療行為としてをおこなった。
 こうした背景で、聖武天皇の病気の平癒祈祷に、看病の僧侶百二十六人が参列したと記されている。
 そのなかで、徳に名声の高い僧侶は、法蔵、法運、法栄、そして来日した鑑真がいる。鑑真は688年、唐の長江河口近くの揚州の人で、14歳で出家し、長安・洛陽で仏教を学び、唐国内で戒律を教え広め、すでに名声を得ていた。

       鑑真座像
            鑑真座像

 そのころ、奈良朝では、本格的な伝戒師を求めて、日本から遣唐使船で僧栄叡(ようえい)・普照らが唐に派遣され、鑑真のもとで仏法を研鑽した。
 伝戒師とは、仏祖伝来の戒法を授ける資格をもった僧侶のことである。
 戒法を受けることを授戒といい、この時代の伝戒は、嗣法が可能なほどに参究が進んだ僧侶に行われた。
 僧栄叡(ようえい)・普照らが、高名な鑑真に、伝戒師の派遣を懇願したところ、742年、鑑真自身が決意し、渡日することになった。ところが、難破などで五回も渡海に失敗し、そのうちに自らは眼病を患い失明してしまった。 最終的に753年、遣唐使の帰国船に乗って、弟子八人と共に日本に渡来し、翌年には平城京に入り、東大寺に迎えられた。

     東大寺大仏殿
          東大寺大仏殿

 そして大仏殿前に戒壇を設けて、聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇を始めとして、多くの僧侶が鑑真から受戒した。
 758年に大(だい)和(わ)上(じよう)の号を授けられ、のち東大寺から移った唐招提寺に現在も祭られている。

     唐招提寺

 鑑真は戒律だけでなく、医術・薬学・建築・文化・書道などに造詣が深く、とくに医術については詳しく、特に本草学の知識を持っていた。来日にあたって、多く薬物を持参し、医術の普及にも大きな貢献をした。
 日本に渡来している多くの薬草の真偽について、鑑真に鑑定を依頼し、鑑真は視力を失っていたが、真偽精粗を鼻で嗅ぎ分け、その匂いで区別し、一つも過ちが無かったと伝えられている。鑑真に就いて、韓(からくに)広足(ひろたり)が、唐の本草学を学んだ。
 正倉院薬物の中に遠くアラブ産のものも含めて、多くの外国産の薬物があるが、その中に、鑑真が来日するときに持参したであろうと考えられているものがあるという。聖武天皇の母、藤原宮子の病が悪化したとき、鑑真が呼ばれて治療し、その時に使用された医薬が奏功し、鑑真は僧としての高い位、大(だい)和(わ)上(じよう)の号が授けられた。
 

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 ■弓削道鏡

 宮廷に看病僧として仕え、医術で異数の出世をし、自ら天皇になろうとした怪僧が弓削道鏡である。
 道鏡は、河内国、弓削連(むらじ)出身で、弓削道鏡とも呼ばれている。
 弓削連(むらじ)は、有力氏族の姓(かばね)で、特殊な官職や職業を束ねる立場に有った。とくに看病や湯薬の法に詳しく、宮中に看病禅師として仕えていた。

    弓削道鏡想像図
          弓削道鏡想像図

 女帝の孝謙天皇が退位し(758年)、孝謙上皇となった後、病を得て道鏡が看病僧となり、彼女の看病に成果をあげ、その寵愛をうけるようになった。
 孝謙天皇の退位の後、藤原仲麻呂(恵美押勝(えみのおしかつ))が擁立した淳(じゆん)仁(にん)天皇が即位していた。藤原仲麻呂は、破格の待遇で太政大臣に昇りつめ権力を掌握していた。
 孝謙上皇が道鏡を寵愛することに、淳(じゆん)仁(にん)天皇が諫めた事で、上皇は激怒し、仲麻呂・淳仁天皇との不和が表面化した。
 
     孝謙天皇想像図
      孝謙天皇想像図

 上皇の寵愛を後ろ盾に少僧都に任じられ道鏡が、朝廷内で勢力拡大し、太政大臣の仲麻呂(恵美押勝)と対立が深まった。
 危機感を募らせた藤原仲麻呂は、764年に兵をあげ乱を企てたが、上皇と道鏡の迅速な対応で鎮圧された。この乱の結果、淳仁天皇は退位させられ、孝謙上皇が、再び即位し称徳天皇として即位した。
 この結果、道鏡は太政大臣禅師に任ぜられた。さらに翌年には、法王となり、天皇に次ぐ権力者に上り詰めた。
 道鏡は、仏教理念に基づく政策を推進し、弟の浄人は8年間で従二位大納言にまで昇進し、一門で五位以上の者は10人に達した。こうした背景で、称徳天皇からの譲位さえ目論んだ。
 こうした法体で政務を壟断する道鏡に対し、藤原氏や和気清麻呂らの道鏡即位反対運動により頓挫した。
 770年、称徳天皇が崩御すると、道鏡の立場は暗転し、下野(しもつけ)薬師寺の別当として追放され、772年、同地で死去した。称徳天皇は生涯独身で、子をなすこともなかった。


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第三章 平安時代の医学




 
平安時代の医療制度

 平安時代は桓(かん)武(む)天(てん)皇(のう)が平安京(京都)に都を遷(うつ)した794年から、源頼朝が鎌倉幕府を開く1185年までの約390年間をいう。

   桓武天皇像 延暦寺蔵
       桓武天皇像 延暦寺蔵

 前時代からの「律令制度」が維持された前期、荘園制が生まれて「律令制が崩壊」していった中期、武士が台頭して実力を持ちはじめた後期に分けられる。
 平安前期では、律令制度で設置された典薬寮があり、これに基づいて設けられた「施薬院」が、平安時代後期にかけて大きな力を持つようになった。「施薬院」は、天平2年(730年)、光明皇后の発願により、興福寺に皇后宮職として「悲田院」とともに創設された。
 庶民救済施設と薬園を兼ねたもので、薬草を栽培し、貧民、病人や孤児の保護・治療・施薬を行った。
 悲田院は、仏教の慈悲の思想に基づき、貧しい人や孤児、病者を救うために作られた貧民救済の施設である。8世紀中頃には、平城京の左右京に、また諸国や、諸寺にも設けられた。

    興福寺 
          興福寺

 平安京へ遷都後も、施薬院は五条室町近くに移され、山(やま)城国(しろこく)乙(おと)訓(くに)郡(ぐん)に施薬院用の薬園が設けられたと、『日本後紀』にある。
 天長2年(825年)には、別当、院使、判官、主(しゆ)典(てん)、医師の各1名を置く職制が定められ、延(えん)喜(ぎ)式(しき)(平安時代中期に編纂された格式で、律令の施行細則)でも継続された。
 太(だ)政(じよう)官(かん)符(ふ)によれば、施薬院と東西悲田が、病人と孤児を収容し、前者は預(あずかり)(実務を統括する官職名)と雑使(実務者)が治療にあたり、後者は預・雑使に加えて、乳母・養母が養っていたこと、院司(いんのつかさ)が預(あずかり)以下を指揮監督していたことが記されている。

     藤原冬嗣
          藤原冬嗣
        
 元々、藤原氏が、創立者の光明皇后の実家であることから、平安時代に入ってから、皇后宮職から独立した存在となり、施薬院の運営に介入を始めた。藤原冬嗣が、施薬院に食封千戸を寄進し、その使い道を困窮者救済に限定させたことが『続日本後紀』に記されている。
 こうした経緯から、別当のうち1人は藤氏長者の推薦によって、藤原氏から補任される慣例が平安時代を通じて行われた。
 このように、典薬寮は奈良時代に比べて大きな規模となり、地方から送られてくる薬物の管理、薬園や乳牛の牧場の管理、医学教育および医師の任免、朝廷関係者や畿内住民の診療まで、すべての中央医療関係を管轄していた。
 この時代に医学を学んでいた医生の数字は、数十人の規模であったと考えられている。定められた教育課程を修了すると、厳格な資格試験が実施されたため合格しない場合も多く、これらの者には医業を禁止していた。しかし次第に医師不足が問題となり、やがて医師の子孫は、無検定で医師になれるという制度にかわっていった。
 時代が下って荘園が栄え、地方に朝廷の力が及ばなくなると、施薬院も衰えていった。


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 ■平安時代の疫病

 平安時代は、『源氏物語』のような王朝貴族の雅びた栄華を想像するが、実際は毎年のように、異常気象や疫病の流行が繰り返されていた。
 なかでも、藤原一族が次々と罹患し命を落とした天然痘(痘瘡)は、弘(こう)仁(にん)5年(814年)、つづいて仁(にん)寿(じゆ)3年(853年)にも全国的な大流行を繰り返し、多数の死者が出て、社会不安が拡大した。典薬寮では、患者らに籾(もみ)や塩を支給して、民心の安定を図った。
 
 また861年には、赤痢の大流行が記録に残っている。
 赤痢は、下痢・発熱・血便・腹痛などを伴う大腸感染症である。
 赤痢には、寄生虫が原因で発症するアメーバ赤痢と、赤痢菌が原因の細菌性赤痢がある。この時代では、多くは細菌性赤痢であったと推測されている。これは食物や水から消化管に感染する食中毒で、高熱、激しい腹痛、下痢、血便がつづく。京やその周辺の村で大流行し、多くの子供が亡くなったという。
 貞(じよう)観(がん)4年(862年)の冬季から翌年春にかけて、熱と咳がつづく咳逆(しはぶき)という一種の流行性感冒が大流行した記録がある。
 その後も度々流行し、インフルエンザだった可能性も考えられる。

      「しはぶき」により崩御された一条天皇 
       「しはぶき」により崩御された一条天皇 

 おびただしい数の死者があり、1011年には、時の一条天皇が32歳でこの「しはぶき」により崩御されたことが、平安後期の歴史書『大鏡』に記されている。
 その他のウイルス性疾患として、麻疹(ましん)の流行もたびたび発生した。
 平安時代以後、度々文献に登場する疫病の一つ「あかもがさ(赤斑瘡/赤瘡)」は、今日の「麻疹」に該当するとされており、麻疹ウイルスによる、急性熱性発疹性疾患のことである。
 患者発生は、2歳以下が約半数を占め1歳代が最も多い。なお麻疹を、「はしか」と称するようになったのは、鎌倉時代になってからのことである。

      『扶桑略記』
          『扶桑略記』

 平安時代で記録に残る大流行は、歴史書『扶桑略記』などによると1077年で、白河天皇やその皇后が麻疹に罹患し、多くの皇族や公家が死亡したと記されている。
 これらの病気の、高熱や下痢による脱水に対し、十分な水分を与えるなどの医療知識がなかったようである。
 薬物療法についても、漢方薬などの施薬の記録がない。つまり加持・祈祷という治療法しか考えられなかったのであろうか。
 瘧(おこり)(マラリア)は古来、「瘧疾(ぎやくしつ)」、「わらはやみ」、あるいは「えやみ」と呼ばれていた。
 マラリア原虫の感染症で、熱帯地方に多く生息する、ハマダラ蚊が媒介して感染する。周期的に40℃にもおよぶ戦(せん)慄(りつ)(体の震え)をともなう高熱が出て、4~5時間つづいたあと、突然平熱に戻るが、3~4日後再び高熱が出るという状態を繰り返す。高熱がでる周期により、「三日熱マラリア」「四日熱マラリア」などの種類がある。昔はそのまま放置すると、貧血をともない全身衰弱で死亡してしまうという恐ろしい感染症であった。
 古代には、大宝律令の「医疾令」に「瘧疾」の記載があり、当時はごくありふれた、しかし重体におちいる病気であった。
 平安時代では「源氏物語」に「わらはやみ」にかかった人に、加持祈祷で治療したが効果がなかった、と記されている。
 皇族では敦良親王(あつながしんのう)、そのほか貴族では九条兼実や藤原定家など多くの有名人が瘧疾にかかった記録がある。なかでも平安時代末期の歴史上有名な平清盛は、マラリアのため死亡したと推測されている。

      平清盛 木像
         平清盛 木像

 平清盛は、治承5年(1181年)、頭痛から始まった高熱発作で意識不明となり、死亡した。公家の日記には、「動熱悶絶」と記されている。
 死の直前には、身体の熱さは火をたいたようで、側に寄っただけで熱気が感じられたといい、比叡山から取り寄せた冷水をかけると、たちまち湯になったという。
 『平家物語』では、清盛の死を「 熱(あち)ち死」と記している。
 発熱の原因は、猩紅熱だったという説もあるが、マラリアに罹患したのだという説が有力である。


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 ■医療と験者、陰陽師

 平安時代には、身分の上下にかかわらず、人々は病気の原因は怨霊の仕わざと信じられていた。
 当時、急病人がでると、それに対応するのは怨霊、物怪(もののけ)を退治する加(か)持(じ)祈(き)祷(とう)が、最も重要な医療行為だった。
 『枕草子』には、急病人があると験(げん)者(じや)(加持・祈祷をなし、霊験をあらわす行者。修験者とも)を探し回り、やっとのことで加持祈祷により治癒した様子が記されている。

     安倍晴明の加持祈祷
           安倍晴明の加持祈祷

 病気の原因は祟(たた)りや穢(けが)れであり、疫病などの禍の原因は、怨(おん)霊(りよう)の祟りであると考えられていた。そのために加持祈祷を行うことで、神仏に頼って怨霊を鎮めるしかなかった。また疫病が流行すると、疫病を持ってくる疫神を鎮めるため、御霊会(ごりようえ)などが行われた。
 御霊会(ごりようえ)は、祟(たた)りをなす怨霊を鎮め慰める祭りで、御霊祭ともいう。

     御霊祭
         御霊祭

 その起りは863年(貞観年5)5月、京の神泉苑で、崇道天皇(早良親王の追号)、伊予親王、藤原夫人(吉子)、観察使(藤原仲成)、橘逸(はや)勢(なり)、文室宮田麻呂(ふんや の みやたまろ)ら、政治的陰謀で失脚した人物を祀り、御霊会(ごりようえ)を行ったことを始めとする。
 怨みを残して死んだ者、非業の死を遂げて祀られぬ霊魂は、この世にたたりをなし、災いを起こすものと信ぜられていた。
 このため政権の座にあった藤原氏が中心となり、京中の民が参加して御霊会を営み、社会不安を一掃しようとした。
 ところが御霊会(ごりようえ)の後も、菅原道真の死後、京ではさまざまな事件が発生し、それらが道真の怨霊のためであると、都人が盲信するようになった。
 菅原道真は、儒教的思想の政治理念を持ち、優れた実務能があったことから、宇(う)多(だ)天(てん)皇(のう)に重用され、右大臣にまで登りつめた。
 これに次ぐ左大臣の地位にあったのが藤原時平で、従来の律令政治を踏襲しようとする道真と、政治的対立があった。のち後ろ盾の宇多天皇が醍醐天皇に譲位し、上皇になったあと、時平らの讒(ざん)言(げん)などで、道真の立場は破局を迎え、大宰府に左遷され、京に残した妻子を想いながら、悲運のなかで59歳で亡くなった。

       菅原道真

 菅原道真の死後、京ではさまざまな事件が発生した。
 醍醐天皇は、疱(ほう)瘡(そう)(天然痘)に罹患して崩御され、政敵だった藤原時平も病名は明らかではないが、短い闘病ののちわずか39歳で亡くなった。 また御所の清涼殿に落雷が起こり、大納言藤原清貫(きよつら)らが即死した。
 これらは、道真の怨霊のためであるとして、この怨霊を鎮めるため、京で道真を北野天満宮に祀った。病気を始めとして、すべての不祥事は怨霊、物怪(もののけ)の仕業であるという思想の典型的な例である。

    『宇津保(うつほ)物語』
         『宇津保(うつほ)物語』

 また『宇津保(うつほ)物語』などには、験者による加持祈祷で、物怪を調伏させたのち、医師による治療がおこなわれたことが描かれている。
 つまり当時の人々は、病気の治療には、薬の内服よりも験者による加持祈祷の方がはるかに大切であった。一方、都で身分の高い人たちは、病気になると、呪術や祭祀をおこなう陰(おん)陽(みよう)師(じ)に、疫神を退治させるようになった。
 陰陽師は、「養老律令」で中務省に属する官職の一つで、陰陽五行思想に基づいた陰陽道(おんみようどう)によって占筮(せんぜい)および地相(土地の形勢の吉凶の判断)などを職掌とする方技(技官)として配置されたが、怨霊や疫神の退治をも行うようになっていた。
 陰陽師は、陰と陽の二個の原理で臓腑の機能(生理)を理解していた。つまり「臓を陰とし、腑を陽とした。臓は蔵にして、神は心に蔵(やど)る。魂は肝に蔵(やど)る。精は腎に蔵(やど)る。魄は肺に蔵(やど)る。志は脾に蔵(やど)る。」とした。
 陰陽五行思想と中国の医学に基づいて、人の内臓を五臓六腑を挙げている。五臓は、おのおの宇宙の元素、すなわち「木、火、土、金、水」に相当するとして、四季、色、及び味もそれに相応して関係付けられていた。

      陰陽五行思想と五臓六腑

   心臓= 火 夏  赤 苦(く) 
   肺臓= 金 秋  白 辛(しん)
   腎臓= 水 冬  黒 鹹(かん)(渋味)
   肝臓= 木 春  青 酸(さん)
   脾臓= 土 各季の最後の18 日  黄 甘(かん)

 陰陽師として有名なのが、倍(べの)晴(せい)明(めい)である。
 安倍晴明は、921年、摂津国阿倍野(現在の大阪市阿倍野区)に生まれたとされ、陰陽師賀茂忠行に陰陽道を学び、官職に就いた。
 50歳ごろから頭角をあらわし、最終的には中務省の陰陽寮長官である陰陽頭よりも上の官位であったといわれている。

    安倍晴明
       安倍晴明

 平安時代では、最先端の学問(呪術・科学)であった「天文道」や、占いなどを体系としてまとめた、思想としての陰陽道に関して、安倍晴明は、卓越した知識を持った陰陽師ともいわれ、朝廷や貴族たちの信頼を受け、その事跡は神秘化され、数多くの伝説的逸話を生んでいった。
 こうした経緯で、鎌倉時代から明治時代初めまで、陰陽寮を統括した安倍氏の祖である。


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 ■日本最古の医学書

 平安時代の全般的な医学の特徴は、それまでの遣唐使が廃止され、大陸からの新しい医学知識が途絶え、わが国独自の医学が発展することになった。その典型が、それまでの医学知識と経験に基づいて、医書が編纂されたことである。
 日本で最初に著された医学書は799年、和気広(ひろ)世(よ)による『薬経太素(やくきようたそ)』といわれている。和気広世は和気清麻呂の長男で、和気家は、広世以後代々医家として継承されている。
 和気広世の著した『薬経太素(やくきようたそ)』の内容は散逸して原本は伝わらず、写本が『群書類從(ぐんしよるいじゆう)』(塙(はなわ)保(ほ)己(き)一(いち)編、1819年)の續編に収められている。が、かなり書き換えられたか、あるいは加筆されたといわれている。

        『群書類從(ぐんしよるいじゆう)』

 次に古い医書は、平城天皇(へいぜいてんのう)の治世808年に、安部真直らにより著された『大同類(るい)聚(じゆう)方(ほう)』で、百巻にも及ぶ大著だった。
 が、これも散逸してしまっている。
 平安時代中期の『本(ほん)草(ぞう)和名』全19巻が、日本の最初の薬物書といえる。この書は、平安時代の百科事典である『倭(わ)名(みよう)類聚鈔(るいじゆしよう)』の序、および引用書の中に、名を留めるのみで、散佚したと思われていた。
 ところが、江戸時代の中期に、医学者の多紀元簡(げんかん)が、偶然幕府の書庫から古写本を発見し、寛政8(1796)年に復刻したのが今日に伝わっている。内容については、本草内薬850種、諸家食經105種、本草外薬70種、併せて1025種の薬物(生薬)が収載されている。
 さらに細別すると、玉石類81種、草本257種、木本110種、禽獣類69種、虫魚類113種、果類45種、菜類62種、穀類35種、有名無用193種ほかとなっている。

        『本草和名』

 この本草内薬850種というのは、唐の勅撰本草書の『新修本草』(659年成立、『蘇敬』(7世紀撰)にある薬物を、ことごとく引用したことを意味し、それ以外の中国の本草書等の収載品を併せると、1025種になり、また生薬類の配列もそれに拠っている。
 原本の形を今に伝える最古の医書は、典薬頭も勤めた丹波康頼が928年に著した『医心方』である。

     『医心方』
        『医心方』

 原本は丹波康頼から宮中に献上され、永らく宮中の秘蔵書となっていたことから、時代の変遷による散逸もなく、そのまま現在に伝えられている。
 室町時代になって、丹波家とともに、代々の医家代表であり当時の典薬頭であった半井瑞策に下賜された。

      『医心方』
         『医心方』

 『医心方』の内容は、丹波康頼が隋や唐の医書120あまりを引用して書き上げられた30巻からなる医学全書である。
 全30巻の内容は、、医師の倫理・医学総論・各種疾患に対する療法・保健衛生・養生法・医療技術・医学思想・房中術などから構成される。
 つまり医師の心得、薬物の注意点から始まり、鍼灸に関すること、内科、外科、眼科、耳鼻咽喉科、産科、婦人科など、あらゆる医学領域におよび、最終の第30巻には穀物、野菜、肉類などの健康食品にも触れられている。
 本文は漢文で書かれており、唐代に存在した膨大な医学書を引用してあり、現在、散逸して存在しないものも多く、古代東洋医学の内容を知る上で、文献学上非常に重要な書物とされる。


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 ■藤原道長の糖尿病

 糖尿病はのどが渇く、よく水をのむ、そして尿量が多い。などの症状があり、合併症として、眼底の網膜が障害される糖尿病性網膜症や、腎機能が低下する糖尿病性腎症、手足の感覚がなくなってしまう糖尿病性神経障害といった三大合併症のほか、白内障、心筋梗塞、脳梗塞などの大血管障害が発生する。
 古来から、その症状から「飲水病」とか「口渇病」などと呼ばれていた。基本的には、乱れた生活習慣が糖尿病発症を引き起こす、生活習慣病で、発症については遺伝的素因が大きく関与している。

      肥満で糖尿病の藤原道長
        肥満で糖尿病の藤原道長

 平安時代、国の政治はいわゆる摂関政治で、摂政・関白による政治が長く続いた。この中で「この世をば我が世とぞ思う望月の欠けたることも無しと思へば」と詠んだ最高権力者の藤原道長は、糖尿病であったことがよく知られている。
 遺伝的素因としては、道長の父である藤原兼家の兄、摂政の藤原伊尹(これただ)は、重症の糖尿病に悩まされ、49歳で亡くなっている。
 また道長の長男の摂政関白・藤原道隆も、酒の飲みすぎによる糖尿病で死亡したとされている。このように道長には、糖尿病の遺伝的素因があり、その上、贅(ぜい)沢(たく)三(ざん)昧(まい)の生活をしていたのであろう。過飲過食と運動不足で肥満があり、その地位から、ストレスもあったことが想定される。これらはすべて糖尿病を悪化させる要因である。
 50歳を過ぎてから、「昼夜なく水を飲みたくなる、口が渇いて脱力感がある。しかし食欲は以前と変わりはない」などと、同時代の公卿であった藤原の残した日記『小右記(おうき)』に記されている。

      『小右記』
          『小右記』

 同じ『小右記』に、道長の目が見えなくなったとも記されている。
 藤原道長は、顔を近づけても、その相手が誰かわからなくなっていたという。おそらく糖尿病合併症の、白内障が相当進行していたのであろう。また背中に膿がたまる、腫れ物が、何度もできたことなどが記されている。「欠けたることのない我が世」を謳歌した藤原道長だが、1027年、わずか62歳でその生涯を閉じている。


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 ■病草紙

 平安時代の末期に『病(やまい)草(そう)』という絵巻物が作られた。
 絵は後白河院に仕えた宮廷絵師の土佐光長、詞(ことば)書(がき)は、歌人、僧侶であった寂連法師(藤原定長)といわれ、平安末期から鎌倉初期に作られた絵巻物であった。
 簡単な説話風詞(ことば)書(がき)に、一図の絵を添え構成され、当時の種々の奇病や治療法などの風俗を集めたものである。

     『地獄草紙』
          『地獄草紙』

 この頃は、戦乱、飢餓、疾病の流行などが続き、まさに末世思想の時代で、『往生要集』(源信が著した仏教書で、極楽往生に関する重要な文章を集めたもの)にみられる六道絵巻さながらの時代であった。
 死後に極楽往生するには、一心に仏を想い、念仏の行をあげる以外に方法はない。と説き、浄土教の基礎を創った。
  また、この書物で説かれた厭(おん)離(り)穢(え)土(ど)、欣(ごん)求(ぐ)浄(じよう)土(ど)の精神は、貴族・庶民らにも普及し、後の文学思想にも大きな影響を与えた。
 この末法思想から、『地獄草紙』、『餓鬼草紙』などが描かれた。こうした背景から、救いようのない難病も、厭離穢土の念に相応しく映って、その苦痛と汚辱を、冷静に見据えて忠実に描いたのであろう。

    『餓鬼草紙』
         『餓鬼草紙』

 『病(やまい)草(そう)』は、本来は1巻の巻物であった16段と、これとは別に伝来した断簡5段の計21段分が残り、現在は、各段ごとに分断され、国宝9段などが京都国立博物館、その他は各地の博物館・美術館に保管されており、現在21の病態を描いたものが伝えられている。
 この他、別系統の模写本も伝わっている。巻物には、大和絵師の土佐光貞による寛政8(1796年)の奥書が加えられていた。それによれば、この絵巻は、当時「廃疾画」と呼ばれ、全部で16図あったと記されている。
 番号1図「鼻黒の親子」
 下級武士の夫婦子供の5人家族中、妻以外はみな鼻先が黒い。
「はなのさき、すみをぬりたるようにくろかりけり」と記されている。酒渣(しゆさ)と呼ばれる、鼻が赤くなる症状がひどくて、黒く見えたものか。回虫の寄生により、鼻が黒ずんで見える場合もある。

     番号2図「不眠の女」
      番号2図「不眠の女」
不眠症の女性。「夜になれども、寝入らるることなし。終夜(夜もすがら)起きゐて、何よりわびしきことなり、とぞ云ひける」とあり、他の女性たちが眠っている中で、一人上半身を起こして、なすすべもない。不眠の理由については書かれていないが、物思いか、それとも神経衰弱かもしれない。

      番号3図「風病の男」
      番号3図「風病の男」
 立膝をし、顔はゆがみ、碁石を指す指も震えて定まらない。相手をする女たちが笑っている。「瞳、常にゆるぎけり」という眼球震(しん)盪(とう)、口が歪んでいる口喎(こうか)、「厳寒に裸にてゐたる人の、震ひ戦慄(わなな)くやうになむありける」とあり、手足の不随運動などの症候から、脳卒中のような中枢神経疾患によるものであろう。

      番号4図「小舌のある男」
      番号4図「小舌のある男」
 詞書きに「舌の根に小さき舌のやうなもの、重なりて生出(おいい)づることあり」云々。 口腔底の腫脹で、今日の「がま腫れ」で、良性腫瘍と考えられるが、「飲食をうけず、重くなりぬれば死ぬるものあり」とも書かれている。

 番号5図「口より屎(くそ)する男」
「尻の孔(あな)無くて、屎口より出ず」と詞書きにあり、男が糞を嘔吐しているが、肛門がなくては生きられない。腸閉塞症の末期に起こる吐糞症を誤認したものであろう。吐糞症は、糞臭のある小腸の内容物を嘔吐する症状を言う。

       番号6図「二形(ふたなり)の男」
       番号6図「二形(ふたなり)の男」
 半陰陽、両性具有の事。ある商人が、顔は男だが、姿は女のようにも見え、不思議に思った者たちが、彼の寝入ったところで着物をまくり、「男女の根、ともにありけり」を見て驚き笑っている。当時の人々の、性に関するいびつな感性が分かる。

       番号7図「眼病の男」
       番号7図「眼病の男」
 目を患った男が治療を受けている図で、医療行為を絵画化した貴重な史料である。医師は手にメスを持ち、男の右眼からは血が出て、女房が大きな器で受けている。
 詞書きから、次第に見えなくなったという詞書きから、白内障と考えられる。
 白内障で濁った水晶体を、針で脱臼墜下させる手術は、かなり古くから行われていた。治療したのは偽医者らしく、目はつぶれてしまったという。この時代、こうした民間治療師が横行していたことが知られている。

 番号8図「歯の揺らぐ男」
歯周病(歯槽膿漏)により歯がぐらついた庶民の男が、用意された食事を前に口を大きく開けて、妻にその様子を見せている。
「みな揺ぎて、すこしも強(こわ)きものなどは、噛みわるにおよばず」ある。並べられた飯や一汁一魚二菜が巧みに描かれ、当時の食生活の様子や内容がうかがえる。

 番号9図「尻に穴多き男(痔瘻の男)」
「尻の穴数多(あまた)ありけり」で、幾つもの尻の穴から大便をするのを、女がのぞいている。明らかに痔瘻である。「屎まる(排便する)とき、穴毎(あなごと)に出て煩らはしかりけり」と、その苦痛が表現されている。


      番号10 図「陰虱(つびじらみ)をうつされた男」
      番号10 図「陰虱(つびじらみ)をうつされた男」
 男が、陰部を丸出しにして毛を剃っており、妻が笑いながら見ている図。
 「つびじらみ」はいわゆるケジラミの事で、陰毛に寄生して産卵し激しいかゆみを伴う。性行為による感染が多い。頭髪 に付くアタマジラミとは異なる。

    番号11図「霍乱(かくらん)の女」
    番号11図「霍乱(かくらん)の女」
 縁側で女が水のような下痢と嘔吐をしており、家族が介抱している。
 詞書に「霍乱という病あり。腹のうち苦痛刺すがごとし。口より水を吐き、尻より痢をもらす。悶絶顚倒して、まことにたへがたし」とある。
 当時、霍乱は、急性胃腸障害を意味し、当時はそのものずばり「しりより、くちより、こく病」と称したが、長いので「霍乱」が一般的になったらしい。
    
 番号12図「せむしの乞食法師」
 腰の曲がったせむしの乞食法師が、錫(しやく)杖(じよう)を手に歩き、通行人らが眺めている。古くは背骨に虫が入って曲がる、と考えられたので「背虫(せむし)」と言った。
 栄養失調と非衛生的環境に起因する「くる病」、つまりビタミンD欠乏に伴う、骨軟化・変形をおこす病によるものであろう。

    番号13図「口臭の女」
    番号13図「口臭の女」
 「息の臭い、あまり臭くて、―傍らに寄る人は臭さ堪え難かりけり」。
 若い下級女官が強い口臭に悩んでいる。口臭は、口腔内が不潔な場合、慢性胃炎の場合、進行した虫歯がある場合、歯周病による場合など、多様な原因で生じる。

 番号14図「眠り癖のある男」
官僚とみられる男が 、執務中に眠り込んでいる。ウイルス感染による嗜眠性脳炎(エコノモ脳炎)であろうか。特定の脳内物質の欠損によるナルコレプシー、睡眠時無呼吸症候群の可能性もある。脳腫瘍によっても起こる事がある。

 番号15「顔にあざのある女」
 「ある女顔痣(がんし)(顔あざ)といふものありて、朝夕これを歎きけり」とあり、見えない所ならいいが、顔にあれば他人と付き合うにも障害になる、という、貴族女性の嘆き
 。あざは、皮膚の色素の過剰な沈着や細い血管の異常増殖等でできる。

    番号16図「侏儒(しゅじゅ、小人)」
    番号16図「侏儒(しゅじゅ、小人)」
 小人の僧を子供らが笑っている。脳下垂体からの成長ホルモン分泌の異常による低身長。もしくは腕脚短縮症であろうか。
 前者は体全体が発育不全を示し、幼児のような顔立ちであるが、後者は腕と脚以外は正常な形態である。

     番号17図「背骨が曲がった男」 
     番号17図「背骨が曲がった男」
 脊柱が大きく湾曲した男が、「剃髪して食物を乞いつつ、歩きけり」とある。
 脊椎カリエスでは、結核菌が脊椎骨に病巣を作って、それによる骨の破壊吸収の末に、椎骨が癒合し、脊柱が大きく曲がったままになる。

 番号18図「白子(しらこ、しろこ)」
 「幼くより髪も眉もみな白く、目に黒眼もなし、昔より今に至るまで、まま世に出くることあり」とある。
 メラニン色素の先天的な欠乏で起こる白化症、すなわちアルビノの中年女の図。虹彩は青や灰色になり、それが黒目なしと見えたものか。

 番号19図「小法師の幻覚を生ずる男」
 病気になった男が、「病起らむ時は、ただ四五寸ばかりある法師の、紙衣(紙でできた着物)着たる、数多(あまた)連立ちて、枕にありと見えけり」とある。マラリアなどの高熱による、脳症から来る幻覚であろうか。

  番号20図「鳥眼の女」
 鶏に自分の目をつつかせる女の図。体をかがめて鶏の前に顔を突き出し、目を突かせている。詞書きがなく詳細は不明であるが、この奇癖の理由は、強迫神経症や統合失調症等の、精神疾患によるものの可能性がある。


   番号21図「肥満の女」
    番号21図「肥満の女」
 驚異的に肥満し、女たちに両脇を抱えられて、ようやく歩いている裕福な家の女。脳の摂食にかかわる中枢に、障害が起きると満腹感が得られず、食欲を制御できなくなり、こうした肥満状態に陥る場合がある。 

 いずれにしても、暗く痛ましく、醜く穢らわしい病を、ひたすらにリアルに、そして冷ややかに、そして揶揄的に病気を描いている。
 病気というものの本態と病人の現実を、確かな構図と、美しい配色と軽妙な筆到で描き出している。
 『病(やまい)草(そう)』を描いた宮廷絵師の土佐光長は、最勝光院の障子絵(襖絵)や、「年中行事絵巻」、「伴大納言絵詞」などの作者としても伝えられている。純日本的な、いわゆる大和絵の原型をなす優美な技法を使用している。のちの大和絵の「土佐派」とは、直接のつながりはない。



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