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    肥前長崎紀行3
     
      肥前長崎紀行 3 目次

   

  伴天連追放令   布教体制の再建  フランシスコ会  長崎二十六聖人殉教  
  
家康と切支丹   島原の乱   島原の乱の要因   山田右衛門作 
  天草四郎   島原城籠城戦  おお、大砲  原城落城  島原藩その後
  武家屋敷町  鯉の泳ぐまち  猪原金物店  島原駅  島原の子守歌       唐行きさん  


   

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伴天連追放令

 当初は、切支丹に対して寛大だった秀吉が、何故いきなり豹変して切支丹を禁止したのか?その歴史の謎について触れてみたい。
 一方、1580年のイスパニアによるポルトガル併合の結果、スペイン系の修道会であるフランシスコ会とドミニコ会が、日本進出を図り、ポルトガル系の既得権を主張するイエズス会とのあいだで暗闘を繰り広げるようになった。
 ちなみに有名なフランシスコザビエルは、イエズス会に所属していた。
 こうした経緯で、日本ではフランシスコ会と、ドミニコ会と、イエズス会が様々な有力大名と接触して、布教活動を繰り広げていた。その最大の目的は、日本の純度の高い「銀」の獲得であった事は前にふれた。

    

 ところが豊臣秀吉は、天正十五年(1587)の六月十九日付けと、前日六月十八日付けの二つの禁止令の文書を続けざまに発令している。
  十九日付けの文書では、第一条で、日本は「神国」であるという事を強調し、第二条で、領主も領民も信徒となる事を禁止し、第三条では宣教師の二十日以内の国外追放を命じている。
 ところが、、前日の十八日付け文書では、大名・領主やその家臣に対しては禁止したが、一般人に対しては「本人の心次第」として、それほどきびしく禁止しはしてはい。
 たった一日で急変したのは歴史の謎である。この謎解きを試みた。
 
 当時の日本イエズス会の副管区長の、スペインの宣教師ガルパス・コエリヨは、この「切支丹禁止令」が出る一年ほど前の、天正十四年の春に、大坂城を訪問し秀吉に謁見している。 この時の秀吉は機嫌が良く、「いずれ、明(みん)や朝鮮を征服するから、その時には大陸での布教活動の自由を約束する」と言ったらしい。
 この頃の秀吉は、明や朝鮮への出兵の構想を抱きはじめていて、南蛮貿易での利益の魅力と、南蛮の大砲や大型戦艦の売却を当てにしたらしい。
 だから、布教活動の自由に、条件を付けた。要は、大型船二隻の戦艦の売却で、それも操船技術者込みの条件であったという。

   

 その翌年の天正十五年五月に、大軍を率いて九州征伐に出陣し、島津氏を降伏させ、名実共に日本の統治者になった。
 そのとき降伏を申し入れた、島津氏の案内で薩摩に入った秀吉が、強大な軍事力を誇り、秀吉をして恐れさせた薩摩が、じつは切支丹の布教の基地のようになっていた現実をみせられた。
その前に、島津氏と共に一時は九州に覇を唱えた、豊後の大友氏を軍事力で解体ししている。その豊後や肥前の大村や島原、そして肥後の天草が、まさに切支丹の浸透で、スペインやポルトガルの植民地のような有様に驚いていた。
 有馬氏や大村氏などのキリシタン大名が、寺社仏閣を破壊すると同時に、僧侶にも迫害を加え、教会へ莫大な寄進を行っていた事実を知った。そして薩摩までが、切支丹の巣窟のような有様に愕然としたのであろう。この九州の切支丹の浸透の現実にたいして、その強大な力に一種の恐怖を抱いたであろう。
 こうした経緯で切支丹の浸透は、明(みん)や朝鮮を征服する事業の妨げになると秀吉は恐れ、天正十五年(1587)六月十八日に、「切支丹禁止令」を発令し、大名や領主とその家臣に対しては、禁止の文書を出した。
 そこで秀吉は、まず高槻城主の高山右近に棄教を命じたのである。
 切支丹の有力な庇護大名ながら、秀吉の信任の厚い高山右近が棄教すれば、その団結力も大幅に減じるであろう。右近が棄教すれば、切支丹大名の多くが棄教するであろうから、庶民がキリシタンであっても恐れる必要はない、と考えたのであろう。
 
           

 ところが秀吉の思惑とは裏腹に、高山右近は棄教をかたくなに拒んだ。 激怒した秀吉は、即刻高山右近を改易している。右近の態度に、秀吉は切支丹への恐れを更に強くした。
 そして、偶然翌日の六月十九日にスペインの宣教師ガルパス・コエリヨが、秀吉に拝謁しているのである。 この拝謁の時、宣教師ガルパス・コエリヨが、秀吉に提供すると前年約束した戦艦が、大型の軍艦ではなく、フスタ船と呼ばれる小型の南蛮船であったことが判明したのである。

   
       フスタ船

 これに秀吉は激怒し、即日「伴天連追放令」と、「全面的な切支丹禁止令」を発令したと想像されている。 それまでに、秀吉はプロテスタントのオランダ商人から、ライバルのスペインやポルトガルが、実は切支丹の布教を通じて、やがて日本の植民地化を計画している、などという讒訴(ざんそ)を受けていたのである。事実、イスパニアやポルトガルが、南米やアジアの一部を植民地化していた。
 イスパニアの場合は、メキシコ、ペルー、マニラを植民地化しており、、ポルトガルは、アジアのゴア、マラッカ、マカオを植民地化している。こうした現実は知らずとも、イスパニアやポルトガルが、日本の植民地化を計画しているという確信が、次第に秀吉の脳裏を掠(かす)めたのであろう。
 禁令を受けたイエズス会宣教師たちは、次のポルトガル商船の来航まで平戸に集結して、以後公然の布教活動を控えた。南蛮貿易のもたらす実利を重視した秀吉は、京都にあった教会(南蛮寺)を破却、長崎の公館と教会堂を接収してはいるが、切支丹そのものへの、それ以上の強硬な禁教は行っていない。
 秀吉は、ポルトガル商船の来日そのものまで禁止したわけでは無く、むしろこちらは歓迎していた。南蛮貿易によってもたらされる利益や物品は秀吉にとって大きな魅力であったからである。





布教体制の再建

 このため禁教令下の日本へ、イエズス会士であるヴァリニャーノ神父は、イエズス会巡察使として来日を図ったが果たせず、インド副王の使節として来日している。
 ヴァリニャーノは、秀吉に謁見したが、禁教令撤廃という目的は果たすことは出来なかった。しかしポルトガルとの貿易継続のため、通訳として宣教師十人の長崎滞在を許可されている。

         
          ヴァリニャーノ神父

 これをきっかけとして切支丹禁教令はある意味骨抜きにされていくのである。
 1587年、伴天連追放令は出されたが、南蛮貿易のために、ポルトガル商船と切っても切れない関係にあるイエズス会士を黙認した。いくつもの教会や施設が破壊されたが、ポルトガル人商人のためという名目ですぐに再建される所もあった。 
 またこの頃、庶民にポルトガル風の衣装やアクセサリーが流行し、キリシタンでも無いのにオラショを唱える姿が見られた。追放令を出した秀吉自身が、聚楽第でロザリオを身につけていたことが明らかとなっている。

     

 相変わらず公然とは巡回布教は出来ずにいたが、九州地方では受洗者も増え続け、日本キリシタン教界は復活の兆しを見せていた
 この頃の 1590年、天正遣欧使節が帰還している。
 彼らは、ヨーロッパのどこででも歓迎を受け、ヨーロッパキリスト教世界のすごさを目の当たりにして来た。彼らを案内したイエズス会士に「キリスト教の素晴らしい所だけを見せよ」という命令が下っていたのである。
 また彼らがローマに与えた影響も大きく、日本ブームが各地で起こり、日本への布教熱は一気に燃え上がり、日本布教を行ったイエズス会の名を高めた。これこそが遣欧使節を企画したヴァリニャーノ神父の意図であった。 秀吉は四人の天正遣欧使節の一人、伊東マンショを召し抱えようとするが、マンショはこれを断っている。
 その後、四人の天正遣欧使節はイエズス会に入会し、日本教界のために働くこととなる。千々石ミゲル以外の三人は司祭となり布教に従事している。





フランシスコ会

 そんな中1593年、フランシスコ会士(スペイン系)がフィリピン総督使節として来日している。これより以前に秀吉が、フィリピンに朝貢を命ずる使節を送っていたが、それに対するフィリピン総督の使節としてである。
 切支丹の日本布教は、イエズス会の独占状態にあり、ローマ教皇(きようこう)からもその旨の勅書が出ていた。 それらを不服とするイスパニア(スペイン)系修道会は、その勅書の取り消しを誓願し、また日本布教に熱い情熱持っていた。
 ともあれフランシスコ会士達は、総督使節と言う名目ながら来日を果たした。
 多くの朝貢品を秀吉に献上して庇護を求め、京都で公然と布教を始めたのである。
 教会や病院を建て、布教に従事した。

     

 イエズス会は、禁教令下の日本では明からさまな布教活動は控えるように、との助言を出したが無視された。





長崎二十六聖人殉教

 こうしてフランシスコ会士達が、禁教令下の日本で布教活動を始めていた文禄元年(1592年)八月にイスパニア(スペイン)船のサン・フェリペ号が、台風で土佐沖に漂着した。
 難破船は保護するという建前から、一旦土佐藩主の長宗我部元親の保護を受けた。
 サン・フェリペ号のフランシスコ会士と、乗組員の代表者数名は、船を修理する許可と、危害から身を守る保証書の公布を期待し、秀吉に謁見を願い出た。

         
          サン・フェリペ号

 しかし、秀吉は彼らとの謁見を拒否し、増田長盛を土佐に派遣しフェリペ号の積荷を没収した。
 さらに増田長盛はイスパニアの航海士ランディアを尋問すると、航海図を見せ「世界的覇業」を語ったとされる。長盛が、
 「その覇業のためには、まず宣教師が派遣されるのであろう」
と問うと、ランディアは、そうだ、と答えたと言う。増田(ました)長盛は、尋問の結果を、
 「イスパニア人は征服者であり、まず他国に伴天連を入れ、その後に軍隊を入れ征服する、それを日本で計画している」
と秀吉に報告したという。そして更に、
 「占領する計画の前提として、日本近海の測量を目的」で来航したと報告したという。
 これには、通訳の間違いや、イスパニアによるポルトガル併合の結果、ポルトガル人の入れ知恵説、そして長宗我部元親の陰謀説などの諸説がある。
 ともかく彼ら一行はこの報告の結果、大阪と京都で捕えられた。逮捕された一行は、左の耳たぶを切り落とされ、鼻をそぎ落とされ、見せしめのため極寒の中を徒歩で長崎西坂まで護送された。
 慶長元年十二月十九日(1597)、フランシスコ会士と日本人信徒ら二十六名が処刑されたのである。
 二十六人の中には、十二歳のルドビゴ茨木をはじめ、四人の十代の少年も含まれていた。
 そして遺体は一ヶ月以上、磔(はりつけ)のままさらされたという。
 これが歴史に名高い「長崎の二十六聖人殉教」である。

     

 この処刑の翌月、再び伴天連追放令が発布され、宣教師達は次々と国外追放された。
 赴任したばかりの初代日本司教マルティンスも長崎居住を諦め、マカオへ去った。
 教会の破壊も相次ぎ、再び日本キリシタン教界に危機が訪れた。

 

 太閤秀吉が死去し、キリシタン教界にまたも転機が訪れた。
 ヴァリニャーノの仕事は、布教活動が公に再開されるだろうことを見越し、布教体制の再建にあった。こうした努力で1599年二月から、わずか九ヶ月間にキリスト教への改宗者が、四万人にもおよんだという記録もある。
 この背景には石田三成が、ヴァリニャーノに、イエズス会士を保護することを約束したことや、徳川家康がフランシスコ会士ヘスースを江戸に呼び、江戸滞在と一般市民への布教を約束したことが影響していると思われる。
 石田三成は、家康に対抗するため、切支丹大名の小西行長を味方に引き入れるため、キリシタン教界の保護を約束している。しかし三成と行長は、家康の仕掛けた関ヶ原合戦で破れた。

      
       小西行長銅造

 関ヶ原の後、小西行長は切支丹であるため、切腹でなく斬首を自ら選んだという。
 ともあれ、日本のキリシタン教界は、保護の約束と庇護者とを失ったのであった。
 かくして、天下の趨勢は徳川家に固まり、これからのキリシタン教界は家康の手のひらの上にあった。





家康と切支丹

 家康は「太閤の祖法を守る」という名目の元に、伴天連追放令を表面上は継承していたが、秀吉と同じく南蛮との通商貿易に強い関心を持っていた。
 このため、イエズス会に便宜を図り、長崎・大坂・京都への居住許可と、切支丹大名の信仰を保証していた。
 諸大名もこのような一見寛大な家康の姿勢から、キリシタン教界に好意的で、領内に宣教師を招き、布教を許可する事も多かった。また、この頃になるとイエズス会、フランシスコ会の他に、ドミニコ会、アウグスチノ会の宣教師も来日し各教団の勢力を拡大していった。

         

 こうしてキリシタン教界にとって、一見平穏な時期が十年ほど続く事となる。
 しかしそれも、徳川家康が江戸幕府の集権体制を確立するまでの、ほんの短い春に過ぎなかったのである。
 江戸幕府の体制が固まると、禁教令と鎖国令を発布し、事態は一変した。
 江戸幕府の基礎が固まると、家康は幕藩体制の強固な体制を維持するために、地方の有力大名の経済力を削ぐ施策を次つぎと実施してゆく。
 各藩の石高以上の経済力は、南蛮貿易を始め様々な国や地域との交易によるものである。この各藩の莫大な利益を削ぐため、「鎖国政策」を打ち出した。

         

 貿易の利益は、徳川幕府の独占とするため、長崎出島のみでオランダと中国との交易だけにとどめた。またさらに切支丹禁教令を強化し、全ての伴天連を国外追放した。
 伴天連達は、最新の鉄砲や大砲を大名に献上して布教の許可を得、さらに交易による利潤を武器に布教を拡大していた。 これら地方の有力大名が、がやがて幕府に対抗しうる経済力と武器を所有することを恐れたのである。
 こうして激しいキリシタン弾圧が始まり、領民は棄教するか命を奪われるかの厳しい選択を求められるようになった。
 大阪の陣の直後の元和二年(1616)、切支丹大名であった有馬晴信は改宗ののち、日向へ領地替えされ、島原の旧領の肥前日野四万三千石は、大和五条から松倉豊後守(ぶんごのかみ)重政(しげまさ)が入部し、日野江城に居を構えた。
 のち松倉重政は島原城を築城し、過酷な切支丹弾圧を実行するのである。

 



島原の乱

 島原の乱とは、江戸時代初期に起こった日本の歴史上最も大規模な一揆(いつき)による本格的な内戦であった。島原の乱は、寛永十四年(1637)十月二五日に勃発し、寛永十五年二月二八日に終結したとされている。 島原・天草一揆、島原・天草の乱とも呼ばれる。

    

 かつては「切支丹一揆」とも言われてきたが、それはこの内戦の一面しか見ていないと云われる。。
 現在の定説では、領主の苛斂誅求(かれんちゆうきゆう)による農民一揆とされている。
松倉勝家が領する島原藩のある肥前・島原半島と、寺沢堅高が領する唐津藩の飛地である肥後天草諸島の農民をはじめとする諸領民が、百姓の酷使や過重な年貢負担に窮し、さらに飢饉の被害も加わり、両藩に対して反乱を起こした乱である。
 切支丹信徒の宗教戦争と殉教物語として語られることも多いが、それらはあくまで別の一面でしかない。
 なお、この乱を農民一揆と言っても、農民とは百姓身分のことであり、農民だけではなく、かつての切支丹大名の有馬氏や小西行長の浪人百姓や漁業、手工業、商業などの全ての庶民をも含んでいる。
 さらに一揆の指導者には、かつての領主の有馬氏や小西両氏の浪人、更には元来の土着領主である、天草氏や志岐氏の浪人百姓などが加わっていたことからも、一般的な「鍬(くわ)と竹槍(たけやり)、筵旗(むしろばた)」というイメージはない。
 南蛮渡来の鉄砲を始め、甲冑を着け、鎗や刀剣で本格的に武装した浪人達がいて、本格的な戦乱の様相であった。

 



島原の乱の要因

 島原は、元は切支丹大名である有馬晴信の所領であり、領民のキリスト教への信仰も盛んな土地であった。
 豊臣秀吉の時代に、禁教政策がはじまり慶長一九年(1614)、有馬氏は転封となり、代わって大和(奈良)の五条から松倉重政が入部した。
 徳川幕府はその初期には、諸大名の経済的力を削ぐために、特に九州の切支丹大名のであった諸藩に、本来より多い石高を設定していた。島原藩は、元々は四万三千石であったが、これが六万石に改訂されている。
 また天草も、本来二万一千石だったが、四万二千石と石高が二倍に設定されている。このような実際より高い幕府の石高認定は、結果的には実力以上の年貢を納める必要が出てくる。
 また鎖国令によって、南蛮や唐との交易がすべて禁止されたため、結果的には、農民に重い負担を掛けることになった。

     
         島原城の普請

  また島原藩の松倉重政は、徳川家臣団の中での地位の向上を図るため、江戸城改築の公儀普請役を受け、さらには石高に不相応な壮大な島原城の普請を七年もかけて行った。このため、島原藩は領地の検地を行い、領地を十万石と見積もっての極端に過重な年貢の取立てを行った。
 さらに領内の庶民の不満を反らすためと、幕府に忠誠を尽くす意味合いから、他の地域に比較して格段に厳しい切支丹弾圧を始めた。
 島原地方は元々切支丹信者が多かったところで、切支丹の摘発や改宗を拒んだ者に、蓑を着せ火をつける「蓑踊り」や、水責め、雲仙岳の温泉地獄に投げ込むなどの残忍な拷問、処刑を行った事についてはすでにふれた。
 この事は、オランダ商館員やポルトガル船長の記録にも残っている。その弾圧の残酷さは、反カトリックであったオランダ人すら辟易させるものであった。
 松倉重政の嗣子で島原藩主となつた松倉勝家も、重政の圧政をそのまま継承し、さらに過酷な取立てを行った。 
 一方、天草も、島原同様に切支丹大名であった小西行長の領地であった。
 天草は、肥後の南半国の領主であった小西行長の飛び地であった。関ヶ原では、石田三成と共に西軍として奮戦したが戦いに敗れ、切支丹であったため切腹を拒否して斬首されている。
 関ヶ原の戦いの後、天草には慶長六年(1601)、唐津藩主の寺沢広高が入部し、唐津藩領の飛び地となっている。
 幕府の石高認定は、前述のとおり実勢の二倍の四万二千石とされた。
 慶長十年(1605)、唐津藩主寺沢広高により、天草に富岡城を築城し同時に城下町を造った。
  こうした経緯で、天草も当然財政的な理由で農民への過酷な年貢徴発が続けられることになった。
 また、島原と同様に、元切支丹大名の領地であったため、切支丹弾圧を積極的に実施していった。
 島原と同様に、天草でも苛斂誅求を極める圧政は、次代の寺沢(てらざわ)堅高(かたたか)の時代まで続けられ、庶民の不満を反らすために、切支丹弾圧を強行したのである。

   

 島原や天草で、まさに圧政に苦しむ農民の不満が爆発寸前になっていた折り、寛永十一年 (1634)から三年連続の天候不順による大凶作が続いた。が、しかし凶作でも年貢の量は変わらず、餓死者が相次ぎ、農民たちは進退窮まる状態に陥った。
 こうした背景で、当初は島原で一揆が勃発した。
『細川家記』『天草島鏡』などの記録には、すべて反乱の原因は年貢の取りすぎにあると指摘している。
 が、領主・勝家は自らの失政を認めず、反乱を起こした一揆が、切支丹を中心とした勢力であった事から、この乱はあくまでも切支丹の暴動と主張した。 

    

 幕府側も、島原の乱を切支丹弾圧の口実にも利用したため、建前は「島原の乱は切支丹の反乱」という位置づけにした。
 ただ、乱鎮圧後の寛永十五年(1638年)、領主の松倉勝家は、苛酷な政治による領民の反乱を引き起こした責を問われて、斬首刑に処されたから、如何に勝家が重罪に問われていたかがうかがえる。
天草の領主の唐津藩主の寺沢(てらざわ)堅高(かたたか)は、乱の後天草の四万二千石を没収され、以後はしばらく天領となっている。





山田右衛門作

 下の写真の旗は、ジャンヌダルク旗や十字軍旗とともに世界三大軍旗のひとつといわれ、国の重要文化財に指定されている。
 現在、本渡市立天草切支丹館に所蔵されている。島原の乱の時、天草四郎の軍旗として、原城の籠城戦の時、陣中に高々と翻っていたという。

     

 旗の上部には、
 「LOVVADO SEIAOSACTISSIMO SACRAMENTO 」と描かれている。
 これは古ポルトガル語で、「いとも尊き 聖体の秘蹟 ほめ尊まれ給え」という意味である。
 この旗には、中央部に葡萄酒を盛ったカリス(聖杯)、その上に十字架を付けた、オスチアという聖体のパンが大きな形で描かれている。その十字架は干型をしており、この上横一のなかに、「INRI」と記されている。Iesus Nazarenus Rex Indaeorumの頭文字で、「ユダヤ人の王ナザレのイエス」という意味がある。
 それらの両脇にアンジョという羽を付けた天使が二人、合掌礼拝している姿が描かれている。この陣中旗を描いたのが、山田右衛門作で、天草・島原の乱の際、四郎軍の幹部の一人であった。
 原城の籠城の時は、一つの櫓(やぐら)の大将として五百人を指揮していた。
 が、原城に籠城した全員が玉砕したにも関わらす、ただ一人生き残った人物なのでである。

 元々天草の口之津村の庄屋の出らしい。
 長崎でポルトガル人に画を習い、特にキリシタンの聖画の技法を習得し、南蛮絵師として島原の旧領主の有馬直純に仕えていた。
 切支丹禁令の後、口之津村で百姓のかたわら聖画を描いていたらしい。乱が始まると、口之津村では村人全員が原城にたてこもった。そのため右衛門作も、その意志はともかく、籠城に参加した。
 そのような経緯から、四郎軍の陣中旗を描くことを依頼されたらしい。
  彼は籠城軍の幹部として、幕府軍と対峙した三ヶ月の間、一つの櫓(やぐら)を任され、五百人を配下に付けられ指揮をした。
 また城中と幕府軍とで交わされた、矢文の起案者の一人でもあった。
 その役目を利用して、密かに幕府軍と内通し、命を永らえたのである。
 明らかな裏切り行為ながら、彼の存在がなければ、原城での籠城戦の実情は後生知ることが出来なかった。

   
     原城跡

 結果的には、歴史の生き証人として、幕府の取調べ口上書は、原城での天草四郎軍の内部事情を知りうる唯一の資料となっている。この取調べ口述書によって、天草四郎軍の実態や、実質的な乱の指導者の名などが歴史上残されているのである。
 そして山田右衛門作が生き残った経緯も述べている。
「私は、以前の上司である有馬左衛門助殿と、矢文で連絡を取り合い、有馬殿に忠節を誓う事を知らせていた。落城の時、小笠原右近殿に見つかり、切られそうになったが、有馬殿からの矢文を見せ、助命された」と口述している。
 乱の後、松平信綱は、山田右衛門作の画の才能を惜しみ、江戸に伴って行き、御用絵師として絵筆をふるわせた。また傍(かた)わら、キリシタン目明しの役割を演じさせられた。 が、晩年は再びキリシタン信仰に戻ったのではないか、という風説が伝わっている。このため、一説には天草四郎から
「生き延びて、我らのことを後生に伝えよ」
と密命を帯び、敢えて裏切り者としての汚名を着つつ、一揆勢の記録を歴史上に遺すため、「裏切り反者を装った」とも言われている。





天草四郎

 島原の乱といえば、反射的に天草四郎時貞(ときさだ)の名が浮かぶほど、その歴史に名をとどめている。 つまり、島原の乱の指導者もしくは総大将として記憶されているのである。
 寛永一四年十月二十四日、彗星のように一揆軍の総大将として現れ、三ヶ月の後の乱の集結で、まさに流れ星のように消え去った人物である。
 わずか十六歳という紅顔の美少年が、突然、一揆軍の象徴的総大将として推戴され、旧原城籠城戦を戦い、落城とともにこの世を去った伝説的な歴史上の人物である。
 僅かに三ヶ月だけ、歴史の舞台に登城しただけに、後世には伝説が伝説を産み、さまざまな人物像が創られ、謎に近い人物である。

       

  しかし、天草四郎の存在こそが、島原の乱の本質を知る手かがりなのである。
以下は、その人物像について、前述の山田右衛門作の幕府の取調べ口上書を元に述べてゆきたい。
 本名は、益田(ました)四郎で、諱(いみな)(死後の名)は時貞である。切支丹で、洗礼名はジェロニモもしくはフランシスコとされている。
 肥後の南半国の切支丹大名で、関ヶ原の戦いに敗れて斬首された、小西行長の遺臣の益田甚兵衛の子として、母の実家の天草諸島の大矢野島で生まれた。
 益田家は、小西氏滅亡後、浪人百姓として、一家で肥後の宇土に居住したという。
 幼少期から学問に親しみ、優れた教養があったようである。大変聡明で、慈悲深く、容姿端麗で、女が見たら一目惚れするとまで言われたほどだったらしい。
 父の益田(ました)甚兵衛の周囲の人々は、皆キリシタンである。
 天草の庄屋たちは、宣教師がいなくなった天草で、純真で聡明な益田(ました)四郎を、密かに宗教指導者に育てるべく、長崎に留学させた。
 こうして四郎は切支丹の教義を習得し、十六歳の頃には、切支丹祭礼をも執り行えるようになっていたという。この聡明な若者が、密かに宗教指導者に育てられた背景がある。

       

 最後まで天草に留まっていた、上浦津の南蛮寺のママコス神父は、マカオに強制送還される際、次のような予言めいた「末鑑(すえかがみ)」という文書を残していた。
 「当年より五・五の暦数に及んで、天下に若人一人出生すべし。その稚子(わかこ)、習わずして諸学を極め、天の印(しるし)、顕(あらわ)るべき時なり。野山に白旗立て諸人の頭にクルスを立て、東西に雲焼る事有るべし。野も山も草も木も焼失すべきよし」
 ママコス神父は、25年の後、聡明な天童が現れ、生まれながらにして万物の知に達し、不思議な印を現し、キリスト教が異教を呑み込み、万民を救うだろう、と予言書を残していたのである。
 そして、時節到来の時、取出して世に広めよ、記している。
 
 過酷な年貢取り立てと、平行して過酷な切支丹弾圧が続けられ、さらに連年の天候異変で不作が続く領民にとって、益田(ました)四郎こそ、予言書に書かれた天童を予感させる希望の存在と仕立てられて行く。
 窮乏した生活の苦難や、身内の不幸など、様々なことから心を痛めた村人を、魂にひびく言葉で癒し、時には長崎の唐人から習った手品によって神秘的な力を演出し、魂の救済を求める人々のカリスマに成長していったと思われる。
 このように、小西氏の旧臣や切支丹の間で、救世主として擁立され、神格化された人物である。さまざまな奇跡(盲目の少女に触れると視力を取り戻した、海面を歩いた)等の伝説や、四郎が豊臣秀頼の落胤(らくいん)で豊臣秀綱であるとする風説も広められた。
 こうした背景で、時節到来の時として、一揆の首謀者と言われる天草・島原の代表者達が、湯島(談合島)で一揆のための談合を行った。
 この談合で、益田四郎をカリスマの象徴的総大将とし、四郎を中心にして一揆が組織された。この時に、四郎は「天草四郎」と命名されている。





島原城籠城戦

 寛永十四年十月二十五日(1637)、有馬村の切支丹が中心となり、代官所に年貢の減免の強(こわ)談判に赴(おもむ)き、代表者が全員の前で手ひどい打擲(ちようちやく)(殴ること)を受け、激高した村民が代官の林兵左衛門を殺害した。ここに島原の乱が勃発する。

 島原藩は直ちに討伐軍を繰り出し、深江村で一揆軍の迎撃を試みたが、鉄砲を持つ一揆軍の勢いが盛んなため、敗退し島原城に篭城して防備を固めた。
 一揆軍は島原城下に押し寄せ、城下町を焼き払い、藩の蔵から食料や武器を略奪して一旦引き上げた。
 島原藩側では、一揆に不参加の領民に武器を与え、一揆鎮圧を試みたが、その武器を手にして一揆軍に加わる者も多かったという。
 島原城下の一揆の勢いは更に増し、島原半島西北部にも拡大していった。
 これに呼応して、数日後には肥後天草でも一揆が蜂起し、天草四郎を総大将とした一揆軍は、本渡城など天草支配の拠点を攻撃、十一月十四日に、富岡城代の三宅重利を討ち取った。
 勢いを増した一揆軍は、唐津藩兵が篭る富岡城を攻撃し、北丸(きたのまる)を陥落させ落城寸前まで追い詰めたが、本丸の防御が固く落城させることは出来なかった。
 富岡城の攻城中に、九州諸藩の討伐軍が近づいている事を知った一揆軍は、後詰の攻撃を受けることの不利を悟り天草へ撤退した。

     
       原城跡

 有明海を渡って島原半島に移動し、島原の旧主有馬家の居城であった廃城の原城址に篭城することになった。やがて一揆の報を聞いて、切支丹の盟主ポルトガルからの援軍を期待し、有馬氏の旧城の原城を修復して籠城することにした。
 ここに島原と天草の一揆軍は合流し、その正確な数は不明ながら、三万七千人程であったといわれる。
 総大将の天草四郎も一揆軍の精神的なシンボルとして入城し、戦闘員二万三千人、それに女子供等一万四千人の、計三万七千人が籠城したといわれている。
 一揆軍は原城趾を修復し、藩の蔵から奪った武器弾薬や、食料を運び込んで討伐軍の攻撃に備えた。籠城一揆軍の中で、唯一の生き残りの山田右衛門作の口述によると、城中の鉄砲は五百三十丁もあったという。     

 乱の発生を知った幕府は、上使として御書院番頭(ばんがしら)であった板倉重昌を派遣した。
 重昌に率いられた九州諸藩の討伐軍は、原城を包囲して再三攻め寄せ、十二月に二回の総攻撃を行ったが悉(ことごと)く敗走させられた。
 一揆軍は団結し戦意が高かったが、討伐軍は諸藩の寄せ集めで統率がとれず、戦意も低かったため、攻撃が成功しなかった。
 事態を重く見た幕府では、二人目の討伐上使として、老中の松平信綱らの派遣を決定した。このため焦った板倉重昌は、再度総攻撃を行ったが、強引に突撃して討ち死にし、連携不足もあって攻撃はまたも失敗した。この時の討伐軍の死傷者は四千人以上であったという。
 新たに着陣した松平信綱(のぶつな)率いる討伐軍は、増援を得て十二万万以上の軍勢に膨れ上がり、陸と海から原城を包囲した。
 側衆の中根正盛は、甲賀忍者の一隊を原城内に潜入させ、兵糧が残り少ないことを確認させ、信綱は兵糧攻めに作戦を切り替えたという。

 




おお、大砲

  一揆軍が、寄せ手に優勢だったのは、多数の鉄砲が整備されていた事にある。
 幕府方の討伐軍は、鉄砲に辟易(へきえき)し、大砲(大筒)で対抗した。が、当時の大砲は実戦の役に立たなかつた。
 松平信綱(のぶつな)は、城との距離が僅か二百mほどの地に、石火矢(いしびや)台を築き大砲を据え、井楼(せいろう)という簡易な櫓を築き、こゝから敵状を偵察して大砲を打たせたが、城には届かなかったのである。
 当時の大砲(石火矢(いしびや)ともいう)は、性能が悪く敵に実害を与える事より、その大仰(おおぎよう)な形や大音響により、敵を畏(おそ)れさせ、戦意を挫き、降服させる戦法から製作されていた。
 だから、弾丸は徒(いたずら)に大きく、一丁(約百m)程度しか飛ばなかった。

    

 松平信綱(のぶつな)は、自前の大砲が役に立たない事を知り、正月十日、オランダ船に依頼して、海上から砲撃させた。
 オランダ船艦砲の弾丸は、流石(さすが)に原城中に着弾した。
 しかし、外国のオランダの力を借りねば一揆軍と戦えないのかと、周囲から非難の声が上がり、一日で中止している。
 オランダ船は平戸へ帰つたが、陸揚げした艦砲五門を借りうけ石火矢台にすえて、射撃した。
 しかし、籠城方に与えた損害は、大きなものではなかった。
 むしろ、味方たるべき南蛮人が幕府方に加担したことによって、籠城側に精神的なダメージが大きかつた。この状況では、ポルトガルの来援は望みがないのではと、疑念が芽生えたであろう。
この頃から、幕府方は有勢になったといえる。
 
 とはいえ、一揆軍が寄せ手に優勢だったのは、鉄砲が整備されていた事と、又、棒(ぼう)火矢(ひや)という新兵器を準備していたからである。
 棒火矢とは、樫の木を割り、六尺程の長さで先を尖らせ、竹の曲輪(たが)をかけた棒を三十本ほど筒に入れ、火薬を詰めて大砲のように打ち出すものである。

      

 敵陣に着地すると、竹の曲輪(たが)が外れ、火の付いた棒が、花火のように八方に飛び散り、多数の人を殺傷することができるというものであった。
種ヶ島西上流(さいじようりゆう)(火縄銃)の祖であった、駒木根(こまぎね)八兵衛が考案した棒火矢が、十挺ばかり発射された。
 これまで全く存在しなかった新兵器である。
 この棒火矢を撃ちかけられ、多数の雷が一度に落ちたように山谷に鳴動し、棒は燃えながら四方に飛び散り、一瞬のうちに何人も打ち倒されたという。
 この初めて見る棒火矢に、寄せ手は驚愕し、さらに棒火矢が、楯(たて)や竹束に燃え移っり大混乱を来した。そこへ再び鉄砲の一斉射撃が行われるから、寄せ手は一斉に崩れ、退却した。
 ところが、大砲よりも、旧式な一本の弓矢が、籠城側に大きな動揺を与えた。
 一月十六日、天草四郎が本丸で碁を打つているとき、敵の流れ矢が四郎の袖を抜いた。生きた神なる四郎にすら矢が当るというので、陣中に動揺限が走り一部脱走する者数名が現れたのである。





原城落城 

 討伐軍は密かに城内に使者や矢文を送り、内応や投降を呼びかけたが成功しなかった。
 更に、生け捕りにした天草四郎の母と姉妹に、投降勧告の手紙を書かせ城中に送ったが、一揆軍はこれを拒否している。
 籠城戦が長引くにつれ、原城内の食糧や弾薬が尽きはじめ、二月二十一日、一揆軍は兵糧や弾薬を奪うため、四千人の軍勢で黒田・鍋島・有馬などの陣中に夜襲をかけた。
 その時に討ち死にした籠城軍の死骸の腹を割き、城内の糧食の欠乏を確認した松平信綱は、ついに強攻策を決断する。
 二十七日に開始された総攻撃により、日没頃には原城は内城を残すのみとなり、翌二十八日の夜明けとともに再開された総攻撃によりついに内城も陥落した。

    
 
 二日間の戦闘により、幕府軍は戦死者1051人、負傷者6743人の損害を受け、城内の一揆軍は内通していた山田右衛門佐ひとりを除いて、老若男女を問わず死亡した。  三万四千は戦死し、生き残つた凡そ三千名の女と子供が、原城落城の翌日から三日間にわたつて斬首された。
 ところが、「みな 喜んで死んだ」と日記に記されているのである。
 喜んで死ぬとは、異様なことながら、討伐の上使であった松平信綱の子の輝綱(てるつな)(当時十八歳)の日記に、そう書いてあるのである。
 「剰至童女之輩 喜死蒙斬罪 是非平生人心 之所致所 以浸々彼宗門也」と。
 つまり、尋常ならざる過酷な状況に置かれた故に、彼らの信じる宗門によって、喜んで斬罪を蒙(こうむ)ったと記しているのである。これらの事から、幕府側は、この島原の乱を切支丹の乱としているのである。

 総大将の天草四郎の行方は当初不明だったため、逃亡したとの噂も流れたが、母と姉による首実検により、細川家中の陣佐左衛門のとった首がそれと確認された。
 一方、島原藩主の松倉勝家は、過酷な圧政の責任を問われ領地没収のうえ、配流された美作(みまさか)(岡山)で打ち首となっている。
 天草領を没収された寺沢堅高も、後に気がふれて自殺したとされている。
 乱集結後、幕府は切支丹禁制を一段と強化するとともに、宣教師を渡航させることを理由に、ポルトガル船の全ての来航を禁止して鎖国体制を完成させた。






島原藩その後

 長々と島原の乱の経緯について記したが、我が一行は島原城の駐車場から車を出し、すぐ近くの「武家屋敷」に向かった。
 この一角は、元々松倉重政とその子の勝家の二代にわたって整備された城下町の一部で、家臣の下士の武家屋敷が建てられた。
 島原の乱で荒廃したが、松倉勝家の斬首の後、徳川氏譜代の家臣の高力(こうりき)忠房が、遠江国浜松藩より四万石で城主となった。
 忠房は乱で荒廃した島原地方を復興することに尽力した。武家屋敷の縄張りはそのまま引き継がれて、復興された。また、巧みな農業政策や植民奨励政策などを行い、疲弊した農村の復興を成し遂げたのである。
 ちなみに現在、島原に多くの方言があるのは、高力忠房が浜松や九州各国の武士の次男、三男や、農民などの植民を奨励して、様々な国の人々が島原に土着したためと言われている。島原の乱では、村人全員が一揆に参加し、農民が全滅した村が幾つもあったからである。
 しかし忠房の後を継いだ隆長は、藩体制確立を急ぎすぎて失政が多く、幕府より咎(とが)を受け寛文八年(1668年)に改易となった。

 その後は、丹波国福知山藩より松平忠房が入部し、松平氏は五代にわたって島原を支配した。
 寛延二年(1747年)に、宇都宮藩の戸田忠盈が島原に入部し、松平氏は宇都宮へ移封となった。島原で戸田氏は二代続いたが、安永三年(1774年)に宇都宮へ移封され、再度松平氏が島原へ再び戻ってくる。
 以後、松平氏が八代にわたって島原藩主として、明治四年(1871年)の廃藩置県を迎え、島原県となり、その後、長崎県に編入された。
 島原の乱の教訓からか、松倉氏の後に入った高力・松平・戸田の三氏はいずれも、徳川氏譜代の家臣である。





武家屋敷町

 武家屋敷町には、現在山本家、篠塚家、島田家の武家屋敷が観光客に公開されている。
 山本家邸宅近くに駐車場や無料休息所なども設けられていて、武家屋敷特有の閑静な佇まいを堪能できるように整備されていた。
 十一時十分頃に駐車場に車を停めて、しばらく武家屋敷町を散策した。
 公開されていた山本家や篠塚家などの武家屋を見学して廻った。
 武家屋敷は、森岳(もりたけ)という小山に島原城を築城するとき、城の外郭の西に接して、扶持取七十石以下の武士たちの邸宅地が建設された。
 いざ戦(いくさ)というとき、鉄砲を主力とする徒士(かち)(歩兵)の住居地域であったため、鉄砲町とも呼ばれている。

   

 街路の中央の水路は、豊かな湧水を引いたもので、生活用水として大切に守られてきた。 島原城が竣工した寛永元年(1624)頃、藩主松倉重政の知行は四万石で、鉄砲町も下の丁・中の丁・古丁の三筋だけであった。
 寛文年(1669)の、松平忠房が知行七万石で入部してから、新たに上新丁・下新丁・新建の三筋が作られ、さらに幕末に江戸詰めの藩士が帰国することになって、最後に江戸丁が作られている。
  徒士(かち)たちの平常の勤務は、各役所の物書(ものかき)(書記)や、各村々の代官巡回や、各村々の巡察と城門の警備などであった。

   

  武家屋敷は、三畝(せ)(九十坪)ずつに区切られ、住いは二十五坪ほどの藁葺(わらぶき)き家屋で、残りの屋敷内には藩命で梅・柿・蜜柑類・枇杷(びわ)などの果樹を植え、四季の果物は自給できるようになっていた。また屋根の葺き替えに使う、真竹の藪を持った家もあったという。
 南北に通じる各丁の道路の中央には水路を設け、清水を流して生活用水としていたが、この当時、水源は主に二㎞ほど北にある、杉山権現熊野神社の豊かな湧き水を引いたものであった。
 藩主松平氏は、三河国の深溝(愛知県幸田町)の出身で、家臣団も多くが三河者であったため、独特な三河弁の「鉄砲町言葉」が使われていたが、現在ではほとんど聞かれなくなっている。
  上新丁には、後に元老院議官となった丸山作楽が、文久年代(1861年頃)に、青少年に国学を講じ、国事を論じた私塾「神習処」の跡が残っている。 余談ながら、この武家屋敷からは、慶応三年の戊辰(ぼしん)戦争のとき、二六〇人ほどの徒士たちが、官軍に属して奥州へ出陣し、四人が戦死している。






鯉の泳ぐまち

 島原は古くから、水の都といわれているが、中でも新町一帯は特に湧き水が豊富で、地面を50㎝も掘ると湧き水が出てくるほどである。
 昭和五十三年、地域の町内会が中心となり、豊かな湧水を観光資源として活かそうという趣旨のもと、町内の清流に錦鯉を放流した。
 こうして誕生した「鯉の泳ぐまち」は、地域住民によって美しくたもたれ、紅白、三色、黄金等、大小の錦鯉が清冽な流れの中で泳ぐさまに多くの観光客が感嘆の声を上げている。
  
    

 現在の島原市内の湧水の多くは、寛政年四(1792)の「雲仙岳噴火」に伴う群発地震によって地殻変動が起き、その影響で地下の水脈が地上近くに上昇したものといわれている。
 島原市街地の地下の地層が、火山灰層や砂れき層が互層し、良好な帯水層となって水脈が流れているのである。
 市内には約六十箇所の湧水箇所があり、全体の湧水量は一日に、22万トンといわれている。
 その水脈は、島原市街の後ろに聳える眉山(まゆやま)が、透水性に冨、源水涵養帯として地下水に強い圧力が加えられ、地下の帯水層に流れ込むため、島原市街で自噴しやすい状態となり、各所で湧出しているといわれている。
このため、水を大切にし感謝してきた先人たちが、市内の各所に水神を祀ってきている。その伝統は今に受け継がれ、湧水池や水路、洗い場などの環境保全は、現在も地域住民の手によって行われている。
 このような住民の手による管理保全や湧水の利用、また、市が進めてきた水辺環境の整備などが評価され、昭和六十年に環境庁から、島原湧水群が全国「名水百選」の一つに、また、平成七年には国土交通省から「水の郷」に選定している。
 数多くある湧水の中でも「浜の川湧水」には、四つの区画に区切られた洗い場があり、食料品を洗うところ、食器を洗うところなど各用途によって上から順々に水を利用していくような仕組みになっいて、現在もその仕来りが守られている。
  
 




猪原金物店

 さて、武家屋敷で幾つかの江戸時代の武家屋敷を覗き、往事を偲び、清流の流れる落ち着いた「鯉の泳ぐまち」の散策を愉しみ、昼食の時間となった。
 幹事夫妻が事前に調べていた、洒落た昼食場所の茶房・速魚川(はやめがわ)へ移動するべく車に乗ったが、案内者の幹事夫妻が、場所を探すのに迷った。
 住所から目指す場所へ赴(おもむ)いたはずが、レストランのような建物が見あたらず、行きつ戻りつ途方に暮れた様子であった。
 一時は、別のレストランに変更するかとの話しも出たが、幹事夫人が、その店にこだわった。
 そこで車を停めて、改めて幹事の持参していた「るるぶ」を見直したが、その付近に居るはずなのに、見つからないのである。
 Y氏が、H夫人にその電話番号を訊き、Y氏のナビに入力すると、なんと猪原金物店と表示されるのである。
 ともかく、Y氏の車のナビに従い、その場所に行ってみることにした。
 果たせるかな到着した猪原金物店の奥に、めざす茶房の「速魚川(はやめがわ)」があったのである。
 確かに、この金物店の前を一度は通りすぎていた。

   

 古民家のような建物の「猪原金物店」の横の、路地のような入り口を入ると洒落た「速魚川(はやめがわ)ギャラリー」の看板ががあったのである。
江戸末期の町屋だったという屋敷の中に入ると、右側に猪原金物店の店内入り口があり、その奥に泉水のある中庭があり、中庭に面したテラスにテーブル席があり、その奥に板張りの十畳ほどの座敷があった。われわれはその黒光りする板張りの座敷に上がり込んだ。
 時間は十一時五十分頃で、丁度お昼の時間に間に合った。
 なんとも懐かしい感じのする、落ち着いた古民家の奥座敷という感じの風情であった。

    

 部屋には囲炉裏鈎が下がり、部屋の隅には江戸時代や明治時代から伝わるという古い家具などがさりげなく置かれていた。
 縁側に囲まれるように泉水があり、睡蓮(すいれん)が植えられ錦鯉が泳いでいた。
 また、この泉水には、店の横に流れている毎分150リットルという豊富な湧き水を利用した小川からの流れを引き込んでいて、
とても風情のある、贅沢な場昼食処であった。
この店の食事メニューは少なく、ご飯カリー、島原麵カリーともずく蕎麦しかなかった。島原は素麺も有名で、「素麺ならできます」とのことで、
 我が一行は、素麺を食したように記憶している。

    
    
 どちらかというと、食事処というより茶房という感じであった。
 湧水が流れているから、湧水仕立て珈琲、湧水仕立て抹茶がメインで、デザートに白玉の入った寒ざらしや焼き餅入りぜんざいなどがあった。
 この古い町家の板張りの座敷で、引き込まれた小川のせせらぎの音で大変癒された気分で食事をし、ゆったりした時間を過ごし、湧水仕立ての珈琲を味わった。
 繁子夫人が迷いつつも、こだわり続けただけの大変価値のある食事処であった。
広瀬夫妻の演出した、我々年代にとって最高のもてなしの空間の中での食事休憩が終り、表側の猪原金物店の店内を覗いてみた。
調べてみると、合資会社猪原金物店として、江戸時代から続く町家に明治十年に創業した老舗で、なんと九州で二番目に歴史の古い金物屋であった。

     

 現在の店舗も、当時の町家の建物を改修し使い続けているとの事で、大変貴重な文化遺産のような店舗であった。
 二階小屋裏の倉庫には、明治・大正・昭和期の珍しい金物の商品在庫が残っており、
最近は従来の生活・建築金物の販売に加え、それら旧来の懐かしい生活金物を展示・販売していた。
 一方で、現代の名品と呼ばれる工具や道具類も取りそろえて販売していて、猪原金物店の現当主の粋なこだわりが見えた。
 茶房の「速魚川(はやめがわ)」も、やはり現当主の粋なこだわりで運営されていて、身近に自然を作り、自然とともに生きてきた人間の心を取り戻し、心安らかな雰囲気を愉しめる
場所であった。長い伝統と、現代的なセンスが融合され活かされていて、感動的な店であった。
 ついでながら、この速魚川(はやめがわ)ギャラリーに元宝塚歌劇団のトップ・スター「旺(おう))なつき」通称ロムさんや、女優の栗原小巻が訪れた時の写真があった。





島原駅

島原駅は、国道251線に面している。見事な和風イメージの駅舎で、島原城の大手門をイメージして建てられたという風格のある落ち着いた駅で、この駅前を茶房の「速魚川(はやめがわ)」を探しているとき二度は通っている。
 駅のエントランスの中央に島原の子守歌の像が建っている。

     

 我々は、素晴らしい雰囲気の中で昼食を愉しんだ後ながら、話しを少し脇道に反れる。
 島原の子守歌は、芹洋子、岩崎宏美、森繁久弥、ペギー葉山など錚々たる人が歌っている。
 いずれもインターネットでその哀しい歌声を聞くことができる。
 何度聞いても、つい涙ぐむほどに切ないメロデーで、哀愁が漂っている子守歌である。
 ついでながら、やはり広瀬幹事の時の「肥後紀行」の時に、五木の子守歌にも触れたが、やはりペギー葉山の五木の子守歌を聞くことができる。
 いずれにしても、これらの子守歌が切ないのは、幼くして故郷を離れた子守り娘が、自らの境遇を悲しんで歌ったものだからであろう。

    

 本来の子守唄は、子供を寝かしつけるための歌ながら、この「守(もり)り子唄(うた)」と呼ばれる歌では、その代表が「五木の子守歌」と「島原の子守歌」である。
 特に島原の子守歌は、本来は「からゆきさん」の歌として、島原や天草地方に古くから歌われていたものを、宮崎康平が手を入れ、「からゆきさん」を前面に出すのを控え、「島原の子守歌」として今の形にしたといわれている。宮崎康平は、島原出身の古代史研究家、作家であり、また島原鉄道の役員も勤めた。本名は宮崎一章で、著書の『まぼろしの邪馬台国』が有名である。
 後で詳しくふれるが、江戸時代の末から明治・大正、昭和の初め頃まで続いた、島原や天草地方の貧しい農家の娘達が、売られて「唐行きさん」になった事実がある。
 その切ない歌詞や、独特の方言の響きが、人々の心を打ち、有名な歌手も歌ったことから全国的に有名になった。あまりにも有名歌で、聞いたことがない人はまずいないであろう。しかし、その独特の歌詞は難解で殆ど覚えていない。
 以下にその歌を記しておきたい。
 歌詞は、微妙にちがう幾通りもの種類があるようだが、ここでは口之津町の歴史民族資料館にある歌詞に寄っている。 口之津港から、唐行きさんたちが船に乗り込んだといわれている。





島原の子守歌

 (一)
    おどみゃ島原の 
    おどみゃ島原の なしの木育ちよ
    何のなしやら 何のなしやら 色気なしばよ 
    しょうかいな
    はよ寝ろ 泣かんで  オロロンバイ
    鬼の池ん久助どんの  連れんこらるばい

  注釈(私は、何もない貧乏育ち まだ色気もない童女の守子。
  この児 早く寝てよ おろおろするよ 
  鬼池(天草の港)の久助どん(女衒(ぜげん)・人買い)が童女でも買いに来るから
   
     


 (二) 
    帰りにゃ寄っちょくれんか 
    帰りにゃ寄っちょくれんか
    あばら家じゃけんど  芋(といも)飯ゃ 粟(あわ)ン飯  
    芋飯ゃ 粟(あわ)ン飯  黄金飯(こがねめし)ばよ 
    しょうかいな
    嫁御(よめご)ン 紅(べん)ンナ 誰(た)がくれた 
   唇(つば)つけたら 暖(あ)ったかろ   
 
  注釈 (島原の帰りには寄って、また唐行きさんの話を聞かせてね。
    あばら家住まいで、芋や栗がご飯代わり。その色は、黄金飯(こがねめし)だよと
    自嘲している。
    嫁さんの口紅、唐帰りの人がくれたのか)

      

 (三)
    姉しゃんな どけ(何処)いたろうかい  
    姉しゃんな どけいたろうかい
    青煙突のバッタンフール
    唐(から)はどこ(何処)ん ねけ(在所)   
    唐はどこ(何処)ん ねけ(在所)
    海の涯(はて)ばよ しょうかいな
    泣く者 ながね かむ  オロロンバイ
    あめ型買うて引っ張らしょ

  注 (売られた姉さん、何処へ行ったのか。
    青煙突のバッタンフール(船の名)に乗せられて
    その外国(当時外国はすべて唐と称した)は、どこ(在所)にある
    それは海の涯(はて)だよ
    海の涯(はて)で 泣く人に 蟹が噛む   
    水飴を食べて 気を紛らわそう)

    

 (四)    
     あすこん(彼処(あそこ))ん人(し)たちゃ 二つも  
     あすこん(彼処(あそこ))ん人(し)たちゃ 二つも
     金の指輪(ゆびかね) はめとらす
     金はどこん金 金はどこん金 
     唐(から)金げなばい しょうかいな
      オロロン オロロン オロロンバイ
      オロロン オロロン オロロンバイ

 注 (からゆき奉公から戻ってきた「あの人たち」は、
    「2つも金の指輪」を「はめていなさる」、
    「金」は「どこの金」、「遠い国の金」じゃそうな)

       


 (五)
     山ン家(ね)は かん火事げなばい
     山ン家(ね)は かん火事げなばい    
     サンパン船は よろん人
     姉しゃんな にぎん飯で  姉しゃんな にぎん飯で
     船ン底ばよ しょうかいな
     オロロン オロロン オロロンバイ
     オロロン オロロン オロロンバイ

   注 (山の家に、火をつけられて、火事だよと騒いで 警察の目をそらし、
     与論人のサンパン船(小型の手こぎ船)で、
     沖の大型船に乗せられた。与論島は、奄美大島と沖縄の中間にある島。
     姉さんは、船の底で、にぎり飯を食べている)   

      


  (六)
     沖の不知火(しらぬい)  沖の不知火 
     燃えては消える
     バテレン祭りの バテレン祭りの
     笛や太鼓も鳴りやんだ
     オロロン オロロン オロロンバイ
     オロロン オロロン オロロンバイ

  注 (夜の海に、多くの光がゆらめいて見える不知火。
    八代海・有明海で見られる、蛍烏賊の光であろう。
     「バテレン祭」は、島原や長崎一帯で催されるポルトガルやオランダ、
    中国の影響を受けた独特のお祭のこと)






唐行きさん

 唐行きさんとは、十九世紀後半に、東アジア・東南アジアに渡って、娼婦として売られて働いた日本人女性のことをいう。特に貧しかった島原半島や天草諸島出身の女性が多く、その海外渡航には女衒(ぜげん)が介在していた。
 この時代の東北を始め各地の貧しい農村地域では、女衒(ぜげん)が活躍し貧農の娘達を、全国の遊郭へ奉公に出させた。しかし、「唐行」として海外に娼婦として売られたのは数が少ない。
 「唐(から)」とは、広く外国を指す言葉として使われ、当時は外国に行った人達と言う意味で「さん」付けで呼んだ。
 海外の娼館へと橋渡したのは嬪夫(ピンプ)などと呼ばれた女衒たちである。
 こうした女衒たちは、貧しい農村など廻って年頃の娘を探し、海外で奉公させる名目で身柄を引き受け、その親に明治時代初期の金額で五百円(今の五百万相当)の現金を渡したという。
 
    


 明治末期にその最盛期をむかえたが、日本の国勢が盛んになるにつれて、彼女らの存在は「国家の恥」であるとして非難されるようになった。
 1920年の廃娼令とともに、海外における日本人娼館も廃止された。
 多くが日本に帰ったが、更生策もなく残留した人も多い。 
 唐行きさんの主な渡航先は、中国、香港、フィリピン、ボルネオ、タイ、インドネシアなど、アジア各地に跨っている。
 特に当時、アジア各国を殖民支配していた、欧米の軍隊からの要望があった所へ派遣されたらしい。
 また、さらに遠くシベリア、満州、ハワイ、北米(カルフォルニアなど)、アフリカ(ザンジバルなど)に渡った、日本人女性の例もある。

   

 唐行きさんとして有名な北川サキの、大正中期から昭和前期のボルネオの例では、娼婦の取り分は五割、その内で借金返済分が二割五分で、残りから衣装などの雑費を出すのに、最低月二十人の客を取る必要があったという。
 「返す気になって、せっせと働けば、そっでも毎月百円ぐらいずつは返せたよ」
という。昭和の初め頃で泊まり客は十円、ショートで二円が相場だったという。
 特に港に船が入ったときは、どこの娼館も満員で、一番ひどいときは、一晩に三十人の客を取ったという。だから月に一度は、死にたくなると感想を語っている。 
 唐行きさんとして、海外で数年の辛酸を舐(な)め、無事借金を返済したあと、自由の身となり無事に日本に里帰りした幸運な人もいる。
 が、多くは現地で数奇な人生を送った人が多い。極貧という環境の中で、女性として生を受けた不運としか、言いようのない人生であったろう。 

 また逆に、二十世紀後半には日本に来航し、ダンサー、歌手、ホステス、ストリッパーなどとして働いた外国人女性を、「じゃぱゆきさん」といい、その違法性のある就業実態や、劣悪な生活環境が話題となった事もある。 
 
 完



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