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  琉球紀行 2へ   
        琉球紀行1

 
   前書き
  
   沖縄へは仕事で何度か訪れたことはあるが、じっくりと観光で訪れるのは初めてである。
  
 その地理的位置から、やはり独特の南国の気候風土と、独特のチャンプルー文化があり、
   独特の沖縄料理文化があり、一種の異国情緒が楽しめる。
   
東北や北海道などへ行くのとは違った南国的趣があり、すこしワクワクする思いを抱いている。

   一方で、太平洋戦争では日本では唯一の地上戦を経験し、
   多くの善良な市民が、軍部に利用された挙げ句、悲惨な犠牲を強いられた土地でもある。
   そして、いまだに解決出来ない基地問題を抱えている。

   海洋レジヤー観光地として若い人々に人気の観光地であり、
   南国としての風土とその特有の文化を愉しみつつも、
   あらためてかつての「琉球王国」の歴史をたどり、琉球王国時代の文化をたどり、
   そして太平洋戦争の戦跡も尋ねる旅とした。
   これが沖縄の人々への礼儀であろう。
   こうした思入れから、紀行シリーズの中では最も文字数の多い紀行となった。
   
    
      名護市上空


 琉球紀行第一章  目 次
      
 沖縄の気候  那覇空港  那覇基地  レンタカー
 あしびゅうな  ソーキそば  首里城   守礼門
 歓会門  漏刻門  広福門  奉神門
 御庭(ウナー)  正殿   中山世上  御差床 
 沖縄の姓  園比屋武御嶽石門   五つの首里城  旧海軍司令部壕
 資料写真  海軍につい  壷屋焼物博物館  シーザー
 屋根シーザー  シーザーの伝播  国際通り   牧志公設市場
 とぅばらーま  島唄ライブ  民謡とぅらば-ま    三母音の琉球語
 泡盛     沖縄料理  石敢當
 
 
  琉球紀行 2へ   

 

 

 沖縄の気候

 沖縄に行く前に、沖縄について事前に少し整理しておきたい。
 沖縄は間違いなく日本国の領土で、日本列島の南西部位置し、最西端にある都道府県である。

 しかしその地理的位置から、近畿圈とは全く異なる南国の風土である。
 どこか異国情緒を感じさせる多くの亜熱帯の島々から構成されている。
 多良間島・石垣島・西表島・与那国島・波照間島・沖大東島などでは、最も寒い月でも、
 平均気温が18度C以上の亜熱帯である。
     
 
   
          
            沖縄本島

 しかし、この亜熱帯地方にも、珍しい降雪の記録かある。
 1977年(昭和52年)2月に、久米島の測候所で初めて雪が観測されている。
 気象庁が公式に発表した降雪記録であり、日本における降雪の南限記録となっている。
 過去にも、琉球の正史とされる『球陽』に、1774年、1861年、1843年、1845年、1857年に、
 琉球地方で降雪があったことを記録されている。
 しかし、やはり亜熱帯地方であり、高温多湿で、年間降水量は2000㎜以上で、
 年間平均気温は約22度となっている。
 さらに沖縄地方は、台風銀座と呼ばれており、毎年多くの台風が接近する。このため、
 生物に好適な気候に恵まれ、貴重な動植物が多い。
  
   
      山原(ヤンバル)と呼ばれる森林

 沖縄本島北部には、山原(ヤンバル)と呼ばれる森林が広がっており、
 ヤンバルクイナ、ヤンバルテナガコガネといった天然記念物の貴重な生物が生息している。
 山原(やんばる)と、沖縄本島の海岸線の一部、慶良間諸島等が、「沖縄海岸国定公園」に
 指定されている。

   
        ヤンバルクイナ  天然記念物

 また西表島一帯、石垣島の一部が「西表石垣国立公園」に指定されている。
 マングローブ林が広がる他、イリオモテヤマネコ等の貴重な生物が生息している。
 環境省が指定する「日本の重要湿地」500のうち、54ヵ所が沖縄県内にあるという。
 これは、北海道(61力所)に次いで全国で二番目に多い。

 一方、沖縄県は、40の有人島と、120余もの無人島があるという。
 このため沖縄の最東端から、最西端までは約千㎞、最北端から最南端までは約400㎞
 に及ぶ、実に広大な県域を持っている。中国漁船が問題を起こした無人島の尖閣諸島も、
 沖縄県に属している。

   
        沖縄県全図

 このような約千㎞またがる広域行政地は、沖縄県以外にない。
 沖縄本島の中部・南部は、那覇市・沖縄市を中心に、都市化による人口集中が進んでおり、
 全面積の約5分の一に110万人以上が居住しているという。
 このため人口密度は全国で第9位であり、三大都市圈の都府県を除くと、
 福岡県に次いで2番目に多い。

 さて、今回訪れるのは沖縄本島だけながら、服装について悩んだ。
 3月初旬の関西は、まだ10度前後の真冬の気候ながら、那覇では20度前後の気温で
あるらしい。20度を超えればかなり暖かいはずである。
 寒さが嫌いだから、この暖かさに大いなる期待を抱いている。
 ただ沖縄本島でも小さな島だから、どこでも海岸からの風が吹くと、まだ冷たく感じるらしい。
 それでも風が無く、天気が良ければ、相当暖かいという。
 プロ野球のキャンプが毎年沖縄各地で2月に行われているが、日によって「寒かった」
 「暑かった」と情報が混在し判断に迷った。
 ともかく寒さが嫌いだから、ダウンコートを着て自宅を出発することにした。
 暖かければ脱げばよいが、寒いと困ると案じたからである。




那覇空港

 ANA1731便は、定刻の8時に関空を飛び立った。
 関西空港から那覇空港まで約2時間のフライトである。
 前日は興奮で寝付きが悪く寝不足だったから、機内では少しうたた寝をした。
 機内サービスは有料が多く、無料なのはリンゴジュースだけであったから、何も飲まなかった。
 雲の上を飛行しているから、機上からは何も見えず、司馬遼太郎の「海軍について」の稿を読んだ。
 着陸態勢に入ったというアナウンスで窓を覗くと、やがて雲の下に入り、海面が見えてきた。
 沖縄本島の左側を飛行していたから、左手に陸地が見え始めた。
 窓側の妻にカメラで撮影するように依頼した。

   
      手前の島影は「伊江島」

 最初の写真を見ると岬の手前に小島が写っている。地図と照合すると 島影は「伊江島」で、
 その奥に見える陸地は、海洋博公園のある本部半島であった。
 細長い沖縄本島の中央よりやや北の左手に、コブのように丸く突き出た半島である。
 飛行機は、そのまま南下し那覇港をかすめるようにして、やがて左に旋回して那覇空港に着陸した。
 滑走路は海に対して直角の位置に設けられている。着陸し飛行機がターミナルへ向かう途中に、
 航空自衛隊の戦闘機の前を通過した。
 国際線のある民間主要空港で、航空自衛隊が共用しているのは那覇空港以外に無いであろう。
 那覇空港は、日本国内の空港では第7位の利用者数を誇る沖縄地域のハブ空港でありながら、
 航空自衛隊の那覇基地でもある。



 那覇基地

 那覇空港は、1933年(昭和8年)8月、旧日本海軍が建設した小禄飛行場が前身である。
 1945年(昭和20年)の終戦以降、1972年(昭和47年)の復帰前までは、アメリカ軍が管理していたが、
 沖縄の一日本復帰に伴い日本に返還された。
 現在では、民間航空便と陸海空の各自衛隊、海上保安庁が共用している。
 航空自衛隊の那覇基地として、対領空侵犯に対するスクランブルや、その訓練を行っている。
 その戦闘機の離着陸の管制を、国土交通省所属の航空管制官が担当しているのは、
 全国でもここだけであるという。
 戦後、一時的に「嘉手納飛行場」に民間航空機の利用が制限付きで認められていた。
 しかし、米軍の重要な基地であるため、小禄飛行場が日本に返還され、那覇空港として整備された。
 ごくまれに、悪天候などで、民間旅客機が一時的にが嘉手納飛行場に着陸する事があるという。
 しかしその時は、乗客は機内から出ることはできず、天候の回復や燃料の補給を待って、
 那覇空港へ向けて再び離陸するという。
 那覇空港の滑走路は3000m×45mの一本だけしかない。

   
       那覇国際空港

 しかも一日300回以上の離着陸があり、年間の発着回数では関西国際空港級であるという。
 年間利用客数は、国内14,639,704人、国際296,232人となっている。
 臨時便が多い夏季の繁忙期には、駐機スポットの数が不足し、着陸機が待だされるケース
 も多く見られるという。
 今後10年以内に旅客増加に対応できなくなると予想されている。
 また、航空自衛隊の那覇基地でもあるため、戦闘機のスクランブル発進が任務であり、
 滑走路上で民間機の事故が発生した際には、大な打撃となる。
 このため、平行滑走路の建設など拡張が計画されている。

   
       航空自衛隊機と民間機

 空港の場所は、那覇市の中心地からはモノレールやバス、タクシーなどで10分程度と立地条件が良い。
 現在の国内線ターミナルビルは、1999年に完成したもので、立派な施設である。
 それ以前は、1975年の「沖縄国際海洋博覧会」のとき整備された第一ターミナル(本土路線)と、
 1959年から使われていた第二ターミナル(離島専用)に分かれていた。
 しかし乗り入れ便の増加に伴い、その後もターミナルビルは増築を繰り返している。

   
       那覇空港ロビー

 左右を日本航空グループとスカイマーク、全日空グループに別けて使用されている。
 しかし、一部の離島便は、ボーディングブリッジを使わず、タラップを使っての搭乗となっているらしい。
 我々は機内からポーティングブリッジを通って一階の到着ロビーに出た。
 想像以上に広くて明るく、至る所にプランターに花が植えられていて、心がなごんだ。
 観光客への、最初のおもてなしの心遣いであろう。
 荷物を受け取りロビー正面へ出ると、すぐに道を隔てレンタカー会社の送迎ブースがあり、
 ニッポンレンタカーのマイクロバスを見つけることが出来た。幸い快晴で期待通りに暖かであった。




レンタカー

 沖縄観光には交通手段が少なく、自由な行動をするにはレンタカーが欠かせない。
 特に沖縄ではビジネスや観光用レンタカーの需要が多い。
 大手レンタカー会社の営業所以{外にも、沖縄だけを営業エリアとしている会礼も数多く、
 一都市だけで比較すれば、レンタカーの数はおそらく日本一であろう。
 それだけに価格競争が激しく、格安レンタカーを売りにしている会社も多い。
 今回の沖縄旅行でも当然レン夕カーを手配した。
 
      
         空港ロー前のレンタカー送迎のりば

 ANAスカイホリデーでも、幸い一月前の予約割引があり、Sクラスなら一日2千円という安さであった。
 ちなみに本土のトヨタレンタカーの料金を調べると、一番安いクラスで一日6千円で、
 追加料金は一日毎に5千百円とある。沖縄のレンタカーの価格が、如何に格安かが分かる。
 それでも多数のレンタカー会社が成立しているのは、本土と比較し半値以下でも、
 それだけ需要が多く、高回転しているから採算が取れるのであろう。
 市内を走行していても、レンタカーを示す「わ」ナンバーが多く、多くの観光施設の大駐車場では、
 殆どの車がレンタカーであったことでも、その需要の大きさが分かる。
 こうした事情から、四日間ともレンタカーを予約していた。
 予約はSクラスだから、ホンダのフィットかトヨタのビッツと予想していた。
 ところが、一つ格上の日産のTIDAが用意されていた。
 日産の車は殆ど運転したことがないが、意外に出足も軽快であり満足した。

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あしびゅうな

 最初の目的地は、昼食を予定している琉球茶房と銘打った「あしびゅうな」であった。
 旅行での最大の楽しみは、なんと言っても郷土料理の食事である。
 できれば沖縄の郷土料理を、落ち着いた雰囲気の店で食べたい。
 観光情報の雑誌[まっぷる]で見つけたのが、最初の観光目的の首里城に近いこの店であった。
 ネットでも情報が掲載されていて評判がよかった。ナビに従い那覇市内を通行したが、
 途中意外にも住宅地の狭い路地を何度か曲がり、なんと首里城公園を横切り、
 また市街地に出ると、目的地の表示があった。
 しかし、目的の店が分からず、次の丁字路を右折して進むと、目的地が遠ざかる位置になった。
 ナビに表示されたルートに従い、結果しとして、もう一度狭い路地を抜け、同じ地点に到着した。
 ゆるゆる車を走行していると、妻がめざとく小さな看板を発見した。
 間口の小さな民家に、小さな文字で「あしびゅうな」の文字があった。しかし、店の前に駐申場がない。
 よく見ると駐車場の矢印があり、また丁字路を右折すると、すぐに有料駐車場があった。
 駐車して聞くと、食事をすれば無料になるとのことであった。
 駐車場の右手の路地を抜けると、古民家を利用した「あしびゅうな」の入り口に辿り着いた。
 それでも旅行計画書の通11時40分には到着している。
 中に入ると、意外にも花壇がある広い庭園があり、庭園の縁側のような席と、室内の席があった。
 晴天で暖かいので、迷わず縁側の席に座った。
 さっそく初めてのソーキそば定食を注文した。

    
       あしびゅうの庭園

 まさに沖縄の古民家をそのまま利用した店で、しかも花壇のある庭園で
 沖縄のランチを楽しむことができた。

 ところで 「あしびゅうな」という店名の意味が気になっていた。
 沖縄方言辞典で洲べてみると、「あしびな-」という語かあり、
 (遊び場・行事などを行う広場)の意味が付されていた。
 沖縄方言は、古代大和言葉と同様に三母音で構成されているから、
 現代日本語とは発音が異なる。
 つまり「遊び」が「あしびな-」となるのであろうか。推測すると「あしびな-」は名詞で、
 遊ぶ場所、楽しむ場所を意味するようである。
 楽しく酒と料理で「遊びましよう」という形容動詞が、[あしゅびゅうな]となるのであろうか。
 「遊ぼうな-」と語感が近い。   

    
      あしびゅうの入り口

 調べてみると、「あしびゅうな」の経営は「ブルームダイニングサービス」の
 加藤弘康氏のコンサルティングで運営されているらしい。  
 Webで「あしびゅうな」を検索すると、加藤弘康氏のブログに辿り着くから、
 彼の経営だと勘違いした。
 「ブルームダイニングサービス」は、名古屋を基点に、特徴のある料理店を八店舗展
 開しており、さらに数店の開店予定店が掲載されている。経営方針には
 「私たちは、お客様に感動と満足を提供することを使命とし、関わるすべての人、街に
 幸せの花を咲かせます」
 若い経営者だから、理想が高く妥協しない経営振りらしいが、
 「共に幸せの花を咲かせる」という理念があるから、共感する若い人材が集まるのであろう。
 人間は「強い願望と信念を持つ」ことで、行動に自信が持て、このように「共に花
 を咲かせる」ことが出来るのである。
 調べているうちに、この若い理想家肌の経営者に大いなる刺激を受けた。
 まさに絵に描いたような縄営者である。

    
       あしびゅうの店内

 ついでながら、OB会の人吉の旅で、郷土料理の「ひまわり亭」で食事をしたとき、
 その女性オーナーが、
 「この店は60歳以上で運営されています。60歳が新入社員の条件です。私の料理の師匠は、
 まだ95歳と言っています。」
 と、大変勇気を貰う話を聞いて、感動したことを思い出している。
 人間は幾つになっても、強い願望と信念を持ち続ければ、「人生は、思い描いた通
 りになる」と、自分に言い聞かせている。





ソーキそば

 「あしびゅうな」での食事は「ソーキそば」定食であった。
  代表的な沖縄料理の麺類で、「そば」とはいうものの、日本蕎麦ではない。
 製法は小麦100%の中華麺の一種であり、正式の分類でも「中華めん」に分類されている。
 麺は一般に太めで、和風のだしを用い、その味や食感はラーメンより、
 むしろ肉うどんなどに類似している。
 つまりラーメンでもなく、日本蕎麦でもない、まさに琉球独白の麺料理である。

    
        ソーキそば定食

 沖縄で、小麦粉を原料とした麺料理が、広く食べられ始めたのは、
 明治後期以降のことであるという。
 本土出身者が連れてきた中国人コックが、那覇の辻遊郭近くに開いた「支那そぱ屋」が、
 沖縄そぽのルーツであるらしい。大正に入ってから支那そぱ屋が増え、
 一般庶民が気軽に食べるようになった。
 当初は、豚のだし(清湯スープ)をベースに、醤油味のスープで、具材も豚肉とネギと、
 本土の支那そばと変わらないものであったようである。

 その後、沖縄の味覚に合わせて改良が重ねられ、スープは現在のような薄め和風出しとなった。
 三枚肉、沖縄かまぼこ、小ねぎを具材とし、薬味として紅しょうがや
 コーレーグス(島唐辛子の泡盛漬け)を用いる。
 こうした経緯で、沖縄そば独自のスタイルが出来上がったらしい。

    
       ソーキそば 

 このそばを「琉球そば」と呼び始め、定着したのもこの頃のことである。
       
 「ソーキ」とは、沖縄で「豚のあばら肉(スペアリブ)」のことをさしている。
 その伝統的な調理法は、豚あぱら肉を、水からゆっくり長時間ゆで、煮汁を捨て肉を洗い、
 再度新たに醤油、泡盛、黒糖、昆布、鰹だしなどを調合した煮汁で長時間煮込み、
 味を浸み込ませるという。 
 食べてみると、とろけるような柔らかい肉であった。

 古琉球語では本来「ソーキ」とは笊のことらしい。
 豚の肋骨と、形状が似ているため、あばら肉もソーキと呼ぶようになったという。
 「沖縄そば」の麺の形は、本島中南部では、ややねじれた、うどんのような形である。
 しかし主に本島北部では、「きしめん」のような平打ちである場合が多い。
 また、石垣島など八重山列島では、細めで断面が丸く、
 このような八重山諸島の沖縄そばを、八重山そばと呼んでいる。
 それ以外の地域のそばにも、それぞれの工夫や特徴があり、地域ごとにその地の名を冠し、
 宮古そば(宮古島市)、久米島そば(久米島町)など、沖縄本島では名護そば(名護市)、
 与那原そば(与那原町)、やんばるそば(山原そば、山原地区)などと呼ばれ、
 専門店も県内各地にあるという。





首里城

 さて、昼食のあとは、初日の観光のメインである首里城見学である。
 食事をした「あしゅびゅうな」は、首里城公園の近くながらら、首里城の入りが分からないため、
 再度ナビに目的地を入力し、三度も同じ狭い路地を抜け、
 首里城公園の中央入り囗近くに辿り着き、近くの有料駐車場に入れた。
 時刻を確認すると、予定より少し早く、12時30分に到着している。

 さて、首里城の概要にふれたい。
 首里城は沖縄の歴史・文化を象徴する城であり、
 首里城の歴史は琉球王国の歴史そのものである。
 首里城は小高い丘の上に立地し、曲線を描く城壁で取り囲まれ、
 国営首里城公園の中にあり、多くの施設が建てられている。

   
       首里城全景

 「首里」とは、本来「首都」という意であり、琉球王国の王府(政府)があったことを意味する。
 首里に築かれた城(グスク)だ」から、首里城という。
 この首里城は、いくつもの広場を持ち、また信仰上の聖地も存在する。
 これらの特徴は、首里城に限られたものではなく、
 グスクと呼ばれる沖縄の城に共通する特徴であるらしい。

 他の多くのグスク(城)は、按司(あじ)と呼ばれる豪族が、
 首里城の按司(あじ)との戦いに敗れ滅んでしまった。
 首里城を拠点とした按司が、琉球王朝を建て、周辺の島々も統一し、
 その王宮のグスク(城)として発展を遂げた。
 約500年にわたる琉球王国は、中国大陸や朝鮮半島、そして日本の交易で大いに隆盛を極めた。
 首里城は内郭と外郭に大きく分けられ、内郭は15世紀初期に、外郭は16世紀中期に完成している。

   
      首里城正殿と御庭(ウナー)

 正殿をはじめとする城内の各施設は、東西の軸線に沿って配置されており、西を正面としている。
 西を正面とするのは、首里城の特徴の一つであるという。
 中国や日本との長い交流の歴史があり、首里城は随所に中国や日本の建築文化の影響を受けている。 
 正殿や南殿、北殿はその代表的な例である。
 首里城は、国王とその家族が居住する「王宮」であると同時に、
 王国統治の行政機関「首里王府」の中心で、
 また、各地に配置された神女(しんじよ)たちを通じて、
 王国祭祀を運営する宗教上の拠点でもあったという。

 さらに、首里城とその周辺では、芸能・音楽が盛んに演じられ、
 美術・工芸の専門家が数多く活躍していたというから、
 首里城は文化芸術の中心でもあったらしい。
 1879年(明治12年)春、首里城から国王が追放され「沖縄県」となった後、
 首里城は日本軍の駐屯地、各種の学校等に使われ、1945年に沖縄戦により全焼している。
 戦後、跡地は琉球大学のキャンパスとなったが、大学移転後に復元事業が推進された。
 復元された現在の首里城は、18世紀以降の首里城をモデルとして復元され、2000年12月に、
 「首里城跡」が世界遺産に登録されている。




守礼門

 駐車場から少し歩くと首里城公園の総合案内所があり、歩くとすぐに写真で有名な守礼門があった。
 最近は殆ど見かけないが、「二千円札」の図柄として採用され、沖縄のシンボル的建造物となっている。
 守礼門は、首里城の外にあり、首里を東西に貫く大通りである「綾門大道」(アイジョウ ウフ ミチ)の
 東側に位概する牌楼型の門(楼門)である。
 日本城郭でいう大手門にあたる。

    
       守礼門

 柱は四本で二重の屋根を持ち、赤い本瓦を用いている。
 1933年(昭和8)に国宝に指定されたが、沖縄戦で焼失し、
 1958年に再建され、1972年には県指定文化財となった。

  「守礼」は「礼節を守る」という意で、門に掲げられている扁額には「守禮之邦」と書かれている。
  「守礼門」は、その扁額の「守禮之邦」からきている俗称で、
 本来は「上の綾門(ウイーヌアイジョウ)」という。
 綾門の名は、その華麗な装飾から名付けられている。
 これに対し綾門大道の西側、
 首里の街の入口に位置した「牌楼」を「下の綾門(シムヌ アイジョウ)」といい、
 「中山門」とも呼ばれていたが、明治時代に老朽化のため撤去され現存していない。
 なお、この対になっている二つの「牌楼」である綾門がある大通りを、
 前記のように綾門大道と呼んでいたという。

    
      沖縄戦の消失する前の守礼門

 ここで「牌楼」の注釈が必要である。
 中国では古来より、皇帝が王城を築くとき、風水思想に基づき東南西北(束西南北ではない)
 に通路を開き、それぞれに門を築き門衛をはいたが、これを「牌楼」という。
 牌とは、本来「文字を害いてある札」の意で、「牌楼」とは扁額が掲げられた楼門(四脚門)をさしている。
 「牌楼」は、「春夏秋冬」「朝昼暮夜」という陰陽五行に基づき「青赤白黒」で彩ら
 さらに各方位の守護神として 四神を据えた。

 横浜中華街、そして艮崎の中華街にも、この「牌楼」が設けられている。
 ところで、首里城の「守礼門」の最初の創建年代は確定されていないが、
 琉球王国「第二尚氏王朝」四世の尚清王(在位1527 ― 1555)の時に建てられたらしい。
 その頃の門は、瓦葺きではなく板葺きであり、扁額は「待賢」であったという。
 これは、本土の平安京の内裏にあった待賢門に倣ったのであろう。
 後に「首里」の扁額が掲げられるようになり、六代尚永王(在位1573~1588) の時代に、
 「守禮之邦」の扁額が掲げられたらしい。

 そののち、中国から冊封使が来ている間は「守禮之邦」の扁額を掲げ、
 それ以外の期間は「首里」の扁額を掲げたという。
 冊封使とは、古く中国で、天子が臣下や諸侯に「冊」(立皇后・立太子などの祭事に下したことのり)
 をもって爵位を授ける使者のことである。
 そののち、九代尚質王(在位1648―1668)の時以降、「守禮之邦」の扁額を常掲するようになり、
 これが現在に至っているという。

 なお扁額となった「守禮之邦」という言葉は、尚永王の爵位を授ける冊封の際、
 中国皇帝(この時は万暦帝)からの詔勅にあった文言で、「琉球は、守礼の邦と称するに足りる」
 を由来としている。
 琉球国王は、このように中国皇帝に臣下の礼をとっていた。
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歓会門

 守礼門では、観光客に琉球の民族衣装を着ての記念撮影を勧めていたが、
 三脚でツーショツトを撮って先へ進んだ。
 すぐに首里城の城郭内へ入る第一の正門である歓会門があった。
 「歓会」とは歓迎するという意味である。
 琉球王朝は、立皇后・立太子などの祭事に際し、使者を立て首里城へ中国皇帝の使者「冊封使」が
 招かれた。この冊封使の一行を歓迎するという意味でこの名が付けられたという。
 首里城は外郭と内郭の城壁で二重に囲まれている。

   
       歓会門

 歓会門は、外郭の最初の門で、別名「あまえ御門」ともいう。
 「アマエ」とは琉球の古語で、「喜ばしいこと」を意味するという。
 門の両側には、大きな一対の石造の獅子像がある。これは王宮の魔除けの意味で置かれている。
 本土の神礼でも必ずこの獅子像を置いている。

            
                      一対の石造の獅子像

 シーサーは、エジプトのスフィンクスなどに源流があると思われるが、ここでは深入りしない。
 首里城の城壁は、何処も曲線を描いていており、城壁の角も丸みを帯びて無骨さがない。
 楼門も木製ではなくアーチ状の石造りで、その上に木造の簡素な櫓が据えられていた。
 城壁に使用されているのは、琉球石灰岩が使用されている。
 柔らかく加工しやすく、沖縄の各地で産出され、城壁や石橋・石畳道など、古くから使われてきた。
 琉球石灰岩は加工しやすく、ほぼ四角に削られて積み上げられているから、見た目で安定感があり、
 曲線を描いているから優美な印象を与える。

 日本古来のの城郭に使用された自然石の堆積岩、花崗岩や変成岩は、岩質が固く加工しに難く、
 その自然石の積み方が様々に工夫された。
 本土では16世紀中頃から石垣が用いられ始めたが、当初は自然石を加工せずに積む
 「野面積み」石垣であった。

  のち、石の角を叩いて割り、面平らにして、互いに組み合わせて積む、
 「打込みはぎ」の石垣が多用された。
 さらに専門集団の石工によって加工技術が開発され、石を削って整形して積む、
 「切り込みはぎ」の石垣が使われた。
  大坂城や江戸城などでは、高度なな「切り込みはぎ」の石垣で、
 見た目も美しい防御用城壁と成つている。
 さて、 歓会門の創建は1477―1500年頃(尚真王代)と推測されているが、昭和の沖縄戦で消失した。
 1974年(昭和49年)に復元された。
 門は石のアーチ状の城門の上に一木造の櫓を載せている。このスタイルは、久慶門等と同じである。





漏刻門

 漏刻門は、首里城第三の門で、創建は15世紀頃とされている。
 瑞泉門と同じく、石造アーチを持だない木造櫓門で、城壁の上に木造胚川建・入母屋造・本瓦葺の
 櫓を載せている。
 俗に「かご居せ御門(ウジョウ)」とも呼ばれ、駕籠の使用を許された高官も、ここで下乗したらしい。
 日本古来の城郭で言えば、これより丸の内に入るのであろう。

    
            漏刻門 

 漏刻とは、無論「水時計」のである。
 古来この漏刻門の櫓に水槽を設置し、水が漏れる量で時刻を知らせたことに由来している。
 もっとも晴天の時は、門の東方に設置した日時計で時刻を測り、雨天の時や夜間などは
 櫓の中に設置した漏刻で時を測ったという。
 楼門に乗った漏刻の役人や、日時計の役人が、時刻を測定し、一定間隔で太鼓を叩き、
 それを聞いた別の役人が、東(アガリ)の物見台(アザナ)と西(イリ)の物見台および右掖門で、
 同時に大鐘を打ち鳴らし、城内および城外に時刻を知らせたという。
 
     
           漏刻門にある日時計

 この「漏刻」制度について、1456年の朝鮮の記録に、
 「我が国のものと何らかわりない」と記されているという。
 この漏刻の制度が、いつ頃から始まったかは定かでない。
 が、明治12年の「琉球処分」まで、ここから太鼓を叩き時刻を知らせていたというから、
 何百年もその機能を維持したことになる。
 漏刻門も沖縄戦で破壊され1992年に復元されたものである。
  「琉球処分」については、稿を改める。





広福門

 漏刻門を潜って登ると、右手の東側に朱色の木造の広福門があった。
 「広福」とし、「福を行き渡らせる」という意と共に、「鎮まる」の意もあるという。 
 「広」には「長い」という意もあり、「中山は治世よく永しえに」との願いをこめ、
 つけられたと考えられている。
 このため、広福門は別名「長御門」「ながウジョウ」といい、第四の門である。

   
        広福門

 建物そのものが門の機能をもっおり、この形式も首里城の城門の特徴である。
 木造平屋建・入り母屋造・本瓦葺の、首里城内郭は第二の門にあたる。
 建物廻りに開口部が多くとられ、役所としての機能があったという。
 王府時代、この建物は神社仏閣を管理する「寺社座」と、士族の財産をめぐる争いを調停する
 「大与座」という役所が置かれていたという。現在は、券売所等に利用されている。

 この門は明治末期、第一尋常小学校建設のために取り壊されている。
 1992年(平成4年)に数枚の古い写真や発掘調査で出土した礎石を基に、復元されている。
 現在は、大与座側が券売所、寺社座側はトイレになっている。
 門前は城内でも眺めの良いところで、眼前に(ハンタン山の緑を映す龍潭の池や、
 沖縄県立芸術大学、沖縄県立博物館が見える。
 東には弁財天堂の屋根や円覚寺の総門が続き、遠くに虎(とらず)瀬山(やま)や
 弁ヶ嶽の丘の緑が遠望できる。




奉神門

 奉神門とは「神をうやまう門」いう意で、首里城正殿のある「御庭」(ウナー)へ入る最後の門である。
 この門を潜ると御庭を挟んで正殿がある。
 別名「君誇(きみほこり)御門」ともいう。
 向かって左側(北側)は「納殿」で、薬類・茶・煙草等の出納を取り扱う部屋で、
 右側(南側)は「君誇」の部屋で、城内の儀式のとき等に使われたという。

   
        奉神門

 奉神門には三つの門があり、儀式の内容や階級によって使い分けがなされた。
 中央は、国王や中国の冊封使等、限られた人だけが通れる門であったらしい。
 閉鎖性の強い門で、中央と北側は儀式の時のみ開かれ、中央は正月の儀式でさえ開けなかったという。
 南側の門も、公務でない者が行き来することを禁じていた。

 1562年には石造欄干が完成したという記録があり、創建はそれ以 前と考えられている。
 その後1754年に中国の制に倣っ一て改修し、中央の屋根を左右より高くした三門になったという。
 奉神門の規模は、正面二十間、側面四間の長大な楼門で、長さでは、
 巨大な門として知られる東大寺南大門や、知恩院三門、東福寺三門を上回っている。
 現在は、有料区域への入口となっており、また案内、救護等の公園管理施設となっている。
 建物は明治末期頃に撤去されたが、1992年(平成4)に外観が復元されている。
 現在は公園管理のための施設として利用されている。
 奉神門を潜ると、御庭があり正面に正殿があった。




御庭

 正殿、南殿、番所、北殿、奉神門に囲まれた広場を御庭(ウナー)という。
 東西約40m、南北約44mの広さを持つ台形状の空間で、古文書には玉庭や殿庭とも書かれている。
 首里城の建物の中心が正殿で、御庭(ウナー)は空間の中心であった。

    
        御庭(ウナー)  公式の儀式が行われる

 各建物以上に重要な役割を持ち、冊封の式典など、さまざまな儀式の際に会場として使われた。
 その様式は、紫禁城をはじめとする中国の宮殿様式を、ほぼ踏襲しており、
 当時の琉球王朝と中国王朝の交流の深さを物語っている。
 奉神門と正殿をつなぐ浮道(広場より僅かに高い)は、神聖な道とされ、
 それを中心に茶色のレンガが縞を描いて左右に延びている。
 行事の際は、この縞が諸官の配列や道具類の目印になっていたという。
 御庭はもとともとは正方形であったが、各建物の拡張につれて台形に変化していったらしい。 
 琉球王朝の正史『球陽』には、蔡温(宰相)が「風水的に、
 正殿と奉神門の軸は同じでないのが良い」としたと記されている。




正殿

 幾つもの門を潜って、ようやく正殿に辿り着いた。
 琉球王朝時代の華麗なる正殿は、中国と日本の両方から影響を受けつつ、
 独自の琉球文化を築きあげた。その結晶とも言える建物ごである。
 正殿は言うまでもなく首里城で最も中心的な建物である。

   
       首里城正殿

 木造三階建で、一階は「下庫理 シチャグイ」と呼ばれ、主に国王自ら政治や儀式を執り行う場で、
 二階は「大庫理(フウグイ)」と呼ばれ、国王と親族、女官らが儀式を行う場であった。
 三階は通気を目的とした屋根裏部屋である。
 創建年は、復元に先立って実施された発掘調査から14世紀末頃とみられている。
 その後、ほぼ同位置で数度の焼失と再建が繰り返されてきた。

   
     戦前の首里城正殿

 現在の建物は、18世紀初めに再建され、沖縄戦で焼失するまで残っていた正殿をモデルに、
 1992年(平成4)に復元したものである。
 正殿の建築は、中国の宮廷建築と、日本建築様式を基本にしながらも、
 琉球独特の意匠にまとめられている。
 正面の石階段段の両脇に龍の彫刻があるが、これを「大龍柱」という。
 手すりの奥にもう一対「小龍柱」がある。
 その他、柱や梁や屋根等にも龍の彫刻が多数施されている。
 龍は国王の象徴であり、たくさんの龍が首里城には棲んでいるという。





中山世土

 中央の華麗な部分が「御差床(ウサスカ)」と呼ばれ、
 公式の政治や儀式の際に国王が出御する玉座である。
 玉座の後に掲げられている扁額の「中山世土」とは、琉球は中山が代々治める土地である、
 という意である。
 この扁額は、元は中国皇帝の直筆であり「この土地は、
 何時の世までも琉球国の中山の物」で有る事を永遠に保証する意味を現しているという。

   
       国王が出御する玉座

 現在の扁額の文字は、当時の中国皇帝の直筆を、正確に模写復元した文字だという。
 14世紀頃の沖縄本島は「北山」「中山」「南山」の三山時代がしばらく続いた。

 やがて現在の首里に拠点を置いていた「中山」が、「北山」「南山」を滅ぼし、琉球王朝を成立させた。 
 以後、琉球王朝は明治政府の琉球処分によって、その歴史を閉じるまで、
 自らを「中山王」と名乗っていた。

 ついでながら、琉球第二尚氏王朝第十一代国王の尚貞王(在位1669-1709)のとき、
 「中山王」の「中」は高貴な字として、村名や庶民の姓に「中」の文字の使用を禁止したという。
 このため、「中村」は「仲村」、「中曽根」は「仲宗根」、中井は「仲井」に改名したという。
 ちなみに現在の沖縄県知事は、仲井輿氏である。
 ただ、中山王府の名は、もとは沖縄本鳥の中部を拠点としたからであり、
 又配者氏族の名は「尚」氏であり、別名では尚氏王朝ともいう。

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御差床

 御差床(ウサスカ)は、公式の儀礼に使用される玉座のことである。
 御差は玉座の意がある。
 現在の玉座は、1477年~1526年まで在位した尚真王の肖像画をもとに再現されたものという。

   
        御差床(ウサスカ)

 また、左右には国王の子や孫が着座した「平御差床(ひらウサス)」がある。
 御差床の両脇の朱柱には、金の龍と五色の雲が描かれ、
 天井は丸く上部に折上げて格式をもたせている。
 高欄に獅子を彫刻するのは、中国によく見られる形式である。
 また、記録によると両脇の床には、麒麟、鳳凰の絵が掛けられていたという。
 しかし、二階にも一階と同じ場所に、御差床があり、
 特に二階の御麓床は絢爛豪華な意匠となっている。

 一つの建物に、玉座が二つあるのはきわめて珍しく、中国にもない形式という。
 正殿二階は、元来王妃や身分の高い女官たちが使用した私的な空間であり
 「大庫理(ウフグイ)」と呼ばれていた。
 二階の「御差床」は、国王一族の様々な私的な儀式や祝宴が行われたところである。
 壇の形式は、寺院の須弥壇に似ており、側面の羽目板には葡萄と栗鼠の文様が彫刻されている。
 なお、儀式の際には床の間には香炉、龍の蝋燭台、金花等が置かれ、
 壁には孔子像の絵が掛けられていたという。






沖縄の姓

 順路に従い正殿から書院や「鎖の間(茶室)」を見学し、首里城の右側の城郭の外郭へ出た。
 「鎖の間」は、常に鎖で茶釜を釣つていたから名付けられた。
 那覇市内を眺めつつ歩きながら、沖縄の姓について考えている。

 「中山王」の「中」は高貴な字として、村名や庶民の姓に「中」の文字の使用が17世紀頃に禁止された。
 「中」の付く姓は、全て「仲」という夊字に変更されたことはすでにふれた。
 そののち、関ヶ原合戦で敗れた薩摩藩は、徳川幕府の安堵は受けたが、
 明国が薩摩との交易を中止したため、経済的に困窮した。
 一方、薩摩と友好関係にあった琉球王朝は、明との交易を許されていたため、
 その権益を収奪することを計画した。

    
        琉球の交易船

 1606年徳川家康に拝謁し、「琉球王の非礼を列挙し」征討の許可を得、
 1609年3月、薩摩藩は、三千の軍を率いて琉球諸島へ進軍した。

 長い期間平和であった琉球王国は、実戦経験を持たず、
 わずか10日で破れて降伏し、首里城を明け渡すことになった。
 当時の国王尚寧は、薩摩へ連行され、服従の証文を書かされ、
 さらに江戸にまで連行され、徳川秀忠に拝謁させられ、後に琉球に戻った。
 そして慶長18年(1613年)、薩摩藩に奄美群島を割譲させられた。

 以後、琉球王国は、独立王国を名乗りながらも、
 薩摩藩に従属するという立場を取らざるを得なくなった。
 薩摩藩は、幕府に対し琉球は異国であり、非礼な国であることを演出するため、
 さまざまな政策を遂行してゆく。
 手始めに服装や髪型の和装を禁止し、古来の民族衣装に改めさせた。

    
       琉球民族衣装

 1624年になると、「大和めきたる名字」の使用禁止を令達した。
 その結果、沖縄独特の名字や地名が多数生まれたという。
 この結果、沖縄にはおよそ1,500種の名字があると言われているが、
 その大半が本土では珍しい、沖縄独特の名字である。
  沖縄の三大名字は、比嘉 金城、 大城である。
 また宮城、新垣、玉城、上原、島袋、平良、山城が多い。
 ついで多いのは、知念、宮里、下地、仲宗根、照屋、砂川、仲村、城間、新里などである。
 また、本土と同じ読みでも、表記が異なるものも多い。
 例えば、酒井は「佐加伊」、前田は「真栄田」、八木や谷木は「屋宜」と表記されている。
 沖縄の名前にも、その悲哀の歴史が隠されている。





園比屋武御嶽石門

 出口に近いところに世界遺産の碑銘があった。
 園比屋武御嶽(そのひやんうたき)石門は、琉球石灰岩で造られた建造物で、
 国王が外出するとき、安全祈願をした礼拝所である。

   
        園比屋武御嶽石門

 形は門になっているが、人が通る門ではなく、いわば抻への「礼拝の門」ともいうべきものである。
 門の上部に掛けられている扁額の内容から、尚真王の時代の1519年に建てられたことが判明してい.る。
 八重山山の竹宗鳥出身の西唐という役人が築造したものと伝えられている。
 琉球の石造建造物の代表的なものである。
 1933(昭和8)に国宝に指定ごされたが、沖縄戦で一部破壊され、1957年(昭和32年)に修復された。
 現在、国指定重要文化財となっている。
 また2000年(平成12年)には、世界遺産へ登録された。





五つの首里城

 里城は、過去4回全焼し、その都度再建されている。
 この故、現在復元された首里城は、五つ目の首里城といえる。
 以下は、五つの首里城と共に、 琉球王朝の興亡の概略にふれたい。

 整理すると、初代の首里城は、創建(不明)~1453年のものである。
 初代首里城は、この地の按司(豪族)であった察度王(56年間続いた)が建てたグスク(城)であった。
 後に、察度王を倒した尚思紹王(第一尚氏)が入城し居城とした。

 琉球では、11世紀から12世紀頃、各地に按司と呼ばれる豪族が出現し、各地で勢力を争っていた。
 14世紀初め、淘汰を繰り返、北山、中山、南山という三つの小国家に集約された。
  これが琉球の三山時代といわれる時代である。

   
               三山時代の琉球の領土図

 その後、三山の中で、中部を勢力圏とする中山の按司であった尚巴志が、
 相次いで北山と南山を滅ぼし、1429年に統一王朝(第一尚氏王統)を建てた。

       
        第一尚氏始祖    尚思紹王

 この佐敷按司の出とされる第一尚氏は、尚思紹王を始祖とし、七代63年間続いたといわれる。
 民俗学で有名な折口信夫の説によると、「第一尚氏」の出自は、
 「肥後国」八代を拠点としていた名和氏の一部が、琉球の佐敷に渡り、
 第一尚氏になったのではないかとしている。

 名和氏は、八代で日朝交易に携わるなど、水軍として活発に活助していていたらしい。
 この名和氏の一部が、南北朝の争乱のとき琉球本島に渡り、東南海岸に拠点を構え、
 八代近くの肥後佐敷に因んでこの地を佐敷と名付けたた。
 のち勢力範囲を広げ、第一尚氏になったのではないかと推測している。

 名和氏は、中国の明との交易を望み、中国風の一字の「尚」氏に名乗りを改めたという。
 「なわ」を、音が似ている一字の「なお(尚)」に改名したらしい。
 中山の佐敷按司の時代から、明国に入貢し、交易で国力をつけ、北山と南山を滅ぼしたのである。
 さて、最初の首里城消失は1453年、「第一尚氏」五代目の王「尚金福」が在位4年で死去した後、
 王位継承をめぐって金福の子の兄弟が争い、首里城は全焼し、兄弟ともに戦死したという。
 数年後に再建されたのが第二代目の首里城で、1456年頃~1660年のものである。

   
      第一尚氏の墓所

 第一尚氏は、第二尚氏と区別するための呼称である。
 第一尚氏王統は、1470年に内間金丸氏によって滅ぼされている。
 金丸氏は、もともと農民出身ながら、六代王の尚泰久にその才能を認められ、
 「御物城御鎖側」に抜擢されて財政を担当し、のち明との交易外や交を任されたらしい。
 金丸氏の執務室が、首里城の内間地区に在ったことから、内間金丸氏とも呼ばれた。
 ちょうど織田信長に抜擢され、累進した秀古のような状況でありたろう。

 六代王の尚徳の死後、王位継承で争いが起きたとき、無能の皇子が皇位に付くことを恐れ、
 クーデターにより金丸氏が皇位を継承した。
 王位を継承した金丸氏は、財政上重要な「明との交易」維持のため、
 前王朝との継続性を示す必要から、「尚円」と改名した。
 ただ、同じ尚姓でも、前王朝とは全く違う血統のため、
 歴史には「第二尚氏」として区別表記される。

     
        第二尚氏王統 始祖・尚円王

 第二尚氏の王朝は、のちの1609年、薩摩藩の侵攻を受け、薩摩の属領となった。
 が、以後も琉球は独自の官制・法制・土地制度のまま、第二尚氏の王国として明治まで続いた。

 ついでながら「首里(首都という意)の地名は、
 この地に金丸氏の「第二尚氏」の王府を据えてからの呼称であり、
 首里城という名も、この第二尚氏時代から称された。
 琉球の黄金時代と言われる、第二尚氏時代の初期に再建されたのが、
 第二代目の首里城である。
 この第一から第二代目の首里城の時代は、琉球国がポルトガル語で「レキオ」と呼ばれていた。

   
       琉球の交易範囲

 琉球の商人が、交易で東南アジアで、初めてポルトガル人と出会ったとき、
 琉球王の商人と名乗ったはずである。
 琉球の発音は、当時は三母音だから「リュキューオ」と発音、それがレキオと聞こえたのであろう。

 琉球の名を「レキオ」(レケオとも)と記したのは、ポルトガル人トメーピレスが書いた
 『東方諸国記』(1512―15)である。
 「レキオ人は、彼らの土地には、小麦と米と独特の酒と肉をもっているだけである。
 魚はたいへん豊富である。彼らは、立派な具足師である。
 彼らは金箔を置いた筥(はこ)や、たいへん贅沢で精巧な扇、刀剣、独特の武器を製造する。」
 と記し、さらに、「われわれの諸王国で、ミラン(ミラノ)について語るように、
 シナ(支那)人やその他の国民は、レキオ人について語る。

    
        琉球交易船

 彼らは正直な人間で、奴隷を買わないし、たとえ全世界と引き替えでも、
 自分たちの同胞を売るようなことはしない。彼らはこれについては死を賭ける。」
 と記している。
 琉球王朝が中国・朝鮮・日本・東南アジアを相手に、盛んな海外貿易を繰り広げた大交易時代にあたる。
 二度目の首里城消失全焼は、1660年で、失火によるものと見られている。
 正殿その他が焼け、王宮機能は数年間にわたって、
 御内原(正殿裏側一体)付属の別邸に移転余儀なくされた。

 当時の王府は財政難であったが、羽地朝秀が摂政に抜擢され、王国の財政再建に取り組み、
 11年の年月を経た1671年に、ようやく首里城が再建されたという。
 これが第三代目の首里城(1671年~1709年)で、首里城正殿に五彩龍頭の瓦が置かれた。 
 三度目の1709年の消失も失火が原因と思われ、正殿・南殿・北殿が全焼した。
 再建は資材不足で着手できず、1712年に薩摩から材木約二万本が寄贈されて、
 ようやく正殿その他の施設が再建された。

    
        第四代目の首里里城の正殿

 薩摩が木材などを寄贈したとはいえ、当時の首里城には薩摩藩が常駐し、
 琉球王国を傘下に収めていた時代である。
 首里城全体の工事竣工は1715年のことである。
 これが第四代目の首里里城で、実に230年のもの期間、さまざまな歴史の舞台となり、
 琉球王朝王分化が隆盛を極めた時代でもある。

    
        戦前の首里城全景

 また、ペリー提督の琉球来航や、明治政府の琉球処分もこの時代の末期に起きている。
 現在の首里城は、沖縄戦のとき、米軍の集中砲火と爆撃で焼失し、首里城は灰塵に帰した。
 近年の1992年に再建された首里城は、じつにに第五代目である。
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旧海軍司令部壕

 ようやく首里城を後にした。
 次の目的地の世界遺産の「識名園」に向かった。
 琉球王朝時代の別邸で、国王一家の保養や、中国の冊封使接待の場にも利用された
 識名園を見学する計画であった。
 ところが到着すると駐車場が閉鎖されており、休園日であった。
 今回の旅は、見落としが無いよう綿密に予定を組だが、休園日までは調査していなかった。
 やむなく次の目的的地の旧海軍指令部壕へ向かった。
 識名園が休園だったため、予定より一時間早く14時30分過ぎに到着した。

   
      旧海軍司令部壕 司令室

 旧海軍司令部壕は、太平洋戦争の沖縄戦で、日本海軍の司令部として使用された防空壕である。
 現在は「旧海軍司令部壕」として、その一部が一般に公開され、
 周辺は海軍壕公園として整備されている。

 1944年(昭和19年)、太平洋戦争で日本軍の敗色が濃厚となって、
 戦線が南西諸島付近まで後退し、最前線となった沖縄の軍備が強化された。
 沖縄の重要な海軍航空隊拠点であった「小禄飛行場」(後の那覇空港)を守備するため、
 飛行場を南東から見下ろす標高74mの丘に防空壕が建設された。

 軍部では七四高地と称していたが、地元では火番森と呼ばれていた丘であった。
 古代から火の見櫓のような役割があったのであろう。
 海軍司令部壕は、米軍が初めて沖縄本島の空爆を始めた1944年10月に本格着工され、
 二ヶ月余りで完成している。

   
      旧海軍司令部壕通路

 海軍第226設営隊(山根部隊)の約3000名が設営にあたり、ほとんどの工事は、
 つるはしなどを用いた手作業で行われたいう。
 小禄地区周辺には、この他にも多数の防空壕が建設され、多くの住民が動員された。
 が、海軍司令部壕は、日本海軍の司令部が設置されるため、最高軍事機密として、
 民間人は近付くことも許されず、工事は軍隊の兵員のみによって行われた。

   
      旧海軍司令部壕の手掘り掘削

 内部は枝分かれし、全長約45mの坑道と、いくつかの部屋から構成されている。
 砲撃に耐えられるよう、重要な部屋はコンクリートで補強され、内部は漆喰が塗られた。
 坑道の壁には、建設時につるはしで削っていった跡が今も残っている。

 1945年(昭和20年)1月、佐世保鎮守府から、太田実海軍中将が、
 沖縄方面根拠地隊司令官として赴任し現地の指揮を執ることになった。
 アメリカ軍による本格的な攻撃は、3月23日頃から始まり、
 31日には那覇市の北西沖約10㎞に浮かぶ神山島に上陸し橋頭堡を築いた。

 4月に入ると、神山島に設置された砲台や海上艦船からの攻撃も始まった。
 5月半ばには、ついにアメリカ軍は那覇市街地に迫り、首里付近に集結していた陸軍は、
 沖縄本島の南端部の糸満地区への撤退を決めた。
 小禄の海軍司令部部を守っていた海軍も、武器の一部を廃棄して5 月26日から移動を開始した。
 ところが、命令の行き違いが生じ、28日には司令部壕へ引き返している。
 6月に入ると、アメリカ軍の攻撃が激しくなり、陸軍との合流は困難となり、
 海軍は司令部壕付近に孤立する状況となった。  

 6月4日午前5時、アメリカ軍は小禄飛行場の北部に上陸、
 司令部壕のある那覇市南西部を包囲した。
 大田司令長官は、6日夕方に辞世の句とともに、東京の大本営に訣別の電報を打ち、
 自らの覚悟を伝えた。
 同日夜には「沖縄県民斯ク戦へリ」の詳細な電報を打っている。

 包囲が次第に狭められていく中で、司令部壕内には重火器はほとんど残っておらず、
 歩兵による突撃で応戦するのが精一杯の状況となった。
 11日午前7 時、司令部壕に集中攻撃が加えられた。
 同日夜には指令部壕からの最後の報告として
 「海軍根拠地隊は玉砕する」との電報が発せられている。

         
          大田司令長官と最期の電報

 13日午前1 時、大田司令長官以下は、手榴弾によって自決を遂げ、
 小禄地区における組織的な戦闘は一終結した。





資料写真

 旧海軍司令部壕には、資料館が併設されていた。
 見学の順路として、司令部壕に入る前に資料館を見学したが、
 当時の海軍が使用した 遺品よりも、展示パネルの写真に息を呑まれる想いがした。

 特に戦乱に遭遇した子供達の写真を見て、改めて戦争の悲惨さを思い知らされた。

   
      白旗を掲げる少女

 本来、沖縄の島民やその子供達にとって、日本軍はいわば「加害者」でもあった
 農民や女学生までもが、過酷な軍役に徴用されて酷使された上に、
 相つぐ日本軍の敗戦により逃げ惑った。
 多くの一般の村民が、米軍の上陸侵攻と、海上からの過酷な砲撃で、
 いわば無差別に殺されていった。

    
       墓室に隠れていて発見された幼児

 写真は、親たちが砲撃で死し、防空壕にも入れず逃げ惑った子供達が、
 墓室に隠れていて、上陸した米軍の掃討作戦時に発見されたものであろう。
 姉と弟であろうか。弟の方は、顔に怪我をしている。

 米軍の従軍カメラマンによって撮影されているから、たぶん保護されたのであろうが、
 当時のこの子供達は、生きた心地がしなかったであろう。

   
      米軍に保護された幼児立ち

 上の写真は、まだ3歳~5歳ほどの幼児たちで、着物さえ着ていない。
 食糧難でやせ細った幼児もいる。あるいは保護された後で、
 衣類が余りにも不潔で、脱がされていたのかも知れない。

 米軍は、上陸して掃討作戦のとき、防空壕などへは無条件に火炎放射器で焼いた。
 防空壕には当然、民間人も非難していたが、米軍は容赦がなかった。
 そのような米軍の映像を見たことが記憶に残っている。
 無差別な火炎放射器の炎で、親たちいは焼け死んだが、その下にかくまわれた子供一人が、
 奇跡的に生き延び、裸の状態で保護されたのであろう。
 無差別的攻撃をした米軍とはいえ、一旦発見された子供達や老人達は保護された。

    
       兵士から食べ物を貰う子ども達

 写真は、唯一心がなごむ。
 兵士一人一人は、心が優しい人間なのである。
 戦争は、じつに多くの悲劇を生み、今日の沖縄の繁栄は、
 このような多くの人々の犠牲により成立していることを忘れてはならない。




海軍について

 沖縄旅行のとき、本棚から司馬遼太郎の『この国のかたち』をとりだし、
 飛行機の中で「海軍について」の稿を読んだ。以下は、その要約である。

 日本海軍は、明治期の日本にとって最重な国家防衛課題であり、
 列強国に伍する海軍が必要であった。
 明治初期には、列強の帝国主義が横行し、明治維新早々の日本では、
 特に帝国ロシアの南下が大きな脅威であった。
 既に満州地域を占領し、旅順港に軍港と要塞を築き、ロシアの極東艦隊が停泊していた。
 日本の明治維新後も、鎖国を続け列強の帝国主義に無策の朝鮮半島が、ロシアに領有さ
 れれば、日本は重大な危機に陥る。

 明治期の中期までは、まだ国家財政が脆弱で十分な軍備もなく、
 たちまちロシアの植民地になること必定と思われた。このため、ロシアの南下を防ぎ、
 日本領土を守るため、国力に不相応な海軍を持たざるを得なかった。
 列強の海軍は、元々植民地を維持するために創られたが、それとは異なり、
 日本海軍は国土防衛のために設計された。
  
   
        ロシアと日本を巡る国際関係図

 日露戦争までの日本海軍の改革と設計は、薩摩人の当時海軍大臣官房主事であった、
 山本権兵衛ひとりの頭脳と腕力で建設されたと言っていい。
 山本権兵衛は少尉のころドイツに海軍留学し、プロシア(ドイツ)の軍艦で世界周航をしている。
 このとき既に世界周航したプロシアの艦長から、
 軍艦の運用から軍政、一国の政治経済に到るまで薫陶をうけ、
 実地に世界の海軍を検分している。

 日本人でただ一人、世界の海軍を見てきた山本権兵衛が、
 日本海軍の改革と設計を行なったからこそ、世界の列強に比肩しうる日本海軍が出来上がった。
 山本権兵衛は、英国へ性能の良い軍艦を相次いで発注し陣容を整えた。
 さらには、世界最高水準のアームストロンムグ砲をそなえ、
 まだ世界的には普及していなかった無線電信機を主力艦から小型の駆逐艦にまで搭載し、
 熟練した無線通信師を多数養成した。

 さらには剛胆にも、無能な薩摩などの門閥出身の海軍上層部の首を切り、
 若くて有能な人材を登用した。
 このような思い切った海軍の改革は、無論、西郷従道海軍大臣の、
 強力な政治力があればこそ実現できたのである。
 こうして、わずか十数年で、列強国に比肩しうる大海軍を作り上げた。

   
      明治の連合艦隊

 ただ、ロシアは極東の大艦隊の他に、本国にも別にバルチック艦隊を持っていた。
 日本は、ただ1セットの艦隊を揃えただけである。
 この日本海軍に課せられた課題は、世界の海軍の常識を破ることであった。
 まず、ウラジオストック港と旅順港にいる大艦隊を先に全滅させ、
 本国から回航されてくるバルチック艦隊をも、一隻残らず撃沈するというものであった。

 この非常識とも言える作戦を立案したのが、
 東郷平八郎司令長官に抜擢された秋山真之海軍参謀である。
 この日本海軍が、当時世界最強といわれたロシア艦隊を、対馬海峡で残らず撃沈させ、
 日露戦争を勝利に導いた。日本海軍は、国土防衛という目的を、見事に果たし、世界を驚かせた。
 列強の海軍は、植民地の維持と拡大のためにつくられたが、
 日本海軍は口シアの南下政策を食い止めるという国家防衛でつくられた。

    
       東郷平八郎司令官とその幕僚

 要は日本海軍は、バルチック艦隊を日本海の入り口で撃滅するという課題で成立させた。
 その課題を奇跡的に成功させた以上、その規模は縮小されるべきであった。
 しかし人間の歴史は、その人間のなま身で存在し、
 その発展を望むから、海軍の規模縮小とはならなかった。

 日本海軍は、近代化を遂げた日本国民にとって栄光の存在となり、
 その担い手が海軍省と海軍司令部を構成している。当然、その規模は維持された。
 海軍は軍艦で構成されているから、つねに艦隊の性能を世界標準に維持するためには、
 莫大な費用がかかった。それまでの軍艦は、石炭を燃料としていたが、
 やがて石油で動くディーゼルエンジンに変えられた。

 第一次世界大戦の後、英米でさえ建艦競争に絶えかね、世界に海軍軍縮をとなえ、
 日本にも提案してきた。時の海軍大臣は、山本権兵衛以来の逸材といわれた加藤友三郎であった。
 結果としては、山本権兵衛が創建し、反対を押し切って加藤友三郎が縮小したと、言われた。
 この頃の海軍上層部には、まだ世界の常識をきちんと認識していた。

 ところが、昭和期に入って、海軍上層部は、アメリカを仮想敵国とした。
 海軍の規模の維持と増強には、仮想敵国が必要であった。
 しかし石油で動く軍艦の燃料は、アメリカから買い続けていた。
 万が一にも、アメリカと戦争など出来るはずもないのが常識である。

 しかし政治家や海軍や陸軍は、その重大なことに気がつかないふりをし続けた。
 二度目のロンドン海軍軍縮条約会議が開かれ、ときの海軍大臣と浜口雄幸首相は、
 対米妥協を認めた。この結果に対し、海懈軍令部が猛反発し、
 海軍と一部政党人が「統帥権干犯」という、結果として亡国的な言辞を弄し、浜口内閣をゆさぶった。
 干犯とは、干渉して権利を侵すことの意がある。

         
              浜口雄幸

 しかし、浜口内閣は、次の総選挙で圧倒的多数の支持をうけ、軍縮の条約批准を強行した。
 ところが、その翌月、右翼によって東京駅で狙撃され、亡くなった。

 明治憲法では「統帥権」とは、「軍隊の最高指揮権は、天皇の大権」と記されている。
 これはあくまで建前であり、実際には、内閣が天皇を補弼(天皇へ助言)する。
 政治や外交は、すべて内閣が責任を持ち、天皇へは事後報告するのが当然である。
 専門的な知識や情報を持だない天皇が、軍縮条約に口の挟みようがない。

 しかし、明治憲法の条文を盾に、以後は、内閣よりも軍部が、主として軍令部が、
 陸軍大臣や海軍大臣をさし措き、独走するようになった。
 こうして、軍部は無謀な対米戦を決意し、その前提として東南アジアの石油を求めて侵攻した。
 結果としは世界大戦となり、近隣諸国と、多くの日本国民に甚大な被害を与えた。

 いま観光している沖縄は、
 最初に米軍の侵攻を受け、民間人としては最も悲惨な戦争の犠牲者となったのである。
 海軍司令壕を見学したから、主として海軍の無謀な戦争の原点についてふれた。
 ついでながら、国民の税金で賄われている軍隊や官僚組織は、国民のために作られたものだが、
 勝手に自己増殖を繰り返し、ついには国民に多大な犠牲を強いるものらしい。
 旧海軍では七四高地と称した丘から、那覇市内を遠望しつつ、組織の不思議さを思った。





壷屋焼物博物館

  沖縄では焼き物のことをヤチムンという。
 鹿児島ではヤキモンと発音するから、音が似ている。
 調べると薩摩藩の支配時代に、焼き物が産業として盛んとなってるから、
 薩摩の音が元になっているのであろう。 ともかく、壷屋焼物博物館は、ヤチムン通りにある。
 
 琉球王国は、古くから交易が盛んで、東南アシアカ面の交流が活発であった。
 交易で流人してきたのが「南蛮焼」と呼ばれる焼き締め陶器であった。
 琉球ではそれらの焼き物の技術を学び、琉球で焼き物を始めたといわれる。
 この頃から、日用の壺や土鍋などを焼き始めたらしい。

   
      壷屋焼物博物館の展示

 1609年、琉球王府は薩摩藩の侵攻でその支配下に入った。
 琉球王府は産業振興のため、薩摩にいた朝鮮陶工の招聘をおこない
 陶工技術者を養成し、独自の壷屋焼きなどの製品を生み出した。
 また1670年には平田典通を、中国の「清」に派遣して赤絵を学ばせるなど、
 現在の中国方面からの技術導入も引続き行った。

 琉球王府は1682年、当時、美里村(現沖縄市)の知花、首里の宝ロ、那覇の湧田にあった窯場を、
 那覇の壷屋地区に集め、王国をあげて、陶工の養成や陶器産業の振興に力を注いだ。
 壷屋地区は、良質の陶土や水が豊富で、燃料の薪や特殊な土の調達もしやすいという
 好条件がそろってる上、港に近い。
 陶工を首里城近郊に集め、壷屋地区の南側に荒焼の陶工を集め、
 南窯を形成させ、東側に上焼の陶工を集め東窯を形成させた。
 こうして「やちむん通り」と呼ばれる焼き物街を形成させ、
 「壷屋焼」300年の長い歴史が始まった。これが壷屋焼の草創である。
 その後、「壷屋焼」は琉球随一の窯場となり、国内消費や交易に利用された。

荒焼(アラヤチ)
 14世紀~16世紀頃、ベトナム方面から伝わった焼き物を原点としているらしい。
 釉薬を掛けずに、1000度の温度で焼き締める。
 鉄分を含んだ陶土の風合いをま生かしたもので、見た目は荒い。
 当初は、水や酒を貯蔵する甕が中心であったが、近年は日用食器も多く焼かれている。
 また魔除けで知られるシーザーもこの荒焼(アラヤチ)である。

   
       荒焼(アラヤチ)と上焼(ジョウヤチ)の違い

上焼(ジョウヤチ)
 17世紀以降、薩摩の朝鮮陶工らによって始められた絵付陶器の事である。
 陶土に白土をかぶせて化粧し、色彩鮮やかな絵付や、彫刻紋様を施し、
 釉薬を掛けて焼成したもの。
 用途は抱瓶(携帯用の酒器)やカラカラ(沖縄独特の注ぎ口のついた酒器)、
 茶碗、皿、鉢などの日川品が造られた。

 荒焼(アラヤチ)に比岐すると装飾性は強く、上流階級だけでなく、庶民向けにも利用された。
 明治から大正にかけ、壷屋焼は低迷期を迎えた。
 琉球王府が廃止され、幕藩体制の解消で流通の制限が無くなり、
 有田などから安価で良質の陶器が大量に沖縄へ流入してきたからである。
 壷屋焼の再生の転機は、大正の終わり頃から、柳宗悦によって起こされた「民芸運動」に、
 陶工達が触発されてからという。

 柳や浜田庄司(陶芸家)らは、1945年頃まで折りにふれて来島し、
 金城次郎や新垣栄三郎ら陶工に直接指導や助言を行い、
 また壷屋焼を東京や京阪神などで広く紹介したため、生産も上向きになった。
 今日、壷屋焼があるのは、この民芸運助家らによるところが人きいという。

 彼らは、日本国内で生産される日曜雑器の、「用の美」と呼ばれる実用性と芸術性に光を照らした。
 壷屋焼きは、本土にない鮮やかな彩色が目を惹き、庶民の日用品でこれほどまでに
 装飾性を兼ね揃えたものは珍しいと高く評価している。              
 米軍占領下に措かれた那覇市内中心部は、立ち入り禁止地区に指定されたが、
 他の地区より早く立ち入りが許可された。
 沖縄の産業復興の観点からいち早く開放され、壷屋焼の窯元が復活し、
 やちむん通りは賑わったという。
 やがて都市化の進行とともに、薪窯の使用が規制され、
 伝統的な技法を失った壷屋地区では、また存続の危機を迎えた。
 そのため、今日では薪窯を認可した読谷を初め、壷屋地区以外にも窯元が分散することとなり、
 およそ100ほどの窯元が県内各所に分散しているという。
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シーサー
  壷屋焼物博物館の入り口や展示物に、幾つものシーザーがあった。
 「やちむん通り」を歩いても、店頭に大小様々なシーザーが売られていた。
 沖縄土産では、食品や泡盛を除けば、シーザーが手頃な土産物としては筆頭かも知れない。
 シーザーは、沖縄でみられる伝説の獅子の像である。
 建物の門や屋根、村落の入り口などに据え付けられ、家や人、村に災いをもたらす
 悪霊を追い祓う魔除けの意味を持っている。

 ところが、シーザーは、魔物(マジムン)を除けるのではなく、寧ろ浄化する力があるともいわれている。
 魔物を除けてしまうと、余所へ行き、また悪さをするから、魔物を浄化し、
 みなが仲良く暮らそうという考え方らしい。
 島外から来た物や人を尊び、それらと混じり合い、
 独自の文化を育んできた琉球の人々の大らかな包容力が感じ取れる。

    
       シーサー  壷屋焼物博物館

 一方琉球文化は、「チャンプルー文化」とも言われ、
 海洋民族として早くから広域の海外交易をい、
 アジア各地の文化と接触し、それらを混交した独自の文化を創り上げてきた。

 チャンプルーの語源は、インドネシア語やマレー語の(チャンプールまたはチャンポール)で、
 日本語の「ちゃんぽん」と同意で、「混ぜたもの」という意である。

 シーザーも、同様に中国王宮の獅子像をまねて、
 15 世紀後半頃に琉球王国初期の王陵である「浦添ようどれ」
 (琉球王国の陵墓)の石棺に、獅子像が刻まれたのが嚆矢とされている。
 琉球語の「ようどれ」は、極楽という意もあるらしい。
 次いで首里城の瑞泉門に据えられたのが最初という。
 首里城の歓会門の前にも、大きな一対のシーザーが据えられていた。

 神社の前に据えられている狛犬のようものであった。
 前後するが、三日目に訪れた沖縄県立博物館の前に、石像のシーサーがあり、
 その説明板に「シーシ」と表示され、「村落の入り口に据えられたもので、集落全体の魔除け」と、
 説明があった。
 そうすると、首里城の歓会門の前の獅子像は、シーシと呼ぶのが正確なのであろうか。
 「シーシ」は「獅子」の琉球音であることは容易に想像できる。
 宮殿や寺院、村落等の入り口に置かれるシーシとは異なり、小型で戸別の屋敷の魔除けを
 シーザーと区別していたのであろうか。
 しかし、「シーザー」には、どのような漢字を当てるのか、
 調べてみたが分からなかった。
 現在はシーザーという言葉が広く定着し、シーシと区別されていないようだ。

        
      インドネシア ボロブドゥール寺院遺跡群のシーサー

 以下は推測ながら、寺院などに置かれていた獅子像を初めて見た陶工が、
 「これは何か?」 と尋ねたとき、僧侶が
 「これは魔除けの獅子(シーシ又はシシ)」と応えただろう。
 この陶工が、見よう見まねで小型の獅子像造り、
 「シーサーさ-」
 と答えただろう。語尾の「さ-」は「ですよ」の意である。
 沖縄古語では三母音だったから、たぶんシシーさ-」と発音したであろう。
 これをシーサーと聞き間違えたのであろう。

 ともかくこの獅子像が人気を得て
 シーサーとして住宅の魔除けとして販売を始めて人気を得であろう。
 これを多くの窯元がまねて売り出し、風水信仰の強い民間の住宅に普及したのであろう。

    
        屋根の魔除け シーサー

 ともかく現在は、シーサーとして沖縄の土産物店で多く売られている。
 獅子像が琉球に伝来した当初は、単体で設置されていたものが、
 おそらく本土の狛犬洋式の影響を受け阿吽像一対で措かれることが多くなった。

 阿吽とは、サンスクリット語で「始心りと終わり」を意味している。
 物事のはじまりと終わり、つまり、世界のあらゆる事を表すと考えられ、宇宙を象徴するとされた。
 俗説では、口を開けた方が魔を取り込み、口を閉じた方がそれを閉じこめるという。 
 また、招福のシーザーとして、口を開けた方が福を取り込み、口を閉じた方が福を閉じ込めるなどという。
 
 獅子像が伝来した当初は、首里城の瑞泉門に据えられ、
 やがて寺社や城の門、御獄(ウタキ)、貴族の墓陵、村落の出人り口等に設置されるようになったから、
 当初の獅子像はシーシであったであろう。
 各戸の屋根の上に置かれるようになったのは、
 庶民に瓦葺きが許されるようになった明治以降であるらしい。

 風水(フンシー)の考え方で「東北に向ければ暴風(颱風)の災いを除ける」
 「真南に向ければ火難を防ぐ」などといわれている。
 また、琉球では魔物(マジムン)は、道を真っ直ぐにやって来ると考えら、
 家に突き当たる道や門に向けて置かれることが多いという。

 琉球国の正史『球陽』は、最後の国王尚泰まで書きつがれている。
 歴代国王の治世を中心に、あらゆる事件、事象を漢文体記録している。
 球陽とは琉球の美称である。この『球陽』に、風水についての記述がある。
 「初めて獅子形を建て、八重瀬岳に向け以て火災を防ぐ。
 東風平郡富盛村は、屡火災に遭ひ房室(部屋)を焼失し、民其の憂に堪へず、
 是れに由り、村人、蔡応瑞(風水師)に諦うて其の風水を見せしむる。
 応瑞、遍く地理を相(見る)し、之れに嘱(ことづて)して曰く。
 我、彼の八重瀬岳を見るに、甚だ火山に係る。早く獅子の形を作り、八重瀬岳に向くれば、
 以って其の災いを防ぐべしと。
 村人、皆其の令に従ひ、獅子石像を勢理城へ蹲坐せしめ、
 以て八重瀬に向く。果たして火災の憂を免るるを得たり。」と正史に書かれている。



屋根のシーサー

 屋根の獅子のルーツと思われる獅子が首里城正殿にある。
 前面と背面の降棟(屋根勾配の棟)に鬼瓦として対で用いられた獅子面である。
 魔除のシーザー面として、最初に屋根に据えられたから、屋根獅子の源流とされている。
 また御殿型の厨子甕(骨壷)にも、首里城と同じように降棟に獅子面がつけられ、屋根
 の中央にも配されている。

   
      屋根のシーサー

 時代が下ると、壺型の厨子甕にも装飾が多くなり、獅子面をふんだんに飾りつけるよう
 になるが、これらが屋根獅の起源とされている。
 浦添グスクの北側崖下にある、琉球王国初期の王陵である「浦添ようどれ」の石棺にも、
 屋根獅子の祖型らしき獅子がある。

 石棺の屋根の隅棟に獅子を這わせたもので、隅棟に獅子を置く例は、
 今日の民家でもわずかながら確認することができる。
 因みに、この隅棟の獅子から連想されるものに鬼龍子がある。
 鬼龍子とは、中国や朝鮮建築の屋根にみられる陶製の怪獣像のことで、
 隅棟の上に一列に並んで廟や仏塔、王宮の屋根を守護している。
 鬼龍子は、中国では走獣や噸風(鳥の化身)、朝鮮では雑像ともよばれている。
 この変形が日本の城の鯱であろう。

 一方、庶民の魔除けとして、古くから集落の入り口などに設置されたのが村落獅子のシージーである。
 これは集落全体の魔除けであり、
 とくに沖縄本島南部では、素朴な石造の村落獅子を今日でも見かけるという。
 この村落獅子が、瓦葺きの普及にともない、民家の門柱や屋根獅子となっていった。
 旅行中に多くの民家の屋根上のシーザーを見かけた。また琉球村の屋根にも据えられていた。
 本土の寺院や和風住宅の屋根には、多くは獅子面の代わりに鬼瓦が据えられている。
 いずれにしろ、魔除けのルーツは同じであろう。 
  

              1

シーザーの伝播

 スフィンクスや中国の石獅子は、日本の狛犬などと同じく、
 源流は古代オリエントの百獣の王といわれるライオンと考えられている。
 従って獅子像の起源は、ライオンの生息地である古代オリエント
 (メソポタミア、エジプト、東地中海)や インドということになる。

    
       エジプトのスフィンクス

 太古のメソポタミアには、ライオンが生息しており、
 紀元前7世紀にオリエントを支配したアッシリア帝国の王は、
 千頭のライオンを退治したという伝説がある。
 ライオンは獰猛な野獣ながら、その強大な力は、人々の憧れや畏怖の的であり、
 いつしか最強のものを象徴するようになった。
 古代オリエントの人々は、ライオンに翼をつけたり、
 獅子像の変形として王陵の守護神としてスフィンクスという怪獣を造った。
 こうしてオリエントで造られた獅子像は、シルクロードを通じて各地に伝播して行き、
 その地域の神話と混交して様々な形に変容した。
 ローマにもギシャを通じて獅子像が伝播し、、ローマ帝国でも権力の象徴として使用された。
 一方方シンガポールのマーライオンは、下半身が魚である。

 中国最古の獅子は、武氏祠(山東省の墓陵)の翼をつけた石彫獅子らしい。
 これは後漢時代の獅子で、翼をつけたその姿は、西域の様式といえる。
 漢の時代には、すでに西域とのシルクロードが開かれており、獅子の概念もこのころに
 導入されたものと思われる。

    
       翼をつけた石彫獅子のコピー

 中国の獅子には、はじめのうちは西域の強い影響が見られるが、
 やがて中国独自の様式が生まれてくる。
 古代より中国には、麒麟・龍白沢 (中国の神獣)といった縁起のよい瑞獣、
 あるいは鳳凰のような瑞鳥を創り出す慣習かおる。
 獅子もいつしか中国風に変容していった。

 ところで、洋の東西を問わず、獅子には「権威の象徴・守護神(魔よけ)・装飾」という
 三つの共通した意味づけがなされている。
 どちらに比重を置くかは、その時々の用途によって異なり、また複合的に用いられたりもする。
 中国の獅子は、もっぱら貴族の墓前や廟、宮殿、寺院の守護神として設置されており、
 公的な場所に獅子を据える形式は、古代オリエントの慣習が伝わったものといえる。
 日本では狛犬や唐獅子、沖縄ではシーザーとよばれる獅子像は、
 このように古代オリエントやインドのライオンを起源としている。    
       
 日本では、中国大陸から直接伝わたって来たのが唐獅子で、
 朝鮮半島を経てきたのが狛犬、
 中国から琉球に伝わったのがシーサーとなった。
 唐獅子が日本に伝来したのが唐の時代になってからである。
 日本では、奈良・平安時代あたりに、遣唐使や留学僧がさかんに往来した時代であった。

      
         東大寺の獅子像

 伝来当初の獅子は、宮中の守護獣として用いられている。
 また、そのころの獅子頭が、「正皿倉院宝物」として保存されており、
 これは日本各地に見られる獅子頭の原形とみなしてよいであろう。

 社寺に置かれる、一対の獣像の狛犬は高麗犬とも書く。
 古代の日本人は、初めて獅子像に接しいたとき、犬のようだが、
 どこか違うということで高麗犬と名づけたらしい。
 高麗は、朝鮮半島の王朝のことだが、当時は国というほどの意味で使われていたらしい。
 つまり高麗犬は異国の犬という意味になる。

 狛犬が、参道に置かれるようになるのは江戸時代のころからで、
 それ以前は神社や寺院の建物に安置されていた。
 ところで、狛犬のことを、本来は「獅子・狛犬」とよび、
 神殿に向かって右側で口を開けているのを獅子(阿形)、
 左側で口を閉じたのを狛犬(吽形)と区別していた。
 それが江戸時代に入り、参道に定着するようになると、
 一般には単に「狛犬」とよばれるようになっていったらしい。

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国際通り

 国際通りは、那覇市の県庁北口交差点から、安里三叉路にかけての、約1.6kmの通りである。
 戦後の焼け野原から目覚しい発展を遂げたこと、長さがほぼIマイルであることから、
 「奇跡の1マイル」とも呼ばれた。
 沖縄で最も賑やかな通りであり、那覇最大の繁華街である。

    
        現在の国際通り

 国際通りの名が有名になるにつれて観光客が増え、観光客向けの店舗が次第に増加した。
 現在は、大部分の店舗は土産物店や有名飲食店、ホテルなどであり、観光通りの様相を呈している。
 このため、同系列の店舗が、2号店、3号店などとして国際通りに 集中している。

 地元住民向けの商店街は、その裏手の平和通りや沖縄の台所とも呼ばれている「牧志公設市場」など、 この通りに隣接している。
 その牧 志公設市場も今や観光客が主として訪れる名所となっている。

 この通りは、1933年(昭和8年)に旧那覇市中心部と、首里市を結ぶ県道として整備され、
 「新県道」と呼ばれていた。
 郊外の一本道で、まだ人家は少なく畑や湿地帯が広がっていたという。
 戦後、米軍により那覇の中心地付近が接収され、立入り禁止地域となった。

 その後、那覇市の産業復興を目的に、
 まず壷屋地区の「窯業者」が、那覇市内に入ることを許可され、
 続いて牧志地区の「瓦職人」も立ち入りを許された。
 ついで、窯業関係者や職人の親戚縁者を名乗り、那覇市内に入り始め、
 壷屋から牧志にかけての、カーブ川周辺や新県道近くに住みつき、自然発生的に闇市が広がった。

     
        終戦直後の牧志の闇市

 この川沿いの不衛生な闇市の整備のため、カーブ川は暗渠化(蓋をして道路化)し、
 あらたに牧志公設市場が整備された。
 1948年(昭和23年)には、米軍施設は郊外に移転し返還され、
 米軍物資集積所があった新県道沿いの土地に、
 「アーニー・パイル国際心際劇場」という映画館が開館した。

      
         最初の国際劇場 

 この国際劇場にちなんで、いつしか「国際通り」と呼ばれ、その名が定着した。
 やがてデパートなどの大型店が 集まる那覇市のの繁華街となってった。

      
          国際通り 1950年代~1960年代

 その後、沖縄の復興と共に自動車時代を迎え、大型ショッピングセンターや大型専門店は、
 駐車場を確保できる郊外に移転し、市民生活に密着した店舗は、
 その裏通りにある平和通りなどの周辺に移行した。
 こうして、国際通りは、今や観光客向けの店舗が林立する繁華街となった。
 8月の旧暦のお盆には、エイサーなどの観光イベントが開催されている。




牧志公設市場

 ホテルを出ると、まず土産物を買うため、とりあえずは牧志公設市場に向かうことにした。
 沖縄と言えば、豚肉などが有名だから、牧志公設市場で物色する予定であった。
 地図で確認し、国際通りを左手に歩くと、「てんぷす広場」という繁華街の中で
 イベントなどが開催される広場があり、それを過ぎるとすぐに商店街があった。
 これが「市場本通」であり、アーケード商店街を歩きつつ、少し小腹が空いていたので、
 「アサーターアンダギー」というドーナツを買い、食べながら商店街を歩くと、
 めざす牧志公設市場が見えてきた。 

   
      牧志公設市場

 沖縄では市場のことを「マチグヮー」と呼ぶ。牧志公設市場に入ると、
 一階が市場で、沖縄のあらゆる食材が所狭しと並べられている。
 二階が食堂街になっていて、一階の市場で買った食材も、その場で調理してくれるらしい。
 色鮮やかな熱帯の魚介類、塊のまま豪快に売られている豚肉、素朴な島野菜など、
 沖縄の食文化がひと目でわかる市場である。

 市場の中は通路が狹く、両側に多くの店舗が並び、
 戸別の店舗の識別が付かないような店作りであった。
 通路を歩き商品を眺めていると、すかさず店の元気なアンマー(お母さん)だちから、
 次々に声が掛かり、試食品を差し出された。
 妻と試食し、三枚肉がとても旨く購入しようと考えていると、
 またのアンマー(お母さん)が、「これも美味しいよ-」と、豚肉のベーコンの試食を勧められた。
 それも買うつもりでいると、どうやら店が別のようであった。

    
      牧志公設市場の売り場

 内側の各店舗の間に仕切りがなく、同じ店の人かと思っていると、隣の店であったらしい。
 妻に注意され、宅配便で送る予定だからと言うと、
 「何処の店の商品でも一緒に送れるよ。後で追加しても送料は無料だよ-」 
 と言う。それを聞いて、別の店で生麺のソーキそばも買い求め
 一緒に送って貰うことにした。

 この公設市場は、共存共栄の精神があるらしい。
 妻の会社の同僚から、お土産に「海ぶどう」を依頼されていたが、
 「日持ちしない」と言われ、最終日に購入することにした。
 市場の人は、誰も人の良い雰囲気であった。




とぅばら-ま

 さて旅の楽しみの第一は、郷土料理を食べることである。
 旅行計画で雑誌「まっぷる」で調べると、店内に琉球古民家の小部屋が幾つもあり、
 沖縄郷土料理の種類も多く、さらに二階では島唄のライブあるとあったから、
 初日はここで島唄を聴きながら食事をしたいと決めていた。
 地図で調べると、都合の良いことに、国際通りにある。
 
    
      とぅばら-まの外観

 18時30頃には目的の居酒屋の「とぅらば-ま」に入った。
 入り口で「島唄ライブを聞くなら二階へ」と案内されたから、二階に上がることにした。
 ただし、二階は席料として500円のチャージが必要であった。
 二階にはライブのステージがあり、その前には桟敷のように座卓が並べられ、
 座敷のように座るテーブルと、少し奥まった所の一段高い所に、掘りごたつ式のテーブル席があった。
 あぐらを掻くテーブル席は避け、堀り炬燵式のテーブル席を希望して座った。
 早めの入店だったから、まだ客は少なかった。

   
      とぅばら-まの店内

 店内を見回すと、どうやら屋外の広場をイメージした造りとなっているのに気がついた。
 前方のステージの前の座卓の周囲には、琉球畳が敷かれているが、
 その間には、玉砂利があった。つまり舞台の前は、庭桟敷として演出されている。

 妻が座った後ろの壁には石垣の装飾があり、前方の座卓の席の背面にも、
 庭の柵や石が配置してあった。
 私の席の後ろにある厨房側には、民家をイメージする屋根と塀があった。
 我々が座った席のさらに奥の上段にも席があったが、その上部には屋根が設けら、
 板囲いが作られている。つまり民家の座敷をイメージしたつくりであり、
 我々の席は、いわばその縁側にあたり、その前が広場の桟敷という設定の大変凝った演出であった。

 ここは幸い居酒屋であり、多くのメニューから、好きな単品を注文できる。
 さっそく琉球郷土料理を何品かと生ビールと泡盛を注文した。
 最初は、沖縄のオリオンビールで乾杯し、料理を食べ始めたが、
 まだ7時まえであり、目的の島唄ライブが何時から始まるか心配になった。
 うかつにも、ライブの開始時間の確認をしそびれていた。
 もし、8時頃だ言われたら、よほどゆっくり食事をしなければならない。
 心配しつつ、泡盛のお変わりを注文していると、次々に客が増えてゆき、7時には島唄ライブが始まった。

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島唄ライブ

 店名の「とぅばら-ま」は、全く耳慣れない音で、「とらば-な」と間違って記憶していた。
 この店名の由来を調べると、八重山を代表する「叙情歌」のことを「とぅばら-ま」というとあった。

 「とぅばら-Iま」とは、
 「歌の島・芸能の島」と呼ばれる、沖縄八重山地方を代表する民謡であった。
 男女の掛け合いで歌われ、たいへん情緒ある旋律は、一度聞いたら忘れられないものである。
 古代から歌われており、作者はしれず、
 人々が愛情や生活の喜び、苦しみ、哀しみなどを歌詞にのせ、歌い継いで来たものらしい。

 八重山諸島の人にとっては、まさに心の唄というべき叙情歌なのだそうだ。
 八重山諸島は石垣島、竹富島、西表島、波照間島、与那国島などの島々からなっている。
 とくに石垣島は、八重山地方の政治・経済・教育・交通・運輸の中心地で、沖縄県内では、
 沖縄本島、西表島に次ぐ三番目に広い面騷積がある。
 この店の大きな魅力の一つが、沖縄料理を食べながら楽しめる、三線と島唄のライブである。
 二階ステージでのライブは、毎晩開催され、お客と一緒に沖縄の「カチャーシー」を踊ったり、
 飛び入り参加も大歓迎とあった。

   
       島唄ライブ

 カチャーシーとは、沖縄民謡の演奏に際し、興が乗るにつれ、
 聴衆が(場合によっては演奏者の一部も)、両手を頭上に掲げて
 左右に振り、足も踏み鳴らす踊りである。

 カチャーシーとは沖縄方言で「かき回す」という意味で、
 頭上で手を左右に振るさまが、かき回すように見えるため、その呼び名がついたらしい。
 ライブが盛り上がった頃に歌姫が「みなさん、ご一緒に両手を挙げにて、
 左右に戸を開ける仕草で踊りましょう。どうぞ舞台に上がってださい」
 とテンポのよいリズムを演奏し始めた。

 それにつれて陽気な老人が、孫娘を連れて舞台に上がり、
 適当に両手を左右に振りながら回り始めた。
 続いて数人が舞台に登り、陽気に踊り出した。 こういうライブは楽しむ為にある。
 左右に戸を開ける仕草で踊りそうに適当な振りで、舞台を回っり始めた。
 舞台に上がった二歳ほどの娘も、楽しそうに踊っていた。

    
     カチャーシーを踊るお客たち

 我々もつい座ったまま、両手を左右に振りつつ、陽気にその雰囲気に溶け込んだ。
 そのあと、我々が座っていた縁側の席の後ろの、
 謂わば座敷に当たる席にも数人の英語を喋るアジア人の観光客がいた。
 その一団の中に、ちょうど誕生日に遭遇した大がいたらしい。

 それを聞いた店員が、ステージに行き、「ハツピーバースデー」をリクエストしたらしい。 
 歌姫が、「マレーシアからいらっしやった○○さんが、今日誕生日だそうです。
 みなさん一緒にお祝いしましようね」 と三線を使って「「ツピーバースデー」を演奏しつつ、
 唄い始めると、会場が一斉に唱和し、盛り上がった。

 まさにライブの良さである。曲が終わると、くだんのマレーシア人が、舞台に近づき、
 礼を述べ、歌姫に握手を求めていた。
 当初は、奥の客は中国人と思っていたので、なぜ英語を喋るのかと不思議に思っていた。
 マレーシアの公用語はマレー語ながら、
 イギリス統治が長かったから、いまだに英語が使われているのであろう。




民謡とぅらば-ま

 ところで、ライブの舞台は、左手の年配の三線を抱えた唄い手と、
 右手には大太鼓と小太鼓でリズムをとり、ときには一緒に三線を演奏する歌姫がいた。
 二人のハ-モニーがじつによく、心地よい歌声であった。

 つい、右手の安藤美姫に似た、透き通るような哀愁を帯びた唄声に聞き惚れていた。
 が、帰ってから調べると、左手の進行役の男性は、民謡日本一に輝いた、
 宮良康正氏であった。

   
      宮良康正氏

 1969年のNHKのど自慢全国大会」民謡の部で、
 八重山民謡「とうらば-Iま」を歌い、見事優勝したとあった。

 民謡「とぅばら-ま」第一人者の宮良康正氏は、与那国島に生まれで、
 沖縄県指定無形文化財の八重山古典民謡保持者に認定されており、
 2000年には「沖縄県文化功労賞の表彰を受けている。
 通常は土曜日の出演らしい。土曜日は、「とぅばら-」教室も開催されているという。
 何かの都合で、偶然水曜日に出演していたから、
 「とぅばら-ま」第一人者の歌声を聞くことが出来たのである。

 歌姫の名は見つけることが出来なかった。
 この「とぅぱら-ま」を、名月のもとで歌い合う「とぅばら-Iま大会」が、
 石垣島では昭和22年から毎年行われているという。
 「とぅばらIま」の代表曲に「月ぬ美しや」「ツキヌカイシヤ」に因んで、
 旧暦8月13日夜に、屋外のステージで、十代の若手からお年寄りまでが、
 それぞれの「とうぱら-Iま」を披露し、観客はその歌声に酔いしれるという。
 この石垣鳥の舞台をイメージして内装されているのが、このライブの店内であることが分かってきた。                    
   
   
       石垣島の「とぅぱら-ま」

 石垣島の「とぅぱら-ま」の代表が、「月ぬ美しや」とあった。

 「つぃきい(月)ぬ かいしや 美し)や
 とぅかみい-か 13日)
 つぃきい(月)みやらび(乙女) かいしや(美し)や 
 とう-ななつい(17つ)ぐる(頃)」
 と唄われる。「月の美しいのは13日月 乙女の美しいのは17つ頃」という意らしい。





三母音の琉球語

 琉球音階のついでに、琉球語についてもふれたい。
 旅行前に沖縄方言についても調べたが、まるで外国語のような感じであった。
 明治以降は、沖縄でも国語教育で標準語が徹底され、
 いまは純粋の琉球語は喋れないであろうが、それでも沖縄方言としてかなり残っている。

 沖縄方言では標準語を「ヤマトグチ」と言い、方言を「ウチナーグチ」という。
 球語は、北琉球(奄美群島・沖縄諸島)と、南琉球(先島諸島)の二つに大別され、
 北琉球方言と南琉球方言との間では、全く会話が通じなかったという。
 これらはさらに諸方言に分けられ、島ごとや集落ごとに、著しい方言差があり、
 それぞれの島内でも、意思疎通に支障をきたす時代があったという。

 琉語と日本語の最も大きな違いは、日本語が「a・i・u・e・o」の五母音に対して、
 琉球語は「a・i・u」の三母音である。

   

 琉球語も、古代大和語と同じ言葉を祖語とする五母音であったが、
 琉球では方言化への傾斜が強くなり、その課程で三母音へ変化しだらしい。

「a・i・u・ e・o」五母音のうち、琉球語では、eはiに、oはuに移行してる。
 つまり五十音図中のエ列はイ列に、オ列はウ列に重なっている。

 例えば。「米(kome)」はクミ(kumi)、「心(kokoro)はククル(kukuru)となる。
 このような母音の変化は、一部の子音の変化を生みだしている。
 中でも母音iの影響を受ける子音の口蓋化現象がある。
 口蓋化の説明は難しいが、発音の時、舌の前部が口蓋に近づくことである。
 例えば、「キ ki」は「カka」に対して、舌の前面が硬口蓋に近づいているのが分る。
 これを口蓋化という。
 母音の影響で、次の子音を発音するとき、母音の影響で口蓋化がおきる。

       
       口蓋化の構造

 この影響で「ki」は「chi」と変化する。
 例えば、「垣(ka ki)は、カチ(ka chi)、「絹(ki nu)」はチン(chi n)と変化している。
 これらは「三母音化」で重なった、エ列とイ列の、かすかな区別意識が働いた変化である。

 このような音韻変化は、文献時代に入る15世紀末頃には、
 かなり程度まで三母音化現象が進んでいたらしい。
 2世紀~7世紀頃にかけて、上代大和語の祖語が本土に広がった日本語と、
 5、6世紀に、アマベ(海部)の民族移動で、
 九州を経て南西諸島に渡った人々の琉球語とに
 分岐したのであろうと推測されている。

 漁労と稲作を中心とした琉球の歴史は、その頃から始まったとされている。
 文献に表れる琉球の歴史は、14、5世紀頃からで、
 それ以前の歴史はほとんど空白である。
 13~14世紀にかけて按司(あじ)(豪族)の中から、政治的支配者が登場してくる。

 歴史上、実在が確認されている英祖王が登場するのが13世紀頃である。
 英祖時代と次の察度王時代は、中国大陸との交易が始まり、鉄の輸入による農具の改革が進み、
 農業生産も飛躍したと考えられる。
 強力な支配者が現れ、支配のために新たな言葉が作られ始め、
 また、広域の交易で、朝鮮、中国、タイ、マレーなどの影響を受け、
 琉球の言葉は「方言化への傾斜」を始めたと思われる。
 それまでは日本語と琉球語は、共に上代大和語を源流としており、
 言葉の基本はほぼ同一であったであろうと思われている。




泡盛

 島唄ライブを聴きつつ、泡盛をロックで二杯飲み、心地よく酔った。
 泡盛といえば沖縄のイメージであり、焼酎に似ているが、どこかしら違う。
 泡盛は特に古酒が有名で、しかも30度や45度というアルコール度数の高いものがある。
 焼酎は、普通20~25度のものが主として販売されている。
 泡盛を土産も含め5本も買ったが、焼酎と比較すると価格が高い。
 改めて泡盛について調べた。

   
      泡盛のルーツ

 泡盛は、15世紀の初めの琉球王朝時代に、シャム(タイ)のアユタヤ王朝との交易で、
 約600年前頃に、蒸留酒「ラオロン」(廊酒)として伝わったものらしい。
 琉球王朝時代の「歴代宝案」(外交文書)に、シャムとの交易品に
 「酒-香花酒、椰子香花酒」の記述がある。           

 シャムから、琉球商人が土甕に貯蔵したラオロン(タイの廊酒)を持ち帰ったのが最初とされている。
 泡盛の酒造方法は、ラオロンと非常に似ている。
 泡盛は短粒種のジャポニカ米を料とせず、昔からタイ米(長粒種)を原料として製造されている。
 焼酎の起源を調べても、有力な説ではシャムから琉球経由でもたらされたとしている。
 『使琉球録』(11534年冊封使の琉球使録)にも、「南蛮(南番)酒」のことが記されており、
 南蛮酒はシャム(タイ)から琉球へもたらされたものであり、
 その醸造法は、であると記されている。

    
        中国の露酒 

 露酒とは、むろん中国の蒸留酒のことである。
 シャムの蒸留酒は、更に中東に起源を持ち、アラビア語で「アラク」と呼ばれた。
 シャムの蒸留酒は、古くは「アラキ酒」、もしくは蒸留器を指す「ランビキ「蘭引」と呼ばれた。
 アラビアに起源を持つ蒸留酒は、中国・韓国語では「燒酒(シヤオヂィウ)」と表記さ、
 日本語の焼酎である。

      

       ランビキの蒸留酒造り

 現在でもタイの田舎に行くと、「ラオ・カーオ」という名の似た酒が手に入るという。
 泡盛が琉球で造られるようになると、中国からの冊封使へのもてなしの酒として重宝された。
 琉球では300年くらい前から一般庶民にも愛飲されたと言われている。

 琉球に伝来した「南蛮酒」が薩摩に伝わり、
 朝鮮や中国酒の蒸留酒である「焼酎」という名で醸造され始めたらしい。
 日本国内の文献で確認できる限り、少なくとも16世紀頃から焼酎が造られていたと見られている。
 例えば1546年に薩摩に上陸した、ポルトガルの商人アルバレズ(ザビエルに、訪日を促した人物)は、
 当時の日本人が、米から作る蒸留酒を常飲していたことを記録に残している。

 さて、泡盛の名の由来である。
 元来、琉球では、酒のことを「サキ」と呼んでおり、
 一説によると粟で「サキ」を造っていたから 「粟盛」と呼ばれ、これが「泡盛」に転じたともいわれる。

 また、度数の高い酒ほど粘り気かおり、泡が立つから、
 アルコール度数を泡(アームイ)を盛ってったから泡盛という説もある。

 現在の泡盛は、原料米にタイ米(長粒米)を使用している。
 その理由は、麹やモロミの温度管理が容易で、他の米にくらべて麹として扱いやすく、
 アルコールの収量が多いなど、泡盛製造の好適米としての条件をそなえた特徴をもっている。
 税法上は「焼酎乙類」(本格焼酎)で、一般の米焼酎は白麹菌を使用しているが、
 泡盛は、黒麹菌を使う点が最大の違いらしい。

      
          泡盛製造方法

  蒸し米に生える黒麹菌の重要な働きとしてクェン酸をつくるが、
 この酸は雑菌の増殖を押え、独特の風味を生む。
 気温の高い沖縄で、季節に関係なく泡盛が作れるのは、このためという。

 生産は近年伸びているが、泡盛製造業者の約四割は、従業員が4人以下という、
 家族だけで作っている零細企業で、貯蔵スペースや手間の問題から、
 古酒を作れない酒造が多いという。
 ただ、古酒だけが最高ではなく、新酒でも十分美味しい泡盛はたくさんあるという。
 ただ、沖縄という立地から、輸送コストが高く、首都圏や関西で入手できる銘柄も
 沖縄本島で買うよりは割高である。

 ところで、奇跡的に泡盛の何と100年ものがあり、これを飲んだことがあるという人もいる。
 しかし、かつての戦争で、泡盛業界も壊滅的な打撃を受け、古酒の甕だけでなく、
 昔ながらの麹菌も多くは失われてしまっている。

 現在では、泡盛酵母、黒麹菌とも、実際には多くを九州から取り寄せているらしい。
 とはいえ、水の違い、使用米の違い、貯蔵方法の違い、仕注ぎの有無と方法、
 そして温度管理も含めた、酒造の技術的な差などにより、泡盛の味は実にに多彩である。
 ただ、麹と酵母の組み合わせが少ないため、酒造ごとの味の違いが分かりにくいと言われる。
 しかし、飲み較べると、個性の違いが分かってくるという。

    
        泡盛の古酒造り 甕による熟成

 つまり、タンク貯蔵よりは甕貯蔵の方が、年数は同じでも熟成の度合いが深い傾向があるらしい。
 これは、「荒焼の甕」は呼吸をするからで、アルコール度数は揮発によってやや低くなるが、
 ガス臭が消え、エキス分は濃縮され、味はまろやかになるという。

 瓶に入れた泡盛の新酒を数年寝かせれば、アルコールと水が混和して飲みやすくはなるが、
 蒸溜しているから酵母が存在せず、密閉された瓶の中では熟成が進むことはないらしい。
 したがって、10年古酒の瓶を買って5 年置いても、15年古酒になるものではない。
 しかし、現在のところタンクや瓶貯蔵の方が主流だという。
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沖縄料理

 泡盛のついでに、先ほど食べた沖縄料理にもふれておきたい。
 明治以前の琉球王朝時代には、
 薩摩藩をはじめ、交易相手の中国・東南アジアなどの影響を受け、独特の琉球料理が発展した。                  
 琉球方言で、食べ物を「クスイムン」(薬もの意)、「ヌチグスイ」(命の薬)とも呼び、
 中国の「医食同源」の思想を受け、独特の琉球料理がうまれた。
 その結果として、沖縄は日本の長寿県となっている。

 また、台湾が日本統治下に入ると、沖縄の出稼ぎ労働者が台湾に渡り、
 逆に台湾人も沖縄に渡航し、料理店を開くなど交流が深まり、
 沖縄の食文化も、台湾料理の影響を受けた。

    
         沖縄料理

 荒廃した戦後の沖縄では生活難が続き、制度として移民が奨励され、
 多くの人がブラジル、ハワイ、フィリピンなどへと渡航した。
 これら移民先地域の料理が、帰省した人によって沖縄に紹介され、
 これらの料理が沖縄でも定着したともいう。 

 沖縄料理は、特に豚肉を使用した多彩な料理がある。
 中国と同様に、「ひづめと鳴き声以外は、全部食べる」と言われるほど、
 一頭の豚を文字通り、頭から足先まで料理に使用する。
 このように沖縄の「食」は、豚を抜きには語れないといわれる。
 沖縄では、ロース(背肉)より、バラ肉(アバラ骨の周囲の肉)の消費が断然多く、
 耳(ミミガー)から足(テビチ)まで、余すところなく利用されている。

     
        ラフテー  

 有名なのは、バラ肉の角煮である「ラフテー」や、アバラ骨の部分を煮込んだソーキである。
 ソーキは、ソーキそばで有名である。
 基本的には、豚肉を料理する際に、よく煮込む。
 料理によっては「ゆでこぼし」してから用いる。一度茹で、泡が吹きこぼれる直前に火を
 止め取り出す。このため、余分な脂肪が抜け、健康的な料理になると言われている。
 14世紀頃の明の時代の中国から、豚が持ち込まれらしい。
 その後、沖縄で多数飼育され、「島豚」など、
 本土と異なる種類があり、独特の豚肉料理が発展した。

   
     アグー豚

 特に「アグー」は、沖縄で古くから飼われていた在来種の豚の呼称で、
 幻の豚ともいわれ、高級豚肉の代表である。
 野菜料理では、チャンプルー(野菜炒め)が有名である。
 使われる野菜は一般的なキャベツ、ニンジン、モヤシなどの他に、
 ゴーヤー(二ガウリ)、パパイヤなどが代表的で、沖縄独特の固い豆腐が加えられる。
 チャンプルーは、台湾など近隣地域の中華風の野菜炒めに比べ、
 香辛料の使用が少ない点が特徴である。
 大根などの野菜と、豚肉やティビチ(豚足を煮込んだ料理)、
 昆布などを炊き介わせた煮つりも非常にポビコラーな料川である。
 食堂のメニューで、単に「おかず」と記載されていれば、ほとんどの場合、煮つけ
 か野菜炒めが出てくるらしい。

      
        島豆腐

 豆腐・哈料理では、炒め物のチャンプルーに使う固い島豆腐がある一方で、
 おぼろ豆腐よりも軟らかい「ゆし豆腐」(寄せ豆腐)もよく食べられている 。
 豆腐を紅麹と泡盛に漬け込んだ「豆腐よう」は、沖縄名産として名高い。
 また、大豆ではなく、落花生を使った「ジーマーミ豆腐」(地豆豆腐)も、風味豊かな郷土食である。
 「ジーマーミ豆腐」は、ホテルの朝食バイキングで食べてみた。

 沖縄では小麦の栽培はされていないが、小麦粉から作る麩を使った料理もポピュラーである。
 車麩(輪切りで穴の空いた麩)に卵を吸わせて炒めた、麩チャンプルー、
 麩いりち-(炒め物)は家庭の惣菜としてよく食べられている。

 魚料理では、マクロやカツオなど一部の例外を除き、
 本土では見かけない亜熱帯独特のものが大半を占める。
 一般に脂質が少なく淡白な魚が多いため、唐揚げやバター焼き(マーガリン風味の丸揚げ)など、
 油を用いた料理や、野菜などと一緒に煮込んだ味噌汁などの料理法が主流である。
 ただし、食味の良いものは、刺身や素材の風味を生かして塩味で蒸し煮にした
 マース (塩)煮などにも用いられる。

 豚肉と並び、沖縄料理に欠かせない海藻・昆布料理も盛んで、
 昆布はだしに使うほか、締め昆布を煮物や炒め物に用いたり、
 千切りにしてクーブイリチーと呼ばれる炒め物(イリチー)になどにする。
 これも、ホテルの朝食で食べた。

    
       クーブイリチー

 沖縄県の昆布の消費量は、全国でも富山県と一、二を争う多さである。
 沖縄県で消費量が多いのは、江戸時代、日本から中国への輸出品として、
 沖縄に運ばれた北海道産のコンブが用いられるようになったからだとされている。

 モズクは酢の物にし、ア-サ(ヒトエグサ)は汁に入れるほか、いずれも天ぷらの具にしたりする。
 また、海ぷどうも独特のものとして、土産物などとして珍重されている。
 米料理でとして代表的な雑炊(ジューシー)は、ヨモギなどの野菜や野草、
 サトイモ、ヒジキ、豚肉などを、米と一緒に炊き込んだものをいう。
 おじや状のものを、ポロポロジューシー、あるいはアワラ(柔ら)ジューシーと呼び、
 炊き込みご飯状のものは、ボロボロジューシーあるいは
 クフア(こわい、固いの意)ジューシーと呼び分けている。

     
        クファジューシー

 クファジューシーは、最初の「あしびゅな」定食に添えられていた。
 白米が貴重品であった時代の名残として、玄米に豆や雑穀を炊き込んだご飯も、
 ポピュラーである。食堂では、白飯と雑炊のどちらか指定できることも多い。

 こうした食事は、元来貧しさに由来するものながら、現在では健康食として見直されている。
 近年誕生した米料理として、タコスの具材を、ご飯の上に乗せたタコライスが有名である。
 また、「野菜炒めの卵とじ」をチャンポンといい、「カツ丼」に、ニンジンなど多種類の野菜が入る。
 名称は同じでも、本土とは違った形の料理となっていることも珍しくない。

 また、沖縄の「餅」は、中国などと同様に、もち粉を練って蒸したものを指し、
 一般的な「もち米をついて作る」粘りのある餅は存在しないという。
 また、沖縄料理としては、気候や流通的な理由により、
 保存性に優れた素麺や麩、海藻といった乾物、塩漬けの豚肉など、独自の料理が発達した。
 明治以降は、本土の一般的な食文化にも影響を受け、
 「沖縄そば」など、現在では広く沖縄料理として認識されている。

    
      ソーキそば

 沖縄そば(方言では「すぱ」)は、中華料理に由来する麺料理が、本土のラーメン
 同様、明治以降に、独自の地域的変化を遂げた。
 沖縄では「そば」と言えば、「沖縄そば」を指すほど、ポピュラーなものになっている。
 麺は、小麦粉をガジュマルの灰汁(またはかんすい)で打ったもので、ソバ粉は用いない。
 いわゆるラーメンに分類される麺であり、これをブタやカツオのだしのスープで食べる。
 醤油とみりんで味付けしたソーキ(三枚肉)を乗せたものを「ソーキそぱ」という。

 本土復帰後は、本土の食品産業、外食産業の進出で、他府県の食文化との差が少なくなる傾向にある。
 しかし現在も和食とは異なる、沖縄料理の伝統が健在で、
 米軍統治下のアメリカ文化の影響も残っている。
 なお、一般的に、「東の豚肉、西の牛肉、九州の鶏肉と言われるが、
 一人あたりの豚肉消費量では、沖縄県が一番多いらしい。





石敢當

 国際通りを歩いていると、小さな「石敢當」という石碑があったが、
 何なのか、読み方も分からず、見当が付かなかった。
 翌日もこの小さな石碑を何度か目にし、これは地蔵尊のような物かと思った。
 調べてみると、石敢當は、魔よけの石碑や石標であることが分かった。
 石敢当、泰山石敢當、石敢東、石散當、石散堂、石厳當と書かれたものもあるという。
 元は中国伝来の風習で、福建省が発祥とされている。

   
     街中の石敢當

 泰山の頂上にも石敢當が存在している。
 似たような魔よけは中国のみならず、台湾・シンガポール等の一部の地域にも見ることができる。
 日本では、沖縄本島を中心に、周辺諸島に数多く点在している。
 また、薩南諸島・奄美群島を含め、鹿児島県にもかなり存在する。
 沖縄県、鹿児島県以外の日本全国にも分布するがその数は少ない。

 沖縄では「いしがんどう」、「いしがんとう」と呼ぽれ、
 鹿児島では「せっかんとう」と呼ばれることが多いらしい。
 沖縄では、T字路や三叉路が多いことから、
 現在でも沖縄の各地で新しく作られ、大小様々の石敢営を見ることができるという。

   
      街中の石敢當

 琉球の時代には、徘徊する魔物(マジムン)は道を直進する性質を持っており、
 「丁字路や三叉路など、突き当たりに入ってくる」と信じられ、
 「魔物は石敢営に当たると砕け散る」と信じられたらしい。
 この由来で、今日でも「石敢営」を設け、魔物の侵入を防ぐ「魔よけ」としているという。
 
 「石敢営」の由来は、後漢代の武将の名前や、石の持つ「呪力」と関わる、
 石神信仰に由来するとの説もあるが、定かではない。
 石敢當には様々な形があり、石敢當の字が刻まれた石碑を建てたり、
 石版を壁面に貼り付けたものが多い。
 また、コンクリートの壁面に直接ペンキ等で「石敢當」の文字を書いた例も見られる。
 沖縄県宮古島市池間島には、オオジャコガイを載せた石敢當が発見されている。
 堅くて白いシャコガイは、同地では、それ自体が神聖で魔除けの効果を有するとされる。
 また、近年はシーサー同様に土産物品としても作られている

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